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ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その3

2019年12月30日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史-中世/後期-3

■中世後期(1370年-1400年)
西ヨーロッパでは百年戦争が一段落すると、東ヨーロッパではオスマン帝国がビザンチン帝国を始め、バルカン半島を征服して行った。また、中央アジアではティムール帝国の支配が始まり、ティムール帝国、オスマン帝国、マムルーク朝の三つ巴の戦いが、勃発した。

【スーフィー朝/ホラズム地方】


・ポンヴァヤンの戦い/百年戦争
1370年12月、イングランドの捕虜となったジャン2世の代わりに、フランス王に成ったシャルル5世はブルターニュ軍と共に、ポンヴァヤンの戦いに臨み、イングランド軍に勝利した。

・ティムールのモグーリスタン・ハン国遠征(1371年-1390年)
1371年、ティムール朝はモグーリスタン・ハンのカマルッディーンがマー・ワラー・アンナフル地域に侵入する事を恐れて、モグーリスタン遠征を定期的に実行し、90年までに7回行われた。また、カマルッディーンに暗殺されたイリヤースの弟ヒズルはイリ渓谷から離れてウイグルスタン(新疆ウイグル自治区)に移り住んだ。


・スーフィー朝のホラズム遠征/ティムール朝
1371年、マー・ワラー・アンナフル地方を再統一したティムールは、スーフィー朝のフサインに対してキャトとヒヴァの返還を強く要請したが、フサインが拒んだ為、翌72年にはティムールによるホラズム遠征が行われた。その後、首都ウルゲンチ包囲戦中にフサインが急逝したため、弟ユースフがスーフィー朝・ハンに即位し、キャトとヒヴァをティムール朝に割譲して和平を結んだ。


オスマン皇帝ムラト1世のバルカン半島征服(1371-1389年)


・マリツァの戦い/セルビア帝国の分裂
1371年、セルビア皇帝ステファン・ウロシュ5世は、プリレプの君主ヴカシン、セレスの君主デスポットたちと、反オスマン連合を結び、オスマン帝国軍に戦いを挑んだが、マリツァの戦いで敗北した上、ウロシュ5世たちも戦死した。そのため、セルビアではネマニッチ朝は断絶し、セルビア帝国は分裂した。その後、ラザル・フレベリャノヴィチがセルビア公国を建国した。

・オスマン皇帝ムラト1世のブルガリア・マケドニア遠征
1371年、セルビアに勝利したムラト1世は、トルコのエディルネを拠点に遠征軍を派遣し、ブルガリアとマケドニアを攻略する。翌年までには、ブルガリア南部とマケドニアのカヴァラ、ドラマを陥落させた。


・サライ占領/ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)
1372年、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫オロスが サライを占領するが、ヴォルガ河流域を支配していたママイの勢力とは争わず、アラル海の北部に流れ込むシルダリヤ川方面に帰還した。

ラ・ロシェルの海戦/百年戦争
1372年、イングランド王エドワード3世は、フランス南西部のアキテーヌ公国のペンブルック伯ジョン・ヘイスティングスに命じてフランス本土への本格的な侵攻を図らせると、フランス軍司令官ベルトラン・デュ・ゲクランがラ・ロシェルを包囲した。その後、イングランド艦隊がラ・ロシェル港に近づくと、湾の入り口付近でカスティーリャ艦隊と交戦し、敗退した。

モスクワ-リトアニア戦争の終結
1372年、領土問題で対立していた甥のミクリン公ミハイルが、トヴェリ大公ヴァシリーの死去に伴って、トヴェリ大公位に即いた後、モスクワ-リトアニア戦争が勃発した。更に、宗主国であるジョチ・ウルスのママイが関わり、ウラジーミル大公位を巡って、トヴェリ大公ミハイルと、モスクワ大公ドミトリイが争い、終にトヴェリ大公ミハイルとリトアニア軍がモスクワ遠征を決行し、リュベツクの戦いでのモスクワ軍に敗れると、両者の間で休戦協定が結ばれてが終結し、ミハイルはリトアニア大公アルギルダスの元を離れ、トヴェリへ帰還した。


・サウジの反乱/オスマン帝国
1373年、オスマン皇帝ムラト1世の長男サウジはビザンツの共同皇帝アンドロニコスと共謀し、互いの父に対する反逆に踏み切った。その後、反乱軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリス及びオスマン帝国の首都エディルネ周辺を確保するが、小アジアから帰還したオスマンのムラト1世軍に征圧され、サウジは父ムラト1世に処刑されたが、アンドロニコスは父ヨハネス5世に目を潰されてアネマスの塔に投獄された。

・トヴェリ包囲戦/モスクワ大公国
1373年、モスクワ大公国はジョチ・ウルスへの貢納を停止し、ママイはリトアニア大公アルギルダス、リャザン公オレーグと同盟してモスクワの圧迫を企てると、再び、トヴェリ大公ミハイルをウラジーミル大公に任命してモスクワ戦争決断させるが、失敗に終わる。逆にモスクワ大公ドミトリイにトヴェリを包囲され、主教エフフィミーの仲介でモスクワと和平を結び、モスクワ公国に組み込まれる。

・第二次ホラズム遠征/スーフィー朝の滅亡
1373年、スーフィー朝・ユースフはティムールがモグーリスタン遠征に出陣した隙きに、キャトとヒヴァの奪回するが、ティムール朝の第二次ホラズム遠征により、取り戻された。75年、再びユースフはキャト.ヒヴァの奪回を試みるが、失敗した。79年、ティムールはウルゲンチ包囲戦にて、ウルゲンチを陥落させ、スーフィー朝は滅亡した。

・ジャライル朝の内乱
1374年、チョバン朝からジョチ・ウルスに所有が移ったアゼルバイジャンを奪還したジャライル朝の第2代君主シャイフ・ウヴァイス1世が死去と、惰弱なフサイン1世が第3代君主に即位した為、親族間での紛争が勃発した。

・黒羊朝(1375-1468年)の建国/ジャライル朝の従属国
1375年、トゥルクマーンと呼ばれたイスラム系の遊牧民は、ヴァン湖北岸からモースルまで支配して黒羊朝を築いた。そのうち、バイラム・ホジャを族長とする部族がイルハン朝の継承政権ジャライル朝に服属した。

・アンドロニコスの反乱/ビザンツ帝国
1376年、ビザンツのアンドロニコスは、ジェノヴァ人とオスマン皇帝ムラト1世の支持を得て、再び反乱を企て、父と二人の弟(マヌエルとテオドロス)を投獄してビザンツ皇帝に返り咲いた。

・トクタミシュのオルダ・ウルス侵攻
1376年、オロスは、自ら殺害したトイ・ホージャの遺児トクタミシュと、それを支援するティムール軍に幾度も攻撃を受ける。翌77年のウストユルト台地の戦いで戦死したため、息子のトクタキヤが即位するが、すぐに病死した為、トクタキヤの弟・ティムール・メリクを即位させた。

・スルタン=アシュラフの暗殺/バフリー・マムルーク朝の内戦
1376年、スルタンのアシュラフは、内戦を避けるためにメッカ巡礼の旅に出発した。その途中のヨルダン南部の港湾都市アカバで、スルタンバルクークやタシュタムルと口論になり、アシュラフは急いでカイロに帰還した。しかし、翌77年3月、カイロでもアシュラフの子マンスール・アリーを擁して反乱を起こしたアイナバクによってアシュラフは暗殺された。その後、アカバの反乱軍とカイロの反乱軍の間で内戦が発生する。

・第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(1377-1381年)
1377年、ビザンツ皇帝アンドロニコス4世は約束通り、ジェノヴァにテネドス島を与えると、ヴェネツィアが島の返還を拒否した為、第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争が勃発した。その後、キオッジャの戦い
で、ジェノヴァはヴェネツィアに完敗した。

・ヴォルガ・ブルガール攻撃/ヴォジャ河畔の戦い
1377年、モスクワ公国はスーズダリの軍隊と共にジョチ・ウルスの臣従国であるヴォルガ・ブルガールを攻撃し、翌78年のヴォジャ河畔の戦いで、ママイが派遣したベギチ軍を破った。

・ボスニア王国の誕生
1377年、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求すると、トヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、ボスニア王国はセルビアに代わるバルカン半島最大の国家と成って行った。


教会大分裂時代(1378年〜1417年)

1378年、ローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する事に成った。

・オロス家の消滅/トクタミシュ・ハンの誕生
1378年、ティムール・メリクがカラタルの戦いで、トクタミシュに敗れると、首都サライは陥落し、オルダ・ハンにトクタミシュが即位した。

・スーフィー朝の滅亡/ティムール帝国
1379年、スーフィー朝のユースフは、ティムールが留守にしていたマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド周辺で略奪を行った。その後、ティムールはウルゲンチ包囲戦で、ウルゲンチ市民を焼き払い、ユースフを殺害すると、スーフィー朝は消滅した。

オスマン帝国の属国ビザンツ帝の誕生
1379年、ビザンツ皇帝の父ヨハネス5世はオスマンのスルタン・ムラト1世の臣下に成ることを約束し、アンドロニコス4世を追放し、ヨハネス5世は再度復位に成功した。

・リトアニア大公アルギルダスの死去
リトアニア大公アルギルダスが死去し、息子のヨガイラが継承する。当初は、リトアニア南西部を、叔父のトラカイ公ケーストゥティスが北西部を支配していたが、やがて対立する。

・クリコヴォの戦い/モスクワ遠征
1380年9月、ジョチ・ウルスの西部を支配していたママイはリトアニア大公国とリャザン公国と同盟を結び、モスクワ大公ドミートリーが率いるルーシ諸侯連合軍と、クリコヴォの戦いを繰り広げ、敗北した。再び、ママイはドミートリー討伐軍を編成するが、ハンのトクタミシュと交戦状態に陥った。

・トクタミシュのジョチ・ウルス再統一/ママイの死
1380年、オルダ・ハンのトクタミシュはクリコヴォ戦でモスクワ公ドミートリーに破れたママイをカルカ河畔の戦いで破り、ジョチ・ウルスの再統一を成し遂げた。その後、ママイはクリミア半島に逃れ、ジェノヴァ共和国の植民地カッファでイタリア人に殺害された。

・ドイツ騎士団とリトアニア公国との平和条約
1380年、ヨガイラはケーストゥティスを無視して単独でリヴォニア騎士団やドイツ騎士団と和平条約を結んび、ドイツ騎士団がケーストゥティスないしその息子たちを攻撃した場合、それを邪魔しないことに同意した。

・ドイツ騎士団のトラカイ公国攻撃
1381年1月、ドイツ騎士団はドヴィディシュケス条約の内容を遵守しつつ、ケーストゥティスのトラカイ公国とジェマイティヤ地方を二度に渡り遠征し、ナウヤピリスを破壊して3000人を捕虜として連れ帰った。

・ワット・タイラーの乱/イングランドの農民一揆
1381年、ペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化すると、ワット・タイラーを指導者とする農民一揆が勃発した。ついにはロンドンを占領し、リチャード2世に謁見を求めた。しかし、ロンドン市長に騙され、ワット・タイラーは惨殺され、反乱軍は討伐された。

・リトアニアの内戦が勃発(1381年-1384年)
1381年、ヨガイラの摂政スキルガイラに対してポラツク市の反乱が起きると、ヨガイラはこれを鎮圧するため、首都ヴィリニュスを離れた。この隙きに、叔父のケーストゥティスはクーデターを起こし、リトアニア大公に即位すると、帰還したヨガイラを捕まえた。その後、ヨガイラは叔父ケーストゥティスに臣下を誓って解放され、クレヴァとヴィーツェプスクを与えられた。再び、ケーストゥティスはドイツ騎士団との戦いを始めた。

・ブルジー・マムルーク朝の樹立/カラーウーン家世襲の終焉
1381年、バフリー・マムルーク朝のマンスール・アリーが死去すると、バルクークは、アリーの弟・ハーッジー2世を即位させ、自分は摂政と成った。しかし、翌82年、実権なきカラーウーン家の世襲支配が続いているバフリー・マムルーク朝のハーッジー2世を廃位し、自らスルターンと成って、ブルジー・マムルーク朝を建てた。これより、スルタンの世襲は禁止になり、軍閥同士の派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しく成って行った。

ティムール帝国のペルシア(イラン)遠征が始まる


・イラン=ホラーサーン遠征/ティムール帝国
1381年、前年にクルト朝のギヤースッディーンがクリルタイに出席しなかったため、ティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。

・アゼルバイジャン遠征/ムザッファル朝
1382年、ジャライル朝の権力闘争は君主フサイン1世の弟・アフマドが兄を暗殺した事で終了した反面、王朝の勢力は、すでに衰退していた。その為、ムザッファル朝のアゼルバイジャン遠征が始まり、アゼルバイジャンは占領された。しかし、ムザッファル朝の本拠地シーラーズで反乱が勃発し為、君主シャー・シュジャーはやむなく帰還した。また、シャー・シュジャーは拡大するティムール帝に忠誠を誓った。

・ヨガイラのヴィリニュス奪還/リトアニア大公ケーストゥティスの死
1382年、ケーストゥティスがノーウホロド=シーヴェルシクィイ遠征に、息子のヴィータウタストラカイ遠征に赴いて居る最中、ヨガイラは首都ヴィリニュスを奪還に成功した。その後、トラカイ遠征から帰還したヴィータウタス軍と抗戦するが、ヨガイラ軍は、再び彼らをトラカイへ追いやった。8月、ケーストゥティス親子は、トラカイ近郊でヨガイラ軍に決戦を挑むが、援軍のジェマイティヤ人が離脱したため、ケーストゥティス親子はヨガイラ軍に投降し、クレヴァ城の牢獄され、ケーストゥティスが獄死すると、スキルガイラがトラカイ公に成った。秋、ヴィータウタスは、脱獄に成功してマゾフシェ諸公の1人、シェモヴィト4世を頼ったが、最終的には仇敵であるドイツ騎士団国家へ身を寄せる事になった。その後、ヴィータウタスの母と、母方の親族は殺された。

・ドゥビサ条約/騎士団の封臣:ヴィータウタス
1382年10月、ヨガイラはドイツ騎士団とドゥビサ条約を結んだが、ヨガイラは次第に条約を無視し、マゾフシェ公国を勝手に攻撃すると、翌年にはドイツ騎士団との同盟を解消した。その後、ドイツ騎士団はヴィータウタスを封臣にすると、ネマン川の畔のノイ・マリエンブルク城を与えた代わりに、リトアニアのジェマイティヤ地方を騎士団領に譲渡された。

・ジョチのトクタミシュによるモスクワ再支配
1382年、トクタミシュはジョチ・ウルスから独立を図ったモスクワ大公国を攻撃し、モスクワ包囲戦を開始すると、首都モスクワを占領した。これにより、モスクワ大公ドミートリーは、再びジョチ・ウルスの従属国に成った。

・ナポリ女王ジョヴァンナ1世の暗殺
1382年、教皇ウルバヌス6世よって退位させられたナポリ女王ジョヴァンナ1世は、ルイ1世・ダンジューを擁立して教皇と対立すると、ハンガリーおよびポーランドの王ラヨシュ1世の命を受けたカルロによって暗殺された。その後、カルロは自らナポリ王カルロ3世に即位した。

・ローゼベーケの戦い/百年戦争
1382年、ヘントで市民の反乱が起こると、フランドル伯は町を包囲したが、5月のベーフェルハウツスフェルトの戦いで反乱軍が勝利すると、11月のローゼベーケの戦いでフランス軍に敗北した。

ヴィエルコポルスカ内戦(1382年-1385年)
1382年、ラヨシュ1世が死去すると、次女・マーリアがハンガリー女王に即位し、神聖ローマ皇帝カール4世の息子・ジギスムントと婚約した。これにより、ポーランドのヴィエルコポルスカ地方の貴族たちが分裂し、ヴィエルコポルスカ内戦が始まった。翌年、ナウェンチュ家勢力が擁立したマゾフシェ公シェモヴィト4世がクヤヴィを征服したが、マウォポルスカの貴族達とハンガリーの軍勢によって直ちに撃退された。

・ティムール帝国の大虐殺/クルト朝の滅亡
1383年、クルト朝のヘラート住民がティムール帝の徴税人を襲撃すると、ティムール帝国のミーラーン・シャー王子によるヘラート大虐殺が始まった。その後、クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーが責任を負って、処刑された為、クルト朝は滅亡した。

・ヴィエルコポルスカ内戦の終結/同君連合の解消
1384年、マウォポルスカの貴族たちはマーリアの妹で10歳のヤドヴィガがポーランド王に即位させ、内戦を終結させた。これによって、ポーランド・ハンガリー連合は解消された。

・ムザッファル朝の内紛/ジャライル朝の反撃
1384年、ムザッファル朝の第2代君主シャー・シュジャーが死去し、息子のザイヌル・アービディーンが即位すると、従兄弟のシャー・マンスールに反逆されて所領を横領された上、失明した為、実権を奪われた。更に、ジャライル朝にアゼルバイジャンを奪還された。

・リトアニア内戦の終結
1384年、ヨガイラはモスクワ大公ドミートリーと同盟を結ぶ為、ヴィータウタスと和解し、リトアニア内戦を終結させた。その後、ヴィータウタスはドイツ騎士団との同盟を破棄し、ヨガイラと共にネマン川河畔にあるドイツ騎士団領の幾つかの城を略奪した。その後、ヨガイラはドイツ騎士団の攻撃からリトアニアを守るため、モンゴル帝国によって弱体したモスクワと離れ、ポーランドからの誘いに乗った。

・アフガニスタン遠征/ティムール帝国
1384年、ティムール帝国軍は、カスピ海南岸に面したイランのゴルガーン州及びマーザンダラーン州を支配者アミール・ワリーや、イランのラザヴィー・ホラーサーン州の支配者アリー・ベクを破った後、アフガニスタンのカンダハルに進軍し、アフガニスタン全域を征服した。また、逃亡したアミール・ワリーを追って、アゼルバイジャン方面に進軍した。

・イラン北部のマーザンダラーン平定/ティムール帝国
1385年、ティムール帝国軍は、逃亡しているアミール・ワリーを追って、ジャライル朝の都市ソルターニーイェに入城した。その後、アミール・ワリーの首が、ティムールの元に送られた。

・クレヴォ合同/リトアニアとポーランドの同君連合
1385年、ヨガイラはポーランドとクレヴォ合同を結んだ。一方、ハンガリーでは、ナポリ王カルロ3世により、マーリアが廃位され、カルロ3世がハンガリー王に即位した。
翌86年、ヨガイラは、ヤドヴィガ女王と結婚してポーランド王に即位し、リトアニアとポーランドの同君連合を締結させた。一方、ハンガリーではマーリアの母親エリザベタ・コトロマニッチがハンガリー王カルロ3世を暗殺し、マーリアを復位させた。

・三年戦役/ティムール帝国
1386年、ティムール帝国はイランの西征に乗り出し、ザーグロス山脈のロレスターン州に住んでいるロル族を下した後、旧イルハン朝の首都タブリーズに進軍すると、ジャライル朝のスルタン・アフマドは交戦せずに、マムルーク朝領のバグダードに逃亡した為、タブリーズを容易に手に入れる事ができた。更に、ティムール帝国は北上し、黒海に面したキリスト国家のグルジア王国の首都トビリシを攻略した。


・トクタミシュのティムール帝国領ホラズム占領と侵攻
1386年、ティムールが西イラン平定する為、3年戦役に出発している間、トクタミシュはティムールに反旗を翻し、アムダリヤ川が流れ込むアラル海南岸のホラズム地方を占領した後、ティムール帝国の都市サマルカンド及びブハラに進軍した。


・アンドリュスの乱/リトアニア
1386年、ヨガイラはポーランドに移り、弟のスキルガイラがリトアニア大公国の摂政を務めると、異母兄のポラツク公アンドリュスの乱が勃発すると、スキルガイラはポラツクに攻め込み、アンドリュスは捕らえられ、ポーランドに送られ、捕虜生活を送った。

・ヴィフラ川の戦い/リトアニアVSスモレンスク
1386年2月、クレヴォの合同に抵抗するリヴォニア騎士団がリトアニア西部を侵略すると、スモレンスク公国軍はリトアニアの都市ヴィツェプスクとヴォルシャを荒らした後、ヨガイラの弟カリガイラが守るムスチスラヴリを包囲した。その後、ヨガイラは討伐軍を派遣し、4月のヴィフラ川の戦いでスモレンスク軍を破った。

・ラドコット・ブリッジの戦い/イングランド
1387年、ラドコット・ブリッジの戦いが勃発し、オックスフォード伯率いる王軍を訴追派貴族たちが破り、翌88年には非情議会を開いて、イングランド王リチャード2世の側近たちを大逆罪で訴追すると、リチャード2世は議会側に屈服、訴追派貴族が実権を握り彼らが入った評議会が国政を動かしていった。

・ムザッファル朝及び黒羊朝討伐/ティムール帝国
1387年、ティムール帝国軍はアルメニアを制圧する為、トゥルクマン系の国家黒羊朝を追いやった。その後、王族たちによって分割統治されているムザッファル朝を統一する為、都市イスファハーンやシーラーズを攻略し、王族たちを降伏させると、ムザッファル朝のザイヌル・アービディーンを廃位し、新たにシャー・ヤフヤーをムザッファル朝のスルタンに即位させた。
翌88年2月、トクタミシュがサマルカンドとブハラを包囲した為、帰還せざる負えなくなった。

最後の西チャガタイ・ハンの即位
1388年、ティムールは西チャガタイ・ハンに擁立したソユルガトミシュが死去すると、彼の息子のマフムードを最後の西チャガタイ・ハンに就かせた。マフムードが死去した後、ティムールはハンを擁立する事は無かった。

・ハージー・ベクの乱/ティムール帝国の危機
1388年、トクタミシュはスーフィー朝の君主スレイマンを誘惑して挙兵させ、更にモグーリスタンのカマルッディーンと同盟すると、ホラーサーン地方でハージー・ベクの乱が勃発した。

・ティムールのモグーリスタン遠征/カマルッディーンの追放
1388年、ウルス・ベギ職でカマルッディーンの甥ホダーイダードはカマルッディーンを追放して、トルファン居るヒズル・ホージャをモグーリスタン・ハンに擁立すると、カマルッディーンはジョチ・ウルスのトクタミシュと連合した。
翌89年、ティムール帝国のモグーリスタン遠征が本格的に始まり、モグーリスタン・ハン国の首都からウイグルスタンのトルファンまで征圧すると、ヒズル・ホージャはゴビ砂漠へ逃げた。

・コソボの戦い/セルビア公国VSオスマン帝国/反オスマン連合
1389年、コソボ平原の戦いで、セルビア公ラザル、ボスニア王トヴルトコ1世、ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、ムラト1世率いるオスマン帝国軍に大敗し、ラザルは捕虜と成るが、セルビア貴族ミロシュ・オビリチがムラト1世を暗殺した為、ムラト1世の息子バヤズィト1世がラザルを処刑した。これより、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア・マケドニア・ブルガリアに服従を迫った。
一方で、アナトリア半島のカラマン侯国、サルハン侯国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国が反オスマンを掲げ、ムラト1世が死去したすきを狙ってオスマン領に侵入した。

・オッターバーンの戦い/親政を宣言
1389年、オッターバーンの戦いで、スコットランド軍がイングランド軍を敗北すると、訴追派貴族たちは対立し始め、再びリチャード2世が実権を握るように成った。

・2度目のリトアニアの内戦(1389年-1392年)
1389年、アンドリュスの乱の終結後、スキルガイラは約束を破り、ポラツク公国とトラカイ公国を手に入れると、スキルガイラはリトアニア人に憎まれ。再びヴィータウタスが大公国の権力奪取を目指して内戦を起こす。1392年のオストルフ協定によって、ヴィータウタスがリトアニア大公になり、自治権が認めれると、内戦は終結した。

バルバリア十字軍遠征/ハフス朝VSフランス軍
1390年、北アフリカ沿岸ではムスリムのバルバリア海賊が猛威を振るい、海洋国家ジェノヴァは少なからぬ被害を受けていた。そこで、ジェノヴァがフランス王シャルル6世に十字軍遠征を持ちかけ、更に教皇から贖宥が与えられると、ハフス朝の都市マーディアを攻撃するバルバリア十字軍が編成されたが、ハフス朝の救援軍と接敵するたびに多くの敵を殺したが、次第に疲弊して撤退を余儀なくされた。つまり、引き分けに終わった。

・ヨハネス7世の反乱/ビザンツ帝国
1390年、オスマン皇帝バヤズィト1世がセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナを娶り、セルビアを属国とすると、ヨハネス7世はオスマン帝国とジェノヴァの支援を受け、祖父ヨハネス5世を首都コンスタンティノポリスから追放し、ビザンツ皇帝に即位したが、市民からは歓迎されなかった。
9月、ヴェネツィアの支援を受けた祖父ヨハネス5世と叔父マヌエル2世の連合軍に、首都コンスタンティノポリスを包囲されると、オスマン帝国が支援を打ち切った為、皇帝ヨハネス7世は敗北し、レスボス島に逃亡した。

・アナトリア征服/オスマン帝国
1390年、オスマン皇帝バヤズィト1世はアナトリア遠征を開始し、ビザンツ帝国、セルビア、ブルガリア、アルバニアなどのバルカン半島の臣従国を従え、ビザンツ帝国領フィラデルフィア攻略した後、アナトリアの君侯国を征圧し、翌91年にはカラマンの首都コンヤを包囲し、カラマン侯国の君主アラー・アッディーンと和解した。

・ティムールの再モグーリスタン遠征/和解
1390年、ティムールは再びモグーリスタン遠征を行うと、カマルッディーンは首都アルマリクを放棄して逃走し、アルタイ山脈で消息を絶った。その為、ティムールはヒズル・ホージャを呼び寄せて、グーリスタン・ハンに即位させると、モグーリスタン・ハン国と和解した。

コンスタンティノープル包囲/オスマン帝国
1391年、ビザンツ皇帝ヨハネス5世が死去すると、アナトリア遠征に従軍していたマヌエルはバヤズィトに無断でブルサを脱出し、コンスタンティノープルに帰還し帝位に就いた為、オスマン帝国軍はコンスタンティノープル包囲したが、ハンガリーが軍事行動を起こした為、オスマン皇帝は貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めて包囲を解除した。

・コンドゥルチャ川の戦い/ティムールのキプチャク草原遠征
1391年、ティムール軍は飢餓状態のキプチャク草原を進軍し、コンドゥルチャ川でトクタミシュ率いるジョチ・ウルス軍と対峙し、翌92年にはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュ軍を破ると、ティムール・クトゥルグとエディゲをジョチ・ウルスの新たな支配者に任命し、ティムール軍は帰還した。


・ティムールのイラン再遠征/ムザッファル朝の滅亡
1392年7月、マーザンダラーンに進軍し、カスピ海沿岸のマーハーナ・サル要塞を攻略して同地を制圧する。翌93年、ムザッファル朝スルタン・シャー・ヤフヤーが、弟のシャー・マンスールによって廃位されると、ティーム軍はシーラーズに進軍して、ムザッファル朝を滅亡させた。


・ティムールのイラク及びアナトリア遠征
1393年7月、ティムールはクルディスタンを経由してジャライル朝の首都バクダットを攻めると、スルタン・アフマドはエジプトのマムルーク朝へ逃げた為、ティムールはイラク南部を掌握し、バクダットを出て北上し、黒羊朝のクルディスタン地方を征圧した。翌94年、黒羊朝の本拠地である東アナトリア及びグルジアを手に入れ、旧イルハン朝の領土を支配下に置いた。

・ブルガリアの首都タルノヴォ陥落
1393年7月、オスマン皇帝バヤズィトがバルカン半島を留守にすると、ハンガリーの支援を受けて、ブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンが反乱を起こすが、オスマンの討伐軍によって首都タルノヴォは征圧され、ブルガリア皇帝はニコポリスへ逃れた。その後、オスマン軍はワラキアへ進軍する。

・ビザンツ皇帝マヌエル兄弟の反逆
1393年末、マヌエルの弟・モレアス専制公テオドロス1世は、モネンヴァシアの有力者パウロス・マモナスがヴェネツィア共和国やオスマン帝国と組んで、ビザンツ帝国から離反した為、パウロス・マモナスをモネンヴァシアから追放した。その後、オスマン皇帝バヤズィト1世は激怒し、マヌエル及びテオドロス1世を処罰する為、軍を派遣すると、マヌエル、テオドロス兄弟は臣従の誓いを破棄する。

・ロヴィネ平原の戦い/オスマンVSワラキア公国
1395年、オスマン皇帝バヤズィト1世軍はダニューブ川を渡り、ワラキア公ミルチャ1世が率いるワラキア軍と、ロヴィネ平原の戦いを繰り広げ、敗北してダニューブ川南岸まで後退した。

・バグダードの奪回
1394年、 マムルーク朝のスルターン・バルクークはカイロに亡命して来たジャライル朝の君主アフマドを支援し、ティムール帝国からバクダットを奪還させた。翌95年には、バルクークはティムール討伐軍を編成し、アレッポに進軍すると、ティムール帝国軍は帰還した。

・テレク河畔の戦い/トクタミシュのジョチ・ウルスの没落
1395年、トクタミシュはティムールに復讐する為、マムルーク朝、オスマン帝国、黒羊朝、ルーシ諸侯やリトアニア大公国などに使者を送り、反ティムール同盟を結ぼうとした。しかし、リトアニア大公ヴィータウタスの支援しか得ることが出来なかった。4月、コーカサス北側のテレク河畔の戦いで、トクタミシュはティムール軍に敗北して逃亡すると、ジョチ・ウルスの首都サライは破壊された。その後、マンギト部の将軍エディゲが王族ティムール・クトルグを新たなジョチ・ハンに就け、自らはジョチ・ウルスのアミールたちの長に成った。翌年、ティムールはバクダットを経由してマサルカンドに帰還した。


ニコポリス十字軍/中世最後の大規模な十字軍
1395年、ハンガリー王ジギスムントが、オスマン帝国の侵攻を国内外に訴えると、ローマ教皇ボニファティウス9世も十字軍勅書を出して後援した。それにより、イングランド、スコットランド、フランス、神聖ローマ帝国諸侯、フランドル、イベリア、ポーランド、ボヘミア、ワラキアなどから次々と将兵が集まり、ニコポリス十字軍が結成された。翌96年、ブルガリア北部のニコポリスの戦いで、オスマン帝国軍に敗北し、ジギスムントは辛くも逃亡したが、1401年にブダ城に監禁された。

・オスマン帝国のペロポネソス半島征服
1396年、ニコポリスの戦いに勝利したオスマン軍はコソボ北部のミトロヴィツァを攻略すると、ギリシャに進軍し、翌97年にはラリサ、パトラ、アテネを占領しペロポネソス半島の大部分を支配下に置いた。
更に、翌98年には分裂状態にあったボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に侵入した。また、オスマン領を攻撃したアラー・アッディーン候を討つ為、アナトリア半島のコンヤに進軍し、アラー・アッディーン候を処刑し、都市カラマンを滅亡させた。


・ティムールのインド遠征/トゥグルク朝の衰退
1398年4月、ティムールの孫・ピール・ムハンマドがインダス川支流のチェナーブ川の東に位置するムルタン攻撃に難攻すると、ティムールはサマルカンドを起ち、インド遠征を敢行した。
8月、ティムールはアフガニスタンのカーブルでパシュトゥーン人の攻撃に遭いながらも、パキスタンのタール砂漠を渡り、ジェルム川沿いのタラムバに至った。10月、サトレジ川付近でティムール軍はピール・ムハンマド軍と合流した後、トゥグルク朝の首都デリーに進軍し、12月にはデリーを攻略すると、ティムールはマサルカンドに帰還した。


・イングランドのランカスター朝
1399年、イングランド王リチャード2世と両院の貴族たちの間で内戦が起きると、リチャードは対立したランカスター公を追放処分にしたが、ランカスター家のヘンリー・ボリングブルックが反乱を起こし、リチャード2世を廃位した後、ヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝を創始した。

・ティムールの七年戦役
1399年、マムルーク朝のスルターン・バルクークが食中毒で病死すると、ティムールは再びエジプト方面へ軍を進める七年戦役を始めた。この時、マムルーク朝とオスマン帝国はトルコ中部のマラティヤの所有を巡って対立していた。

・ミーラーン・シャーの反乱
1399年、ティムールがムハンマド・スルターンを後継者に指名すると、アゼルバイジャン総督ミーラーン・シャーが反乱を起こすと、オスマン帝国のバヤズィト1世がアナトリア半島のティムール帝国領に侵出して来た。更に、ジャライル朝と黒羊朝を支援し始めた。

・第4次コンスタンティノープル包囲
1400年、ビザンツ皇帝マヌエル2世がイタリア諸都市国家やフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を歴訪して支援を求めている間、オスマンの第4代皇帝バヤズィト1世は、コンスタンティノープルを再び包囲し、更にアナトリア半島に於いてエルズィンジャンを攻略した

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