愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?
法華経の譬喩品の訳も、そろそろ終わりを告げそうです。この譬喩品では、有名は三界の火宅の話です。
そして、お釈迦様がここで伝えたい事は何だか、分かったでしょうか?
エッ~!、法華経をけなすと罰が当たり、生まれ変わった時、耳や眼が悪く成って?
違うよ!
貧乏になる?
違うよ!
犬、猫、牛に生まれる?
違うよ!
訳の分からない病気になる?
違うよ!
答えは、長者の子らのように、人は生まれながらに、善悪の判断がつかず、何が正しくて、何が悪いかを知ろうともせず、また関心を示す事なく、楽する事・遊ぶ事・物を欲しがる事を追い求めている。
つまり、心・身・住んでいる所の三界は煩悩の炎で、覆われている為、その事が、他人や自分の体に害を及ぼし、やがて、悩みに変わり、苦の報いを受ける事を教えている。
そして、多くの人は自分の犯す罪には目を瞑り、人の注意には耳を貸さず、他人の犯行には口を噤む。まるで、目が見えず・声が聞こえず・声が出ない人の様であり、その姿は餓鬼・夜叉・阿修羅のようであり、その行いは犬・狐・蟲と変わらない。
やがて、その報いとして、重篤な病気になり、終わることのない阿鼻地獄の苦を得る。
その者たちを阿鼻地獄の苦から救うのは、長者のようにその者たちの持っている三界を知り、その者たちの欲を利用し、煩悩から脱出させる。
では、今回は五蘊(ごうん)の識です。
識とは
対象を認識する心の働きで、六識と八識がある。
六識;眼・耳・鼻・舌・身(触覚)・意(認識・推論)の各識の総称。
八識;六識+末那(まな)識・阿頼耶(あらや)識の総称。
眼識→色、耳識→声、鼻識→香、舌識→味、身識→触、意識→法
末那識→自己意識、阿頼耶識→知覚や認識・推論・自己意識などの諸意識の根底にある意識
今回はこの辺でおわり、では法華経の譬喩品の続きをどうぞ!
舎利弗に告ぐ。
もし、この経をけなす者の罪を説こうとして、永い時間を費やしたとしても、説く事が出来ない。この因縁を持って、更に我は汝に語る。
無智の人の中で、この経を説く事はするな!
もし、利根を持ち、智慧があり、学問を学び、幅広い知識があり、佛道を求める者の為に、この経を説くべし。
もし、人がかつて、億百千の佛を供養し、色々な善の種を植え、意志が強く、簡単に相手に従ったり動かされたりしない人の為に、この経を説くべし。
もし、精進する人がいて、常に慈悲深い心を身に付け、何事にも身命を惜しまない人の為に、この経を説くべし。
もし、人を謹み敬い、人に逆らう心を起こさず、色々な凡愚な者から離れて、たった一人で山麓に住む人の為に、この経を説くべし。
また、舎利弗
もし、人がいて、その人が悪知識を捨てて、善友に親しみを持ち近づくを見た時、その人の為にこの経を説くべし。
もし、この教を信ずる人が戒を守り、心身をまるで、汚れのない光り輝く玉のように清めようとして、大乗経を求める者を見た時、その人の為にこの経を説くべし。
もし、怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪の感情を持つ事のない人がいて、なお、その人は素直で、柔軟な心を持ち、常にすべてのものに哀れみを持ち、諸佛を供養する者であるなら、その人の為にこの経を説くべし。
また、この教を信ずる人が大衆の中で、清浄な心をもって、数々の因縁・比喩・言葉をもって、救い以外に何の意図も無く、説法する者がいたなら、その人の為にこの経を説くべし。
もし、比丘の一切智により、あらゆる所に法を求めて、頭を下げ両手を合わせながら、教えを乞い、願って大乗の経典を授かろうとする者、あるいは他の経の一偈を授かろうとする者がいたとするなら、その人の為にこの経を説くべし。
人が心に応じて舎利弗を求めるように、経を求め、その教えを得たいと願い、自ら頭を下げ受けとる者。そして、その者は他の教えを求める事が無くまた、未だかつて、邪道の書物を念ずることが無いとしたならば、その人の為にこの経を説くべし。
舎利弗に告ぐ
我はこの様に、佛道を求める者の姿を説いて見せたが、いくら時間をかけて説いたとしても、尽きる事は無い。この様な人々はよく、この教法を信じ、理解する者達である。
汝、将に、この人々の為に妙法華経を説くのです。
・悪知識
悪法・邪法を説き、人を悪に導く人・悪友
・善友
人々を導いて仏道・悟りに導き入れる僧や友人
・一切智
三智の一。あらゆる事物について知る縁覚・声聞の智慧
三智→一切智(声聞縁覚の智)・道種智(菩薩の智)・一切種智(仏の智)
以上で、法華経の譬喩品は終り