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ヨーロッパの歴史・経済--大航海時代-2

2021年09月08日 | 西ヨーロッパ史
■大航海時代(1470年-1517年)
百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である薔薇戦争(1455-1485年)の終結。ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)勃発。オスマン帝国の地中海の制海権。スペイン王国の建国(1479-)。レコンキスタ(714-1492年)の終結。イタリア戦争( 1494年–1495年)。ティムール朝(1370 - 1507年)の消滅。

ティムール朝の分立時代

・ティムール朝のヘラート政権樹立
1470年、ティムール朝の第7代君主アブー・サイードの処刑後、フサイン・バイカラが、ヘラートを占領すると、ヤードガール・ムハンマドが白羊朝軍と共にヘラートへ進軍してきた為、フサインはヘラートを放棄して撤退する。フサインは1か月半の間に軍隊を集めてアブー・サイードの王子たちとヤードガール・ムハンマドを破り、ヘラートを奪還すると、ヘラート政権を樹立した。アム川以北、アスタラーバード以西には軍を進めず、白羊朝やサマルカンドに政権を建てたアブー・サイードの一族と友好を保った。フサインは主要な都市や地方に王子や有力アミール(貴族)を総督(ハーキム、ダルガ)として派遣し、彼らは半ば独立した存在となる。

・ルーズコート・フィールドの戦い/薔薇戦争
1470年、エドワード4世は弟のグロスター公リチャードの援助より力を取り戻し、クラレンス公ジョージ・ウォリック伯らを政権中枢から追いやった。やがて、ウェルズ卿がリンカーンシャーで王に反旗を翻す為、兵士を集め始めると、エドワード4世は討伐軍をスタンフォードに進軍させた。3月、スタンフォードのエンピンハム付近で、ルーズコート・フィールドの戦いが両者の間で始まり、反乱軍は敗北した。その後、反乱軍のウェルズ卿が捕まり、ウォリック伯とクラレンス公の関与を自供した後に処刑された為、ウォリック伯とクラレンス公はフランスへ逃亡する。

・ランカスター派ヘンリー6世の復位/薔薇戦争
1470年10月、ウォリック伯とクラレンス公は王妃マーガレットを中心とする亡命ランカスター派と同盟を結び、再びエドワード4世軍に反撃し、エドワード4世をネーデルラントへ追いやり、ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世を復位させた。一方、戦いに破れたエドワード4世は、オランダの西部・ホラントに渡り、フランスのブルゴーニュ公シャルルの援助を受け、イングランド奪回を図る。

・オスマン帝国のヴェネツィア遠征
1470年、ヴェネツィアはハンガリー王マーチャーシュと同盟し、オスマン帝国領ブルガリアを攻撃するが、オスマン帝国軍の激しい反撃により、エーゲ海の要衝、ネグロポンテを失った。やがて、オスマン帝国軍はペロポネソス半島を占領し、ヴェネツィア本国へ進軍を開始すると、ヴェネツィアは孤立無援となっていった。

・ボヘミア王ヴラジスラフVSハンガリー王マーチャーシュ1世
1471年3月、ボヘミア王イジーの死後、ポーランド王カジミェシュ4世の長男・ヴラジスラフがボヘミア王に選ばれた。しかし、内部ではフス派とカトリックの対立に苦しみ、外部ではハンガリー王マーチャーシュ1世の侵攻にさらされた。

・ポーランド=リトアニア王カジミェシュ4世VSモスクワ大公イヴァン3世
1471年、ポーランド王カジミェシュ4世は、ノヴゴロド共和国と同盟を結んだが、シェロン河畔の戦いによって、ノヴゴロド共和国はモスクワ大公国に併合され、大オルダの君主アフマド・ハーンとの同盟のあってイヴァン3世との関係は悪化、しばしばリトアニアを侵略され、リトアニア貴族の離反も招いた。

・オスマン帝国のカラマン征服/白羊朝との対立
1471年、オスマン皇帝メフメト2世が、再びカラマン侯国の攻撃に乗り出すと、君主ピール・アフメド・ベイは白羊朝のウズン・ハサンに救いを求める。やがて、オスマンに領地を奪われた他のベイリクの君主たちも、ウズン・ハサンの元に集まり、オスマン帝国から領地を奪還し始めた。しかし、マフムト・パシャが率いるオスマン帝国軍にベイシェヒルの戦いで白羊朝軍は敗北する。翌年には、オスマンと白羊朝との和約は破棄された。

・バーネットの戦い/薔薇戦争
1471年3月、エドワード4世は妹マーガレットの夫ブルゴーニュ公シャルルに軍資金を借り、末弟のグロスター公リチャードと共に、ヨークシャー海岸のレーヴェンスパーに上陸し、4月にはロンドンに入り、首都を奪還すると、ヘンリー6世を再度ロンドン塔へ投獄して復位を果たした後、エドワード4世のヨーク軍は、ロンドン近郊のバーネットに進軍し、バーネットの戦いを繰り広げ、ランカスター軍を破った。予備軍を率いていたウォリック伯は敗北を知ると、ロッサム・ウッドへ向かう途中でヨーク派の歩兵に捕まり、殺害された。一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前にウェイマスに上陸し、兵を掻き集めながら、ウェールズに向かった。

・テュークスベリーの戦い(ヘンリー6世の滅亡)/薔薇戦争
1471年5月、テュークスベリーの戦いで、王弟グロスター公リチャードのヨーク軍はサマセット公が指揮する王妃軍を破り、マーガレット王妃と義理の娘アン・ネヴィルを捕虜にした。また、エドワード王太子は戦死し、サマセット公は捕えられて処刑された。21日、ヘンリー6世が暗殺された事からランカスター家は滅亡した。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉されると、王妃の称号の剥奪と寡婦財産の放棄という厳しい条件のもと、開放され、82年に死亡する。


・モルダヴィアの反オスマン帝国闘争
1472年、モルダヴィアのシュテファン大公はオスマン帝国のメフメトに貢納金の支払いを拒むと、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、教皇庁に反オスマン連合の結成を呼び掛かける。

・オトゥルクベリの戦い/白羊朝の敗北
1473年、ヴェネツィア共和国と同盟を結んだ白羊朝は、エルズィンシャン近郊で、オスマン帝国軍と衝突し、オトゥルクベリの戦いを繰り広げ、オスマン帝国軍に敗北する。その後、ユーフラテス川が白羊朝とオスマン帝国の国境と定められ、白羊朝が喪失した領土は少なかった。しかし、白羊朝の君主ウズン・ハサンの権威は低下し、彼の兄弟や息子がたびたび反乱を起こした。

・ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)
1473年、ブルゴーニュ公シャルルは、フランス王ルイ11世に対抗するため、ブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ)の他にリエージュ司教領の支配権を獲得し、ネーデルラントを支配した後、周囲のロレーヌ公国やフランス北部地域ピカルディに遠征を開始する。

・モスクワ大公のロシア統合
1473年、モスクワ大公イヴァン3世は、父ヴァシーリー2世から4人の弟達に与えた分領を併合し始めた。二人の弟が死去すると、その領地であるドミトロフ、ヴォログダを回収し、これに抗議した弟・ウグリチ公アンドレイを捕まえて獄中死させた。

・ブルゴーニュ公シャルルのローマ王位請求/シャルルの敗北
1473年9月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、ブルゴーニュ公シャルルとトリーアで会見し、対仏政策やオスマン討伐を議論した。また、シャルルはブルゴーニュの経済力を盾に、ローマ王位の授与などを要求したが、ローマ王の選定権は選帝侯が有していたこともあり、フリードリヒ3世は明言を避けて逃げ出すと、ブルゴーニュ公シャルルは激怒し、ブルゴーニュ戦争において帝国に報復するが、失敗に終わった。

・ブルゴーニュ公のアルザス遠征
1474年、アルザスに送り込んだ代官ハーゲンバッハの暴政により、アルザス市民の暴動が起き、アルザス代官ハーゲンバッハを処刑すると、ブルゴーニュ公シャルルはアルザスに進軍し、スイスやジギスムント大公に支援されたアルザスの反乱軍と、ブルゴーニュ戦争を始めるが、スイス諸州軍に敗北して、フランシュ=コンテのジュラを失った。

・オスマン皇帝メフメト2世の子ムスタファの暗殺
1474年、メフメト2世の子ムスタファは大宰相マフムト・パシャと彼の妻を巡って争い、マフムトに殺された。

・第二次カスティーリャ継承戦争
1474年、カスティーリャ王エンリケ4世が死去すると、イサベルと長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女の間でカスティーリャ継承戦争が勃発した。

・カスティーリャ共治王の誕生
1474年、カスティーリャ貴族たちはイサベルを女王に即位させて、アラゴン王の王子フェルナンドと結婚させた。その後、夫フェルナンドはカスティーリャ共治王フェルナンド5世と成って、対フランス王国戦をやめて、イサベルと共にカスティーリャ国内の統一に専念し、更にイスラム教のグラナダ王国の征服に乗り出す。


・スイス軍のヴォー遠征/ブルゴーニュ戦争
1475年、スイスのベルン軍がブルゴーニュ公と同盟関係にあったサヴォイア公国のヴォー地方を征服して破壊した。11月、独立共和国ジーベン・ゼンデンがプランタの戦いに臨んで、ベルン軍や他の同盟国の助力によりサヴォイア人を低地ヴァレーから追い払った。

・ヴァスルイの戦い/オスマン帝国の敗北
1475年、モルダヴィア公シュテファン3世はヴァスルイの戦いでオスマンに勝利すると、ローマ教皇から「キリストの戦士」と称えられた。翌76年、トランシルヴァニア軍を率いたヴラドが戦死しても、シュテファン3世はオスマンと戦い続けた。

・オスマン従属国のクリミア・ハン国の誕生
1475年、ハージー・ギレイの死後、クリミア・ハン国は内紛に陥り、オスマン帝国の介入を受け、ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国はオスマン帝国の従属国にされた。

・モスクワ大公のカザン・ハン国遠征失敗(69~76年)
1476年、モスクワ大公イヴァン3世は、カザン・ハン国の保護国化を試み、カザンの皇子でモスクワの臣下となってカシモフ・ハン国を統治していたカースィムをカザンのハンに立てようとして、カザン・ハン国遠征を三度も試みたが、失敗に終わった。

・ブルゴーニュ公女と神聖ローマ皇太子の婚約成立
1476年4月、シャルル突進公はローマ王指名の要望を取り下げ、マリーとマクシミリアンの婚約のみを再度申し込んだ。その時、神聖ローマ皇子マクシミリアンは、ハンガリー王マーチャーシュ1世にウィーンをはじめニーダーエスターライヒを陥落させられて敗走している中、マリーに手紙と婚約指輪を送り、婚約を成立させた。

・グランソンの戦い/ブルゴーニュ戦争
1476年3月、ブルゴーニュ公シャルルは報復のためにサヴォイアのピエール・ド・ロモンの領地グランソンへ進軍し、ヌーシャテル湖畔のグランソン城を包囲した。しかし、まもなく、スイスの援軍が到着した為、ブルゴーニュ軍はグランソンの戦いに臨み、大敗すると、スイス人の捕虜を木に吊るして逃走した。
6月、再びブルゴーニュ軍はムルテンの戦いでスイス軍と戦ったが、完敗した。

・トロの戦い/第二次カスティーリャ継承戦争
1476年、ポルトガル王アフォンソ5世は、フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女と婚約し、カスティーリャへ侵攻した。しかし、トーロの戦いでアラゴン=カスティーリャ軍に破れた。その後、ルイ11世の援助を求めたが失敗した。翌77年、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。

・ワラキア公ヴラド3世の死去/ブカレストの戦い
1476年、モルドヴァ公シュテファン3世によって幽閉から釈放されたヴラド3世は、トランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し、ダネシュティ家のバサラブ3世ライオタを追放し、三たび公位に返り咲いたが、ブカレスト近郊でオスマン帝国と戦って戦死すると、再びバサラブ3世がワラキア公に成った。

・オスマン帝国のセルビア攻撃
1477年、モルダヴィア遠征後、オスマン皇帝メフメト2世はハンガリーの勢力下に置かれているセルビアの要塞を攻撃する為、ダルマチアとクロアチアにアクンジュ(非正規の騎兵)を派遣し、更に北イタリアのヴェネツィアの勢力圏に侵入し、町々を破壊させた。しかし、ヴェネツィアの海外領土であるレパントの攻略に失敗し、アルバニアに進軍する。

・ナンシーの戦い/ブルゴーニュ戦争の終焉
1477年1月、ブルゴーニュ公シャルルは、再びロレーヌ公国の首都ナンシーを奪還するため、ナンシーを包囲すると、ロレーヌ公ルネ2世が率いるロレーヌ軍とスイスの傭兵と交戦し、シャルルは戦死した。その後、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の妻となるブルゴーニュ女公マリーが相続した。


・ブルゴーニュ継承戦争の勃発/ブルゴーニュの内乱
1477年1月、シャルル突進公の戦死後、ブルゴーニュ公国内は大混乱に陥った。国内では専制的だったシャルル突進公への不満が蓄積していた貴族や商人が権利の拡大を画策し、更に、フランス王ルイ11世も、ブルゴーニュ公爵領・フランシュ=コンテを接収して、ネーデルラントに程近いピカルディーアルトワを占拠すると、ネーデルランド各地で反乱が勃発した為、2月にブルゴーニュ女公マリーがネーデルランド諸侯から懇願され大特許状に署名すると、皇子マクシミリアンのもとに救いを求めた。
5月、皇帝フリードリヒ3世は、マクシミリアンをマリーのもとに派遣した。8月、マクシミリアンはマリーのいるヘントに到着すると、二人は結婚し、翌月にはルイ11世と休戦し、奪われた都市を奪還した。

・オスマンのアルバニア征服
1478年、オスマン皇帝メフメト2世がアルバニアに進軍する。しかし、他のヨーロッパの国々からアルバニアに援助は行われなかった。6月、アルバニアの首都クルヤは飢餓と疫病、援軍の敗退によってオスマンに降伏。その後、シュコドラ包囲戦の勝利を機に、オスマン帝国はアルバニアの大半を支配下に置いた。

・フランス王ルイ11世のエノー侵攻
1478年、ルイ11世はマリー公女との休戦協定を破って、エノーに侵攻し、マクシミリアンが率いる神聖ローマ帝国軍に敗北した。

・クラレンス公ジョージの謀反/薔薇戦争
1478年、エドワード4世はクラレンス公ジョージを謀反に関与した嫌疑で処刑され、末弟グロスター公リチャードはエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった。

・白羊朝の衰退
1478年、ウズン・ハサンが没すると王位を巡る争いが起こって王朝は混乱し、ヤアクーブが再び白羊朝を統一したが、ヤアクーブの死をきっかけに、白羊朝は再び混乱状態に陥り、自滅しって行った。

・ハンガリー王マーチャーシュ1世のオーストリア支配
1479年、マーチャーシュ1世はオーストリア、ボヘミア方面に侵出し、ボヘミア王イジーからモラヴィアを奪い、後を継いだヴラジスラフとの戦いも有利に進め、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現し、ボヘミア王位やオーストリア大公位を得た。

スペイン王国(カスティーリャ=アラゴン連合王国)の誕生
1479年、フェルナンドは老父の死去に伴いアラゴン王位を継承し、アラゴン王フェルナンド2世となる。カスティーリャの共同統治者であるフェルナンドがアラゴンの王位をも得たことにより、両国は内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体化し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国が誕生する

・ギネガテの戦い/フランスVSブルゴーニュ公
1479年、フランス軍がアルトワに侵入した為、ギネガテの戦いでフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。しかし、一方でマクシミリアンはシャルル突進公の死によって、混迷したブルゴーニュ公国を再統治した。

・オスマン帝国の制海権(黒海北岸やエーゲ海)の拡大
1479年、オスマン海軍は、タソス、レムノス、プサラを陥落させると、ヴェネツィアと和約を結び、黒海やエーゲ海の制海権を掌握した。

・大オルダのモスクワ遠征/ウグラ河畔の対峙
1480年10月、ジョチ・ウルスの後継政権の一つである大オルダの君主アフマド・ハン(ジョチ家)は、貢納を拒んだモスクワへ、大規模な遠征を開始したが、イヴァン3世はウグラ川に大軍を結集させてアフマド軍の渡河を阻止した。これにより、モスクワ公国は「タタールのくびき」から最終的に解放された事を意味した。

・大オルダのハンの暗殺/権力争い
1481年1月、シビル・ハン国のイバク・ハンにより、ジョチ・ウルス最後の政権である大オルダのハン・アフマドが殺害された。
その後、その息子たちが権力争いに明け暮れ、大オルダは衰退を続けた。このとき、大オルダはリトアニア大公国と同盟して、クリミア・ハン国及びモスクワ大公国と戦っていた。

・オスマン帝国の後継者争い/イェニシェヒルの戦い
1481年、メフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、バヤズィト2世と弟ジェムとの帝位をめぐる争いが勃発する。5月、バヤズィト2世は、第8代オスマン皇帝に即位すると、6月のイェニシェヒルの戦いでジェム軍を破った。その後、ジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、カラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗し、ロドス島の聖ヨハネ騎士団の元に身を寄せた。

・ムハンマド11世のクーデター/対グラナダ戦争
1482年、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、カスティーリャ攻撃を開始する中、息子のムハンマド11世がグラナダタイファの王位を自称し、父及び叔父ムハンマド12世と抗争した。その隙きを突いて、スペイン(アラゴン=カスティーリャ)軍はグラナダへの侵攻を開始する。

・アラスの和約/ブルゴーニュ継承戦争の終焉
1482年、母マリーが落馬して死去すると、長男のフェリペ1世がブルゴーニュ公を継承すると、父マクシミリアンが摂政となる。しかし、フランス王ルイ11世の煽動により公国内のヘント、ブルッヘ、イーペルを初めとする各地で反乱が起こった。父帝フリードリヒ3世もハンガリーを巡る抗争によって本拠地を転々とさせており、フリードリヒ3世どころかドイツ諸侯の支援を受けられる状況になかった。追い詰められたマクシミリアンはフランス王ルイ11世と、アラスの和約を結び、マクシミリアンの娘・マルグリットをフランス王太子シャルルに嫁がせ、ブルゴーニュの大半を獲得した。また、ルイ11世はシャルルが体現する騎士道精神には、嘲弄と軽蔑しか示さなかった。

・イングランド王エドワード5世の即位と権力闘争
1483年4月、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばす中、エドワード4世が急死すると、グロスター公リチャードが護国卿に成り、わずか12才のエドワード5世をイングランド王に即位させた。その後、リヴァーズ伯はエドワード5世の戴冠式を行うために、ラドロー城からロンドンに進軍したが、途中でグロスター公・ウィリアム・ヘイスティングス男爵・バッキンガム公ヘンリー・スタッフォードに捕えられ、エドワード5世は弟のヨーク公リチャードと共にロンドン塔に幽閉され、王妃の弟・リヴァーズ伯は殺された。
6月、グロスター公リチャードが会議を開いて、イングランド王リチャード3世として即位した。

・ボズワースの戦い/薔薇戦争
1485年、テュークスベリーの戦いで大敗し、フランスに身を隠していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、フランスの傭兵を引き連れて、ペンブルクシャーに上陸する。その後、ボズワースの戦いで、イングランド王リチャード3世が戦死すと、ヘンリー・テューダーは戴冠してイングランド王ヘンリー7世に即位した。

・マラティヤの戦い/オスマン帝国VSマムルーク朝
1485年、オスマン帝国とマムルーク朝はメッカの水路の修理を巡って対立し、マムルーク朝のジッダの太守にインドからの贈物を携えた使節が襲われたのを機に、ドゥルカディル侯国とオスマン帝国の連合軍はアシュラフ・カーイトバーイが率いるマムルーク朝軍と、トルコ中部東アナトリア地方のマラティヤ近郊で交戦し、敗北すると、アダナ、タルソス内の城砦を奪われる。その後も、ウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる。しかし、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化していく。

・ベロオーゼロ公国の併合/モスクワ公国
1486年、モスクワ公国の分領であったベロオーゼロ公国はミハイルが継承すると、モスクワ大公イヴァン3世と対立し始め、ミハイルの死去に伴って、モスクワ公国に併合された。

・ストーク・フィールドの戦い/薔薇戦争の終焉
1487年、ヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みを図ったが、リンカーン伯ジョンが次第に王権への魅力は抑えきれず、間もなく王位継承権を持つウォリック伯エドワードの替え玉であるランバート・シムネルを擁立して反乱を起こした。その後、ストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世軍に敗北し、薔薇戦争に終止符が打たれた。


・白羊朝とサファヴィー教団の同盟関係
1487年、白羊朝はゾロアスター教の聖地アルダビールで、台頭してきた神秘主義のサファヴィー教団と同盟を結ぶ為、教主シャイフ・ハイダルにウズン・ハサンの娘アーラム・シャオを嫁がせ、二人の間にサファヴィー朝の建国者となるイスマーイール1世が生まれた。

ウルグ・ムハンマドが建国したカザン・ハン国の内乱
1487年、父のイブラーヒームの後継者争いに負けたムハンマド・エミーンは、モスクワ軍の支援を受けてアドハムの廃位に成功し、カザン・ハン国のハンになると、国内は親モスクワ派と親クリミア派の対立が起きた。やがて、モスクワからカザンへの干渉が強くなると、カザン・ハン国とモスクワ公国は対立するようになる。


・パーキン・ウォーベックの乱/イングランド
1490年、エドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗ったパーキン・ウォーベックは、ブルゴーニュ公妃マーガレットから支持を取り付けると、自らイングランド王リチャード4世と名乗り、イングランド王ヘンリー7世を脅かす事になった。これにより、フランス王シャルル8世やスコットランド王ジェームズ4世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となったが敗れて捕えられ、99年にパーキン・ウォーベックは処刑された。

・シビル・ハン国(1490-1598年)
1490年、大オルダ・ハンを暗殺したイバク・ハンがタイブカ家と婚姻関係を結び、ハーンを継ぎ、イルティシ川沿いのカシリクを首都としてシビル・ハン国を建国した。

・マムルーク朝とオスマン帝国の和解
1491年、ハフス朝はマムルーク朝とオスマン帝国を和解させた。

レコンキスタの終結
1492年、アルハンブラ宮殿が陥落し、ナスル朝グラナダ王国は滅亡、レコンキスタはここに終結した。

1492年10月、コロンブスがアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達した。

・オスマン帝国のセルビア首都ベオグラード襲撃
1492年、ハンガリー王マーチャーシュ1世が死去すると、オスマン海軍はドナウ川とサヴァ川の合流地点にあるベオグラードを攻撃するが、失敗した。

・サファヴィー教団VS白羊朝
1494年、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダルを殺害したため、イスマーイールが教主の地位に就き、サファヴィー教団はカスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏した。

イタリア戦争の勃発


・第一次イタリア戦争(1494-1495年)
1494年、教皇インノケンティウス8世によって破門されたナポリ王フェルディナンド1世が死去すると、息子のアルフォンソ2世がナポリ王に即位した。しかし、以前に教皇からナポリ王位への推薦を与えられていたフランス王シャルル8世がアルフォンソ2世に王位を請求する。10月、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの病死を機に、シャルル8世はミラノ公国やフィレンツェ共和国を経てナポリへ進軍した。
翌95年2月、シャルル8世がナポリ王国に到達すると、アルフォンソ2世はナポリ王位を長子のフェルディナンド2世に譲り、逃亡した。
5月、フランス王シャルル8世は、ナポリの主要な都市を平定し、フェルディナンド2世を廃位して、新たなナポリ王に即位した。

・ティムール朝サマルカンド政権の内乱
1494年、サマルカンド政権の初代君主アフマドが死去すると、後継者をめぐって内紛が勃発し、サマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。

・フォルノーヴォの戦い/反仏同盟
1495年、イタリア諸侯の反仏感情が高まる中でヴェネツィア軍と教皇軍が助け舟を出し、ナポリ・ヴェネツィア・教皇領の反仏同盟が結成された。そして同盟にカスティーリャ・アラゴン連合と神聖ローマ、それにミラノが助力を申し出た事で反仏包囲が完成した。7月、反仏同盟
軍はフォルノーヴォの戦いでフランス軍に勝利し、シャルル8世をイタリアから追い出した。

・休戦協定/ハンガリーとオスマン
1495年、オスマン帝国はハンガリーと休戦し、黒海沿岸部のキリア、アッケルマン都市を支配下に置き、クリミア・ハン国の騎兵の動員を容易にした。更に、バルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していたムスリムの海賊をオスマン海軍に編入し、ヨーロッパ各国と対峙する。

・バイスングル家の覇権争い/バーブルのサマルカンド遠征
1495年、従兄弟のバイスングルがサマルカンドの支配者の地位を継いだ後、サマルカンドの宮廷ではバイスングルを支持する派閥とバイスングルの弟スルターン・アリーを支持する派閥が争っていた。翌96年、バーブルは混乱するサマルカンド遠征を行い、スルターン・アリーと同盟してバイスングルに対抗するが、失敗に終わる。翌97年、バーブルは再びサマルカンド遠征を実施し、サマルカンド入城に成功すると、スルターンに即位した。しかし、臣下のスルターン・ムハンマド・タンバルが反乱した為、アンディジャンへ帰国すると、サマルカンドはスルターン・アリーの支配下に成った。

・ウズベク・ハン国の再建
1496年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した。

・ミラノ遠征/第二次イタリア戦争(1499-1504年)
1499年、シャルル8世の跡を継いでフランス王に即位したルイ12世は、ローマ教皇とヴェネツィアと手を結び、ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァにミラノ公国への権利を主張する。翌1500年、ルイ12世はミラノ遠征を決行し、ノヴァーラの戦いで勝利を収め、ロドヴィコ・スフォルツァを捕虜すると、ミラノ公国の併合に成功した。
更に、ルイ12世は、スペインイタリア南部のナポリまでも占領し、翌01年にはナポリ王フェデリーコからナポリ王位を譲られたが、スペインとフランスが対立し始めると、03年には、ナポリをスペインに奪われた。

・バーブルのアンディジャン奪還
1499年、本拠地を失ったバーブルはホジェンドを拠点とし、支持者の手引きによってようやくアンディジャンに入城することができたが、その後も、バーブルの弟ジャハンギールを擁立するタンバルとの争いが続き、翌年にはタンバルと休戦協定を締結する。

・サファヴィー教団の決起
1499年、イスマーイールはギーラーンの都市ラシュトを出発し、キジルバシを集結させて、政治不安に成った白羊朝の首都へ進軍し、白羊朝軍を次々と破って行った。

・ゾンキオの悲しい戦い/オスマンVSヴェネツィア
1499年、オスマン帝国のバヤズィトはヴェネツィア領のレパントへ親征し、ゾンキオ城近海の戦いで、ヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、8月にはギリシャのレパントを支配する。

・ヨーロッパの軍事同盟
1500年、モレア半島にあるヴェネツィア領のモドン、ナヴァリノがオスマン帝国軍の手に落ちると、ヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成され、3年までには、ヴェネツィアや、ハンガリーも加わった。

・サマルカンド政権の崩壊
1500年、スルターン・アリーの占領下に置かれたサマルカンドはウズベク・ハン国のムハンマド・シャイバーニー・ハンによって占領された。その後、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはマー・ワラー・アンナフルの支配権を得たが、サマルカンドは君主バーブルによって奪還されたが、翌01年のサリ・プルの戦いで、ウズベク・ハン国軍に敗れて、叔父のマフムード・ハンが統治するタシュケントに退却した。

・モスクワ・リトアニア戦争の再戦
1500年、モスクワ・リトアニア戦争が再燃すると、リトアニアは再び大オルダと同盟した。
翌01年、大オルダ・ハンのシャイフ・アフマド率いる軍勢がルィリスク、ノーウホロド=シーヴェルシクィイ、スタロドゥーブ近くでモスクワ軍を攻撃した。しかし、リトアニア大公アレクサンデル・ヤギェロンは、兄のポーランド王が死去した為、後継者問題に巻き込まれて参戦出来ずにいた。

・ナポリ遠征/第二次イタリア戦争
1500年、ルイ12世はアラゴン王フェルナンド2世と手を結び、ナポリ遠征を決行し、翌01年には、ナポリ王フェデリーコ1世を廃位させ、ルイ12世がナポリ王に即位した。

・サファヴィー朝の建国(1501-1736年)
1501年秋、サファヴィー教団は白羊朝の首都タブリーズを占領し、イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言し、サファヴィー朝を建国した。

・スラー川の戦い/大オルダの消滅
1502年、オスマン帝国の支持を得てクリミア・ハンのメングリ1世ギレイが、大オルダの首都サライを攻撃すると、シャイフ・アフマドはリトアニアへ逃亡。更に、スラー川の戦いで大オルダ軍を壊滅し、サライを支配した。その後、メングリ1世は「ハーガーン(皇帝)」の称号を名乗り、カスピ=ヴォルガ流域を支配するタタール系の諸ハン国に対し、自らがジョチ・ウルスの正統を継承する君主であると主張した。

・チェリニョーラの戦い/第二次イタリア戦争
1503年、アラゴン王フェルナンド2世はフランス王ルイ12世からナポリ王位を奪うため、チェリニョーラの戦いで、フランス軍を打ち破った。翌04年、両者は休戦してリヨン条約を結ぶと、フランスがナポリを放棄し、フェルナンド2世がナポリ王に即位した。これにより、ハプスブルク家がカスティーリャ・アラゴン(スペイン)、ナポリ、神聖ローマ帝国(オーストリア)を牛耳る事に成った。

・カスティーリャ女王フアナの誕生
1504年11月、 カスティーリャ女王イサベル1世が崩御すると、娘のフアナ がカスティーリャ女王に即位し、夫フィリップと共に、共同統治した

ポルトガル・マムルーク海上戦争の勃発(1505年–1517年)
1505年、香辛料貿易の覇権を巡って、ポルトガル海軍とマムルーク朝の海軍がインド洋で戦いを起こし、ポルトガル海軍が勝利した。

・カザン・ハン国のモスクワ抵抗
1505年、モスクワの援助によってカザン・ハンに成ったムハンマド・エミーンはモスクワからの干渉に抵抗し、翌06年にはモスクワ軍を追い払った。

・ホルムズ占領/ポルトガルのペルシア進出
1507年、ポルトガル人のアフォンソ・デ・アルブケルケがペルシア湾のオルムズ島を占領し、2年後、初代インド総督フランシスコ・デ・アルメイダから地位を譲られる。

・ティムール朝の滅亡/ウズベク・ハン国シャイバーニー朝
1507年、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝のハンマド・シャイバーニー・ハンはアム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地タシュケントを占領し、更にヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した。その後、カザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に乗り出すが、失敗する。


・カンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)
1507年、教皇ユリウス2世は教皇領のロマーニャ地方をヴェネツィアから取り戻す為、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に、ヴェネツィア討伐を命令したが、翌08年のフリウリ戦争で敗北すると、ユリウス2世はフランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、そしてアラゴン王フェルナンド2世との間に、カンブレー同盟を結成した。

・白羊朝の滅亡
1508年、サファヴィー朝軍は分裂状態にあった白羊朝の諸勢力を撃破し、イラン高原西部とメソポタミア平原の大部分を支配下に置くと、最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒してバグダードを制圧し、サファヴィー朝は白羊朝を滅ぼした。

・アニャデッロの戦い/カンブレー同盟戦争
1509年、カンブレー同盟軍は、アニャデッロの戦いでヴェネツィア軍を破り、イタリア半島におけるヴェネツィアの影響力を一挙に消滅させたが、今度はフランスの影響力が増して行った。翌10年、教皇ユリウス2世は、再びヴェネツィアと同盟を結び、フランスと敵対した。しかし、フランス王ルイ12世はトゥールで教会会議を招集し、教皇の廃位を企てた。11年にピサ教会会議が開かれた。

・ポルトガルによるゴア占領
1510年、インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケはビジャープル王国の支配下にあったゴア島を一時占領するが、いったん引き上げ、11月に再びゴアを恒久占領した。

・ホラーサーンのメルヴの戦い/ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の敗北
1510年、シャイバーニー朝シャイバーニー・ハンが率いるウズベク遊牧民と、サファヴィー朝のイスマーイール1世率いるクズルバシュ遊牧民は、ホラーサーンのメルヴで激突し、シャイバーニー・ハンは敗死し、その首はオスマン朝のスルターン・バヤズィト2世の元に送られた。やがて、ホラーサーン地方はサファヴィー朝の支配下に置かれると、イラン全土はサファヴィー朝に支配された。

・オスマン帝国のセリムのクーデター/父バヤズィト2世の廃位
1511年、サファヴィー朝に同調したシャー・クルの反乱を契機として、兄達が反乱にてこずっている隙を付いて、三男のセリムがクーデターを起こし、翌12年にイェニチェリを使って兄達や父バヤズィト2世を排除し、皇帝に即位した。

・サマルカンドの奪還
1511年、サファヴィー朝と同盟したティムール朝の王族バーブルはシャー・イスマーイールの援助を受けてサマルカンドに進軍すると、シャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニーの甥・ウバイドゥッラーはブハラを放棄し、テュルキスタン(ヤシ)に退却した。しかし、翌12年、ウバイドゥッラーは、従兄弟のムハンマド・ティムールと共に首都サマルカンドに進軍し、バーブルを中央アジアから追い払った。その後、バーブルはインドへ逃れてムガル朝を建国する。

・神聖同盟/ラヴェンナの戦い
1511年、フランス王ルイ12世がピサ教会会議開いて、ローマ教皇ユリウス2世を廃位しょうとすると、ローマ教皇はこれに対してヨーロッパ諸国に呼びかけて、神聖同盟を結成した。
翌12年4月、ラヴェンナの戦いで、フランス軍は神聖同盟軍に勝利したが、総大将ガストンが戦死した為、翌月に神聖同盟によりミラノから追い出された。

・ノヴァーラの戦い/ギネガテの戦い
1513年2月、教皇ユリウス2世が死去する。6月、ノヴァーラの戦いで、ミラノ軍はフランス軍に勝利すると、ルイ12世はミラノとイタリアから撤退することを余儀なくされた。また、フランスは、ギネガテの戦いで、イングランドと同盟した神聖ローマ帝国軍に敗北する。

・チャルディラーンの戦い/オスマンVSサファヴィー朝ペルシャ
1514年、オスマン皇帝セリム1世は、アナトリア半島粛清に乗り出し、サファヴィー朝と交戦する事になり、チャルディラーンの戦いで、オスマン帝国はサファヴィー朝を破った。この戦いにより、鉄砲や大砲が重視されるように成った。

・マルジュ・ダービクの戦い/マムルーク朝の消滅
1516年、セリム1世率いるオスマン帝国の遠征軍がシリアに入ったという一報を受け、マムルーク朝のスルタン・カーンスーフ・アル=ガウリーは、自らスルタン親衛隊の先頭に立ってアレッポを出発し、ダービク平原で両者は激突し、オスマン帝国軍が圧勝すると、翌17年には、本拠地であるカイロも陥落させ、マムルーク朝を滅亡させた。









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