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職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

仏教の流れー前・鎌倉時代

2012年09月15日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆鎌倉仏教(仏教の変革)
院政から武士の時代に入ると、鎮護国家や極楽浄土を願う貴族の為の仏教から、民衆の救済の為の仏教と変貌して行った。

主に、叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られて新しい宗派が、次々と誕生した。これらの宗派は、以前の様に難しい理論や厳しい修行を重ねる必要が無く、在家の信者が生活の合間に実践できる易行(念仏)で有った。

●鎌倉新仏教

1) 阿弥陀信仰、他力本願グループ(浄土系)
末法思想、源信の浄土教の流れから誕生した宗派

ⅰ)法然の浄土宗
三心をもって、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える事で、身分や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生する事ができる専修念仏を説いた。そして、聖人が修行して悟る自力を捨て、菩薩・仏の力によって悟りが開かれる他力を示した。

ⅱ)親鸞の浄土真宗
阿弥陀仏の本願を聞いて、それを信じて心を悔い改めるならば(信心)、どのような悪人でも救われ、極楽浄土に行ける事(悪人正機)を説いた。更に、親鸞は初めて僧侶でありながら、戒律を定めず、肉食妻帯を許した。

ⅲ)一遍の時宗
阿弥陀仏の絶対性は、「信」すらも不要、念仏のみでよいと主張。すなわち、阿弥陀仏の本願を信じようが信じまいが「南無阿弥陀仏」と唱えるならば極楽往生できる事を説いた。また、「踊念仏」をしながら布教し、その際に「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記した札を渡した。

2) 釈迦信仰、菩提心重視グループ
・禅宗
大乗仏教の六波羅蜜の(禅定)が南インド出身の達磨によって中国に伝えられ、その後、唐代に東山法門の道信・弘忍によって坐禅を中心に行う仏教集団の禅宗が築かれた。その特徴は教義と成る経典が無く、全ての教えが方便などを通して師弟の間で伝えられる。

ⅰ)栄西の臨済宗
会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄によって開かれた禅宗。その後、宋時代に留学した栄西によって日本に伝えられた。臨済宗は知識より、悟り(あらゆるものに仏性がある)を重んじ、悟りを得た者から公案・読経・作務を通して悟りを得る仕組に成っている。

また、悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとして色々な方法で悟りの境地を表現する事が出来るとし、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上にも悟りが表現されており、その香りを味わう事が出来るとした。これにより、茶道・花道などが生まれる。

ⅱ)道元の曹洞宗
日本の曹洞宗は宋代の禅宗五家の一つ、曹洞宗の禅僧、天童如浄に弟子入りした道元によって開かれた。曹洞宗は公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込む只管打坐を説いた。

こうする事で内面の自在な境地を体得しようというものであった。更に末法思想や浄土系の易行道を否定した。

・悪政末法(鎌倉時代)を生き抜く宗教
ⅰ)日蓮の日蓮宗
日蓮宗は、法華経(妙法蓮華経)だけが釈迦の正しい教えを伝えていると考え、「南無妙法蓮華経」と唱えて尊ぶ事で末法の世を正せると説いた。

また、法華経・密教・浄土教を兼修した天台宗の教えを「理の一念三千」と呼び、法華経の迹門(仏の始成正覚)を説いたものとし、これに対して日蓮宗の教えは「事の一念三千」で、法華経の本門(仏の久遠実成)と称した。

更に、釈迦を無視した禅宗や、他力本願によって極楽往生しょうとする浄土真宗を邪教とし、それらが蔓延した為に、災難が起きるとする立正安国論を説いた。

※仏教の概念;縁起(釈迦)→無自性空・二諦(竜樹)→三論(鳩摩羅什)→空・仮・中の一心三観(天台僧、慧文)→法華経の十如是→一念三千・十界互具(天台僧、智顗)→事の一念三千(日蓮)

・旧仏教側の改革者
法然の専修念仏批判し、天皇が許可する官僧体制・受戒させる場所としての寺院・護国家の祈祷だけの仏教を改革しょうとした。

ⅰ)新義真言宗の覚鑁
覚鑁は高野山の僧侶の腐れきった姿を見て、根来山に新宗派を建てた。更に、今までの本地身説法に対し、加持身説法三蜜加持)を説いた。更に、密教と浄土教を融合し、大日如来=阿弥陀如来とする同体異名を唱えた。

ⅱ)法相宗(興福寺)の貞慶
第二の俗世界になってしまった官僧世界から、再び出家して遁世僧となり、釈迦信仰を中心に弥勒信仰・観音信仰・地蔵信仰を普及させ、唯識思想の立場から法然の専修念仏を批判して、その活動を止めさせた。

ⅲ)華厳宗(東大寺)の明恵高弁
仏陀の説いた戒律・『華厳経』で説かれた菩提心を重要視し、称名念仏が浄土往生の正業と説いた法然の専修念仏を否定した。更に、戦で敗れた武士の妻達の為に尼寺を建立した。

ⅳ)律宗の叡尊
自から、仏菩薩の形像の前で誓いを立て菩薩戒を受ける自誓受戒の儀式やった後、西大寺を拠点に各地で授戒を行なった。

更に、叡尊は殺生を禁じ、慈善事業を行い、文殊信仰による(ライ病)救済も積極的に推進して、忍性と共に律宗を再建させた。

◆鎌倉時代の概略

飛鳥時代

大化の改新が行われる後、公地公民が称えられ、班田収授の法が定められた。これにより、農民は朝廷から口分田を与えれれた。更に租・庸・調の重い税が課せられると、口分田を放棄する浮浪人と呼ばれた者が現れた。

奈良時代

初期(710~729年)
23年、長屋王は浮浪人対策として良田百万町歩開墾計画を立て、田地開墾を促進する三世一身の法を定めた。

中期(730~763年)
43年、開墾が進まなかった為、桓武天皇が、再び、墾田永年私財の法を定めた。しかし、国が整備した水路を利用する開墾田は公田とした為、有力な豪族・貴族・寺社しか、未開拓地を開墾して私有地である墾田を得る事が出来なかった。

荘園誕生
藤原四家が病死すると、長屋王の霊を追悼する為に東大寺・国分寺・国分尼寺を建立し、52年に奈良の大仏が完成させた。その後、東大寺や有力な寺社及び貴族に大規模な墾田の開拓を許し、墾田を管理する為の荘所が置かれた。

そして、寺社や貴族が所有する墾田を荘園と呼び、豪族の墾田と区別した。但し、有力な寺社を除いた荘園も、輸租田とされて田租を国衙に収めなければ成らなかった。

後期(764~793年)
二頭体制(称徳天皇と道鏡)→墾田制の排除令
65年、道鏡によって、寺社を除いて一切の墾田私有の法が禁じられた。この頃、飢饉や叛乱が起きて社会は混迷していた。72年、道鏡の死去と共に墾田私有の法を再開した。84年、桓武天王は奈良仏教各寺の影響力を嫌って未開の山城国に長岡京を造営が失敗する。

平安時代

初期(794~926年)
794年、桓武天皇は平城京→平安京に遷都した。801年、8年間続いた蝦夷征伐が坂之上田村麻呂によって終止符が打たれた。

天皇の命によって与えられる賜田も荒廃地・空閑地が多く成ってきた。806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位した。

二所の朝廷時代
809年、平城天皇が病気の為に弟の嵯峨天皇に譲位するが、上皇と成って政治に関与した為、薬子の乱が起きた。また、この頃、平安密教と呼ばれた天台・真言宗が誕生した。

既墾地系荘園の誕生
これまでの自墾地系荘園は労働不足で姿を消し、買得・譲与・寄進などで開墾田を集めた既墾地系荘園が現れた。そして、その所有者である有力寺社・貴族は、在地の新興富豪層を荘長にして労働力を掻き集め始めた。

勅旨田の再利用
810年(貧民救済)
右大臣の藤原園人が、皇室財源の確保の為に天皇の勅旨により、開墾された勅旨田を貧民救済の為と有力貴族・寺社の乱開発の抑止の為に利用した。しかし、農民の経済格差が広がっていた為、失敗した。

820年(班田制の崩壊)
既墾地系荘園の増加に伴い、人別課税が滞る様に成る。その社会情勢に応じて、太政大臣の藤原冬嗣が開発奨励政策の一つに勅旨田を導入すると、空閑地・荒田などを勅旨田に指定して不輸租田として、その経営を国司に任せた。

公営田誕生(窮民救済)
823年、大宰府管内で飢饉や疫病が起きた為、大宰大弐の小野岑守の命より、期限付きで大宰府が直接管理する公営田が実施された。この目的は、財源獲得と窮民救済である。

勅旨田の拡張(人別課税→土地課税)
824年-847年の淳和天皇と仁明天皇の治世には、勅旨田が全国的に広がりを見せ、既墾地系荘園時代の頃の様に近畿地方だけに収まらなかった。その為に、華やかな王朝文化が生まれた。

摂関家の誕生(勅旨田の廃止)
850年、文徳天皇が即位すると、皇室以外の者である藤原 良房が初めて摂政の座に就き、勅旨田制を止めさせた。

律令国家から王朝国家へ

郡国体制の廃止
郡司・国司の二司を廃止して、国司だけの国制改革がなされた。国衙機構の強化された。
1)租税収取を所管する部署→税所・田所・大帳所・出納所
2)軍事を所管する部署→健児所・検非違使所
3)厩所所務・雑務を所管する部署→政所・調所・細工所・膳所

里倉負名制公出挙・私出挙)
この頃から、地方財源に正税と公出挙(米の利子)が当てられる様に成った。その為、地域の富豪・有力百姓らの私倉を正倉と定めて正税の対象し、更に彼らを負名に任命して公出挙運用を請け負わせた。

その為、彼らも自分たちより貧しい百姓に種を貸して利子を摂る私出挙をやった。やがて、地方の富の格差が激しく成り、富豪層と呼ばれる者が現れ、地域支配を強めっていった。

中央集権国家の復活(昌泰の変)
897年、醍醐天皇が即位すると、菅原道真が中央集権的な財政を図り、朝廷への権力の集中を嫌う有力貴族の藤原氏と対立し、901年の昌泰の変で失脚すると、道真は太宰府に左遷された。

受領国司と摂関家の拡大
国衙領制の租税収取システムが軌道に乗ると、国司の上位官である守の多くは遥任するように成った。その為、現地に赴く受領国司に大きな権限を与えると、国司たちは摂関家に取り入って受領国司にしてもらった。

負名体制
901年-923年
の延喜、国衙の支配地である公田を名田と改め、更に田堵と呼ばれた富豪層に名田の経営を担わせ、官物・雑役などの租税・課役を国衙へ進納する義務を負わせる負名体制を敷き、王朝国家の基礎を築いた。

延喜の荘園整理令
902年、醍醐天皇の下で藤原 時平が左大臣に任命されると、新規荘園や違法性のある荘園を取締り、国衙領(公田)を回復させる為、荘園整理令を発布した。

官省符荘(太政官・民部省による免田)
租庸調の税制が機能しなくなると、租の代わりに官物が認められるように成った為、皇族や貴族に対する公的な給与が彼らの荘園が納付している官物をもって代替とするようになり、不輸租の荘園が誕生した。そして、それを官省符荘と呼ぶように成った。

中期(927~1058年)
藤原 時平よって律令制度の法令集である延喜格式が編纂され始め、927年に実弟の忠平らによって完成された。
※律令格式→律;刑法、令;行政法と民法、格;律令条文の改廃・増補、式;法を施行する際の細かな規則

軍事貴族の誕生(国衙軍制)
889年の東国の寛平・延喜東国の乱を機に軍団兵士制から、国司に追捕官符を与え、更に地方に押領使が置かれる国衙軍制へと変貌し、939年には関東で平将門の乱が、瀬戸内では藤原純友の乱が勃発すると、新たに瀬戸内に追捕使が置かれ、全国に国衙軍制が敷かれた。

更に、国衙・押領使・追捕使の配下には国内から募った武勇者が当てられ、群盗追討で名を馳せた没落した下級貴族が現れると、軍事貴族として朝廷から認められて領地を与えられたが、時代が進むに連れ冷遇される様に成り、不満を募らせて行った。

免田寄人型荘園(国司による免田)
950年頃から、国司請負制と変わる中で、寄人と呼ばれる田堵が現れ始めた。彼らは国司と特別な関係を築き、自らの荘園を名田から租税の対象外となる免田にしてもらった。いわゆる免田寄人型荘園(国免荘)が誕生した。

臨時雑役(寄進地系荘園の始まり)
980年頃から、内裏や寺社の造営・修繕などの臨時雑役を特定の令制国の正税や不動穀で賄い切れず、公田にも課せられる様に成った為、有力農民(富豪層)が私有地を有力貴族・寺社に寄付して年貢・公事の名目で官物・雑役を逃れ始めた。

藤原摂関家の最盛期
一条天皇の内覧と成った藤原道長が実権を握ると、郡司・田堵・負名・百姓階層が地方官である国司の苛政・非法が頻繁に国司苛政上訴が行われた。974年が歴史上、初めて見られる様に成った。また、平等院鳳凰堂が建てられた。

摂関家と源氏武士団
1028年、関東で平忠常の乱が起きると、軍事貴族の平 直方に討伐を命じたが、失敗した為、清和源氏出身の源 頼信に命じて鎮圧させた。これにより、源氏は関東に勢力を築き、本格的に武士が表舞台に登場するようになる。元々、清和源氏は藤原家の家司として使えていた為、やがて武士の棟梁に抜擢される。

長久の荘園整理令
1040年、後朱雀天皇が内裏造営を名分として、現任の国司の任期中に立てた国免荘の停止を命ずる為、整理令を発布した。

寛徳の荘園整理令
1045年
、後冷泉天皇は不法国免荘を整理する為に整理令を発布したが、違法の寄進地系荘園や国免荘は止らず、国衙領が次第に不法荘園に侵食された。この対策に国衙は、支配する公田を領域的にまとめて、郡・保・郷・条などの支配単位に再編成した。

源氏=武士の棟梁奥州十二年合戦
1051年前九年の役において、源 頼義鎮守府将軍に任命されて武士の棟梁に成る。また、1083後三年の役では源 義家に受領功過定が中々許されず、関東から出征してきた将士に私財から恩賞を与えた為、関東で絶大な人気を得た。

後期(1059~1191年)
新政の再興(延久の荘園整理令)
1069年
、後三条天皇の下、再び荘園整理令を発布して、荘園の調査機関の記録荘園券契所を設け、役人には反摂関家の者を起用して、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収を行なった。更に、1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定して、弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。

院政時代

院政と摂関家衰退
1086年
、白河天皇は皇位継承の安定化を図る為、8歳の堀河天皇に皇位を譲り、上皇と成った。更に藤原摂関家の内紛に乗じて院政を敷き、更に院を警護する北面の武士を作り、検非違使に抜擢し、形骸化させた。

官司請負制の完成
この時代から朝廷に使える公家社会は、特定の氏族が特殊技能を家職・家業とし、それに関連する官司を支配し、その最高責任者にあたる官職を世襲する官司請負制へと変貌した。→「家」と言う概念の始り

寄進地系荘園
荘園整理令が発令される度、国司が荘園を公領に加えて行くように成ると、開発領主から寄進を受けた領家(中央の有力貴族や有力寺社)だけでは、荘園を維持出来なくなり、更に権威のある本家(皇族や摂関家)への荘園寄進が増大した。

本家と領家のうち、荘園の実効支配権(荘務)を有した者を本所と呼んだ。そして、開発領主は領家から荘官に定められ、更に本所から監視役の預所が送られた。また、荘園内の住む者は荘民とした。

武士化する荘官
荘官と国司の間で荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が多く成ると、中央の官職にあぶれた下級の軍事貴族と荘官が主従関係を結んで、これに対抗する様に成っていた。

荘園公領制(荘官Vs国司)
整理令以降、内裏や大寺社が火災で焼失する度、これらを復興する為の臨時的な租税(一国平均役)を課した。その為、荘官に朝廷から荘園の行政や徴税を委ねられると、領地が荘官の支配する荘園と、国司の支配する公領の二つに分類される荘園公領制が誕生した。

平氏の台頭
平 将門を倒した平 貞盛や、軍事貴族の基礎を築いた維衡を祖に持つ伊勢平氏は、藤原道長の頃に成ると、河内源氏と双璧を成す武門を誇ったが、後ろ盾が居ない平氏は官位が源氏より低く、冷遇されていた為、瀬戸内や九州に勢力を伸ばした。

院政時代に入ると、藤原氏・源氏は敬遠され始める中、伊勢平氏平正盛が伊賀国の所領を白河院に献上して北面武士に任命され、1107年に起きた源義親の乱を鎮圧した。

国衙軍制崩壊
白河院と鳥羽天皇が対立すると、有力寺院が荘園の優遇措置や人事を巡り、僧兵を使って国司に強訴する様になるが、在地領主・田堵農民層との闘争で国司の支配体制が崩れていた為、1118年比叡山の強訴から北面武士が当てられた。

日宋貿易・院領荘園
鳥羽院政期、荘園整理政策は転換されて、知行国制度に大きな影響を与えた。国衙領が縮小され、院領荘園が拡大して行った。更に、武家の棟梁である平 正盛を受領に任命して院領荘園を管理させた。その後、正盛は肥前国神崎荘で日宋貿易を手掛け、更に国衙に代わって瀬戸内の海賊を退治した。

摂関家の衰退
関白の忠通と内覧の頼長が対立する中、近衛天皇が崩御して皇位継承問題が起き、後白河天皇が即位する。翌年の1156年には、鳥羽法皇が崩御した事を機に、崇徳上皇と藤原頼長が挙兵する保元の乱を起し、天皇軍に破れて摂関家も弱体化された。

王朝国家の終焉・荘園公領制の最盛期

保元の荘園整理令君臣共治思想王土思想
戦乱後、後白河帝は信西が提唱した王土思想に基付く新政を行う為、荘園整理令を発布し、全ての公領・私領の支配権を天皇や上皇にした。そして、1158年に二条天皇に譲位すると、院政を開始した。

平家政権の自立
信西が子らを天皇の側近にし始めると、同じ院の近臣の藤原 信頼と対立し、源 頼政軍に信西が斬首され、更に院と天皇を軟禁する平治の乱1160年に勃発した。平清盛は院と天皇を救出すると源 頼政・藤原 信頼らを討伐し、ここに河内源氏は滅亡した。

その後、清盛は二条帝と後白河上皇の間を上手く渡り歩きながら、摂政近衛基実と姻戚関係を結び、1167年には武士として、初めての太政大臣にまで上り詰めた。1169年、藤原成親に対して延暦寺の強訴が起きたが、清盛は延暦寺の大衆を制圧しなかった。

院政の終焉

白山事件山門Vs院勢力
1177年、藤原師経が僧侶と口論をして、白山の末寺・宇河寺を焼き払うと言う事件を起した。これにより、藤原師経の処分を巡って、山門の大衆の強訴が起き、師経は尾張に配流と成った。この頃、各地で目代と現地の寺社が寺領荘園の所務を巡り、頻繁に紛争が起きていた。

鹿ケ谷の陰謀(院の孤立)
同年、師経の父である西光が後白河院に天台座主明雲の悪巧みと訴えた為、明雲が伊豆に配流されたが、途中で僧兵によって救出された為、院が経盛に比叡山攻撃を命じる。しかし、経盛が拒んだ為に清盛に命じられ、清盛は5/28に比叡山攻撃を決めた。
しかし、2日前に成って、源行綱から後白河院らが企てた平家打倒の陰謀で有るとの密告がが有り、西光を問い質すと認めた為、比叡山攻撃を中止し、院近臣の中核である西光成親らを処刑して後白河院を孤立させた。

治承三年の政変(院政の崩壊)
1178年に中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子を出産する。翌年、清盛は皇子を皇太子にすることを後白河法皇に迫り、皇太子にした。更に、高倉天皇の准母・平 盛子が死去すると、法皇がその財産を取り上げてしまった為、清盛は挙兵して法皇を鳥羽殿に幽閉した。また、1180年高倉天皇は譲位させて徳子の産んだ言仁親王を安徳天皇に即位させた。

武家政権

平家終焉
1180年、後白河法皇の三の宮・以仁王源 頼政と共に平氏打倒の挙兵を計画(以仁王の乱)し、諸国の源氏や大寺社に平氏打倒の令旨を出した。その後、以仁王・源頼政軍は平家軍に討伐されて処刑された。
更に、令旨を受けた諸国の源氏追討を企てると、源 頼朝が挙兵し始め、6年に渡る源平合戦が始まると、清盛の福原行幸が中止され、帰京した。

院政復活
1181年、高倉上皇・平清盛が死去すると、再び後白河法皇の院政が再開され、平宗盛が畿内惣官に任命された。更に、宗盛は法皇に追討の院庁下文を強要して追討使に成ると、西国・北陸・東海に討伐軍を派遣し、東北では豪族の藤原秀衡城助職を国司に任じた。
一方、法皇側は反平家の者たちと繋がりを持つ八条院と手を結ぶ様に成り、翌年の82年には壊滅状態だった院政派も息を吹き返した。
1183年源 義仲平 維盛の追討軍を破って上洛すると、法皇は法住寺殿から比叡山の東塔円融坊に脱出した。これを知った宗盛は安徳帝を連れて西国に逃れ、更に神鏡剣璽を持ち去ったとして、平氏追討宣旨が法皇から下された。

源氏Vs源氏
神器無き新帝践祚を行なって後鳥羽天皇が即位すると、皇位継承問題の介入や京の治安に失敗した義仲が平氏追討に西国へ赴き、水島の戦いで平氏に敗北した。更に、源 頼朝に寿永二年十月宣旨が下された事から源 義経軍が上洛した。
この事より、義仲は帰京して後白河法皇に義経軍の追討する様に抗議するが、聞き入られず、天皇や法皇を幽閉する法住寺合戦が勃発した。
1184年範頼と義経軍が合流して義仲軍との戦いが始まると、義経は宇治川の戦い志田義広軍勢を破って入京し、一月には敗走した義仲軍を粟津の戦いで破った。

平家の滅亡
1184年3月、三種の神器奪還為、範頼・義経の鎌倉政権軍が一ノ谷に結集して居る平家軍と戦闘を開始し、5年3月に屋島の合戦で大打撃を与え、同年の4月に平家最後の戦いとなる壇ノ浦の戦いを行い、安徳天皇を入水させて三種の神器奪還に失敗した。

奥州藤原氏の滅亡
1185年、平家軍を滅ぼした源 義経は兄・頼朝の許可なく、任官を受けて頼朝の怒りを買い、更に源行家の追討を断ると、二人は対立し、義経は頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。そして、土佐坊昌俊が義経軍に打たれると、頼朝軍が鎌倉を出て黄瀬川まで来ると、九州の緒方氏を頼って京を離れた。
その途中で、多田行綱らの襲撃を受けてると、摂津から吉野に隠れ住んだ。しかし、院から捕縛の命が出され、更に頼朝から義経らの追捕のための守護地頭が全国に設置されると、行家と主な家来が捕まり、義経は藤原秀衡を頼って奥州へ赴いた。
1188年、秀衡の死んだ後、頼朝は朝廷に宣旨を出させて、泰衡と基成に義経追討を要請すると、翌年の5月に衣川の戦いで義経を討った。
1189年の7月、泰衡が義経の首を差し出す事で、頼朝が奥州の藤原氏を滅ぼす奥州合戦が勃発した。

鎌倉幕府
1192年、3月に後白河法皇が崩御して、7月に頼朝は征夷大将軍へと任ぜられると、鎌倉に幕府を開いた。

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