こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?”因縁”が分からないと言う事で、喩えを書く事にしました。
例えば、タバコを吸う喫煙者についてです。喫煙するように成った原因は友だち(縁)がタバコを吸うを見て、好奇心(因の種)から一本だけタバコを吸う事から始まり、そして友だちがその事を褒め称えた事で、タバコを吸う癖が身に付き(習因)、喫煙者になった。
喫煙者に成ると色々な物事(果)を引き起こす原因を作る事に成る。(因子)例えば、火事やストレス、及び病気・他人に焼けどを負わせる事故など、また灰皿がある場所(縁)、喫煙者の仲間を探し求める。そして、喫煙する事で良悪の見境(根)が鈍くなり、その事で罪を作り、苦を味わい、悩むと言う事。
十二因縁に話を戻そう。!
1.無明(むみょう)
仏教では過去世の無始の煩悩と解釈しているが、色々調べて見ているうちに、これは遺伝子ではないのかなと考えられる。
2.行(ぎょう)は過去世に煩悩より作った悪業(祖父母・親の行為)
つまり、先祖代々伝わっている習慣や価値観・人生観を主に指す。(高学歴は高収入、高収入は金持ち、金持ちは悩みが無く、幸せ)これら以降の事は次回と言う事で、法華経の譬喩品をどうぞ!
おのおの各自は服を脱ぎ、佛にその上着を供養した。釈提桓因(しゃくだいかんにん)・梵天王(ぼんてんおう)等・無数の天子と共に、天子たちの衣や天の音楽・曼陀羅華・魔訶曼陀羅華等をもって佛を供養した。
佛に降り注いだ、天子の衣や天子が持っていた数々の楽器などが空中で、舞ていた。また、諸の天華を降らし、次の事を述べた。
”佛、昔にハラナイで、初めて法輪を転じ、また今、この上ないほどの大法輪を転じたのでしょうか?”その時、諸の天子、重ねてこの義を述べて、偈を挙げて言った。
”昔、ハラナイで四諦の四つの法輪を説法し、その説法の中において分別し、諸法は五陰(五蘊(ごうん))の生起と消滅から成る事を説き、今また、とても不思議で最高の大法輪を説明されましたが、この法は甚だ、奥が深く私たちの考えが及ぶものでは有りません。
だから、この法を信じるものは極く僅かな者達でしょう。私たちは昔より今まで、しばしば世尊の説法を聞いて参りましたが、今だかつて、このような深くて不思議な上法を聞いた事が有りません。
世尊、この法を説いて下さるならば私達、皆が歓喜すると共に、大智舎利弗が今、世尊から阿耨多羅三藐三菩提の記を授かった時と同様、私達も必ず佛に成り、一切の世間において、最尊にしてこの上ない者に成るでしょう。
だが、仏道は思いはかることが難しい。したがって、方便をもって法を説いてください。さすれば、私が持っている現世及び過去の幸運、佛を見て得られる功徳などすべてを佛道に入らしめる為に役立てましょう。”
その時、舎利弗は佛に謹んで言いました。
”世尊、今私は後悔などはしません。親の佛前で阿耨多羅三藐三菩提の記を受ける事が出来たと思い込んだ事
その記を受ける事が出来たと思い込んだ者は千二百人にのぼり、それらの者達の心は自由でありました。
昔、それらの者が修行を積んでいた頃、佛は私たちを教え導く為、常におしゃいました。”私の法は良く生・老・病・死を離れて涅槃を突き詰めるようになると”
私達、有学・無学の者(四果)は各々、自ら我見や有無の二見から離れる事が出来たので涅槃を得たのだと思い込んでいました。
しかし、今世尊を前にして、未だ聞いた事のない法を聞き、皆疑問を抱いています。良いですか?。世尊、願わくは四衆(四果)の為に、その因縁(理由)を説いて、後悔する思いを晴らして下さい。
その時、佛が舎利弗に告げました。
私が先に、色々な佛世尊の種々の存在理由(因縁)・教え(比喩)・呪文(言辞)をもって、方便して法を説いたのは阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟り)を得る為の物で有る。と言っていません。
この諸の所説は皆、菩薩を教え導く為の物です。舎利弗、今将に、また比喩を持って更に、この義を明かすべし。諸の智慧ある者は比喩をもって悟りなさい。
・釈提桓因
帝釈天の別の名で、人として生まれた時、無暗に施しを行った為、貧困して路上で餓死したと時の名
・梵天王
本来はバラモン教で根本原理を人格化した最高神であったが、仏教に取り入れられて正法護持の神とされる
・四果
小乗仏教において、修行によって得られる結果を分類したもの。
・預流(よる)果、
聖者の位に入った者
・一来果、
天界と人間界を往復する者
・不還(ふげん)果
流転することのなくなった者
・無学果(阿羅漢果)の総称
完全な悟りを開た者
・我見
自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え
・有無の見
有見(うけん)と無見(むけん)。いずれにも偏らない中道が真理とされる。有無の二見
・有見
この世の事物は実体として存在するという、反仏教的な考え
・無見
この世の事物は実体として存在せず、一切が無であるという考え
今日はこの辺で終り、