職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

ツイ友の会「エージェント」

2011年08月21日 | ブログ
【エージエント】

◆エージェント設立の経緯
あるフォロワーの存在から、映画「マトリックス」の様なツイートが始まり、いつしか、お互いに「エージェント」と呼び合う様に成った。そして、私がボスのスミスと成って、相手のフォロワーに愛称のエージェントネームを付ける様に成って行った。

やがて、新たな仲間が加わる様に成ると、ツイートが楽しく成り、単なるフォロワーで無く、チョト深い関係が構築出来る仲間の「エージェント」を募る事に成ったのです。

また、「エージェント」は交渉人・代理人・取次ぎ人を指す事より、沢山のフォロワーと関り合いながら、自分の知らない知識を得たり、悩みを解決できたら良いと思い始め、仲間の同意を得ながら、ツイ友の仲間を募り始め、ツイ友を「エージェント」と呼ぶ事に決めた。

◆エージェントの目的
現在、twitterは緩い関係を求める傾向にあり、フォロワーの中には企業やBOTや一方的につぶやく者がいる。そうしたtwitterに於いて対話を重んじ、より良い人間関係を構築する事である。

◆エージェントの手続き

  1. エージェントに成る旨を@shiyokuanjin にポスする事。
  2. その旨を受けて、リストjagent に登録する。
  3. 登録後、エージェントネームを決める。
  4. 私からエージェント仲間に入会者の知らせを送る。
  5. エージェント仲間から挨拶される。
  6. 完了

◆エージェントの決まり

  1. 朝晩の挨拶をする事、これは安否確認の意味もある。
  2. エージェントからのメッセージは出来る限り返す事。
  3. シモネタは避ける事。
  4. ツイートの相手を出来る限り絞る事。→全員への呼び掛けなのか、特定の仲間へなのかを、@A@B@C@Dの様に連ねて、関係ない人まで巻き込まない事。
  5. あるエージェントから投げかけれたツイートに返事をする際は、RTを使って返事しない事。例えば、「@A@B@C@D××どうですか?」と質問されたら→良いと思います。RT@A@B@C××どうですか?では無く、→「@A良いと思います。」の様に、質問した人のアカウントのみで返してください。
  6. 問題がある時は必ず意見を言う事。
  7. フォローは本人の自由であるが、出来る限り相互フォローしょう。
【お願い】

エージェントは出来る限り、相手を思いやり、円滑にツイートを行える様に努力しましょう。また、相手に過大な期待をして、相手が応えないからといって、怒ったり、恨んだりする事は止めましょう。相手にも立場や都合が有るのを忘れないで下さい。

エージェントは相互扶助の精神にのっとり、相手の言葉に耳を貸しましょう。どうしても我慢できない場合は私に申し出て下さい。短気を起こしてブロックしないでください。 合掌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の流れーその2

2011年08月20日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆鎮護国家仏教の全盛期(奈良時代
仏教の発展に伴い、法令(僧尼令)が定められて、出家するには太政官が発行した度牒(出家得度の証明書)と、治部省・玄蕃寮の担当者、僧綱(そうごう)等の僧官が署名が必要であった。その為、民間には仏教があまり広まる事が無かった。

また、鎮護国家思想の下、僧侶は南都七大寺(大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺)などの寺において仏教の教理が研究され、南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。

そして、寺の格式を、国家が管理した官寺(大寺・官大寺・国分寺・国分尼寺など)・皇室が建てた勅願寺・貴族や豪族が建てた私寺・私寺から官寺に成った定額寺(祈願寺)などがある。

710年
元明天皇によって藤原京から平城京に遷都した。。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。12年古事記(最古の歴史書)を、13年には風土記(地域文化・特産品・地形を記した書)を献上された。

715年
郷里制(地方行政の最小単位が?)が実施された。また、老いの為に娘の氷高皇女に皇位を譲り、独身の女帝の元正天皇が誕生した。

717年
藤原不比等らが中心となって養老律令(大宝律令の改訂)の編さんを始める。20年に日本書紀が完成すると、藤原不比等が死し、更に元明天皇が病気で床に伏すと、長屋王を右大臣に、藤原 武智麻呂を中納言に、藤原 房前を参議にして、21年に崩御した。

723年
田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。翌年の24年には、首皇子に譲位し、聖武天皇が即位すると、聖武天皇の生母である藤原 宮子の称号を巡って長屋王と藤原四兄弟が衝突する。

729年
藤原光明子を立后するが、長屋王に邪魔された為、藤原四兄弟に王妃の吉備内親王もろとも殺害し、光明子を皇后にして藤原四子政権を樹立したが、37年の天然痘の流行によって、四人とも死んだ為に、鈴鹿王を知太政官事に、橘諸兄を大納言に任じた。

740年
大宰府に左遷された藤原広嗣が、天地による災厄の元凶は吉備真備と僧正の玄昉にあるとして上奏文を朝廷に送ると、太宰府で挙兵した。翌年の41年、聖武天皇が深く仏教に帰依して全国に国分寺・国分尼寺を創建する事を命じた。

743
知識寺で盧舎那仏像を拝し、金鐘寺を東大寺と改名した後、華厳経で示された盧舎那仏像を建立する詔を出し、東大寺を国分寺の総本山に、法華寺を国分尼寺の総本山にした。

745
聖武天皇は、藤原広嗣の乱の後、平城京→恭仁京(40年)→紫香楽京(43年)→難波京(44年)と移り、この年に平城京に戻った。この間に墾田永年私財法を制定して律令の一部が崩壊し、更に、安積親王が死亡した。

749年
聖武天皇の譲位により、阿倍内親王が孝謙天皇に即位する。光明皇太后の後見により、甥の藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。52年に東大寺大仏の開眼法要を行い、54年には鑑真から上皇及び僧尼が菩薩戒を授けた

756年
聖武天皇が崩御する際、道祖王を皇太子に立てたが、孝謙天皇はこれを破棄し、大炊王を皇太子にした後、橘奈良麻呂の乱が発覚すると、同時に逮捕された黄文王、大伴古麻呂らが獄死した。

758年
孝謙天皇は病気の光明皇太后を看病する為、大炊王に皇位を譲りて淳仁天皇が即位した59年唐招提寺を創建し、鑑真を大僧都に任じた。61年に都を改修する為、一時的に保良宮へ遷都した時、上皇に道鏡の関係を諫言した事で天皇と上皇が不仲に成った。

764年
上皇は、山村王に命じて淳仁から玉璽と駅鈴を取り上げると、藤原仲麻呂の乱が勃発し、吉備真備に討伐が命じられて、塩焼王と仲麻呂は殺され、淳仁天皇に廃位の詔が下され、淡路国へ流罪され、再び上皇が称徳天皇に即位した。

765年
天皇は飢饉や和気王の謀叛事件が起こり、弓削寺に参拝して道鏡を太政大臣禅師に任じ、新嘗祭に僧侶が出ると言う異例なものと成った。また、墾田私有令が廃止された。

766年
海龍王寺で仏舎利が見付かったとして道教を法王にし、天皇との二頭体制が始まった。戦の勝利祈願した四天王像・金光明経を奉納する西大寺・西隆寺を建立し、神宮境内に寺(神宮寺)を建立して神仏習合を進めた。一方、神道の神に階位を授ける神階制度が始まった。

769年
不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして流罪に成った。大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたが、和気清麻呂が嘘だと暴いた為に、道鏡によって清麻呂は大隅国に流罪された。

770年
称徳天皇が由義宮で崩御すると、藤原永手、吉備真備、藤原宿奈麻呂らによって白壁王が大極殿で光仁天皇に即位し、道鏡は下野薬師寺別院に左遷された。翌年、称徳天皇の妹で、伊勢神宮の斎王の井上内親王が皇太子妃から皇后と成った。

772年
皇后が光仁天皇を呪詛したとして廃后と成った。更に、皇太子の他戸親王も庶民に落とされると、73年には山部親王が皇太子になる。そして、75年には二人とも幽閉先で相次いで死去した。

776年
光仁天皇
は藤原 蔵下麻呂が無くなると、祟りを恐れて薬師如来を本尊とする勅願寺である秋篠寺を建立し始めた。開山を玄昉の子の善珠にしたが、天変地異は更に続き、干ばつ・台風・地震・イナゴの大発生・病気が流行した。

777年
天皇や皇太子が病気に掛り、更に藤原良継・藤原清成らが死去した為、井上内親王の怨霊であるとして内親王の遺骨を移して御墓として墓守を置いた。78年、皇太子回復の為、布帛を伊勢神宮・諸社に奉納し、畿内の各境界に疫神を祀らせ、大赦の勅を発した。

781年
光仁天皇は能登内親王に先立たれて衰えると、皇位を皇太子に譲ると、急に崩御してしまった。そして、皇太子が桓武天皇に即位した。82年には、天武天皇の曾孫の氷上川継の乱が勃発した。その後、弟の早良親王を皇太子にした。

783年
桓武天皇は藤原乙牟漏を皇后とし、安殿親王と神野親王をもうけた。84年には、藤原種継に長岡京造営を命じて85年に遷都した。すると、藤原種継が暗殺され、皇太子も加担したとして淡路国に配流して、安殿親王を皇太子とした。

793年
日照りによる飢饉、疫病の大流行や、皇后や皇太子の発病などの災難が続き、この原因は早良親王の怨霊であると占われ、また、和気清麻呂の進言も有って、桓武天皇は平安京の詔を出し、94年には遷都した。

これより、平安時代が始まる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏教の流れーその1

2011年08月02日 | アート・文化
日 本 仏 教 史

◆日本古来の信仰

・森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する神道が行われて来た。神道は神話に登場する神々のように、地縁(地域コミュニティ)・血縁(親族)などで結ばれた共同体(部族や村など)を守る事を目的とする信仰。

・古神道;神を祀る自然崇拝→神道;万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとシャーマニズム(巫女)→祖先崇拝→天皇→国家→儀式主義。

◆仏教伝来(古墳時代)

537年
蘇我氏の計らいにより百済の聖明王から欽明(きんめい)天皇に仏教が伝えられた。神武天皇から数えて第29代目の天皇である。

欽明天皇は物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)から強く反対されたので蘇我大臣稲目に金銅の釈迦仏と教典を授けた為に、稲目は向原の家を寺として安置した。これが日本最古の向原寺である。

570年
国内で疫病が流行したのを機に、物部尾輿らによって向原寺が焼き払われ、仏像は難波池(難波の堀江)に投げ捨てられた。そして、後に信濃の国の本多善光に拾われ、善光寺が創建された。

584年
百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連らが、石像の弥勒菩薩と仏像を敏達天皇に献上した。そして、大臣の蘇我 馬子がそれをもらい受けた。その後、高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。司馬 達等の娘を恵便に出家させ善信尼にした。

その後、馬子の屋敷に弥勒仏を安置して、恵善尼・禅蔵尼の二人の弟子と共に斎会(仏教儀式)を行なった。

585年
物部守屋による廃仏運動により法衣を奪われて全裸にされ、群衆の目前で鞭打たれ、仏塔は壊され、仏殿は焼き払らわれ、仏像は海に捨てられた。しかし、疫病は納まらず天皇も病に伏した。天皇は馬子だけ、仏教崇拝を許した。

587年
用明天皇が病気を機に、仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させた。用明天皇が崩御すると、物部守屋と蘇我馬子が戦い。蘇我馬子が勝利して、崇峻天皇が即位する。

588年
崇峻天皇のもと、仏教の拠点である寺院法興寺(飛鳥寺)が蘇我馬子によって飛鳥の真神原に建てられた。これにより、日本初の正式な僧侶寺が誕生する。

◆国家宗教としての仏教(飛鳥時代)

593年
崇峻天皇が馬子によって暗殺された後、日本初の女帝推古天皇が即位した。更に、聖徳太子が蘇我氏の勝利を祈願して彫った四天王を安置するための寺、四天王寺が摂津難波の荒陵(あらはか)に建てられた。

595年
高句麗の僧の慧慈が渡来して聖徳太子に仏教を教えた。翌年に法興寺(釈迦如来)が完成すると、百済の僧慧聡を住職して仏教の拠点にした。600年には第一回目の遣隋使が随に派遣された。

601年
病気平癒の為に伽藍建立を発願した用明天皇の意思を継いで聖徳太子が、斑鳩の地に薬師如来坐像を安置する法隆寺を建立し始め、607年に完成させた

604年
聖徳太子が冠位十二階・十七条憲法を制定した。そして、憲法の中で三宝(仏・法・僧)を敬う事を記した。更に、3年後の遣隋使に小野妹子が任命され、随から外交官の裴世清を連れ帰ってきた。

629年
推古天皇が崩御した為、蘇我蝦夷が田村皇子を舒明天皇に即位させた。そして、翌年には舒明天皇は遣唐使(犬上御田鍬)を始めて、唐から多くの先進的な技術や仏教の経典を収集した。

636年
この年から、災難が続いた。火災で岡本宮から田中宮に遷都したり、干ばつで飢饉が起き、更に蝦夷の反乱が起きた。

638年
舒明天皇は、聖徳太子(622年)の遺言に従って岡本宮を寺に改築した法起寺の金堂に着工した。39年には、聖徳太子が建てた熊凝精舎を百済川の畔に移して本格的な国家寺院である百済大寺を建てた。

642年
舒明天皇が崩御すると、女帝の皇極天皇が即位する。翌年の3年には、蘇我入鹿が山背大兄王を攻めて自害させた。

645年
大化の改新が起こり、中大兄皇子が蘇我入鹿・蝦夷の親子を殺害した為、皇極天皇が皇位を孝徳天皇に譲った。そして、年号を大化に改め、仏教を擁護して僧の旻らを十師に選んだ。

東国に国司を置いて戸籍と田畑の検地・蝦夷に対する柵戸を設けた。また、冠十九階や八省百官を制定する。50年には、長門の国司が白いキジを献上して年号を「白雉」に変えた。653年に旻法師を冤罪を着せられた石川麻呂の菩提寺、山田寺に安置した。

655年
孝徳天皇が崩御すると、再び皇極天皇が飛鳥板蓋宮で即位した。そして、名を斉明天皇と名乗った。その後、火災が続いて板蓋宮→鳥川原宮→岡本宮と遷都した為、飛鳥寺の西に須弥山の像をにつくって盂蘭盆供養を行なった。

658年
僧の智通と智達が唐に渡り、玄奘三蔵に弟子入りして中国法相宗を伝えた。最初は法興寺の道昭に継いで二番目である。日本で初めての仏教は、後に南都六宗の一つ法相宗と呼ばれる様に成る。

659年
阿倍比羅夫に蝦夷を討たせる為、秋田と青森に進軍された。更に、北海道の羊蹄山まで軍を進ませ、粛慎を討伐させ、7月に盂蘭盆会を開かせた。

660年
仁王般若会を行うと、中大兄皇子が漏刻(水時計)を献上した。また、百済が滅んだ為、鬼室福信を百済に帰国させ復興を試み、翌年の61年に朝倉橘広庭宮で崩御した。

663年
中大兄皇子が即位せずに称制(しょうせい)と成って唐・新羅連合軍と戦う(白村江の戦い)。その後、大敗して博多湾から大宰府に水城・北部九州沿岸に防人を設置・北九州から瀬戸内海沿岸にかけて古代山城を築いた。

669年
中大兄皇子は都を難波の飛鳥京から、琵琶湖の近江京へ遷都させて防衛網を完成させた後、天智天皇に即位した。そして、実弟の大海人皇子を皇太弟(次期天皇)し、息子の大友皇子を史上初の太政大臣にした。その為、大海人皇子が王位継承を辞退した。

◆鎮魂仏教・神道国家(白鳳時代)

671年
天智天皇が崩御すると、大友皇子が弘文天皇に即位するが、大海人皇子が壬申の乱を起こして天武天皇に即位すると、72年には、再び都を飛鳥の地(飛鳥浄御原宮)に戻して、中央集権制を強める為に八色の姓・飛鳥浄御原令を制定し、皇親政治に取り組んだ。

673年
山田寺が完成して丈六仏開眼供養を行った後、自分の娘の大来皇女伊勢神宮の斎王(巫女)としたり、父(舒明天皇)が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなどして、神道を基盤とし、仏教を国家鎮魂の為だけに利用し、寺から領地を取り上げた。

679年
天武天皇は皇后・6人の皇子との間で吉野の盟約を交わした後、皇后が病気と成った為、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。二年後、草壁皇子を皇太子に定めた。

686年
天武天皇が崩御すると、大津皇子が反乱を起こしたとして皇后に殺された。そして、殯の期間を長く取った為、89年に草壁皇子が死んだ為に皇后が持統天皇に即位し、天武天皇の意志を継ぎ、薬師寺を完成させ、寺の領地を認めた勅願寺に指定した。

694年
飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都した。96年に太政大臣の高市皇子が死んだ為、翌年の97年に皇位を草壁皇子の子の軽皇子に譲り、文武天皇に即位させると、持統天皇は初の上皇と成った

701年
文武天皇は本格的な刑法・民法・行政法を整えた大宝律令を発布し、冠位制を改め、新たに官位制を設けた。天皇を中心とする二官八省の官僚機構が作られた。翌年、持統上皇が死去すると、初めて火葬された。

707年
文武天皇が25歳で崩御すると、母(草壁皇子の正妃)が元明天皇に即位すると、藤原不比等が政治の実権を握った。

708年
元明天皇は、埼玉県秩父市の聖神社に和同開珎(銅貨)が献じた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする