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ヨーロッパの歴史・経済--古代

2016年12月12日 | 西ヨーロッパ史

ヨーロッパの歴史と経済-古代

◆古代(前1世紀~5世紀)
古代は古代ギリシア・ローマ時代をさすが、ココではキリスト復活より書くことにした。終わりは西ローマ帝国の滅亡

・イエス・キリストの処刑
2代ローマ皇帝ティベリウス時代、ユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトよってイエスが処刑される。

・イエス弟子たちの布教活動(30年)←キリストの復活
エルサレムにいた12人の弟子たちがエルサレム教会を設立し、各地のユダヤ人共同体に宣教を始めた。更に、キリスト教に回心したパウロの伝道活動によって、小アジアやギリシャに教会が出来た。パウロは「人々が救われるのは律法ではなく信仰である」を説き、政教分離を提唱した。そして、皇帝ネロにローマの大火災の罪を着せられ処刑された。

・イスラエル国の消滅
ユダヤ戦争(66-77、132-135)が勃発し、パレスティナのユダヤ人がローマ帝軍によって鎮圧された。これにより、エルサレム神殿は破壊され、更にイスラエル国も消滅して、ユダヤ人は各地に散らばっていった。

・キリスト教の迫害
初め頃のローマ帝国では、マニ教やキリスト教などの宗教に寛容であったが、ローマ法に従わなかったり、奴隷を人して扱ったり、皇帝崇拝の拒否などすると、次第にキリスト教は迫害されるように成ったが、殉教する者が多く現れ、下層階級に広まっていくと、313年のミラノ勅令によってキリスト教徒の迫害が終わった。

・三位一体が正教とされ、異端は他国へ追放
325年、ニケーア公会議で「イエスの神性を否定するアリウス派」と、「イエスの神性を認めるアタナシウス派」が激しく論争し、その結果、アリウス派が異端とされてローマ領域から追放され、北方のゲルマン民族に受け入れられていった。392年、異教徒禁止令を出し、アタナシウス派のキリスト教を国教とした。これにより、太陽神ミトラを崇めるミトラ教が排除された。

・ゲルマン民族の大移動の始まり(4世紀~5世紀)
4世紀中頃、中央アジアのステップ地帯に住んでいた遊牧民のフン族がアラニ族と東ゴート族を破り、西ゴート族に向かうと、西ゴート族はローマ帝国に救いを求めた。

・ゴート族の反乱(376–382)
ローマ帝国からゴート族にブルガリアのドナウ川流域の一部を与えるが、ゴート移民が30万人を超えた為に、ローマは対処しきれず、餓死者が相次ぐと、移民は周辺の村々を略奪してローマ軍と激突し始めた。

・ゴート族のトラキア定住
378年、ハドリアノポリスの戦いで共同皇帝のウァレンス東帝が敗死すると、西ゴート族はトラキア地方一帯(バルカン半島南東部)やダキア地方(ルーマニア)を略奪し、東ゴート族はパンノニア(ハンガリー)を略奪し、西ゴート族のフリティゲルン派がマケドニア属州を略奪し始めた。
382年、共同皇帝のグラティアヌス西帝がゴート族をトラキア地方まで押し戻して休戦協定を結び、ゴート族のトラキア定住を認めた。

・フン族の襲撃
395年、東ローマのトラキア地方へ大規模な攻撃をかけ、アルメニア・カッパドキアを略奪し、シリアまで脅かすまでに成ったが、3年後にはローマ人とゴート族の連合軍に追いやられた。

・ローマ帝国の分割統治(395-476)
テオドシウス1世は、息子たちが皇位争いをしないように、西ローマ帝国をホノリウスに、東ローマ帝国をアルカディウスに与え、ゲルマン民族の大移動に対応させた。

・聖地の誕生
ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア教会・イェルサレム教会・アンティオキア教会の5管区に総大司教が置かれ、キリスト教の聖地とした。

・ゲルマン民族の王国が乱立
410、ブリテン島の南部と中部からローマ人が引き上げると、アングロ・サクソン族がイングランドを支配する
411年、ブルゴーニュ地方にブルグント王国が建国された。
415年、ガリア・アクィタニア州に西ゴート王国が建国された。
439年、北アフリカにヴァンダル王国が建国された。

・教父哲学の誕生
426年、キリスト教に新プラトン主義を取り入れた教父哲学者のアウグスティヌスより、カトリック教会の存在意義、恩寵、教典を明示し、中世キリスト教思想の基盤となった。これによって、自己救済を唱えたペラギウス主義は異端とされた。
※存在意義⇒カトリック教会は国家に奉仕する宗教集団では無く、この世に「神の国」を出現させる場。
※恩寵(予定説)⇒予め神から選ばれた者だけが救われる(永遠の命が得られる)。

・フン大帝国(410-453)の脅威
434年にアッティラがフン族の王になると、東ローマから多額に身代金を取り、ブルグント王国などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いてライン川からカスピ海に至るまでの大帝国を築いた。47年、再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ軍を撃破し、51年にガリア地方への侵入を試みるが、カタラウヌムの戦いで西ローマ軍に敗退する。52年、体勢を立て直し、イタリア半島の北部を襲撃する。53年、アッティラが死去すると、東ゴート族に攻められて、東アジアに帰っていった。

・両性説派と単性説派の対立
431年、エフェソス公会議が開かれ、「イエスの母マリアを聖母と認められ無い」と説いたコンスタンティノポリス総主教ネストリオスを異端認定され、ネストリオス派はペルシャへ逃れた。その後、ネストリオス派に対抗して単性説が生まれたが、451年のカルケドン公会議で両性説と単性説が論じられ、単性説も異端とされたが、論戦はなおも続いた。
※単性説派→イエスの三位一体は認めるが、処刑されたイエス・キリストの復活は認めない。

・西ローマ帝国の滅亡/イタリア王の誕生
423年にホノリウス帝が崩御すると、西ローマ帝国は内紛が巻き起こり、将軍フラウィウス・オレステスが息子のロムルス・アウグストゥルス帝に即位すると、ゲルマン人の将軍オドアケルによって廃位され、東ローマ帝ゼノンに西ローマの帝位を返上した為、476年に西ローマ帝国は滅亡した。その後、オドアケルがイタリア王に任命される。

※ゲルマン民族の回心
西ローマ帝と結び付が強かったゲルマンの諸国はキリスト教のアリウス派を信仰してたが、西ローマ帝の滅亡と共にローマ・カトリックに頼り、アタナシウス派(三位一体)に回心している。

※西ローマ帝国の滅亡の要因
イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。この為、地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊し、経済が衰退して傭兵や高くつく職業的な軍団を雇うことが出来なく成った。

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