職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その4

2018年09月30日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その4


◆中世中期(1230年~1269年)
第三次タイファ時代(1213-1492)

ムハンマド・ナースィルが死去すると、ゆるやかにムワッヒド朝は衰退を始めた。24年、後継者のムハンマド・ユースフ2世が死去し、3人のカリフが擁立されるとムワッヒド朝は内乱状態に陥いる。更にハフス朝、マリーン朝との抗争により、ムワッヒド朝は完全にアンダルスから撤退をすると、再びタイファ諸国が乱立する時代を迎えた。

・エピロス専制侯国のブルガリア遠征/ブルガリアの台頭
1230年、エピロスのテッサロニキ皇帝テオドロス1世は8万の軍勢を率いてブルガリア遠征に乗り出すが、クロコトニツァの戦いでブルガリア皇帝アセン2世に敗北し、エピロスはブルガリアの支配下に置かれた。その後、バルカン半島の覇権を巡ってハンガリー、ブルガリア、ラテン帝国が争う事になる。

・イベリア半島南西部侵攻/レコンキスタ
1230年、カスティーリャ王フェルナンド3世とポルトガル王国は協同してイベリア南西部に侵攻し、カスティーリャ王はスペインのメリダ、バダホスを攻略し、ポルトガル王国はエルヴァスを占領した。更にポルトガルはアラゴン王国と協同し、バレアレス諸島を攻撃した。そして、35年までにはナスル朝グラナダ王国以外の小さなタイファ諸国はカスティーリャ王国に制圧された。

・イングランド王ヘンリー3世の敗戦/
1230年、フランスの王太后ブランシュは、失ったフランス領を奪還する為に侵入したイングランドのヘンリー3世軍を鎮圧した。更に、シャンパーニュ伯ティボー4世と対立する貴族との戦いを治めるものの、ルイ9世との対立は深まり、ティボー4世はブロワ、サンセール、シャトーダンなどの統治権を失った。

・サン・ジェルマノの和約/教皇vsローマ皇帝
1230年、破門十字軍遠征中、教皇グレゴリウス9世は南イタリアを教皇領に加えたが、すぐに帰還した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって奪還された。その後、ドイツ騎士団の仲介によって、二人はサン・ジェルマノの和約を結び、フリードリヒ2世の破門を解かれた。更に、フリードリヒ2世は「皇帝の書」を発布した。

・ヤッス・チメンの戦い/ホラズム・シャー朝の敗北
1230年、エルゼルムの帰属を巡り、ホラズム・シャー朝とルーム・セルジューク朝が対立し、エルズィンジャン近郊のヤッス・チメンでルーム・セルジューク朝のカイクバード1世軍とホラズム軍は交戦し、敗北した。

・ホラズム・シャー朝の滅亡/ムーガーン平原の戦い
1231年、ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンは、モンゴル帝国の大ハーン・オゴデイが派遣した追討軍と、アゼルバイジャンのムーガーン平原で激突してアルメニアのカパンに敗走した。その後、アルトゥク朝の招きに応じてアルトゥク朝の首都アーミドに向かう途中、モンゴル軍の奇襲に遭い、山中に逃げ込むと、クルド人に暗殺された。

・アイユーブ朝のメソポタミア遠征/ディヤルバクル占領
1231年、モンゴル軍の侵入に苦しむアッバス朝カリフ・ムスタンスィルはイスラーム諸国に救援を要請すると、アイユーブ朝スルタン・カーミルがメソポタミア遠征に向う途中、モンゴル軍はヴァン湖西部ヒラートから撤退したため、カーミルはディヤルバクル包囲戦を行い、トルコのディヤルバクルを占領した。

・ナスル朝グラナダ王国(1232 - 1492)の樹立
1232年、アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世がハエン近くのアルホーナで蜂起し、タイファの一国ナスル朝を築くと、35年にはアンダルシア地方のグラナダを攻略し、そこに遷都すると、正式にハフス朝を宗主国とするナスル朝グラナダ王国を開いた。その後もナスル朝はアルメリア、マラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立する。

・チヴィダーレの帝国会議/息子ハインリヒの反乱
1232年、ローマ王ハインリヒは、チヴィダーレで開催だれた帝国会議に於いて、父・神聖ローマ皇帝から、帝国諸侯と教皇への従属を約束させられると、ハインリヒは父に不満を抱き、34年には教皇が再編成したロンバルディア同盟と結託して反乱を起こした。

・第二次対金戦争の終結
1234年、第二次対金戦争を始めた第2代モンゴル帝国皇帝オゴデイは、南宋の力を借りて金朝を滅ぼすと、カラコルムに遷都した。

・ヴォルムスの帝国会議/ハインリヒの廃位
1235年、フリードリヒ2世がシチリアから帝国へ向う事を聞いたハインリヒは、アルプス超えの封鎖を試みたが失敗し、父フリードリヒ2世に降伏した。7月のヴォルムス帝国会議でハインリヒは王位と全財産を没収された。また、この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解、ラント平和令の発布

・反ラテン帝国同盟/コンスタンティノープルの攻防
1235年、ラテン皇帝ボードゥアン2世の後見人で有ったブルガリア皇帝アセン2世はニカイア帝国ヨハネス3世と反ラテン帝国同盟を結び、ラテン帝国を攻撃するがエルサレム王ジャンによって阻止された。

バトゥの西征(1236〜1242)

・モンゴル帝国のヴォルガ・ブルガール侵攻/キプチャク征服
1236年、モンゴルのバトゥは、23年のケルネクの戦いでモンゴル軍を大敗させたヴォルガ・ブルガールに、再び侵攻すると、内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールを一年後には滅ぼした。

・コルドバの陥落/レコンキスタ
1236年、カスティーリャ王フェルナンド3世は、ナスル朝グラナダ王国の協力を受けながら、イスラムの最大都市コルドバを陥落すると、カディス、ハエン、セビリアなどの諸都市を攻略して勢力を拡大した。その為、ナスル朝はタイファでありながら、カスティーリャ王の封建的家臣と成った。

・ザイヤーン朝の誕生
1236年、ムワッヒド朝のトレムセン総督で有ったヤグムラーサンが、ムワッヒド朝の衰退に伴ってアルジェリア北西部を支配するザイヤーン朝を開いた。

・リトアニア王ミンダウガスの台頭/リヴォニア帯剣騎士団の消滅
1236年、ミンダウガスはリトアニアの諸部族を一つにまとめ上げてリトアニア王に即位すると、シャウレイの戦いでリヴォニア帯剣騎士団を破り、領土を原リトアニア最南端まで広げて行った。

・ロンバルディア同盟への遠征/神聖ローマ帝国
1236年4月、フリードリヒ2世はロンバルディア同盟都市への遠征を決定すると、ロンバルディア同盟都市は蜂起した為、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世軍はイタリアに攻め込んだ。コルテノーヴァの戦いでフリードリヒ2世軍に敗北した。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市であるミラノを屈服させる事が出来ないばかりか、ヴェネツィアとジェノヴァが教皇側に加わった。

・エピロス-テッサロニキ専制公国の三分割
1237年、エピロス・テッサロニキ皇帝マヌエルの推薦により、ミカエル2世がエピロス専制公に成ると、ブルガリア帝国皇帝によってテオドロスが釈放されると、エピロス・テッサロニキ専制公国は三分割された。テオドロスの長男ヨハネスがテッサロニキを、マヌエル皇帝がテッサリアを、ミカエル2世がエピロスを統治した。

バトゥの西方遠征の始まり

・キプチャク征服/モンゴルのバトゥ軍
1237年、モンゴルのバトゥ軍はキプチャク草原のキプチャク人を殲滅し、カスピ海から北カフカスまでの諸民族が征服・帰順した。

・コルテノーヴァの戦い/神聖ローマ帝国
1237年2月、フリードリヒ2世は、次男のコンラート4世をローマ王及び神聖ローマ皇帝に即位させると、11月のコルテノーヴァの戦いでロンバルディア同盟軍を破ったものの、中心都市ミラノを征服出来ないばかりか、ヴェネツィアとジェノヴァは教皇側に加わった。

・リヴォニア騎士団の設立
1237年、戦いに敗れたリヴォニア帯剣騎士団はドイツ騎士団に吸収され、ドイツ騎士団のリヴォニア分団としてリヴォニア騎士団が創設された。

・モンゴルのルーシ侵攻
1237年11月、モンゴルのバトゥはウラジーミル・スーズダリ大公国に服従するよう求めると、12月にはプロンスク公国やリャザン公国を陥落させた。その後、ユーリー2世の息子たちによるモンゴル討伐が行われたが、モンゴル軍に完敗し、コロムナとモスクワを焼かれた。

・バレンシアの占領/アラゴン王のレコンキスタ
1238年、バレアレス諸島を征服したアラゴン王ハイメ1世は、更にバルセロナの南にあるタイファのバレンシア王国も征服した。

・ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の再建
1238年、ヴォルィーニ公国からドイツ騎士団の排除に成功したダヌィーロはハンガリー王国とハールィチ公国の貴族の野党を負かせ、ハールィチを奪い返した。その際、父が築いたハールィチ・ヴォルィーニ大公国を再建してハールィチ公国に座を据えながら、弟のヴァスィーリコにヴォルィーニ公国の支配を任せた。翌年には、キエフ大公に成った。

・シチ川の戦い/ウラジーミル大公国の大敗
1238年、モンゴル軍はウラジーミル攻城戦に着手し、3日後には首都ウラジーミルを焼き払った。3月、逃げ延びた大公は、再び軍を立て直し、モンゴル軍に挑むが、シチ川の戦いで再び破れ、モンゴルに降った。その後、コゼリスク以外のルーシ北部の14都市は破壊と略奪にさらされると、大都市のスモレンスク、ノヴゴロド、プスコフは自らモンゴル帝国に服従し、貢納を約束した。

・クリミア侵攻/ヴォルガ・ブルガールの反乱
1238年の夏、モンゴル軍は南部のクリミア半島を攻撃すると、再びヴォルガ・ブルガールで反乱が勃発したため、モンゴル軍はヴォルガ・ブルガールへ赴き、各都市を壊滅させた。冬には、モンゴル軍は北カフカス侵攻を開始し、チェチェン、グルジア、アルマニなどの諸民族の征服した。

・アイユーブ朝の内乱
1238年、父カーミルが死去してアーディル2世がスルターンとして即位した為、後継者サーリフはラフバ包囲戦を途中で切り上げようとして、ホラズム・シャー朝の残党勢力と対立すると、この混乱に乗じてルーム・セルジューク朝のカイホスロー2世が、アイユーブ朝の諸侯を混乱させた。
やがて、ザンギー朝系のモスル領主バドルッディーンがサーリフを攻撃したが、サーリフは残党勢力と和解し、モスル軍やルーム・セルジューク軍や破った。その後、サーリフは従兄弟でダマスカス領主ユーヌスと共に、エジプトへ赴いてアーディル2世を廃位した。

・皇帝と教皇の争い/フリードリヒ2世の破門
1239年、教皇グレゴリウス9世はフリードリヒ2世が庶子エンツォに与えたサルデーニャ王位を剥奪し、再び神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を破門をすると、イタリアの各都市が皇帝派と教皇派に分かれて争いを始めた。

・モンゴルの南ルーシ侵攻/第二次ルーシ侵攻
1239年冬、モンゴルのバトゥ軍は、再びルーシ南部へ進軍し、チェルニーヒウ公国ペレヤースラウ公国を滅ぼした。

・キエフ大公国の滅亡/第二次ルーシ侵攻
1240年、ルーシの南部を制圧したバトゥ軍がキエフ大公国の首都キエフに向うと、キエフ大公ダヌィーロは、ドミトル軍を派遣してモンゴルのバトゥ軍に立ち向かったが、12月のキエフの戦いで大敗し、キエフ大公国は事実上崩壊した。

・ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の陥落/モンゴル帝国
1240年、バトゥ軍はハールィチ・ヴォルィーニ大公国のハールィチ及びヴォロディームィル・ヴォルィーヌスクィイを占領すると、反ダヌィーロ勢力が立ち上がり、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を分裂させようとした。その後、バトゥ軍は分団し、ハンガリー征服する前に、兄オルダ指揮下の1万人の兵をポーランドへと差し向けた。

・ヤミ族遠征/スウェーデン・ノヴゴロド戦争
1240年、スウェーデンとノヴゴロド公国は、幾度もロシアのラドガ湖周辺に住むヤミ族討伐軍を派遣しているうち、軍事衝突を起こした。9年後スウェーデンがフィンランドを征服する形で終結した。

・ネヴァ川の戦い/スウェーデン・ノヴゴロド戦争
1240年7月、モンゴルのルーシ侵攻後、ローマ教皇グレゴリウス9世がリヴォニア騎士団、デンマーク、スウェーデンの領主によるルーシへの十字軍を提唱したの機に、スウェーデン軍がネヴァ川沿いのラドガを陥落した。その後、ネヴァ川の戦いで、ノヴゴロド公アレクサンドルによって奪還された。その後、ドイツ騎士団と結託したノヴゴロドの貴族たちによってアレクサンドル公は追放された。

・ポワチエの反乱/パリ条約の締結
1241年、母イザベラの再婚相手であるラ・マルシュ伯ユーグ10世に誘われ、イングランド王ヘンリー3世はポワチエ侵攻を開始すると、翌年にはルイ9世軍に鎮圧され、アキテーヌ地方を占領されて窮地に陥った。その後、パリ条約が結ばれ、ヘンリー3世はアキテーヌ公としてルイ9世に臣従した。

・ラスール朝の台頭
1241年、アッバース朝の独立国:ラスール朝はアイユーブ朝と十字軍が争っている間にメッカからアイユーブ朝の勢力を一掃し、紅海沿岸地方を支配し始めた。

・トゥルスクの戦い/モンゴル支隊のポーランド侵攻
1241年、前年にポーランドのルブリンを略奪すると、モンゴル軍は2つに別れ、バイダル支隊にポーランド侵攻を任せ、トゥルスクの戦いでポーランドのサンドミエシュを陥落させた。その後も、3月のフミェルニクの戦いで、バイダル軍はクラクフ侯ボレスワフ5世軍を破り、ポーランド南部のマウォポルスカ州全域を支配した。

・レグニツァの戦い/ポーランド侵攻
1241年4月、モンゴル分隊はシロンスクへ進軍すると、レグニツァでシロンスク公ヘンリク2世がヴァーツラフ1世率いるボヘミア軍と合流し、モンゴル軍を討とうとする事を耳にする。その後、レグニツァの戦いでモンゴル軍とドイツ・ポーランド軍が激突し、モンゴル軍が勝利を収めると、ヴロツワフなどのシロンスク公国領内をほしいままに略奪して回った。

・モヒの戦い/ハンガリー侵攻
1241年4月、モンゴルの本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠を守るハンガリー軍を追い払い、パンノニア平原に潜入した。その後、モヒ平原の戦いでハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍を敗走させた。
5月、モンゴルの本隊はオロモウツの戦いを終えたバイダルとオルダの支隊と合流し、孤立していたオーストリア公フリードリヒ2世のウィーンを目指した。しかし、12月にオゴデイが死去すると、帰還命令が出され、ドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退した。

・ハンザ同盟の設立
1241年、北ドイツのリューベック市を中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した帝国都市同盟

・ローマ包囲戦/教皇空位
1241年、フリードリヒ2世はローマを包囲すると、教皇グレゴリウス9世が死去した為、教皇ケレスティヌス4世が選ばれたが、彼もすぐに病死すると、2年間の教皇空位時代が続いた。43年、教皇インノケンティウス4世が誕生した。

・モンゴルVSブルガリア
1242年3月、モンゴル軍は帰還命令に従って帰路に付くき、ブルガリアからセルビアを通っている途中、ブルガリア皇帝カリマン1世軍に攻撃された。

・チュード湖(氷上の戦い)/ドイツ騎士団VSノヴゴロド公国
1242年4月、ドイツ騎士団にノヴゴロドが支配されると、再びアレクサンドがルノヴゴロド公に成り、チュード湖の戦いでドイツ騎士団を追い出した。また、この戦いでカトリック領地拡大が止まった。

・キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の建国
1242年、ジョチはオゴデイの後継が決まらず紛糾するのを見て、ヴォルガ川下流に留まることを決め、サライを都として、遊牧民国家キプチャク・ハンを築くと、43年
には、ブルガリアに復讐戦を挑むが、ブルガリアがあっさりと降伏したため、ブルガリアに貢納を課した。13世紀末にはブルガリアはモンゴル国家のキプチャク・ハン国の従属国となる。

・エピロス専制侯公国の再建
1242年、前年にブルガリア皇帝アセン2世が死去した事で、ニカイア皇帝ヨハネス3世はテオドロスの息子ヨハネスをエピロス専制侯公にし、エピロス専制侯公国をニカイアの従属国にした。

・キョセ・ダグの戦い/モンゴルのアナトリア侵攻
1243年6月、将軍バイジュに率いられたモンゴル軍はルーム・セルジューク朝への攻撃を開始し、エルズルムの街を包囲した。その為、スルタン・カイホスロー2世は、トレビゾンド帝国の援軍と共に、キョセ・ダグの戦いでモンゴル軍に挑んだ。その後、モンゴル軍に敗退してモンゴル軍の従属国になると、トルコ系の小国家が乱立する混乱の時代に突入した。

・マリーン朝の台頭
1244年、マリーン族の勢力はより拡大し、47年にはムワッヒド朝からモロッコのメクネスを占領すると、キリスト教徒やトルコ人の傭兵たちをマリーン朝の味方に付け、大西洋沿岸部の都市を制圧した。48年にはイフリーキーヤの新興国ハフス朝の権威を承認した。

・ラ・フォルビーの戦い/イェルサレムの奪還
1244年7月、ヤッファ条約によってキリスト教徒に渡されていたエルサレムが、ホラズム・シャー朝の残党勢力によって陥落させられた。一方、十字軍の内紛により、力を持った男爵たち(バロン)が自治権を行使し始めた為、アイユーブ朝第7代スルターンに即位したサーリフが、休戦協定を破棄し、10月のラ・フォルビーの戦いで、ダマスカス及と十字軍の連合軍を破り、更にシリア各地を転戦して領地の拡大に努めた。その後、十字軍国家は弱体化の一途を辿った。

・第1リヨン公会議(皇帝の弾劾:十字軍:モンゴル人の対応)
1244年、フランス王ルイ9世は、教皇インノケンティウス4世と皇帝フリードリヒ2世との仲介に名乗り出て講和を結ぼうとしたが、ロンバルディア同盟の抵抗に遭ってダメになる。その後、インノケンティウス4世はリヨンに逃れた。翌年、教皇は第1リヨン公会議を開き、フリードリヒの廃位と彼の封建家臣の主従関係の解除宣言した。更にハインリヒ・ラスペを対立王に任命してフリードリヒに対する十字軍を呼びかけると、ローマ帝国の各地で反乱が勃発した。

・ヤロスラヴの戦い
1245年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公ダヌィーロは、ヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリー・ハールィチ公国の連合軍に勝利し、ヨーロッパ諸国に力を見せ付けたが、翌年にはモンゴルのキプチャク・ハン国に従属した。しかし、独立を取り戻すためにヨーロッパ諸国に軍事支援を求め始める。

・第3代大ハーンの誕生/モンゴル帝国
1246年、皇后ドレゲネによってクリルタイが開かれると、バトゥ以外の有力な王族たちがモンゴル帝国の首都カラコルムに結集し、息子グユクを帝位に就かせ、空位時代を終わらせたが、2年後のグユクの死去に伴い、再び空位時代が訪れる。

・ライタ川の戦い/ハンガリーVSオーストリア
1246年6月、オーストリア公フリードリヒ2世は、モヒの戦いで窮地に立たされたハンガリー王ベーラ4世
に戦いを挑み、西ハンガリーのモション、ショプロン、ヴァスヴァール領を奪おうとした為、ライタ川の戦いで、ベーラ4世は娘婿のハールィチ・ヴォルィーニ公子ロスチスラフと共に、フリードリヒ2世軍と激突したが、敗北した。その際、フリードリヒ2世は戦死した。

・ニッダの戦い/パルマの戦い
1246年8月、ニッダの戦いに於いて、対立王ハインリヒはローマ王コンラート4世を打ち負かしたが、翌年のロイトリンゲン包囲戦で戦死した。その為、教皇はホラント伯ウィレム2世を新たに対立王に選出し、教皇派が都市パルマを陥落すると、イタリア全土で皇帝フリードリヒ2世に対する反乱が起きた為、48年にフリードリヒ2世はパルマ包囲戦に乗り出すが、本拠地ヴィットリアがパルマ市民の奇襲に遭い、フリードリヒ2世は退去させられた。

第7回十字軍(1248年 - 1254年)

・シモンとヘンリー3世の対立/イングランド
1248年、レスター伯シモンはフランスのガスコーニュにおける統治に失敗し、ヘンリー3世の信頼を失うと、ヘンリー3世の失政に反発する貴族を糾合して挙兵する。

・キプロス会議/第7回十字軍遠征
1248年、フランス王ルイ9世はエルサレム奪還に強い興味を示し、母ブランシュや重臣の反対を押し切って第7回十字軍遠征を決行し、2万の軍勢を引き連れてキプロスに上陸し、現地諸侯らを集めて会議を開き、エジプトのカイロ遠征を決めた。

・海港ダミエッタ攻撃/第7回十字軍遠征
1249年、十字軍はダミエッタ占領に成功するが、ナイル川の氾濫により6ヶ月間足止めを食らった。その後、カイロへの進軍を開始した。

・マンスーラの戦い/第7回十字軍
1250年2月8日、十字軍は奇襲戦を仕掛けてアイユーブ朝のファフルッディーン軍を壊滅させると、マンスーラ市内に突入した。しかし、11日にはサーリフの妻シャジャルが率いるマムルーク軍とトゥーラーン・シャー軍が合流し、十字軍を市街に追いやった。4月のファルスクールの戦いでアイユーブ朝は十字軍を破り、フランス王ルイ9世を捕まえた。

・バフリー・マムルーク朝(1250-1517)の樹立
1250年5月、継母シャジャルがクーデターを起こし、アイユーブ朝の第8代スルタン・トゥーラーン・シャーを殺害し、マムルーク朝を開くと、イスラム世界で初の女性スルタンに成った。その後、莫大な身代金と引き換えにルイ9世を開放した。その後、ルイ9世はアッコンに向かい再起を図った。
8月、他国のスリムスたちやアッパス朝カリフ・ムスタアスィムらの反発を招き、再婚相手のアイバクにスルタンを譲った。その後、アイバクはシリア地方に残存するアイユーブ朝勢力と交戦し、和平を結ぶことになる。

・皇帝コンラート4世の誕生
1250年、コンラート4世が対立王ウィレム2世軍を破リ、晩秋には父・フリードリヒ2世が死去した為、コンラート4世が皇位とシチリア王位を継いだ。その後、カルロ1世がローマ教皇の支持を受け、シチリア王になろうとするが、兄ルイ9世の反対を受け断念する。52年、コンラート4世はシチリアを占領し、弟マンフレーディをシチリア王の代理統治者に任じた。

・リトアニア王国(1251-1263)の誕生
1251年、ミンダウガスがカトリック教会の洗礼を受け、永年敵対していたリヴォニア騎士団との同盟を結び、53年にはリトアニア国王として戴冠した。

・第四代カアンの誕生/諸王家間の分裂
1251年、バトゥを始めとするジョチ家、トゥルイ家、東方三王家がクリルタイを開き、トゥルイ家のモンケをモンゴル皇帝の第四代カアンに即位させる。一方でオゴデイ家やチャガタイ家の反対派や、皇后オグルガイミシュを制圧した。これによって、オゴデイ・ウルスは東の親トゥルイ派と、西の反トゥルイ派に分裂した

・フレグの西征及びクビライの南征
1253年、モンゴル皇帝モンケは、三弟フレグに「イスマーイール派とアッバース朝打倒」を命じると、フレグの西征が実施され、アッバース朝を消滅する。一方、次弟クビライは南征を命じた。その後、クビライは雲南・大理国を攻略し、南宋侵入を試みた。

大空位時代(1254-1273)/神聖ローマ帝国
1254年、ローマ王コンラート4世が没し、対立王ウィレム2世が単独ローマ王に成った。しかし、56年のフリースラント遠征で戦死すると、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎えた。一方、コンラート4世の息子コッラディーノはシチリア王を継承した。しかし、58年には叔父のマンフレーディによって廃位され、代わりに叔父マンフレーディが就いた。

・バフリーヤの排除/マムルーク朝の内乱
1254年、マムルーク朝スルタン・アイバクと妻シャジャルが対立し始めると、アイバクはシャジャルと共の戦って来たバフリーヤの指導者アクタイを将軍クトゥズに殺させた。バイバルスら残余のバフリーヤがシリアに逃れたため、再びアイユーブ朝勢力と交戦した。

・第7回十字軍の終焉
1254年、アッコンを拠点に移したルイ9世は、マムルーク朝と同盟を結び、シリア勢力の拡大を図ったが、成果を挙げる事が出来ずに、母の死を知らされると、フランスに帰還した為、十字軍遠征は終了した。

・モンケの南宋親征
1256年、クビライ南宋戦争の長期戦に持ち込むと、大ハーン・モンケはクビライを更迭し、代わりに東方三王家筆頭の孫タガチャルに任せた。しかし、57年にタガチャルは河北省襄陽市の樊城攻めを目前して逃げた。58年、モンケは再び南宋遠征計画を見直し、モンケ本軍は四川方面から、クビライ軍は鄂州から、タガチャル軍は東方淮水流域から南宋軍を攻撃する事に成った。59年8月、モンケが長江上流域の重慶で病死しすると、雲南のモンケ本軍は帰還し、湖南方面から南宋の首都攻撃を仕掛けたウリヤンカダイ軍が孤立し、華南方面をさ迷った。

・アイバクの暗殺/マムルーク朝の混乱期
1257年、マムルーク朝スルタン・アイバクは妻シャジャルと離婚し、モースルのアミールの娘と婚姻して同盟を結ぼうと画策すると、シャジャルによって暗殺され、更にシャジャルもアイバクの先妻によって殺されると、先妻の子・マンスール・アリーが第三代スルタンに即位すると、マムルーク朝は混乱に陥った。

・バグダードの戦い/アッバース朝の滅亡
1258年、アッバース朝はバグダードの戦いでフレグ率いるモンゴル帝国によって滅ぼされ、カリフ・ムスタアスィム一族は処刑されたが、叔父だけはダマスカスに逃れた。

・鄂州の役/モンゴル帝国の南北分裂
1259年9月、クビライはウリヤンカダイを救済する為、鄂州を包囲して南宋軍と停戦交渉をした。12月、クビライはバアトル軍を残し、金蓮川に帰還した。1260年3月、バアトル軍とウリヤンカダイ軍が合流し、金蓮川へ帰還する為、長江を渡っている時に、後方から南宋の賈似道軍に攻撃された。その後、ウリヤンカダイ軍が金蓮川に到着すると、クビライはクリルタイを開き、カアンに即位し、金蓮川政権を開いた。同年5月、アリクブケも、カラコルムでクリルタイを開き、カラコルム政権を樹立し、モンゴル帝国が分裂すると、南宋は湖南・江西省を奪還した。

・オックスフォード条項
1258年、レスター伯シモン・ド・モンフォールをリーダーとする諸侯は、選ばれた15人により王権を監視する「国王評議会の設置」と定期的に議会を招集する「議会に関する取り決め」を定めたオックスフォード条項をヘンリー3世に認めさせ、王権に制限を加えた。

・フレグのダマスカス遠征/マンスール・アリーの廃位
1259年、モンゴルのフレグ軍がアゼルバイジャンからダマスカスへ進軍を開始すると、マムルーク朝のマンスール・アリーが廃位され、新たにクトゥズがスルタンに即位し、ダマスカスのナーセルに援軍を送った。

・クレッセンブルンの戦い/ボヘミア王国のオーストリア支配
1260年、オーストリア王位継承を巡って、ボヘミア王オタカル2世とハンガリー王ベーラ4世が対立し、オーストリアのクレッセンブルンの戦いで、ボヘミア王オタカル2世が勝利し、翌年のウィーンの和議でオーストリアのシュタイアーマルクがオタカル2世の支配下に置かれた。

・アイン・ジャールートの戦い/キト・ブカの西征
1260年、フレグ率いるモンゴル軍がシリア北部へ侵入すると、十字軍国家のアンティオキア公国・トリポリ伯国・キリキア・アルメニア王国などがモンゴル軍に従い、アレッポを陥落した。その後、フレグはモンケの病死を知り、西征を将軍キト・ブカに委ねて帰還した。2月、キト・ブカのモンゴル軍がアイユーブ朝勢力のダマスカスを陥落する。4月には、キト・ブカはマムルーク朝に降伏を促すが、拒否された為、エジプトへ進軍を開始した。9月、ガリラヤの丘陵地帯で激突したアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍はマムルーク朝のバイバルス軍に破れた。10月、バイバルスが、再びシリアを奪還すると、クトゥズを廃位してスルタンに成った。

・シムルトゥ・ノールの戦い/モンゴル帝国帝位継承戦争(1260-1264)
1260年、クビライはカラコルムへの輸出を差し止めるという経済封鎖を行いながら、カラコルムに進軍し、アリクブケをさせた。しかし、11月に成るとアリクブケは、再び挙兵し、シムルトゥ・ノールの戦いを行うが、あっけなくクビライ軍に敗北し、ゴビ砂漠以北に撤退した。その後、クビライはチャガタイ家の本拠地であるイリ渓谷を占領したが、63年にイリ渓谷で飢饉が起こると、アリクブケ軍は完全に解体し、翌64年にアリクブケはクビライに降伏し、モンゴル帝国帝位継承戦争が終了した。

・イルハン朝建国
1260年秋、フレグは帰路の途上で次兄クビライと弟アリクブケによる帝位継承戦争が始まったことを聞くと、イラン北西部のタブリーズを本拠地としてイルハン朝を開いた。

・リトアニア王国の同盟破棄
1260年、ドイツ騎士団によるリトアニアのジェマイティヤ征服が始まると、ジェマイティヤ公で、ミンダウガスの甥・トレニオタがドゥルベの戦いでドイツ騎士団を破った。翌年、トレニオタはミンダウガスにドイツ騎士団との同盟解消させ、キリスト教を破棄させた。戦闘を促した。その後、ミンダウガスは、再びドイツ騎士団と対立すると、63年にトレニオタによって暗殺される

・ラテン帝国の滅亡
1261年、父ジャン・ド・ブリエンヌが死去し、ボードゥアン2世がラテン皇帝に即位すると、ニカイア帝国やブルガリアの侵攻を食い止める事が出来ず、終にニカイアの共同皇帝ミカエル8世によって首都コンスタンティノポリスは陥落し、ボードゥアン2世はイタリアに亡命したため、ラテン帝国は消滅した。

・東ローマ帝国の再興/パレオロゴス王朝(1261-1453)
1261年、ミカエル・パレオロゴスはエピロス専制侯国・ブルガリア帝国・アカイア公国などからなる反ニカイア連合軍を、前年のペラゴニア合戦で破ると、次にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を再興し、パレオロゴス王朝を開いた。

・カイロ・アッバース朝の樹立
1261年、マムルーク朝第5代スルタン・バイバルスはアッバース朝最後のカリフの叔父を保護し、カイロでアッバース朝を再興すると、彼をカリフ・ムスタンスィル2世に即位させた。8月、バグダードにカリフの政権を復活させるためダマスカスに行き、ムスタンスィル2世に護衛を付けて送り出したが、ユーフラテス川付近で、モンゴル軍に殺害された。その後、ハーキム1世がカリフ位を継承した。

・ベルケVSフレグ戦争
1262年、イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配をめぐってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ケペルと対立し、両政権は争い始めた。

・リトアニア王国の消滅
1263年、ダウマンタスとトレニオタによってリトアニア国王ミンダウガスは暗殺され、64年にはトレニオタが新大公に即いたが、シュヴァルナスの支援によって、ミンダウガスの息子ヴァイシュヴィルガスはトレニオタ達を破って、リトアニア大公に即位すると、再びドイツ騎士団と同盟を結んだ。

・第2次バロン戦争(1263-1265年)
1263年、レスター伯シモン・ド・モンフォールは、オックスフォード条項を破棄したヘンリー3世に対して挙兵した為、第2次バロン戦争が勃発し、ルイスの戦いに於いてヘンリー3世親子が捉えられると、シモンがイングランドの実権を握った。65年には息子のエドワード1世が脱走し、イーブシャムの戦いでレスター伯を戦死させた。

・チャガタイ・ハンの再統一
1264年、クビライがアリクブケに勝利すると、チャガタイ・ハン国の第5代君主アルグは、アリクブケ勢力から全チャガタイ家領を奪還した。

・サハラ交易都市シジルマサの占領
1264年、ベルベル人王朝ハフス朝はザイヤーン朝のヤグムラーサンからトレムセンとシジルマサというサハラ交易の中心地を占領され、やがて第8回十字軍に協力する

・ムデハル反乱--カスティーリャ王のレコンキスタ
1264年、カスティーリャ王アルフォンソ10世が、再びレコンキスタを再開すると、ナスル朝のムハンマド1世との関係が悪化し、アンダルスでイスラム教徒らの反乱が起きた。これにより、ナスル朝のムハンマド1世は、マリーン朝に援軍を要請しながら、アルフォンソ10世軍と戦った。

・リトアニア大公国の権力抗争/ポーランド遠征
1265年、リトアニア大公ヴァイシュヴィルガスは、義兄弟のホルム公シュヴァルナスと共に、ポーランド遠征を行った。67年、ヴァイシュヴィルガスは修道院生活に戻る為、シュヴァルナスに譲位した。その後、シュヴァルナスはヴォルガ・タタール人への遠征を決行し、成果を上げるが、リトアニアの権力闘争に巻き込まれ、69年にホルムで死去する。

・十字軍国家VSマムルーク朝
1265年、マムルーク朝はキプチャク・ハン、シチリア、ビザンツ帝国との同盟を結ぶと、十字軍国家への攻撃を本格化し、66年には聖ヨハネ騎士団の支配下にあるサファドを陥落させ、同年10月にはキプロス軍を撃退し、更にイルハン朝の同盟国キリキア・アルメニア王国を攻略し、平和協定を結ばせた。

・モンゴル諸国と東ローマ帝国の同盟
1265年、ミカエル8世パレオロゴスはマムルーク朝と対抗するため、イルハン朝のアバカと同盟を結んだが、ノガイ・ハーン率いるジョチ・ウルスにトラキアを略奪された。その為、ジョチ・ウルスとも同盟を結んだ。

・アシキールーラ家の反乱--ナスル朝の内紛
1266年、マラガでムハンマド1世に不満を抱いたアシキールーラ家が勃起すると、アルフォンソ10世はそれを支援した。その為、ナスル朝のムハンマド1世は再びカスティーリャ王国と和約を結び、アシキールーラ家をモロッコに追いやった。その後、カスティーリャ王国はアラゴン王国の支援を受けてイスラム教徒たちの反乱を鎮圧した。

・カイドゥの乱/チャガタイ・ハンの対立
1266年、チャガタイ・ハンのアルグが死去すると、これを好機と見たオゴデイ家のカイドゥはオルダ・ウルス当主コニチの協力を得てアルタイ山脈を越えてモンケ家のウルン・タシュのウルスを攻撃し、クビライに宣戦布告した。一方で、クビライは新たなチャガタイ・ハンのムバーラク・シャーと、その従兄弟のバラクを本拠地イリ川渓谷に派遣すると、バラクがムバーラク・シャーを廃位し、更にクビライに反抗して、カイドゥとマー・ワラー・アンナフルを巡って争った。

・ベネヴェントの戦い/タリアコッツォの戦い
1266年、ローマ教皇クレメンス4世の要請でフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューがイタリアに侵攻し、ベネヴェントの戦いでシチリア王マンフレーディを破った。2年後にはシチリア王位を求めて北イタリアに侵攻してきたコンラート4世の子コッラディーノをタリアコッツォの戦いで破ると、シチリア王に即位した。

・アンティオキア公国の滅亡
1268年、マムルーク朝のバイバルス軍はアンティオキア公国を滅ぼすと、翌年にはトリポリ伯国と休戦を結んだ。

・タラス会盟(反クビライ派)/ヘラートへ侵攻
1269年、バラクはカイドゥと反クビライ同盟を結ぶと、更にモンケ・テムルが加わり、三者でタラス河畔の会盟が行われた。それによって、マー・ワラー・アンナフルの3分の2をバラクに渡し、残りをカイドゥとモンケ・テムルが領有する事に成った。その後も、バラクは領地拡大を図り、ヘラートへ侵入した

・ムワッヒド朝の滅亡/マリーン朝のモロッコ支配
1269年、マリーン朝のユースフ・ヤアクーブはムワッヒド朝の首都マラケシュを攻略し、ムワッヒド朝を滅ぼしたが、大アトラス山脈のアラブ遊牧民や各地に封じられた王族たちの抵抗に手を焼いていた。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の仏---周利槃特

2018年09月27日 | 釈迦の教え
--最後の仏の話--


■なぜ、ミョウが食うと馬鹿に成るのか?
 お釈迦さまのお弟子さんに、チューダパンタカという方がいました。
漢訳仏典では周利槃特(しゅりはんとく)と呼ばれている方です。 この方はひじょうに物忘れがひどく、自分の正式の名前(たいへん長かったようです)すら覚えることができなかったと言います。

 この時代、お釈迦さまの弟子たちは、お釈迦さまの教えを、ガ-タ-という詩のかたちにして暗記します。一日に五つも六つも詩を暗記できる者もいれば、一日に、ひとつしか暗記できない者もいるといった具合に、みなそれぞれ自分の分に応じて修行をしていたわけです。

 お釈迦さまはチューダパンタカに「三業に悪をつくらず、諸々の有情をいためず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみはまぬがるべし」という詩を教えられました。

「悪いことを思ったり言ったりしないで、諸々の生命を損なわないで、どんなことにも執われなければ、つまらない苦しみなどどこかにいってしまうよ」という意味の詩でありますが、チューダパンタカにはなんとしても覚えられないのです。

兄のマカーパンタカは秀才の誉れが高く、お釈迦さまのお弟子となって進境いちじるしいものがありましたが、弟のチューダパンタカは、ただの一句すら覚えることができません。

何度も繰り返し教えてもらうのですが、最初に戻ると、もう後の句を忘れてしまう、後の句を覚えると、最初の句を忘れてしまう、といった調子で、いっこうに先に進みません。 

そんな状態でしたから、お兄さんのマハ-パンタカはとうとう面倒を見切れなくなって、チュ-ダパンタカに、「もうおまえは還俗しろ。仏教教団にいても、おまえは悟りなど開けないだろう」と言って、教団から追い出そうとします。

しかし、チュ-ダパンタカは、どうしても教団を去り難く、ひとり祇園精舎の門の前でしょんぼりとたたずんでいました。

そこへお釈迦さまが来られて、「チューダパンタカよ、どうしたんだね」と尋ねられました。

そこで、チューダパンタカは、「兄に、おまえはもう、仏教教団にいても見込みがないから、田舎へ帰れと言われま した」 と答えると、お釈迦さまは、「チューダパンタカよ、わたしについておいで」 と、チューダパンタカを連れていき、これで「除垢・除垢」といって掃除をしなさいとほうきを与えました。

チューダパンタカはお釈迦さまに見守られ「塵を払い、垢(あか)を除かん」と念じつつ掃除を続け、ついに佛意を体得したといいます。

お釈迦さまに呈したチューダパンタカの悟りの言葉は「除とはこれ慧を謂い、垢とはこれ結をいう」。いわゆる彼は「自己をあざむかず人をあざむかず、ただまごころ、誠実一片で煩悩の塵を払った」とその瞬間、チューダパンタカは悟りが開けた -- と、このように言われています。

チューダパンタカが塵を払い、垢を除くことができたのは、純真でひたむきな智慧がそうさせたのであって、要領の良い知恵ある者にはとうてい真似のできないところでしょう

やがて、チューダパンタカは教団を率いる仏に成った。そして、涅槃に入ると、その墓から茗荷が生えてきました。

この逸話から、「茗荷を食べると馬鹿に成る」と言われる様になり、また、天台宗では摩陀羅神の神紋に抱き茗荷を使っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Javascriptの超入門編19-DOMツール

2018年09月27日 | JavaScript
DOMツールについて

【開発環境】
OS;Window10
Webブラウザ:Google Chrome
テキストエディタ:Brackets

DOMの基本を学ぶ


【DOMとDOMツリー】
DOM(Document objct Model)は、プログラムからHTMLのエレメント(要素)を操作する仕組みのことで、そのDOMから見たHTMLファイルの階層構造の事をDOMツリーという。また、DOMツリーの各要素のことをノードと呼ぶ




【Windowオブジェクト】
Windowオブジェクト→ JavaScript のオブジェクト階層の最上位に位置し、画面上に表示されているすべてのオブジェクトの親となるオブジェクトで、「グローバルオブジェクト」と呼ばれる。

書式
Window.変数
Window.関数()

例文


【documentについて】
・documentはWindowのプロパティであるため、Webページに文字列を表示するには→documentのwrite()メソッド使う必要がある。
window.document.write("

こんにちは

);と書くとエラーが表示される。window.は省略するのが常識である。


【エレメントノードとテキストノード】
シンプルなHTMLファイルと、そのDOMツリーの対応

ノードのタイプには、エレメントを管理するエレメントノードと、テキストを管理するテキストノードがある。
・HTMLタグ→エレメントノード
・表示される文字列→テキストノード

その他のノード


【DOMツリーからノードを取得する】
1)ノードをid属性で取得する
エレメントのid属性でエレメントノードをエレメントオブジェクトとして取得する方法
→getElementById(id)メソッドを使い、id属性のノードをエレメントオブジェクトとして返す。
例文
<body>
<p id="myP">こんにちは<b>JavaScript</b></p>
<script>
var myP = document.getElementById("myP");
//childNodes[0]は最初の子ノード、nodeValueは値;こんにちは
console.log(myP.childNodes[0].nodeValue);
//<b>エレメントの場合
console.log(myP.childNodes[1].firstChild.nodeValue);
</script>
</body>
結果


2)タグ名でノードを取得する
HTMLのタグ名でエレメントノードを取得するには、getElementsByTagName()メソッドを使う。
例文


実行結果


【HTMLの属性を操作する】
HTMLエレメントでは、タグの種類に応じた属性が設定できる。例えば、imgエレメント(<img>タグ)は、src属性でイメージファイルを指定する。
・フォルダー構成


・スクリプト「rndImag1.html」
<!DOCTYPE html>
<html lang="ja">

<head>
<meta charset="utf-8">
<title>JavaScriptのテスト</title>
<style>
#main {
width: 500px;
margin: 0 auto;
position: relative;
}
</style>
</head>
<body>
<div id="main">
<h1 style="text-align:center;">今日のイメージ</h1>
     //srcは画像ファイルがある場所を指定、
<img id="myImage" width="500" height="333" src="images/img00.jpg">
</div>
<script>
var images = ["img0.jpg", "img1.jpg", "img2.jpg",
"img3.jpg"];
// イメージをランダムに取り出す
var tImg = images[Math.floor(Math.random() * 4)]; //ランダム関数
// イメージエレメントを取得
var myImage = document.getElementById("myImage");
// src属性にイメージを設定
myImage.src = "images/" + tImg;
</script>
</body>
</html>

実行
初め

リロードする度に画面が変わる


【便利なinnerHTMLプロパティ】
エレメントの内部のHTMLを文字列として、取得したり、変更したりするときに便利なプロパティとして
innerHTMLがある
変更前
<p id="myP">こんにちは<b>JavaScript</b></p>
変更後





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毒矢のたとえ

2018年09月25日 | 釈迦の教え
〔毒矢のたとえ〕仏教で有名な教え


「マールンキャープッタよ、たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。

もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったり、

またもしかれが、『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

またもしかれが、『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、

マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。

マールンキャープッタよ、
これとまったく同様に、『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、『生命と身体とは同一である』とか、

『生命と身体とは別異である』とか、『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、

世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、という人がおれば、マールンキャープッタよ、世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう



マールンキャープッタよ、
『<世界は永遠である>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのは正しくない。

マールンキャープッタよ、
<世界は永遠でない>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのも正しくない。『世界は永遠である』という見解があっても、『世界は永遠ではない』という見解があっても、しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。

わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Javascriptの超入門編18-Objectオブジェクト

2018年09月21日 | JavaScript
Objectオブジェクトでデータ管理


【開発環境】
OS;Window10
Webブラウザ:Google Chrome
テキストエディタ:Brackets

【Objectオブジェクトの概要】
JavaScriptのオブジェクトはプロパティとメソッドの集合体から成ってる。また、JavaScriptには、すべてのオブジェクトの元となるObjectオブジェクトがある。Objectオブジェクトを使用すると、データをプロパティと値をペアで管理できる。

1)Objectオブジェクトのインスタンス化
書式
ver 変数名 = {
 //オブジェクトリテラル
プロパティ1:値1,
プロパティ2:値2,
プロパティ3:値3,
プロパティ4:値4,
};

2)プロパティへのアクセス
ⅰ.変数名.プロパティ
ⅱ.変数名["プロパティ名"]

例文



3)プロパティの追加/削除
Objectオブジェクトは、ミュータブルなオブジェクトなのでプロパティの追加と削除が可能
・追加の書式
変数名.プロパティ = 値;
or
変数名["プロパティ"] = 値;

例文-追加

例文-削除


4)プロパティを持っているかを調べる
・プログラム実行

・値入力

・結果


5)プロパティと値のペアをすべて表示には
for~in文
書式
for(変数 in オブジェクト){
  処理


注意、for~in文では、変数に文字列が格納されるが、その時、必ず[]の書式でプロパティを指定する必要がある

6)Keys()メソッドを使って、すべてのプロパティを取得する


7)Objectオブジェクトにメソッドを登録する


8)Objectオブジェクトにメソッドを追加するには


9)オブジェクトリテラルを階層化する
書式
var 変数名 = {
"顧客番号1":{

},

"顧客番号2":{

}
};




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする