職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

仏教の流れーその3

2011年12月12日 | アート・文化
日 本 仏 教 史

◆平安時代の概略
南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・ 華厳宗)が勢力を拡大し、更に神は仏の化身であるとする本地垂迹説を唱え、神像が僧侶の形で制作され始めた。

そして、僧侶たちは戒律を破り、政治に口出す様に成って来た。これらに対抗する為に、桓武天皇は平安京に都を移し、空海及び最澄を遣唐使として中国に派遣し、密教を学ばした。

空海の真言密教→人間は生まれつき汚れた存在では無いとする自性清浄思想
最澄の天台密教→人間は誰でも真実を悟っていて仏になれるとする本覚思想

奈良仏教は権力・政治に利用された都市仏教⇔平安仏教(密教)=山岳に道場を求める山岳仏教加持祈祷を行なって貴族社会に現世利益をもたらす貴族仏教

平安中期には末法思想が広がり、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰が始まった。そして、極楽浄土を願って宇治に平等院を建立した。末期には、社会不安が増大して治安が悪くなり、大きな寺院では武装集団である僧兵を作った。

その為、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団と成って行き、社会は益々混乱した。

【平安初期】

◆新仏教の密教(タントラ仏教)が起る。

794年
桓武天皇によって現在の京都府京都市に遷都して平安京を築いた。また、東北地方を侵略し蝦夷を服属させる為に、大伴 弟麻呂を征夷大将軍に任じて攻めさせた。

797年
弟麻呂を補佐役の坂上 田村麻呂を征夷大将軍に昇格させると、801年に陸奥に遠征し、胆沢地方(いざわ)を越えて閉伊地方の蝦夷を制圧して帰京した。

802年
再び、陸奥に遠征して胆沢城を築くと、蝦夷の指導者アテルが降伏した為、京に連れ帰り、処刑すると、翌年には盛岡のハズレに志波城を築いた。

804年
三度目の田村麻呂の遠征は藤原 緒嗣によって中止された。また、軍団兵士制から健児制と変わり、やがて国衙軍制と成って武士が誕生のきっかけと成って行った。翌年、徳政相論により天皇が蝦夷平定と平安京の建設の中止の詔が発布された。

805年
昨年、義真・空海と共に唐に派遣された最澄が帰国した後、密教教化霊場である能福護国密寺を開創し、天皇の病気平癒を祈る。

806年
天台教学(止観業と遮那業)・戒律・密教・禅の4つの思想を学んだ最澄が年分度者に認められ、天台宗の開宗を正式に許可され、比叡山に大乗戒壇を設立した。

また、この年に、桓武天皇が崩御すると安殿親王が平城天皇に即位し、追放されていた皇后の母の藤原薬子を呼び戻し、女官尚侍にした。その為、兄の藤原仲成と共に専横を極めた。

807年
藤原宗成の陰謀より、伊予親王の変が発覚して藤原吉子・伊予親王の母子が処罰された。その後、藤原仲成は右兵衛督・右大弁と要職を歴任した。

809年(二所朝廷)
藤原が北陸道観察使に任ぜられて公卿になると、平城天皇は病気の為、神野親王に譲位し、自分は太上天皇と成り、神野親王を嵯峨天皇にした。翌年、薬子の変を起こして返り咲きを計った。

810年
嵯峨天皇は蔵人所・検非違使などの新しい役職(令外官)を設け上皇に立ち向かった。また、仲成を処刑した事で挙兵した平城上皇軍を坂上田村麻呂に制圧された。

その後、平城上皇は出家し、藤原薬子は自殺した。更に、高岳親王を皇太子から外し、臣籍降下を望んでいた大伴親王を皇太子に立てた。

一方、最澄によって入朝した空海が嵯峨天皇の勝利を祈願して大祈祷を行った。811年には乙訓寺の別当(副住職)を務めた。

812年
空海は高雄山寺(神護寺)に金剛界結縁灌頂や胎蔵灌頂(かんじょう;洗礼)を出来る場所を設けると、真言宗を開いた。また、最澄が弟子入りするが、その後『理趣経』をめぐって空海と対立する。

814年
嵯峨天皇の七男の信が臣籍降下して弟の弘・常と共に源朝臣の姓を賜与された。翌年には、空海が四国遍路を開拓した。

816年
空海は嵯峨天皇から修禅の道場として高野山を賜り、弟子の泰範や実恵らに命じて開山させた。3年後には伽藍(金剛峯寺)が築かれ始めた。

822年
太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立し、平城上皇に潅頂を授けると、南都6宗と対立する。また、最澄が56歳で入滅した

823年
17年から7年連続で干害などの被害を受けた為に財政が逼迫した。更に嵯峨天皇が大伴親王に譲位した為、上皇が二人に成った。退位後は冷然院嵯峨院を造営して財政を逼迫させた。

その為、墾田永年私財法の改正を行い荒田開発を進め、公営田・勅旨田などの田地を設置した。一方では、空海が嵯峨天皇に潅頂を授けて東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教(東密)の道場にした。

824年
淳和天皇が即位すると、神泉苑で雨乞いの儀式を西寺の守敏と東寺の空海に競わせ、空海が勝利した為、高雄山寺を定額寺に昇格され、真言宗の僧侶から年分度者を出す事が出来た。

826年
皇太子を退いて、嵯峨上皇の子の正良親王を皇太子推薦した恒世親王が22歳で病死した。

828年
空海は東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設した。これにより、庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校を設けた。

830年
空海は淳和天皇の勅により、『秘密曼荼羅十住心論』・『秘蔵宝鑰』を献上した事で奈良仏教の南都六宗より上位に立った。832年には高野山で衆生救済の為の万燈華会を行なった。

833年
淳和天皇が譲位して、皇太子であった嵯峨上皇の第2皇子が仁明天皇に即位しました。35年、空海(62才)が余命を察し、内裏真言院(密教の道場)で後七日御修法を行い、金剛定に入定した。そして、高野山の金剛峯寺が定額寺に昇格した。

東寺を実慧、金剛峯寺を真然、神護寺を真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺を聖宝、円成寺を益信に分け与え、これらの寺院に年分度者を許した。

840年
淳和上皇が崩御し、42年に嵯峨上皇が病に伏すと、藤原良房によって承和の変が図られ、恒貞親王が皇太子を廃され、伴健岑・橘逸勢たちが流罪されて、道康親王(文徳天皇)が皇太子に成った。

850年
仁明天皇が崩御して文徳天皇が即位すると、藤原 良房正二位まで上り詰め、初めて皇族以外で摂政の座に付いた。また、続日本後紀を編纂した。

856年
文徳天皇は藤原良房を太政大臣に任じ、翌年の57年に崩御する。そして、藤原良房によって惟喬親王が退かれ、4男の惟仁親王を清和天皇に即位させた。

866年
応天門が放火炎上事件が起きて、伴善男が源信に濡れ衣を着せた応天門の変が起きた。しかし、藤原 基経によって源信が無実とされ、伴善男が流罪・連座した大伴氏紀氏が大量に処罰され、良房に摂政宣下の詔を下した。また、貞観格式を完成させて71年に死去した。

876年
清和天皇は9才の長男、貞明親王に譲位して陽成天皇に即位させると、2年後に出家して仏寺巡拝の旅に出て、苦行を重ね。80年に円覚寺で崩御した。

883年
陽成天皇は乳母の子の源益(みなもとのすすむ)を殴殺したとして摂政の藤原 基経によって廃位された後、仁明天皇の三男が光孝天皇に即位する。そして、基経を関白にし、すべての子女を臣籍降下させると、87年に崩御した。

887年
基経の推薦で父光孝天皇の7男の定省親王が宇多天皇に即位し、基経も関白を退いた。そして、再び基経を関白に任命しょうとした時、阿衡事件が起きて政治が大混乱した。

翌年に左大弁の橘広相が責めを負って解任され、藤原 基経の傀儡政権が誕生した。また、勅願寺として仁和寺を完成させた。

891年
藤原 基経が死ぬと、宇多天皇は摂政を置かずに、源 能有や学者の菅原道真平季長らを起用して親政を行い、各種政治改革を行った。94年、遣唐使は停止された。

896年
造籍、私営田抑制、滝口の武士の設置等、国司の権限を強化する改革を次々と行った。また、文化面でも日本三代実録・類聚国史の編纂や寛平御時后宮歌合なども行われた。

【平安中期】

897年
源 能有が死去すると、宇多天皇は敦仁親王に譲位させて醍醐天皇にさせた。そして、先帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣として親政を行なった。2年後、宇多上皇は出家し、仁和寺に入って法皇となった。

901年
昌泰の変が起き、醍醐天皇は菅原道真を大宰府に左遷させる。また、六国史の一つ日本三代実録を完成させた。03年に大宰府で道真は死去する。

905年(国風文化)
『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じて和歌を振興させた。更に、醍醐天皇は延喜格式を藤原時平に編纂させた。13年には宇多法皇によって亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」が開催された。

923年
醍醐天皇は相次ぐ皇太子の死去に伴い、道真の霊を諌める為に道真を左大臣に任じたが、30年に内裏の清涼殿が落雷に見舞われて3ヶ月後に崩御した。そして、9才で朱雀天皇が即位し、伯父の藤原 忠平が摂政と関白を務めた。

935年(承平・天慶の乱)
平氏の姓を受けた平高望の孫の平将門が関東で反乱を起こして新たな朝廷を造り、新皇に即位したが、2ヶ月で藤原秀郷・平貞盛らに討伐された。

936年
伊予掾の藤原純友が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、瀬戸内海全域と太宰府を手中に収めたが、2年後に小野 好古によって長崎で討伐された。

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仏教の流れーその1

2011年08月02日 | アート・文化
日 本 仏 教 史

◆日本古来の信仰

・森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する神道が行われて来た。神道は神話に登場する神々のように、地縁(地域コミュニティ)・血縁(親族)などで結ばれた共同体(部族や村など)を守る事を目的とする信仰。

・古神道;神を祀る自然崇拝→神道;万物に宿る精霊を崇拝対象とするアニミズムとシャーマニズム(巫女)→祖先崇拝→天皇→国家→儀式主義。

◆仏教伝来(古墳時代)

537年
蘇我氏の計らいにより百済の聖明王から欽明(きんめい)天皇に仏教が伝えられた。神武天皇から数えて第29代目の天皇である。

欽明天皇は物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)から強く反対されたので蘇我大臣稲目に金銅の釈迦仏と教典を授けた為に、稲目は向原の家を寺として安置した。これが日本最古の向原寺である。

570年
国内で疫病が流行したのを機に、物部尾輿らによって向原寺が焼き払われ、仏像は難波池(難波の堀江)に投げ捨てられた。そして、後に信濃の国の本多善光に拾われ、善光寺が創建された。

584年
百済から来た鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連らが、石像の弥勒菩薩と仏像を敏達天皇に献上した。そして、大臣の蘇我 馬子がそれをもらい受けた。その後、高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。司馬 達等の娘を恵便に出家させ善信尼にした。

その後、馬子の屋敷に弥勒仏を安置して、恵善尼・禅蔵尼の二人の弟子と共に斎会(仏教儀式)を行なった。

585年
物部守屋による廃仏運動により法衣を奪われて全裸にされ、群衆の目前で鞭打たれ、仏塔は壊され、仏殿は焼き払らわれ、仏像は海に捨てられた。しかし、疫病は納まらず天皇も病に伏した。天皇は馬子だけ、仏教崇拝を許した。

587年
用明天皇が病気を機に、仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させた。用明天皇が崩御すると、物部守屋と蘇我馬子が戦い。蘇我馬子が勝利して、崇峻天皇が即位する。

588年
崇峻天皇のもと、仏教の拠点である寺院法興寺(飛鳥寺)が蘇我馬子によって飛鳥の真神原に建てられた。これにより、日本初の正式な僧侶寺が誕生する。

◆国家宗教としての仏教(飛鳥時代)

593年
崇峻天皇が馬子によって暗殺された後、日本初の女帝推古天皇が即位した。更に、聖徳太子が蘇我氏の勝利を祈願して彫った四天王を安置するための寺、四天王寺が摂津難波の荒陵(あらはか)に建てられた。

595年
高句麗の僧の慧慈が渡来して聖徳太子に仏教を教えた。翌年に法興寺(釈迦如来)が完成すると、百済の僧慧聡を住職して仏教の拠点にした。600年には第一回目の遣隋使が随に派遣された。

601年
病気平癒の為に伽藍建立を発願した用明天皇の意思を継いで聖徳太子が、斑鳩の地に薬師如来坐像を安置する法隆寺を建立し始め、607年に完成させた

604年
聖徳太子が冠位十二階・十七条憲法を制定した。そして、憲法の中で三宝(仏・法・僧)を敬う事を記した。更に、3年後の遣隋使に小野妹子が任命され、随から外交官の裴世清を連れ帰ってきた。

629年
推古天皇が崩御した為、蘇我蝦夷が田村皇子を舒明天皇に即位させた。そして、翌年には舒明天皇は遣唐使(犬上御田鍬)を始めて、唐から多くの先進的な技術や仏教の経典を収集した。

636年
この年から、災難が続いた。火災で岡本宮から田中宮に遷都したり、干ばつで飢饉が起き、更に蝦夷の反乱が起きた。

638年
舒明天皇は、聖徳太子(622年)の遺言に従って岡本宮を寺に改築した法起寺の金堂に着工した。39年には、聖徳太子が建てた熊凝精舎を百済川の畔に移して本格的な国家寺院である百済大寺を建てた。

642年
舒明天皇が崩御すると、女帝の皇極天皇が即位する。翌年の3年には、蘇我入鹿が山背大兄王を攻めて自害させた。

645年
大化の改新が起こり、中大兄皇子が蘇我入鹿・蝦夷の親子を殺害した為、皇極天皇が皇位を孝徳天皇に譲った。そして、年号を大化に改め、仏教を擁護して僧の旻らを十師に選んだ。

東国に国司を置いて戸籍と田畑の検地・蝦夷に対する柵戸を設けた。また、冠十九階や八省百官を制定する。50年には、長門の国司が白いキジを献上して年号を「白雉」に変えた。653年に旻法師を冤罪を着せられた石川麻呂の菩提寺、山田寺に安置した。

655年
孝徳天皇が崩御すると、再び皇極天皇が飛鳥板蓋宮で即位した。そして、名を斉明天皇と名乗った。その後、火災が続いて板蓋宮→鳥川原宮→岡本宮と遷都した為、飛鳥寺の西に須弥山の像をにつくって盂蘭盆供養を行なった。

658年
僧の智通と智達が唐に渡り、玄奘三蔵に弟子入りして中国法相宗を伝えた。最初は法興寺の道昭に継いで二番目である。日本で初めての仏教は、後に南都六宗の一つ法相宗と呼ばれる様に成る。

659年
阿倍比羅夫に蝦夷を討たせる為、秋田と青森に進軍された。更に、北海道の羊蹄山まで軍を進ませ、粛慎を討伐させ、7月に盂蘭盆会を開かせた。

660年
仁王般若会を行うと、中大兄皇子が漏刻(水時計)を献上した。また、百済が滅んだ為、鬼室福信を百済に帰国させ復興を試み、翌年の61年に朝倉橘広庭宮で崩御した。

663年
中大兄皇子が即位せずに称制(しょうせい)と成って唐・新羅連合軍と戦う(白村江の戦い)。その後、大敗して博多湾から大宰府に水城・北部九州沿岸に防人を設置・北九州から瀬戸内海沿岸にかけて古代山城を築いた。

669年
中大兄皇子は都を難波の飛鳥京から、琵琶湖の近江京へ遷都させて防衛網を完成させた後、天智天皇に即位した。そして、実弟の大海人皇子を皇太弟(次期天皇)し、息子の大友皇子を史上初の太政大臣にした。その為、大海人皇子が王位継承を辞退した。

◆鎮魂仏教・神道国家(白鳳時代)

671年
天智天皇が崩御すると、大友皇子が弘文天皇に即位するが、大海人皇子が壬申の乱を起こして天武天皇に即位すると、72年には、再び都を飛鳥の地(飛鳥浄御原宮)に戻して、中央集権制を強める為に八色の姓・飛鳥浄御原令を制定し、皇親政治に取り組んだ。

673年
山田寺が完成して丈六仏開眼供養を行った後、自分の娘の大来皇女伊勢神宮の斎王(巫女)としたり、父(舒明天皇)が創建した百済大寺を移して高市大寺とするなどして、神道を基盤とし、仏教を国家鎮魂の為だけに利用し、寺から領地を取り上げた。

679年
天武天皇は皇后・6人の皇子との間で吉野の盟約を交わした後、皇后が病気と成った為、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。二年後、草壁皇子を皇太子に定めた。

686年
天武天皇が崩御すると、大津皇子が反乱を起こしたとして皇后に殺された。そして、殯の期間を長く取った為、89年に草壁皇子が死んだ為に皇后が持統天皇に即位し、天武天皇の意志を継ぎ、薬師寺を完成させ、寺の領地を認めた勅願寺に指定した。

694年
飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都した。96年に太政大臣の高市皇子が死んだ為、翌年の97年に皇位を草壁皇子の子の軽皇子に譲り、文武天皇に即位させると、持統天皇は初の上皇と成った

701年
文武天皇は本格的な刑法・民法・行政法を整えた大宝律令を発布し、冠位制を改め、新たに官位制を設けた。天皇を中心とする二官八省の官僚機構が作られた。翌年、持統上皇が死去すると、初めて火葬された。

707年
文武天皇が25歳で崩御すると、母(草壁皇子の正妃)が元明天皇に即位すると、藤原不比等が政治の実権を握った。

708年
元明天皇は、埼玉県秩父市の聖神社に和同開珎(銅貨)が献じた。

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仏像の見方

2011年03月10日 | アート・文化

【ヒストリア】

彫った!祈った!戦った!
~乱世のトップランナー運慶~

■仏師・運慶とは
平安時代末期 - 鎌倉時代初期の頃、平清盛の五男の平 重衡(たいら の しげひら)が各地で乱を起こす。その時に南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。

その後、奈良市・興福寺を拠点に復興造仏が湧き起こり、その中心人物として奈良仏師・康慶が居た。運慶は、その康慶の子として生まれ、父が作った慶派を継いで様々な仏像造りの改革に乗り出した。

運慶は、仏像の目に「目力」を与える為に、今までの「彫眼」から水晶を利用した「玉眼」に変えたり、仏像の体内を彫った後に水晶を埋め込んだ。

更に、坂東武士と手を結んだ事で荘厳で穏やかな表情の仏像が、筋骨隆々として荒々しい姿になり、リアル性を追求する様に成って来たと共に、これまでの京仏師達は衰退して行った。

その後、運慶は東大寺南大門の仁王像をにまかさられ、快慶、定覚、湛慶らをはじめとする仏師100人を引き連れて2ヶ月で製作した。そして、その功績から法印を与えられた。

■仏師・運慶の作

  • 興福 寺西金堂本尊釈迦如来
  • 願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像
  • 円成寺の阿弥陀如来坐像、大日如来座像
  • ■仏像の流れ
    ・飛鳥時代→法隆寺金堂の釈迦三尊像
    渡来人の止利仏師によって作られた作品で、中国,朝鮮風であった。

    特徴として、①頭上の宝冠が3つに蓮弁状に分けられる。②垂髪が蕨手状に巻き上がり肩にかかる。③目が杏仁形をしている。④天衣の裾が魚鰭状に巻き上がり左右対称に成っている。また、一般の人には拝見できない

    ・奈良時代→盧舎那大仏(鋳造)
    この頃に成ると、力強くリアルな仏像が求められ、その力によって民衆の心を掴もうとしていた。

    ・平安・中期→木造仏像(一木造り)
    リアルで、個性にあふれた仏像が作られる様に成ったが、一本の木から彫られる為に時間が掛かった。

    ・平安・後期→木造仏像(寄木造り)
    定朝(じょうちょう)によって寄木造技法が開発されると、仏像が大量生産出来るようになった。また、彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情や、平明で優雅な仏像が貴族に受け入れられた。

    ・鎌倉時代→木造仏像(寄木造り)
    武士の時代に成ると、大胆に技巧を凝らした慶派の奈良仏師・運慶が受け入れ始めた。現在では海外でも認められ、運慶作の大日如来が13億円で売られた。

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    大乗メモ1

    2008年11月02日 | アート・文化

    『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)について
    #インド古代信仰(前1500~)
    インド人は人生は苦であり、人は四季の様に輪廻転生するものと考えていた。その為、そこから解脱する方法として古くからタントラ信仰があった。

    タントラ教とは男性性器や女性性器を祀り、性のエネルギーを利用して儀式を行いながら神と一体になり、宇宙の最高真理を悟ろうとする民族宗教。この頃、自分では気付かないものの、人の肉体にも神が宿っていると考えられていた。

    #バラモン教(前800年~)
    アーリア人がインダス川流域から進出して、梵我一如論を唱えるヴェーダの宗教(バラモン教)が誕生し、カースト制度が成立した。
    そのバラモンの力が大きくなるにつれ、その祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が生まれ、やかて、ヴェーダやウパニシャッド哲学などの認識論的なすべての束縛から、瞑想などの修行をもって、解脱を求めてる沙門が現れる様になった。それが六師外道(唯物論、七要素説、 道徳否定論、決定論、懐疑論、相対論)と呼ばれる者達で、釈迦もその一人であった。

    #初期仏教(前463年~ 前283)
    インドは16国に分裂していた時代、現在のネーパルに生まれたゴータマ・シッダッタ(釈迦;前463年 - 前383)により仏教が誕生した。

    釈迦は当初、バッカバ仙人・アーラーラ・カーラーマ仙人・ウッダカラーマ・プッタ仙人の下で修行するが悟りを得られないと、5人の比丘と共にウルヴェーラの林で苦行をするが、人生の苦を根本的に解決する事は出来ないと悟って難行苦行を捨てると共に5人の比丘と別れ、ガヤー村のピッパラ樹の下で瞑想に入り、悟った。

    その後、サルナート(鹿野苑)にて、5比丘に十二因縁を説いて四諦ハ正道の実践を説いた。やがて、耶舎(十事非法)や富楼那などを次々と教下していく中、教団が急に大きく成ったのは事火外道の三迦葉と言われる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。

    ついでに王舎城に行き、ビンビサーラ王を教化し、王から竹林精舎を寄進られる。ほどなくすると釈迦の所に、後に高弟となる舎利弗(しゃりほつ)・摩訶目?連(もくれん)・摩訶迦葉が加わった。元々、舎利弗・摩訶目?連は懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であった。

    #初期仏教時代、釈尊入滅直後(前383~前282)
    マガダ国ではシシュナーガ朝からナンダ朝に変わる頃、摩訶迦葉の下で阿難によって第一結集が行なわれる様になり、この後100年間だけ、教団は一枚岩であった。

    時代としては
    紀元前317年ナンダ朝はシュードラであるとバラモン教の知識人達に嫌われ、これに反旗を翻したチャンドラグプタにより、マウリヤ朝が建てられた。

    チャンドラグプタはガンジス川流域を支配した後、紀元前323年にアレクサンドロスがに死去すると共にインダス川流域も支配した。

    また、紀元前305年、ディアドコイ戦争の最中にセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばしたが、チャンドグプタにより制圧される。さらに、紀元前293年頃チャンドラグプタが死去し、息子ビンドゥサーラが王となる。

    #部派仏教時代、釈尊入滅100年後(前283~前182)
    紀元前259年頃、マウリヤ朝アショーカ王が南方のカリンガ国への遠征をして、多くの死者を出し悲惨を極めた為、仏教に帰依して仏教を保護した。

    またアショーカ王は根本分裂の仲裁に入ったが、止める事が出来ずにアショーカ王の下、戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われ、大衆部と上座部に別れる根本分裂が起きた。

    #部派仏教時代、釈尊入滅200年後(前183~前82)
    またアショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。その後、大衆部及び上座部がそれぞれ枝末分裂を起こす。

    先ず始に大衆部が一説部・説出世部・鶏飲部の3部派が分派した。
    更に多聞部・説仮部が分派し、最後に制多山部・西山住部・北山住部が分派して、大衆部系は本末合わせて9部派となった。

    この時代はマウリヤ朝最後の王ブリハドラタが暗殺され、将軍プシャヤミトラ・シュンガによってシュンガ朝(前180~前63)が建国され、仏教教団を弾圧してバラモン教の復興が進められた。

    シュンガ朝にとって驚異となる勢力が現れる。中央インドではウィダルパ国・北西インドにおいてはギリシア人勢力であった。

    #部派仏教時代、釈尊入滅300年後、(前83~16年)
    上座部からも枝末分裂が起こり、説一切有部・雪山部の2部が分派し、更に説一切有部から犢子部が分派する。また、更に犢子部から法上部・賢冑部・正量部・密林山部の4部派が分出した。

    また、説一切有部からは化地部が、化地部から法蔵部が分出し、更に、末には説一切有部から飲光部が分出した。

    この時代はシュンガ朝からカーンヴァ朝(前68年~前23年)に変わる。カーンヴァ朝も
    バラモン教を重視した。やがて、カーンヴァ朝もデカン高原で生まれたサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)に滅ぼされる。

    サータヴァーハナ朝の王たちは、ローマと盛んに貿易し、商業に力を入れると共に、
    バラモン教を信仰しながらも仏教やジャイナ教の発展にも寄与した。

    #部派仏教時代、釈尊入滅400年後(17年~116年)
    最後に説一切有部から経量部が派出して上座部系は合わせて11部、大衆部の9部と合計して20部派に及び、いわゆる小乗20部が誕生し、部派仏教時代が終わる。

    これらの部派はそれぞれに教義解釈の体系を整え、教・律・論の三蔵を成立させる。中でも説一切有部は迦多衍尼子(かたえんにし)によって、まとめられた教義「発智論」が注目され、有力視された。

    備考
    日本では倶舎論がその流れを受け継いでいる。また南方の上座部(小乗仏教)だけが、パーリ語の三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)を完全な形で伝えている。

    #部派仏教時代、釈尊入滅500年後(17年~116年)
    1世紀前後から、上座部系の部派は次第に思弁哲学的傾向を強まり、仏教の哲学的解釈は深まったが、同時に苦行による自己の開悟解脱が目的となり、また社会的栄誉を求める傾向も現れ、保守化・形式主義化が著しく、衆生救済という原始仏教の本義から離れる様になり、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一分派から、自己の開悟解脱の為で無く、大衆一般の救済を目的に説かれるべきであるとする大乗思想運動が起きた。

    この時代
    サータヴァーハナ朝が衰退して行き、中央アジアの大月氏から自立した貴霜翕侯(クシャーナ)がインダス川流域に進出してクシャーナ朝を築き始めた。

    #大乗仏教時代、釈尊入滅600年後(117年~216年)
    大乗思想運動が盛んに成り大乗仏教が生まれ、「般若経」を初めとする「華厳経」「維摩経」「法華経」「大無量寿経」「浄土経」などが編纂された。
    これらの経典は自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行と般若波羅蜜多を説いたものである。

    中でも「般若経」は呪術的な要素が強く、仏教がヒンズー化して行く密教の原因につながったものと思われている。

    これまでの部派仏教を小乗仏教と呼ぶ様になり、在家を中心として広く衆生を救いとるという仏教を大乗仏教と呼ぶようになった。

    2世紀中頃、
    クシャーナ朝カニシカ王ははその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。また、 サータヴァーハナ王朝の仏教美術にも影響を与え「アマラーヴァティー様式」が誕生した。

    #大乗仏教時代、釈尊入滅700年後(217年~316年)
    サータヴァーハナ朝の支配下のアーンドラ地方で仏教を学んだ龍樹(150‐250年?)によって、大衆部・上座部・上座部系説一切有部、さらには当時はじまった大乗仏教運動を体系化したともいわれ、特に大乗仏教の基盤となる『般若経』で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」であると論じて釈迦の縁起を説明し、大乗仏教を決定的なものとした。

    龍樹の教説は「中観派」によって発展され、大乗仏教は北西インドに伝わり、シルクロードを通じて中央アジア、中国、朝鮮、日本などへ伝播し、各地域に大きな影響を残した。経典としては「中論」「十二門論」「大智度論」がある。

    デカン高原から南インドを支配していたサータヴァーハナ朝は西北のサカ族との争いが続き、王国は衰亡、分裂を起こして、デカン地方はヴァーカータカ朝の勢力下に入り、東南部海岸地方ではパッラヴァ朝が誕生した。

    また、北西インドを支配していたクシャーナ朝もサーサーン朝ペルシア(国教;ゾロアスター教)によって滅ばされる。

    #大乗仏教時代、釈尊入滅800年後(317年~416年)
    320年、クシャーナ朝が衰退後、ガンジス河流域のマガダ地方(現ビハール州南部)にグプタ朝が起きる。そして、グプタ朝はナガ朝や、ヴァーカータカ朝らと手結び、サカ朝の西クシャトラパを滅ぼして北インドを統一した。

    グプタ朝は君主制を強化し、ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にしたが、他の宗教も保護した。

    大乗仏教は無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟により完成され、兄弟の開いた唯識派と龍樹の開いた中観派とともに大乗仏教の2つの流れを形成した。

    #大乗仏教時代、釈尊入滅900年後(417年~516年)
    第4代クマーラグプタ1世の時、世界最古の大学であるナーランダ僧院が建てられた。

    この時代は純インド的な仏教美術(グプタ美術)や、二大叙事詩である「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」などが生まれ、マヌ法典も完成した。

    550年頃、グプタ朝は遊牧民エフタル(フン族)の侵入によって衰退し、一度は復活したが小地域の支配者層が独立して北インドは分裂状態となった。

    #大乗仏教時代、釈尊入滅1000年後(517年~616年)
    グプタ朝が混乱していた中、606年にハルシャ・ヴァルダナによってプシュヤブーティ朝が建てられた。ハルシャは仏教に帰依しながらヒンドゥー教など諸宗教を保護した。

    この頃、西遊記で有名な玄奘三蔵法師がナーランダ寺院に訪れ、大乗仏教を学び、般若経を中国に持ち帰った。

    #密教時代、釈尊入滅1100年後(617年~716年)
    647年頃、ハルシャ王が死ぬと、ラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。俗に言うラージプート時代

    この頃、唐の僧義淨が訪れているが、仏教は密教化されヒンズー教と変わらなくなり衰退していった。
    この時代以降、インドでは仏教が消滅した。

    この後インドはプラティハーラ朝(778年~1018年)が起こり、北インドを支配して、イスラム勢力のシンド以東への進出をほぼ300年にわたって阻止した。

    世界遺産にもなっているカジュラホの寺院群を築いたことで世界的に知られるチャンデーラ朝が10世紀前半から13世紀末まで北インド、マディヤ・プラデーシュの東部、ブンデルカンド地方を支配した。
    以上

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