◆平安時代の概略
南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・ 華厳宗)が勢力を拡大し、更に神は仏の化身であるとする本地垂迹説を唱え、神像が僧侶の形で制作され始めた。
そして、僧侶たちは戒律を破り、政治に口出す様に成って来た。これらに対抗する為に、桓武天皇は平安京に都を移し、空海及び最澄を遣唐使として中国に派遣し、密教を学ばした。
空海の真言密教→人間は生まれつき汚れた存在では無いとする自性清浄思想
最澄の天台密教→人間は誰でも真実を悟っていて仏になれるとする本覚思想
奈良仏教は権力・政治に利用された都市仏教⇔平安仏教(密教)=山岳に道場を求める山岳仏教+加持祈祷を行なって貴族社会に現世利益をもたらす貴族仏教
平安中期には末法思想が広がり、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰が始まった。そして、極楽浄土を願って宇治に平等院を建立した。末期には、社会不安が増大して治安が悪くなり、大きな寺院では武装集団である僧兵を作った。
その為、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団と成って行き、社会は益々混乱した。
【平安初期】
◆新仏教の密教(タントラ仏教)が起る。
794年
桓武天皇によって現在の京都府京都市に遷都して平安京を築いた。また、東北地方を侵略し蝦夷を服属させる為に、大伴 弟麻呂を征夷大将軍に任じて攻めさせた。
797年
弟麻呂を補佐役の坂上 田村麻呂を征夷大将軍に昇格させると、801年に陸奥に遠征し、胆沢地方(いざわ)を越えて閉伊地方の蝦夷を制圧して帰京した。
802年
再び、陸奥に遠征して胆沢城を築くと、蝦夷の指導者アテルが降伏した為、京に連れ帰り、処刑すると、翌年には盛岡のハズレに志波城を築いた。
804年
三度目の田村麻呂の遠征は藤原 緒嗣によって中止された。また、軍団兵士制から健児制と変わり、やがて国衙軍制と成って武士が誕生のきっかけと成って行った。翌年、徳政相論により天皇が蝦夷平定と平安京の建設の中止の詔が発布された。
805年
昨年、義真・空海と共に唐に派遣された最澄が帰国した後、密教教化霊場である能福護国密寺を開創し、天皇の病気平癒を祈る。
806年
天台教学(止観業と遮那業)・戒律・密教・禅の4つの思想を学んだ最澄が年分度者に認められ、天台宗の開宗を正式に許可され、比叡山に大乗戒壇を設立した。
また、この年に、桓武天皇が崩御すると安殿親王が平城天皇に即位し、追放されていた皇后の母の藤原薬子を呼び戻し、女官の尚侍にした。その為、兄の藤原仲成と共に専横を極めた。
807年
藤原宗成の陰謀より、伊予親王の変が発覚して藤原吉子・伊予親王の母子が処罰された。その後、藤原仲成は右兵衛督・右大弁と要職を歴任した。
809年(二所朝廷)
藤原が北陸道観察使に任ぜられて公卿になると、平城天皇は病気の為、神野親王に譲位し、自分は太上天皇と成り、神野親王を嵯峨天皇にした。翌年、薬子の変を起こして返り咲きを計った。
810年
嵯峨天皇は蔵人所・検非違使などの新しい役職(令外官)を設け上皇に立ち向かった。また、仲成を処刑した事で挙兵した平城上皇軍を坂上田村麻呂に制圧された。
その後、平城上皇は出家し、藤原薬子は自殺した。更に、高岳親王を皇太子から外し、臣籍降下を望んでいた大伴親王を皇太子に立てた。
一方、最澄によって入朝した空海が嵯峨天皇の勝利を祈願して大祈祷を行った。811年には乙訓寺の別当(副住職)を務めた。
812年
空海は高雄山寺(神護寺)に金剛界結縁灌頂や胎蔵灌頂(かんじょう;洗礼)を出来る場所を設けると、真言宗を開いた。また、最澄が弟子入りするが、その後『理趣経』をめぐって空海と対立する。
814年
嵯峨天皇の七男の信が臣籍降下して弟の弘・常と共に源朝臣の姓を賜与された。翌年には、空海が四国遍路を開拓した。
816年
空海は嵯峨天皇から修禅の道場として高野山を賜り、弟子の泰範や実恵らに命じて開山させた。3年後には伽藍(金剛峯寺)が築かれ始めた。
822年
太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立し、平城上皇に潅頂を授けると、南都6宗と対立する。また、最澄が56歳で入滅した。
823年
17年から7年連続で干害などの被害を受けた為に財政が逼迫した。更に嵯峨天皇が大伴親王に譲位した為、上皇が二人に成った。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させた。
その為、墾田永年私財法の改正を行い荒田開発を進め、公営田・勅旨田などの田地を設置した。一方では、空海が嵯峨天皇に潅頂を授けて東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教(東密)の道場にした。
824年
淳和天皇が即位すると、神泉苑で雨乞いの儀式を西寺の守敏と東寺の空海に競わせ、空海が勝利した為、高雄山寺を定額寺に昇格され、真言宗の僧侶から年分度者を出す事が出来た。
826年
皇太子を退いて、嵯峨上皇の子の正良親王を皇太子推薦した恒世親王が22歳で病死した。
828年
空海は東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設した。これにより、庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校を設けた。
830年
空海は淳和天皇の勅により、『秘密曼荼羅十住心論』・『秘蔵宝鑰』を献上した事で奈良仏教の南都六宗より上位に立った。832年には高野山で衆生救済の為の万燈華会を行なった。
833年
淳和天皇が譲位して、皇太子であった嵯峨上皇の第2皇子が仁明天皇に即位しました。35年、空海(62才)が余命を察し、内裏真言院(密教の道場)で後七日御修法を行い、金剛定に入定した。そして、高野山の金剛峯寺が定額寺に昇格した。
東寺を実慧、金剛峯寺を真然、神護寺を真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺を聖宝、円成寺を益信に分け与え、これらの寺院に年分度者を許した。
840年
淳和上皇が崩御し、42年に嵯峨上皇が病に伏すと、藤原良房によって承和の変が図られ、恒貞親王が皇太子を廃され、伴健岑・橘逸勢たちが流罪されて、道康親王(文徳天皇)が皇太子に成った。
850年
仁明天皇が崩御して文徳天皇が即位すると、藤原 良房が正二位まで上り詰め、初めて皇族以外で摂政の座に付いた。また、続日本後紀を編纂した。
856年
文徳天皇は藤原良房を太政大臣に任じ、翌年の57年に崩御する。そして、藤原良房によって惟喬親王が退かれ、4男の惟仁親王を清和天皇に即位させた。
866年
応天門が放火炎上事件が起きて、伴善男が源信に濡れ衣を着せた応天門の変が起きた。しかし、藤原 基経によって源信が無実とされ、伴善男が流罪・連座した大伴氏、紀氏が大量に処罰され、良房に摂政宣下の詔を下した。また、貞観格式を完成させて71年に死去した。
876年
清和天皇は9才の長男、貞明親王に譲位して陽成天皇に即位させると、2年後に出家して仏寺巡拝の旅に出て、苦行を重ね。80年に円覚寺で崩御した。
883年
陽成天皇は乳母の子の源益(みなもとのすすむ)を殴殺したとして摂政の藤原 基経によって廃位された後、仁明天皇の三男が光孝天皇に即位する。そして、基経を関白にし、すべての子女を臣籍降下させると、87年に崩御した。
887年
基経の推薦で父光孝天皇の7男の定省親王が宇多天皇に即位し、基経も関白を退いた。そして、再び基経を関白に任命しょうとした時、阿衡事件が起きて政治が大混乱した。
翌年に左大弁の橘広相が責めを負って解任され、藤原 基経の傀儡政権が誕生した。また、勅願寺として仁和寺を完成させた。
891年
藤原 基経が死ぬと、宇多天皇は摂政を置かずに、源 能有や学者の菅原道真・平季長らを起用して親政を行い、各種政治改革を行った。94年、遣唐使は停止された。
896年
造籍、私営田抑制、滝口の武士の設置等、国司の権限を強化する改革を次々と行った。また、文化面でも日本三代実録・類聚国史の編纂や寛平御時后宮歌合なども行われた。
【平安中期】
897年
源 能有が死去すると、宇多天皇は敦仁親王に譲位させて醍醐天皇にさせた。そして、先帝の訓示を受けて藤原時平・菅原道真を左右大臣として親政を行なった。2年後、宇多上皇は出家し、仁和寺に入って法皇となった。
901年
昌泰の変が起き、醍醐天皇は菅原道真を大宰府に左遷させる。また、六国史の一つ日本三代実録を完成させた。03年に大宰府で道真は死去する。
905年(国風文化)
『古今和歌集』撰進を紀貫之らに命じて和歌を振興させた。更に、醍醐天皇は延喜格式を藤原時平に編纂させた。13年には宇多法皇によって亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」が開催された。
923年
醍醐天皇は相次ぐ皇太子の死去に伴い、道真の霊を諌める為に道真を左大臣に任じたが、30年に内裏の清涼殿が落雷に見舞われて3ヶ月後に崩御した。そして、9才で朱雀天皇が即位し、伯父の藤原 忠平が摂政と関白を務めた。
935年(承平・天慶の乱)
平氏の姓を受けた平高望の孫の平将門が関東で反乱を起こして新たな朝廷を造り、新皇に即位したが、2ヶ月で藤原秀郷・平貞盛らに討伐された。
936年
伊予掾の藤原純友が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、瀬戸内海全域と太宰府を手中に収めたが、2年後に小野 好古によって長崎で討伐された。