職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その3

2017年11月11日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その3

◆中世中期(1200年~1229年)
教皇クレメンス3世の呼びかけによってバルト十字軍が編成され、バルト三国や北欧の異教徒たちの制圧が始まり、ノヴゴロド公国が消滅する1478年まで続いた。また、教皇インノケンティウス3世が始めた第4回十字軍遠征により、が建国された。更に、教皇インノケンティウス3世は南仏の異端を制圧するアルビジョア十字軍を呼びかけた。教皇インノケンティウス3世が崩御後、エルサレム奪還する為、第5回十字軍遠征が行われたが、失敗に終った。


・アイユーブ朝の再統一
1200年、叔父アーディルはサラディンの息子たちから、エジプトとダマスカスを奪うと、アイユーブ朝のスルタンに即位した。翌年、三男ザーヒルがザンギー朝のモスル政権と共に、シリアのアーディル軍に立ち向かったが、02年には敗北し、叔父アーディルが9年ぶりにアイユーブ朝を安定させた。

バルト十字軍遠征

教皇クレメンス3世の1193年の呼びかけがバルト十字軍遠征の発端になり、1323年のシュルッセルブルクの和議で終了する。

・リヴォニア遠征/バルト十字軍
1200年、ブレーメン大司教の命によって、シトー会のアルベルトは神聖ローマ帝国内でリヴォニア十字軍を組織してリヴォニア遠征を行い、西ドヴィナ川沿岸にあるリガに上陸し、異教徒リーヴ人を服属した。

第4回十字軍(1202年 - 1204年)

・エジプト遠征/第4回十字軍
1200年、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけを機に、エジプト侵攻の為の第4回十字軍がフランス貴族を中心に編成され、指導者にモンフェラート侯ボニファーチョ1世が選ばれた。更に、ヴェネツィアが十字軍の搬送を買って出た。

・ノイス条約
1201年、ローマ教皇インノケンティウス3世はオットー4世をローマ王に戴冠させると、スポレート公国、アンコーナ、トスカーナ辺境伯領を教皇領に認めさせた。これより、フランス王フィリップ2世の支持を受けたフィリップとオットーの間での抗争が続いた。

・リューリクのハールィチ遠征/ロマンのキエフ遠征
1201年、オレグ家と同盟を結んだキエフ大公国のリューリク2世がハールィチ・ヴォルィーニ公ロマンを裏切ってハールィチ遠征を企てると、先に娘婿のロマンがキエフ遠征を行い、リューリクを廃位してルーツク公イングヴァリをキエフ大公位に就けた。

・ハンガリー王国ザラ攻撃/第4回十字軍
1201年、ヴェネツィアに十字軍が集結したものの人数が集まらず、資金不足に陥りと、ヴェネツィアは十字軍にハンガリー王国のザラ攻撃を要請し、02年には十字軍がザラを占領した。その後、ローマ教皇は十字軍を破門したが、十字軍の弁明を聞くと、破門を解いた。

・ヴァルナ包囲戦/ビザンツとの最後の戦い
1201年、ブルガリアのカロヤンはアセン1世を暗殺したイヴァンコと同盟を結ぶと、ヴァルナ包囲戦を開始し、ビザンツ帝国からヴァルナを奪還した。02年にはビザンツ皇帝アレクシオス3世と和平条約を結び、ブルガリアの独立を正式に認めさせた。

・リヴォニア帯剣騎士団の結成/バルト十字軍
1202年、アルベルトはリガを拠点とするリヴォニア帯剣騎士団を設立し、リヴォニアの征服に乗り出した。翌03年には、ポロツク公国によってリガ攻撃がなされたが、家畜を奪われたのみで終った。

・フィリップ2世・アルテュール対ジョン戦
1202年、ユーグ9世の訴えにより、フランス王フィリップ2世はイングランド王ジョンのフランス領を取り上げ、ノルマンデー以外の領地をブルターニュ公アルテュールに与えた。翌年、ジョンはアルテュールを捉えて幽閉すると、ブルターニュの諸侯がフィリップ2世の力を借りて挙兵すると、ノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーは降伏し、ジョンの領地はガスコーニュだけに成った。

・ブルガリアとハンガリーの対立(1202-1204)
1202年、ハンガリー王イムレ1世がブルガリアに進攻し、当時ブルガリア領だったベオグラード、ブラニチェヴォ、ニシュを占領したが、再び、ブルガリアのカロヤンによって奪還された。その後、この争いはカロヤンが戴冠する04年まで続いた。

・リューリクのキエフ奪還/ポロヴェツ族討伐
1203年、リューリクは、再びオレグ家・ポロヴェツ族(クマン人)の支援によりキエフを奪還した。しかし、ロマンが組織した南ルーシ諸公連合軍によるポロヴェツ族遠征に参加した後、所領を巡ってロマンとリューリクは対立し始め、ロマンはリューリクを捕虜してキエフに送り修道士にした。その後、ウラジーミル大公フセヴォロドの仲裁によってリューリクの息子・ロスチスラフがキエフ大公に成った。

・ビザンツ帝国への襲撃/第4回十字軍
1203年、ビザンツ帝国の亡命皇子アレクシオスの依頼により、十字軍はコンスタンティノープルに進軍し、アレクシオス3世を廃位してイサキオス2世を復位させてると、十字軍はビザンツ帝国に莫大な献納金を請求した。

・ビザンツ帝国の消滅/第4回十字軍
1204年、アレクシオスが共同皇帝して市民に重税を課すと、市民の反乱が勃発した。2月、先帝アレクシオス3世の娘婿が皇帝アレクシオス5世に即位すると、アレクシオス4世らを殺害し、十字軍の献納金を拒否した。その為、十字軍はコンスタンティノポリスを攻撃して陥落させると、ギリシャ正教や市民に対して略奪や虐殺を行った。更に、逃亡したアレクシオス5世を捕らえて処刑した。

・第4回十字軍遠征の終焉/ラテン帝国の樹立(1204-1264)
1204年4月、コンスタンティノープル攻めに成功した十字軍はビザンツ帝国を滅ぼして新たにカトリックを主体としたラテン帝国を樹立し、フランドル伯ボードゥアン9世をラテン皇帝に迎えた。しかし、教皇は怒って十字軍にエジプト遠征を促すが、十字軍はコンスタンティノープルに居座り続けた。

・休戦協定/十字軍勢力とアイユーブ朝
1204年、アイユーブ朝のアーディルは、ラテン帝国が樹立後もヴェネツィアやピサなどのイタリア半島の都市国家との通商関係を継続する為、イスラエルのラムラ領とナザレ領を十字軍勢力に割譲し、休戦協定を結んだ。

・十字軍のギリシャ遠征/テッサロニキ王国の樹立(1204-1224)
1204年、十字軍の指導者モンフェッラート侯ボニファーチョ1世は、ラテン皇帝になれない分かると、ギリシア遠征を決行し、テッサロニキを中心に十字軍国家テッサロニキ王国を築いた。

・亡命政権/トレビゾンド帝国の樹立
1204年4月、コンスタンティノープルの陥落を機に、市民の手によって殺されたアンドロニコス1世の孫のアレクシオス・コムネノスがグルジア女王タマルの支援を受け、トルコトのレビゾンドを占領すると、トレビゾンド帝国を建国した。

・亡命政権/ニカイア帝国の誕生
1204年4月、アレクシオス5世が逃亡した後、首都防衛に活躍していたコンスタンティノスが皇帝に選出されたが、一日で彼もコンスタンティノープルを逃れ、弟テオドロスとともに小アジアに逃亡し、05年には弟テオドロスにビザンツ皇帝の座を譲った。その後、テオドロス1世はトルコのニカイア地方を支配すると、ニカイア帝国を築いた。

・兄弟間戦争/ハンガリー王国
1204年、前年のドラーヴァ河畔の戦いで敗れたアンドラーシュは、兄のハンガリー王イムレ1世の崩御を機に、甥のハンガリー王ラースローの摂政としてハンガリーを牛耳ると、母コンスタンサがラースロー王を連れてオーストリアに亡命した。05年5月、ラースローが崩御すると、アンドラーシュ2世がハンガリー王に即位した。

・ザヴィホストの戦い/ハールィチ・ヴォルィーニ大公のポーランド遠征
1205年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公のロマンはポーランド遠征の帰路の途中、ザヴィホストの戦いでポーランド大公レシェク1世とマゾフシェ公コンラト1世兄弟が率いるポーランド軍に破れて戦死すると、再びリューリクはキエフ大公に復位した。

・第一回アドリアノープル包囲戦-第二次ブルガリア帝国VSラテン帝国
1205年、ラテン皇帝ボードゥアン9世は「ブルガリア人は隷属民」と宣言し、トラキアの北部、東部に侵入すると、東トラキアに避難したビザンツ貴族がブルガリア皇帝カロヤンに保護を求めた為、トルコのアドリアノープル(エディルネ)付近でブルガリア帝国がラテン帝国と交戦し、ブルガリア帝国が勝利を収めた。その後、ボードゥアン9世が捕らえて処刑されると、ビザンツ貴族はブルガリアを裏切り、ラテン帝国側に付いた。その後、皇帝カロヤンに死刑される。

・亡命政権/エピロス専制侯国(1205 - 1215)
1205年、ミカエル1世はギリシャ西岸の街アルタを首府としてエピロス専制侯国を建国し、テッサロニキ王国へ臣従した。

・アカイア公国(1205 - 1432)の誕生
1205年、ペロポニソス半島に上陸し征服活動を開始したジョフルワの要請により、テッサロニキ王から派遣されたフランス騎士ギヨームにより、封建国家・アカイア公国が建国され、宗主権はテッサロニキ王国が握っていた。

・ピサ=ヴェネツィア共闘/ジェノヴァとの対立
1206年、ピサとヴェネツィアによるアドリア海の覇権争いが終結すると、ピサがアドリア海の覇権を放棄する条約結び、ヴェネツィアと共に、ジェノヴァに対抗した。

・ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の崩壊/チェルニゴフ・オレグ家
1206年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公ロマンが戦死した為、息子のダヌィーロが即位したが、ハールィチ公国の貴族らによってダヌィーロが追放された。その後、ポーランド大公レシェク1世の支援により、ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリの三人の息子たち(ウラジーミルロマン・スヴャトスラフ)によって、ハールィチ・ヴォルィーニ公国は三分割統治された。ウラジーミルがハールィチ公国を、スヴャトスラフがヴォルィーニ公国を、ロマンがズヴェニゴロド公国を統治した。

・キエフ争奪戦(06-10)/チェルニゴフ公フセヴォロドVSキエフ大公リューリク
1206年、オレグ家の代表格であったチェルニゴフ公フセヴォロドがキエフに侵攻し、一旦はキエフ大公を占領するが、直ぐにリューリクに奪い返された。07年、ハールィチ公ウラジーミルの支援を受けて、再びキエフ攻略を試みるも、再びリューリクに奪い返された。10年、リューリクとウラジーミル大公フセヴォロド3世の関係が悪化した為、チェルニゴフ公フセヴォロドは、漸くキエフ公に即位出来た。

・第二回アドリアノープル包囲戦-第二次ブルガリア帝国VSラテン帝国
1206年、再びブルガリア帝国はラテン帝国のアドリアノープル包囲戦を行ったが、新たに帝位についた弟アンリ・ド・エノーによって阻まれた。その後、アンリ帝はギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、エピロス専制侯国やニカイア帝国と講和を結ぶ事に成功。

・ヴァッセンベルクの戦い/神聖ローマ帝国の内乱
1206年、ヴァッセンベルクの戦いに於いて、シュヴァーベン公フィリップがローマ王オットー4世を破ると、教皇庁も内戦で優位に立つフィリップの支持に回り、ローマ王位はオットー4世からフィリップに移ったが、フィリップは、2年後に暗殺される。

・ゴリム城包囲戦/リヴォニア帯剣騎士団
1206年、リーヴ人は十字軍を追い払う為、ゴリムを占領した。しかし、リヴォニア帯剣騎士団に制圧され、捕虜にされた。その後、ポロツク公国に援助を求めるも、ゴリム包囲戦でポロツク軍敗れると、多くのリーヴ人がカトリックに改宗された。

・ローマ教皇領ポーランドの誕生
1207年、クラクフ公レシェク1世がローマ教皇インノケンティウス3世の求めに応じて、ポーランドを教皇領にし、神聖ローマ帝国と対峙した。

・テッラ・マリアナ公国の建国(1207-1215)
1207年2月、リヴォニア帯剣騎士団よってリヴォニアが征服されると、神聖ローマ皇帝フィリップによってリヴォニア地方にテッラ・マリアナ公国が建国されたが、15年には、教皇インノケンティウス3世により教皇国の直轄地であると宣言され、6つの封建的な公国に分けられる。

・テッサロニキ包囲戦い/第二次ブルガリア帝国VSテッサロニキ王国
1207年、反ラテン同盟がブルガリア皇帝カロヤンとニカイア皇帝テオドロス1世との間に結ばれる。9月、コンスタンティノープル攻撃する為、ブルガリア軍はテッサロニキ包囲戦を開始し、君主ボニファチオを殺害するが、10月には皇帝カロヤンも暗殺された。

・甥ボリルのクーデター/第二次ブルガリア帝国
1207年10月、ボリルが叔父の皇帝カロヤンを暗殺し、カロヤンの息子たちをルーシ系のガーリチ・ヴォルイニ公国に、兄弟のストレスをセルビアに追放してブルガリア皇帝に即位した。

・一族の反乱/第二次ブルガリア帝国
1207年、兄弟のストレスがセルビア王ネマニッチの支援を受け、マケドニアを拠点に反乱を起こすと、ロドピ山脈南部のメルニク州がラテン帝国と同盟を結び、独立宣言した。09年、ボリル帝からストレスはセヴァストクラトルの称号を与えられ、ボリルと同盟を結ぶ。

・エストニア遠征/リヴォニア帯剣騎士団
1208年、ほぼリヴォニアを制圧したリヴォニア帯剣騎士団は北部のエストニアへ進軍し、エストニア部族をまとめた首長レンピトゥに、進軍を阻めれる。

・ポーランドのヴォルィーニ遠征/ハンガリーのハールィチ遠征
1208年、ヴォルィーニ公国の貴族たちの求めに応じて、ポーランド軍がヴォルィーニ侵入を決行し、オレグ家のスヴャトスラフを攻め、新たにベルズ公アレクサンドルをヴォルィーニ公に任命した。
一方、ハールィチ公国でも、弟ロマンがハンガリー王アンドラーシュ2世と手を結び、兄ウラジーミルをプチヴリへと追放し、ハールィチ公に即位した。しかし、二年後には貴族たちの要望により、ウラジーミルが帰還し、ロマンと一緒に共同統治者に成った。

・フィリップの暗殺/ローマ皇帝オットーの誕生
1208年にフィリップの暗殺が起きると、再びオットーはフランクフルトで行われた皇帝選挙でイタリア王に成ると、09年にはインノケンティウス3世から戴冠を受け、ローマ皇帝に成った。

・テッサロニキ王国の王位争奪戦
1209年、父ボニファーチョが戦死して幼少のデメトリオが即位すると、異母兄グッリェルモがクーデーターを起こし、デメトリオとラテン帝国の排斥を試みたが、ラテン皇帝アンリによって制圧された。

・プルーセン遠征/ポーランドのマゾフシェ公国
1209年、マゾフシェ公コンラト1世はバルト・プロイセン人討伐を開始するが、苦戦した。

・イングランド王ジョンの破門
1209年、カンタベリー大司教が死去すると、ローマ教皇は枢機卿のラングトンを任命したが、ジョンは無視し、更に教会領を没収した為、ローマ教皇からジョンは破門された。しかし、ジョンは軍備増強を止めなかった。

・オットーに破門/シチリア遠征
1209年11月、ローマ皇帝オットー4世はアプーリアの封建貴族からシチリア遠征を懇願されると、シチリア遠征を決意し、教皇領アンコーナとスポレートを取り上げ、更に教皇インノケンティウス3世にヴォルムス協約の取り消しと、聖職者の叙任権の付与を要求した。10年11月、オットー4世がシチリア遠征を決行すると、教皇インノケンティウス3世から破門された。

ベジエ遠征/アルビジョア十字軍(1209-1229)
1209年、教皇インノケンティウス3世は西欧諸国で異端と見られるフランス南部のアルビ派(カタリ派)を鎮圧する為、アルビジョア十字軍を呼びかけると、レスター伯シモンが指導者と成って約1万のアルビジョア十字軍がリヨンに集結し、7月にはフランス南西部のベジエ大虐殺が行われた。

・イベリア半島の十字軍の結集/レコンキスタの再開
1209年、教皇インノケンティウス3世はムワッヒド朝の対決に向けキリスト教国の対立解消に奔走、諸国間の和睦を実現させ、イベリア半島へ十字軍遠征を呼びかけると、アルフォンソ8世がトレド大司教を通して教皇に応えた。

・エピロス専制侯国の台頭
1210年、エピロス専制侯国はギリシャ西北部・エピロス地方を占領すると、ラテン帝国からコンスタンティノポリス奪還を企て、15年までにはコリントス湾からアルバニアに至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島に一大勢力を築き上げたが、同時にミカエル1世の暗殺事件が起きた。

・ルーム・セルジューク朝のニカイア遠征
1210年、十字軍よってビザンツ帝国を追放されたアレクシオス3世は、ルーム・セルジューク朝のスルタンに復位したカイホスロー1世に援助を求めて、娘婿のテオドロス1世が統治するニカイア遠征を決行したが、翌年のアンティオキア会戦でカイホスロー1世は敗死し、アレクシオス3世は幽閉された。これにより、テオドロス1世の帝位は確定した。

・交易条約の制定/ルーム・セルジューク朝及びキプロス王国
1211年、カイカーウス1世がルーム・セルジューク朝のスルタンに即位すると、キプロス王ユーグ1世と交易条約を結び、更にキリキア・アルメニア王国のアンタルヤを征服した。

・ハールィチ公ダヌィーロの即位と廃位/ハンガリー・ポーランド
1211年、ハンガリー王アンドラーシュ2世及びポーランド大公レシェク1世は、ダヌィーロをハールィチ公に据えてハールィチ遠征を決行し、ウラジーミル、ロマン、スヴャトスラフらを排除し、更にダニーロと敵対しているノヴゴロド公ムスチスラフを攻撃したが、翌年にはウラジスラフを長とするハールィチの貴族層によってダヌィーロは再び追放された。

・エストニア人のリヴォニア騎士団襲撃
1211年、サカラの首長レンピトゥ率いるエストニア人がリヴォニア騎士団のサカラ砦を攻略し、ノヴゴロド共和国領のプスコフまでを略奪した。

・ドイツ騎士団の追放/ハンガリー
1211年、ハンガリー王アンドラーシュ2世はクマン人の襲撃に備えてドイツ騎士団に辺境の防衛を任せたが、25年になると、ドイツ騎士団が独立国を作ろうとした為、アンドラーシュ2世はドイツ騎士団を国外へ追放した。

・アルフォンソ8世のアンダルス襲撃
1211年、アルフォンソ8世はムワッヒド朝との休戦協定を破り、アンダルス襲撃を開始すると、ムワッヒド朝は報復に出てカラトラバ騎士団のサルバティエラ城を陥落させた。

・トゥールーズ包囲戦の敗退/アルビジョア十字軍
1211年、教皇使節とトゥールーズ伯レーモン6世が対立すると、レーモン6世は再び破門された。その後、アルビジョア十字軍とレーモン6世はトゥールーズ包囲戦を開始し、レーモン6世は十字軍を退却させると、翌年までにはトゥールーズ伯領を奪還した。

・クマン人の反乱/第二次ブルガリア帝国
1211年、ブルガリア北西部ヴィディンでクマン人の反乱が勃発すると、皇帝ボリルは自力で鎮圧出来ず、ハンガリーの力を借りてヴィディンを制圧すると、ハンガリーにベオグラードを割譲した。これにより、ボリルへの不満が高まり、キリスト教ボゴミール派が勢力を伸ばし始めた。

・ポロツク公国のリヴォニア放棄/バルト十字軍との講和条約
1212年、ポロツク公ウラジーミルと、バルト十字軍のアルベルトは会談を行った結果、リヴォニアにおける支配権はバルト十字軍へ移った。16年、ウラジーミルはリガへの遠征を目前にして急死した。

・ナバス・デ・トロサの戦い/ムワッヒド朝の衰退
1212年、トレドにペドロ2世・サンチョ7世らアラゴン・ナバラ軍、サンティアゴ騎士団とカラトラバ騎士団、及び十字軍志願者らが結集すると、アルフォンソ8世がこれら混成軍を引き連れ、アンダルシア州コルトバへ遠征し、ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝のナースィル軍を大敗させた。その後、カスティーリャ王アルフォンソ8世はバエサウベダを獲得し、ムハンマド・ナースィルは首都マラケシュに逃げ帰り、翌年13年に急死した。

・第二回休戦協定/アイユーブ朝と十字軍
1212年、アイユーブ朝アーディルは、再び十字軍勢力と休戦協定を結ぶと、ローマの教皇庁では中東遠征の再開が検討され始めた。

・フランスのフランドル伯攻め
1213年、ローマ教皇はフランスにイングランド遠征を許可すると、イングランド王ジョンはローマ教皇にイングランド全土を寄進して教皇の封建臣下に成ると、破門が解かれた為、フランスはイングランドの代りにフランドル伯攻めを決行するが、イングランド海軍に阻まれて、フランス軍は撤退した。

・ミュレ攻撃/アルビジョア十字軍
1213年、レーモン6世は、アラゴン王ペドロ2世の援軍を受け、アルビジョア十字軍がこもっているミュレ攻撃を試みると、十字軍の反撃に遭い、アラゴン王ペドロ2世は戦死し、レーモン6世は窮地に追い込まれた。

第二次タイファ時代→第三次タイファ時代

・タイファの反撃/休戦宣言
1213年、アルフォンソ8世はムワッヒド朝のハエンとグラナダ総督らの反撃を鎮圧すると、ハエンの北を流れるハバロン川流域にあるムワッヒド朝の都市を落すと、カラトラバ騎士団とサンティアゴ騎士団に与えてトレドに帰還したが、14年にトレドの大飢饉が起きた為、アルフォンソ8世は、再びイスラム勢力と休戦協定を結び、アルフォンソ8世は急死した。

・スィノプの戦い/ルーム・セルジューク朝
1214年、ルーム・セルジューク朝のカイカーウス1世は、狩猟中のトレビゾンド皇帝アレクシオス1世を捕らえ、身代金代わりに黒海に面した港町スィノプを奪い、更にカイカーウス1世はトレビゾンド帝国を服属した。

・ハールィチ攻略/ハンガリー・ポーランド
1214年、アンドラーシュ2世はレシェク1世と共にガーリチを占領し、アンドラーシュ2世の息子カールマーンをハールィチ公に即位させた。その後、両国の間でハールィチの領土が分けられた。

ブーヴィーヌの戦い/フランスの大勝利
1214年、ジョンは神聖ローマ皇帝オットー4世や、フランドル伯らと共に、フランス王フィリップ2世軍を南北から挟撃する計画を立て、ジョンがフランス南部のギュイエンヌを侵攻したが、神聖ローマ帝国軍が出遅れた為、フランスの王太子ルイによって制圧された。
7月、フィリップ2世軍はブーヴィーヌの戦いで、神聖ローマ帝国・フランドル伯の連合軍に勝利すると、ジョンはすべての領土を失い、オットー4世は廃位されてフリードリヒ2世が即位し、フランドル伯はフランスの傘下に成った。

・南仏トゥールーズ伯領の分割/アルビジョア十字軍
1215年、ブーヴィーヌの戦後、レーモン6世と息子のレーモン7世はイングランドに亡命した為、レスター伯シモンはトゥールーズ伯領を含めた南仏を制圧する事に成功し、その後、十字軍諸侯たちと占領地を分け合った。

・レホラ砦の戦い/リヴォニア騎士団
1215年、リヴォニア騎士団は、エストニア人のレホラ砦を陥とし、首長のレンピトゥを捕らえたが、二年後、レンピトゥは釈放された。

・イングランドのマグナ・カルタ発行
1215年、フランス王フィリップ2世に敗北し、イングランドに帰還したジョン王は、貴族や国民からの怒りを買い、反ジョン運動が起った。これを鎮める為、ジョン王は王の権限を制限する文書「マグナ・カルタ」を発布したが、教皇インノケンティウス3世によって破棄された。

・テッサロニキ王国への襲撃
1216年、ラテン皇帝アンリの崩御を機に、直ぐ第二代エピロス専制侯公テオドロス1世はテッサロニキ王国に侵攻した。翌年、アンリの後を継いだラテン皇帝ピエールをアルバニアの山中にて捕縛した。

・トゥールーズ奪還/アルビジョワ十字軍の再燃
1216年、イングランドに亡命したレーモン6世父子が、再び南仏に戻ると、旧臣や住民を集結させた。翌年、レーモン6世親子はトゥールーズ奪還に成功すると、トゥールーズ伯シモンが率いるアルビジョワ十字軍の攻撃にさらされた。しかし、18年にトゥールーズ伯シモンが戦死すると、統率力に欠けたアルビジョワ十字軍は少しずつ占領地を失っていった。

第5回十字軍
(2117-1221)
・第5回十字軍遠征の集結/エルサレム遠征
1217年、新たにローマ教皇に即位したホノリウス3世によって第5回十字軍が呼びかけられると、エルサレム王国の首都アッコにハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世、フランス・ドイツ諸侯らが集結し、エルサレム王ジャン、キプロス王ユーグ、アンティオキア公ボエモンらと合流した。
その後、十字軍はエルサレム王ジャンとハンガリー王アンドラーシュ2世らの指揮下、エルサレムへと進軍した。一方、アイユーブ朝のアーディルはエルサレム市民を避難させ、シリアの地で十字軍を迎え撃ったが、長らく膠着状態が続いた。

・聖マタイの日の戦い/リヴォニア帯剣騎士団
1217年、エストニアのヴィリャンディ付近で聖マタイの日の戦いが勃発すると、リヴォニア帯剣騎士団及びリーヴ人やラトガレ人から結成されたバルト十字軍は、首長レンピトゥが率いるエストニア連合軍と激突した。その戦闘で、リーヴ人のトゥライダ首長カウポが戦死したものの、バルト十字軍はエストニア連合軍を破った。
翌年、リヴォニア帯剣騎士団は北上するが、ロシア諸侯の援助を受けた部族によって強固に抵抗された為、デンマーク王ヴァルデマー2世に援軍を求めた。

モンゴル帝国の中央アジア遠征/ホラズム・シャー朝討伐
1218年、チンギスはホラズム・シャー朝に通商使節を派遣したが、東部国境線にあるオトラルの統治者イネルチュクが欲に駆られ彼らを虐殺すると、20万のモンゴル帝国軍がホラズム・シャー朝の各都市を攻め滅ぼした。

・ダミエッタ包囲戦/第5回十字軍
1218年1月、十字軍から離脱者(ハンガリー王、キプロス王、アンティオキア公)が相次いだ為、エルサレム王ジャンらが、エルサレム奪還するにはアイユーブ朝の本拠地であるエジプト遠征を唱えた。
5月、十字軍はジェノヴァ艦隊の力を借りて、エジプトのダミエッタ港を包囲し、戦闘を開始した。8月、アイユーブ朝スルタンのアーディルが病死し、息子のカーミルが後を継いだ。9月、教皇使節ペラギウスが率いる援軍が到着した。

・港湾都市ダミエッタの陥落/第5回十字軍
1219年、クルド族の反乱が起きると、アイユーブ朝のカーミルは、急いでカイロに戻る為、十字軍との和睦を試みたが、十字軍諸侯たちの対立が起きた為、交渉は失敗に終った。5月、オーストリア公レオポルト6世が帰国し、代りに新たな援軍が到着すると、教皇使節ペラギウスは諸侯の反対を押し切り、ダミエッタ攻撃を再開し、11月にはダミエッタの城壁を破り、落城させた。

・デンマークの台頭/エストニア遠征
1219年、デンマーク軍はバルト海東岸のファインランド湾から上陸し、エストニアのタリンにトームペア城を築き、やがてタリンを征服した。20年、リヴォニア帯剣騎士団はエストニア南部のに成功した。その後、デンマークはバルト海の覇権を巡って神聖ローマ帝国と争い始める。

・ホラズム・シャー朝の壊滅
1220年、ホラズム・シャー朝の君主アラーウッディーン・ムハンマドはモンゴル軍の追撃を振り切ってカスピ海西南岸近くの小島に逃れたが、暮れには病死した。

・持久戦/第5回十字軍
1220年、教皇使節ペラギウスが、ダミエッタを教皇領とした事でエルサレム王ジャンは怒ってアッコンに帰国した。その後、ペラギウスが十字軍の指揮官と成ったが、戦闘経験が無い為、フリードリヒ2世に援軍を依頼し、到着するまで持久戦に持ち込んだ。一方、アイユーブ朝のカーミルはナイルデルタにあるマンスーラまで退き、次の戦いに備えていた。

・リフラの戦い/スウェーデンVSエストニア
1220年、スウェーデン王ヨハン1世は、バルト海東岸に勢力を広げるべく、未だリヴォニア帯剣騎士団の勢力の及ばないエストニア西部レーネ地方に侵攻し、リフラ包囲戦でサーレマー人とレーネ人の連合軍に大敗し、北部のタリンへ逃走した。

・ドブジン騎士団/プルーセン人の逆襲
1220年、マゾフシェ公コンラト1世はドブジン騎士団を結成して、再びプルーセンを攻撃したが、プルーセンの逆襲に遭い、ポーランド北部のヘウムノを独占された。

・シチリアの復興
1220年、ローマ王フリードリヒ2世は、ハインリヒを共同統治者としてローマ王の地位に置き、ハインリヒと顧問団に帝国の支配を委ね、シチリ島のパレルモに帰還した。その後、フリードリヒ2世は教皇ホノリウス3世から十字軍遠征と引き換えにローマ皇帝位を授かり、シチリアの復興の初めとしてメッシーナ弾圧を行った。

・パルワーンの戦い/インダス河畔の戦い
1221年、ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンは、カーブル近郊のパルワーンでモンゴル帝国のシギ・クトク軍を打ち破ると、チンギス・カンの率いるモンゴル軍に追撃され、インダス河畔の戦いでホラズム・シャー朝軍は大敗し、ジャラールッディーンはパンジャーブ地方に逃げ込んだ。

・テッサロニキ王国VSエピロス専制侯
1221年、テッサロニキ王デメトリオはモンフェッラート侯国の援軍と共にエピロス専制公テオドロスと戦うが、23年には完全にテッサロニキを包囲され、デメトリオ王は孤立した。

・マンスーラの戦い/第5回十字軍の終焉
1221年、5月にバイエルン公ルートヴィヒ1世軍が十字軍に加わり、更に7月にはエルサレム王ジャンが戻って来た為、十字軍はカイロへの進軍を開始した。8月、マンスーラ城の手前にあるナイル川デルタ地帯に阻まれている十字軍にアイユーブ朝が水攻めを仕掛け、十字軍を降伏させると、エミッタと引き換えに十字軍を開放した。

・トレビゾンド包囲戦/ルーム・セルジューク朝vsトレビゾンド帝国
1222年、第二代トレビゾンド皇帝アンドロニコス1世は、スィノプ奪還の為にルーム・セルジューク朝に戦いを挑むと、スルタン・カイクバード1世軍にトレビゾンド城を包囲されて敗北し、ポントス地方の地方政権に転落してしまった。翌年、カイクバード1世は地中海岸の領土を広げた始める。

・デンマークの領土縮小/ドイツ勢力
1223年、デンマーク王ヴァルデマー2世は、ドイツ勢力のシュヴェリーン伯ハインリヒの策略にはまって幽閉された。その後、多くの領土と引き換えに開放されると、ヴァルデマー2世はドイツ攻めを決行し、失地回復を試みたが失敗した。

モンゴルのルーシ(ロシア)侵攻

・カルカ河畔の戦い
1223年、ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ・ルーシ連合軍との間で戦いが始まり、モンゴル軍が勝利した。

・ジャラールッディーンのホラズム・シャー朝の再興
1223年、ジャラールッディーンの軍は、砂漠を横断してケルマーン地方に到着する。ケルマーンの領主バラク・ハージブを帰順させ、シーラーズを統治していたアタベク政権のサルガル朝と婚姻関係を築くと、イスファハーン遠征を決行し、兄弟ギヤースッディーンから支配権を奪い、ホラズム・シャー朝を再興した。

・カルカソンヌ城包囲戦/アルビジョワ十字軍の降伏
1224年、レーモン7世がカルカソンヌ城包囲戦を繰り広げると、トゥールーズ伯アモーリが逃走したため、アルビジョワ十字軍は降伏した。

・テッサロニキ王国の滅亡
1224年、エピロス専制侯公テオドロス1世はテッサロニキ王国を占領し、デメトリオ王は逃亡した。翌年、デメトリオ王はモンフェッラート侯グッリェルモ6世と共にテッサロニキ奪還を試みるが、敗北した。更にテオドロス1世はアドリアノープルを占領し、コンスタンティノポリス奪還を試みると、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世と衝突し始めた。

・ホラズム・シャー朝VSアッバース朝
1225年、ホラズム・シャー朝ジャラールッディーンはアッバース朝の都市シューシュタルを包囲した後、バグダードに進軍し、イラク北部のダクーカーを攻略した後、アゼルバイジャンに赴きイルデニズ朝を滅ぼすと、翌年にはキリスト教国であるグルジア王国の首都ティフリスの占領に成功した。

アルビジョア十字軍の終焉

・ルイ8世の南仏遠征/アルビジョア十字軍
1226年、ルイ8世は、再びレーモン7世を破門に追い込み、新しい十字軍を率いてラングドックからオーベルニュ及びプロヴァンスなど征服した。11月、ルイ8世は急死する。

・クルシュヴィッツ条約/ドイツ騎士団
1226年、マゾフシェ公コンラト1世はプルーセン人征服の為、ハンガリーから追放されたドイツ騎士団を招き入れ、ドイツ騎士団と共同でプロイセンを所有する事を約束したクルシュヴィッツ条約を結ぶ。30年、ドイツ騎士団はプロイセン領内のケーニヒスベルク、トルニ、マルボルク、オルシュティンに要塞を築くと、本格的にプルーセン人征服に乗り出した。

・サーレマー島の敗北/バルト十字軍
1227年、デンマーク・スウェーデン及びバルト十字軍と、熾烈な戦いをしていたサーレマー艦隊が凍った海に閉じ込められていた隙きに、教皇使節のヴィルヘルム・フォン・モデナ指揮下の軍隊が凍った海を渡り、エストニアのサーレマー島を陥落させた。

・クリミア半島征服/ルーム・セルジューク朝
1227年、ルーム・セルジューク朝のカイクバード1世はスィノプから黒海を越えて軍を送り、クリミア半島の港湾を征服、周辺のキプチャク遊牧民を服属させた。

・イスファハーンの戦い
1227年、再びホラズム・シャー朝の前にモンゴル軍が現れ、イランのイスファハーンの城外でモンゴル軍を迎え撃ったが、ホラズム軍は大敗した。しかし、勝利したモンゴル軍の被害も大きく退却せざる負えなかった。

・コーカサスの戦い/ホラズム・シャー朝
1227年、コーカサス地方に住むグルジア人、キプチャク人、アラン人などの民族がホラズム・シャー朝と抵抗するべく連合軍を編成し、ホラズム軍に立ち向かったが敗北した。

・ラテン帝国の衰退
1228年、ラテン帝国は東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国及びブルガリアの侵攻より、ラテン帝国は急激に疲弊し始めた為、ラテン皇帝ボードゥアン2世は西欧諸国に援助を求めるが、得れることが無かった。

・フランス諸侯の反乱
1228年、諸侯の反乱が勃発し、一時、ルイ9世が捕らえられる危機にあったが、都市(コミューン)の市民の支援を受け、これを恐れた反乱諸侯は撤退した。

・神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の破門
1228年、教皇グレゴリウス9世は、第5回十字軍遠征に参加しないフリードリヒ2世に破門をちらつかせ、エルサレムに赴かせたが、途中で病に罹り帰還した。しかし、教皇グレゴリウス9世は仮病と判断し、フリードリヒ2世を破門した。

第6回十字軍遠征/破門十字軍

・エルサレム奪還/第6回十字軍遠征
1228年6月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は破門を解くべく、再びエルサレムへ向かった。9月、フリードリヒ2世はアッコンに着いたが、聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団・現地諸侯らの協力を得ないまま、アイユーブ朝のカーミルと交渉し、翌年の2月には、エルサレム奪還を奪還した。

・破門皇帝に対する十字軍宣言
1229年2月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝のスルタン・カーミルと10年間の休戦条約を締結し、城壁のないエルサレム奪還に成功した。その後、ドイツ騎士団が見守られて、フリードリヒ2世は自ら手でエルサレム王に戴冠すると、教皇グレゴリウス9世により破門皇帝に対する十字軍を宣言され、5月にはフリードリヒ2世はエルサレムをチュートン騎士団に任せてシチリアに帰国した。

・パリ条約/アルビジョワ十字軍の終結
1229年、ルイ9世はトゥールーズ伯レーモン7世とパリ条約を締結し、アルビジョア十字軍を終結させた。

・ハフス朝の建国
1229年、ムワッヒド朝のイフリーキーヤの総督になったアブー・ザカリーヤーが、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵に頼らざるを得なくなって、自らの宗教的権威を否定したことに対し、同王朝の存立理念であったイスラム復興運動、ムワッヒド運動の真の教えと精神を守るという名目で、アミールの称号を名乗って独立し、ハフス朝を建国した。

・地方政権アフラート侵略
1229年7月、ホラズム・シャー朝ジャラールッディーンがアイユーブ朝地方政権アフラートの攻撃を開始すると、アルトゥク朝、エルゼルムなどのアナトリア東部の領主から臣従の誓いを受け、アッバース朝のカリフ・ムスタンスィルと講和し、ペルシア王の地位とシャーハンシャーの称号を認められた。翌年2月、ヴァン湖西部のアフラートを占領した。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Pythonのプログラムファイル... | トップ | プログラムの6大要素 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

西ヨーロッパ史」カテゴリの最新記事