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ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その1

2017年03月28日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史・経済-中世/中期その1

◆中世中期(1000年~1137年)
中期とは、十字軍により西欧が拡大し、汎ヨーロッパ的な権力を巡って教皇権が世俗王権と争う中世盛期を言う

・イングランド王国のスコットランド支配/イングランドの叙任権闘争
1087年、ウィリアム2世は父が父がノルマンディーで危篤状態に陥ると、兄を差し置いてイングランド王に即位した。1093年には、カンタベリー大司教のスコラ学の父・アンセルムスと対立するようになった。
スコラ学→決して特定の哲学や思想をさすものでなく、学問の技法や思考の過程をさすものである

・ムラービト朝のイベリア半島支配(1091-1118)
ムラービト朝のユース軍がイベリア半島から帰還すると、再び、タイファ諸国は互いに抗争を繰り広げた。その為、カトリック諸国に攻め込められ、再びムラービト朝に応援を求めると、ムラービト朝は自らイベリア半島支配に乗り出した。
1091年に、コルドバとセビリャを占領し、1102年にバレンシアを、1110年にサラゴサを占領、1118年にトレドの包囲した。

・大セルジューク朝の混乱期(地方政権の樹立)
1092年、宰相ニザームルムルクが暗殺され、翌年には大セルジューク朝の第3代スルタンのマリク・シャー1世が死去すると、2人のスルターンが並立する様に成ったが、094年にマフムード1世が病死すると、バルキヤールクが大セルジューク朝の単独スルタンに即位した。

・下ロートリンゲン公コンラッドの離反
1093年、叙任権闘の中、下ロートリンゲン公コンラートは、父皇帝と敵対関係にある教皇側のトスカーナ女伯マティルデからカノッサに招待されたが、その時にマティルデに説得され、コンラートは父皇帝から離反し改革的な教皇ウルバヌス2世側に付き、イタリア王冠を受けると、共に父に十字軍を勧めた。

【大セルジューク朝の内紛(1092-1105)】
・マフムード1世vsバルキヤールク
1092年、4歳のマフムード1世がスルタンに成ると、バルキヤールクは宰相だった故ニザームルムルクの支持者らを味方につけて対抗した為、セルジューク朝で内紛が始まると共に2人のスルターンが並立した。

・バルキヤールクvsシリア・セルジューク朝
1094、バルキヤールクはイラン覇権を巡って、シリア・セルジューク朝を建国した叔父のトゥトゥシュと戦い、095年に叔父をレイの近郊で討った。

・フランス王の破門(1095-1108)
1095年、フィリップ1世は不倫した為、ローマ教皇ウルバヌス2世から正式に破門を通告された。101年、フィリップ1世の代わりに弟のユーグ1世が十字軍に出征して戦死した。その後、フィリップ1世の破門が解かれた。

・第1回十字軍(1096-1099)の遠征

1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議で、ヨーロッパの国王、諸侯に対し、十字軍運動を呼びかけた。それは、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世との叙任権闘争を続ける中、皇帝から奪った西ヨーロッパの主導権を確実にし、教会の東西分裂を再統合するために、ビザンツ皇帝の要請に応えてたものであった。そして、096年に第1回十字軍遠征が行われた。

・民衆十字軍/反ユダヤ主義
1096年、民衆十字軍がアナトリア半島に上陸し、ニカイア周囲の農村を略奪して回った。そして、キボトシュの戦いで、ルーム・セルジューク朝軍に鎮圧された。一方で、フランスやドイツ国内で異教徒への迫害が起こり、再びユダヤ人の虐殺が始まり、多くのユダヤ人がポーランド王国(1025-15)へ逃亡した。

・イングランドのスコットランド征服
1097年1月、スコットランドのマルカム3世が、5度目のイングランド侵攻で戦死すると、後継者問題に乗じてウィリアム2世はスコットランド王をエドガーに継がせて、イングランドを従属させた。その後、ウィリアム2世は1100年に急死する。

・ニカイア攻囲戦(1097年5月-6月)/ルーム・セルジューク朝の敗北
1097年、クルチ・アルスラーン1世はダニシュメンド朝遠征に赴くと、西欧諸公から成る十字軍がルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを包囲し、ルーム・セルジューク朝の守備隊とニカイア攻囲戦を繰り広げた。
その後、クルチ・アルスラーン1世も参戦するが、十字軍に敗北し、十字軍の後から来たビザンツ帝国軍に降伏した。その為、十字軍とビザンツ帝国軍には深い不信感が生じる事と成った。

・ドリュラエウムの戦い
ニカイア攻囲戦に勝利し、エルサレムへ向かう十字軍は補給の問題でタラント公ボエモンが率いる小隊と、大軍の本隊に別れた。
1097年7月、アナトリア半島北西部のドリュラエウムで十字軍前衛のボエモン軍とルーム・セルジューク朝及びダニシュメンド朝の連合軍が戦ったが、再びルーム・セルジューク朝が敗北した。

【アンティオキア攻囲戦(1097年10-1098年6)】
・アンティオキア領主VS十字軍
1097年10月、十字軍の前衛部隊はシリア地方のアンティオキアに到着すると、アンティオキア攻囲戦を開始したが、十字軍は完全に包囲出来ずに、戦いは長引いた。12月末、食料調達の為にタラント公ボエモン及びフランドル伯ロベールが戦場を離れると、アンティオキア領主ヤギ=シヤーンがトゥールーズ伯レーモンを襲撃するが、逆に大敗して城に戻った。

・シリア・セルジューク朝ドゥカーク王VS十字軍
十字軍のボエモン公とロベール伯もシリア・セルジューク朝のドゥカーク王から攻撃を受けるが、辛くも勝利してアンティオキアに引き返した。

・ハインリヒ5世の反逆
1098年、ハインリヒ4世は息子のコンラッドからローマ王、イタリア王位を剥奪すると、三男のハインリヒ5世をローマ王位継承者に決めるが、ハインリヒ5世も諸侯の離反を恐れて父に反逆した。

・十字軍国家エデッサ伯国の誕生
1098年、ブローニュのボードゥアンはアンティオキアとエルサレムへ向かう十字軍本隊を離れ、地中海に面したトルコ南部のエデッサに向かうと、エデッサ領主のソロスの養子に成り、十字軍国家のエデッサ伯国を樹立してセルジューク朝から守った。6月頃、ヤギ=シヤーン救援に応じたモースル領主ケルボガと交戦した。

・シリア・セルジューク朝リドワーン王VS十字軍
1098年、十字軍は飢餓に見舞われると、ビザンツ帝国のタティキオス軍が離脱した。2月、十字軍はシリア・セルジューク朝のリドワーン軍と交戦し、勝利した。5月末、が大軍を率いてアンティオキアに出兵したが、途中でエデッサ攻撃に向かった。

・アンティオキアの陥落
1098年6月、ブロワ伯エティエンヌが戦いに嫌気がさし、十字軍から離脱した。その後、アルメニア人衛兵フィルーズがヤギ=シヤーンを裏切り、十字軍のボエモンらと手を結び、アンティオキア城を陥落させると、アンティオキア領主ヤギ=シヤーンは逃走し、息子シャムスは山頂にある城塞で十字軍に抵抗した。やがて、ケルボガ軍が到着すると、逆にケルボガがアンティオキア城ごと、十字軍を包囲した。
その為、多くの十字軍兵士が脱走し、救済に来た皇帝アレクシオス軍も諦めてコンスタンティノープルへ引き返した。

・アンティオキア城外の戦い/イスラム軍の撤退
1098年6月末、ケルボガは十字軍を城外に引きずりだして戦うが、十字軍の数に圧倒され、ダマスカス王ドゥカークらが逃亡し始めると、イスラムの連合軍は崩壊状態となった為、ケルボガ軍も退却せざる負えなくなり、ボエモンが率いる十字軍が勝利した。

・マアッラ攻囲戦/アンティオキア公国
1098年8月、アンティオキアに疫病が蔓延して教皇使節アデマールが病死すると、十字軍諸侯のボエモンと、レーモンが対立し、更に十字軍は飢餓状態に陥り、殆どの者がエルサレムへの関心を見失った。11月に入るとマアッラ攻囲戦を決行して食料を奪った。その際、兵士たちが人肉を食う事件を起きた。更に、ボエモンがアンティオキア領主を主張して諸侯と揉めると、十字軍の進軍が止まった為、巡礼者らがエルサレムへ向かい始めた。099年1月、レーモンが率いる十字軍が再結成され、再び十字軍がエルサレムへ進軍し始めた。一方、ボエモンはアンティオキア公国の確立に専念する。

・ゴール朝の独立
1099年、セルジューク朝の遠征によってガズナ朝が弱体すると、ガズナ朝のゴール地方に住んでいたシャンサバーニー族が独立してゴール朝を築いた。

・アルカ攻囲戦(1099年1-5月)
1099年1月末、レーモン率いる十字軍はシリア内陸のオロンテス川渓谷を南下し、下ロートリンゲン公ゴドフロワとフランドル伯ロベールの別働隊は、2月に地中海沿いに南下し始めた。
レーモンの十字軍本隊はトリポリを攻撃する前に、アルカ攻略を決行したが、市民の抵抗が激しく、3月に別働隊がアルカに到着しても、未だにアルカ攻囲戦を続けていた。5月、十字軍はアルカ攻囲戦を諦め、トリポリに向かった。

・エルサレム攻囲戦い
1099年6、十字軍はトリポリ、ベイルート、ティールの各地から歓迎されながら、ファーティマ朝の領土と成ったエルサレムに到着した。
7月中頃、十字軍はエルサレム城内に入り、エルサレム市民への虐殺が行われ、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方正教会や東方諸教会のキリスト教徒まで殺害された。それが終わると、ゴドフロワが聖墓守護者を名乗り、エルサレムを統治した。

・アスカロンの戦い/十字軍遠征の終結
1099年8月、十字軍はファーティマ朝からエルサレムからの撤退を促されると、アスカロンの戦いでファーティマ朝軍を完全に破ると、十字軍の大半はエルサレムへの巡礼という大目的を果たしたことに満足し、数100人ほどのわずかな騎士を除いてその大半が故国に戻り始めた。

・メリテネの戦い/アンティオキア公国vsダニシュメンド朝
1100年、ダニシュメンド朝キリキア・アルメニア王国の北部が攻めれれると、同盟関係であったアンティオキア公国ボエモン1世がフランス人部隊を引き連れて応援に駆けつけるが、メリテネの戦いにおいてダニシュメンド朝に敗北すると、メリテネを失い、更に多額の身代金を十字軍に請求する為、ボエモン1世を捕虜にした。

・バルキヤールクvsムハンマド・タパル(セルジューク朝の内紛)
1100年、バルキヤールクと異母兄弟のムハンマド・タパルの間で、スルタンを巡って権力争いが巻き起こり、大セルジューク朝は、ムハンマド・タパルとバルキヤールクによって分割統治されるように成った。

・アンティオキア公国の拡大/ビザンチンとの対立
1100年から3年間、ボエモン1世が捕虜に成っていたが、甥のタンクレードが摂政の地位に即き、地中海に面したトルコ南部のキリキアや、シリア北部のアレッポを領地した。すると、ビザンチン皇帝アレクシオス1世はダニシュメンド朝と手を結び、アンティオキアを圧迫した。

・ノルマンディー公の反乱/長兄の抗争
1100年、ノルマンディー公ロベール2世が十字軍遠征中に、次男のウィリアム2世が死去し、三男のヘンリー1世がイングランド王に即位した。その後、ノルマンディー公ロベール2世はノルマンディーに戻ると王位を主張してイングランドに侵攻したが、ヘンリー1世はこれを防ぎロベール2世に王位を承認させた。

1101年の十字軍遠征
1100年9月、第1回十字軍遠征の成功を機に、ヨーロッパ各地でエルサレムへの増援の声が湧くと、ローマ教皇パスカリス2世は新たな遠征軍の編成を企図し、途中で第1回十字軍遠征から離脱した諸侯に圧力を掛けると、ロンバルディア集団、ヌヴェール集団、フランス及びバイエルン集団などが、次々とエルサレムへ赴いた。

・エルサレム王国の樹立/ダマスカス政権の消滅
1100年12月、聖墓守護者のゴドフロワが死去すると、弟のエデッサ伯ボードゥアンはエデッサ伯国を従兄のボードゥアンに譲った後、急いでエルサレムに進軍すると、その途中でダマスカスのドゥカーク王が待ち伏せていた。しかし、トリポリの法治官と組んだボードゥアンによって破られた。その後、ボードゥアンはエルサレム城に入り、エルサレム王ボードゥアン1世に即位してエルサレム王国を樹立した。

・ボエモン1世の救出/アンカラ攻略
1101年5月、トルコのニコメディアで野営したロンバルディア集団は、第1回十字軍遠征に参戦した諸侯軍、及びコンスタンティノープルに滞在していたレーモン軍・ビザンチン帝国のペチェネグ人傭兵部隊と合流後、ニコメディアを出発してドリュラエウムに到着すると、ボエモン1世の救出の為、黒海へと北上し、ルーム・セルジューク朝領(トルコ)のアンカラ、ガングラを攻略すると、7月のカスタモヌ戦でルーム・セルジューク朝と膠着状態に成った。

・メルシヴァンの戦い/ロンバルディア集団の壊滅
1101年8月、メルシヴァンの戦いで、十字軍はルーム・セルジューク朝・ダニシュメンド朝及びシリア・セルジューク朝のアレッポ政権の連合軍と激突し、5つの集団に分かれた。その後、十字軍が大敗すると、ロンバルディア集団(北イタリア人)だけが捕まり、殺された。それ以外の集団は黒海へ逃げた。

・ラクレア・シビストラの戦い/ヌヴェール集団・フランス及びバイエルン集団の壊滅
同年8月、ロンバルディア集団が全滅すると、十字軍のヌヴェール集団もトルコ中南部のヘラクレア・シビストラでクルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝軍の奇襲を受け、壊滅した。同年9月、ヌヴェール集団に続いて、フランス及びバイエルン集団もヘラクレア・シビストラで壊滅させられた。
1101年の十字軍の失敗により、クルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝はアナトリア半島中部の支配を取り戻した為、十字軍国家は海路のみと成った。

・ラムラの戦い/ファーティマ朝VSエルサレム王国
1101年の暮れ、ヌヴェール集団やフランス集団の僅かな生存者がアンティオキア公国に入り、翌年の1102年の復活祭にエルサレムに到着すると、殆どの者が帰還したが、一部の者はエルサレムに残り、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参戦し、敗北した。

・トリポリ包囲戦/レーモンの死
1102年4月、トゥールーズ伯レーモンは地中海の強国ジェノヴァ艦隊の助けをかりて、トリポリ北部のトルトーズやジューバイルを占領すると、更にビザンチン帝国の支援を受け、トリポリを包囲したが、05年にレーモンが死去した。その後、従兄のギヨーム・ジュルダンに引き継がれる。

・西カラハン朝の侵入
1102年、西カラハン朝がセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入し、サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される

・エデッサ伯国VSビザンチン帝国
1103年、エデッサ伯国ボードゥアン2世は、高い身代金と引き換えに、ボエモン1世を開放させると、翌年に、ボエモン1世とボードゥアン2世はビザンチン帝国軍をキリキアから追い払った。

・大セルジューク朝の内紛終結
1104年1月、兄弟の間で和約が結ばれ、バルキヤールクがイラン中央部を、ムハンマドがアゼルバイジャン、アルメニア、北イラクを、ムハンマドの弟サンジャルがゴルガーン、ホラーサーン地方を統治する事が決まった。しかし、暮れにはバルキヤールクが、1105年にはマリク・シャー2世が死亡した為、ムハンマド・タパルが大セルジューク朝の唯一のスルタンに成った。

・十字軍国家のイラク遠征/ハッラーンの戦い
1104年、エデッサ伯国とアンティオキア公国の十字軍国家はシリアのハッラーンを制圧すると、イラク遠征を実施してモースルやバクダットを占領しょうとしたが、ハッラーンの戦いでモースルのムスリム軍に完敗し、ボードゥアン2世と息子ジョスランが捉えられた。その後、ボエモン1世は助けを求めて南イタリアに帰還した為、タンクレードが両国の摂政に即いたが、ビザンチン帝国にラタキアを奪われ、リドワーン王にはシリア領を奪還された。

・ダマスカス政権の消滅/ブーリー朝の建国
1104年、シリア・セルジューク朝のドゥカーク王が死去すると、トゥグ・テギーンがダマスカスの実権を握る事になった。トゥグ・テギーンはドゥカーク王の息子・トゥトゥシュ2世や、ドゥカークの弟のエルタシュを相次いで立てるが、後見人のトゥグ・テギーンの権勢を恐れて、ダマスカスから逃げたため、シリア・セルジューク朝は消滅し、ブーリー朝が誕生した。これによって、シリア・セルジューク朝はアレッポ政権のみと成った。

・大セルジューク朝のシリア遠征/十字軍国家との休戦協定
1104年、ブーリー朝のトゥグ・テギーンはエルサレム王国と休戦宣言を交わすと、シリアにおける十字軍国家群の事実上の支配を許し、それを利用して互いに助け合うなどダマスカスの生き残りを図った。大セルジューク朝のシリア遠征に際し、十字軍と共に対戦してダマスカスを守った。

・ダニシュメンド朝VSルーム・セルジューク朝
1104年、ルーム・セルジューク朝はダニシュメンド朝が弱体し始めると、ビザンチン帝国軍と組んで攻め込んだが、ダニシュメンド朝はアンティオキア公国と手を結んで抵抗した。

・アンティオキア公国のアレッポ奪還
1105年、タンクレードはシリア・セルジューク朝のアレッポ政権・リドワーン王と戦い、オロンテス川以東の領土をアレッポ周辺を征服すると、シリアの強国としてアンティオキア公国を君臨させた。

・イングランドのノルマンディー遠征
1105年、イングランド王にヘンリー1世が即位した後も、ロベール2世がイングランド襲撃を繰り返した為、ヘンリー1世はノルマンディー遠征を決行し、06年のタンシュブレーの戦いでロベール2世の反乱軍を制圧すると、ロベール2世を幽閉して殺した。

・ハインリヒ5世の即位
1106年、有力諸侯やローマ教皇らに息子のハインリヒが支持され、ドイツ王ハインリヒ5世に即位すると、父の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は廃位されて急死した。

・エデッサ伯国とアンティオキア公国の対立
1107年、ボードゥアン2世が開放されると、エデッサ伯国の実権を巡り、ボードゥアン2世とタンクレードが争いを始め、タンクレードが破れた。その後、タンクレードはアンティオキア公国に帰ると、ビザンツ 帝国皇から地中海のラタキアを取り戻した。

・ルーム・セルジューク朝のモースル遠征/混乱
1107年、ムハンマドに抵抗しているモースルの市民に頼まれて、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はモースル遠征を行い、ハッラーンや、ディヤルバクルや、モースルなどを占領すると、ハーブール河畔で、大セルジューク朝・アルトゥク朝・アレッポ政権のリドワーン王などの連合軍に攻められて大敗し、クルチ・アルスラーン1世は敗走中に溺死した。その後、5人の息子らによって後継問題が勃発し、内訌に介入したビザンツとダニシュメンド朝によって領土の一部を奪われる。

・マズヤド朝の敗北
1107年、大セルジューク朝のムハンマドはモースルを奪還した後、「アラブ人の王」を称するマズヤド朝スィドカ1世に勝利した。

・大セルジューク朝のゴール朝支配
1108年、ゴール朝はアフガニスタン北西部からイランにかけてのホラーサーンに拠るセルジューク朝のサンジャルによる支配を受け、セルジューク朝に服属した。やがて、ゴール朝とガズナ朝が対立して行くことに成る

・デヴォル条約/アンティオキア公国の独立
1108年、ヨーロッパで援軍を探していたボエモン1世は、ビザンチン帝国の強大さを前についに抵抗をやめることを決意し、デヴォル条約でアレクシオス1世に臣従することを誓い、アンティオキア公国はビザンチン帝国の封臣国家であると約束するが、摂政のタンクレードが拒んだ為、ビザンチン帝国から独立した。

・トリポリ伯国の樹立
1109年、従兄のギヨーム・ジュルダンがトリポリを4年間包囲し続けると、エルサレム王やタンクレードなどの援軍を得て陥落し、トリポリ伯国を樹立したが、レバノンの継承権を争ったレーモンの庶子のベルトランに暗殺され、トリポリ伯国の領主はベルトランが成った。

・ポンテ・マンモロ協約/神聖ローマ皇帝の破門
1110年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は叙任権闘争を解決するため、ローマ遠征を決行した。翌年にはローマ教皇パスカリス2世との間でサンタ・マリア・イン・トゥーリ条約が交わされ、教会は土地などの所有権を放棄する代りに、教会の叙任権が認められた。しかし、直ぐにドイツの聖職者たちの反乱が起こった為、ハインリヒ5世は挙兵してローマから教皇や高位聖職者らを拉致し、新たにポンテ・マンモロ協約を結び直した。これにより、ローマ教会側はハインリヒ5世を破門し、事実上ポンテ・マンモロ協約はあっという間に破棄され、諸侯とハインリヒ5世は対立を深めていった。

・ボヘミアの内戦
1110年、長男のヴィプレヒト3世は母方の伯父に当たるボジヴォイ2世をボヘミア公に復位させようと図ったが、ハインリヒ5世の不興を買って、ヴィプレヒト3世は親子共々、ハンマーシュタインの城幽閉されるが、しばらくして開放された。

・シリア・セルジューク朝とアンティオキア公国の同盟
1111年、ボエモン1世が死去すると、摂政のタンクレードがボエモン1世の息子を即位させるが、翌年にタンクレードも病死した為、摂政にサレルノ伯ロジェが即いた。一方で、シリア・セルジューク朝・アレッポ政権のリドワーン王は大セルジューク朝のモースル総督やルーム・セルジューク朝との抗争の為、アンティオキア公国と手を結んだり、シーア派の過激派教団ニザール派(暗殺集団)を保護し始めた。

・イングランドのシュルーズベリー伯の反逆
1112年、イングランドのシュルーズベリー伯ロバート・オブ・ベレームはノルマンディー公ロベール2世の息子・ギヨームを保護してヘンリー1世に反逆するが、捉えられてシュルーズベリー伯を剥奪された。

・シリア・セルジューク朝の無政府状態
1113年、リドワーン王が死去すると、法治官のハシャーブがニザール派教団員を粛清し、リドワーンの子アルプ・アルスラーンを即位させたが、アルプ王は狂乱政治を行った為、114年には摂政のルウルウよって暗殺された。その後、幼いスルターン・シャーが即位すると、アレッポ政権はアンティオキア公国やニザール派の圧迫によって無政府状態に成った。

・大セルジューク朝とアルトゥク朝の対立
1114年、大セルジューク朝のムハンマドと対立を深めて行ったアルトゥク朝のイル・ガーズィームはブーリー朝やアンティオキア公国と同盟を結び、ハンマド・タパルが率いる大セルジューク朝とモースルの連合軍と戦い、翌年には大勝利を収めた。

・ドイツ王の反皇帝同盟
1113年、ヴィプレヒト2世はテューリンゲン伯ルートヴィヒ・デア・シュプリンガー(テューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世の父)及びヴァイマール=オーラミュンデ伯ジークフリート2世と反皇帝同盟を結んだが、マンスフェルト伯ホイヤー1世に打ち負かされた。

・ヴェルフェスホルツの戦い
1115年、父のヴィプレヒト3世は反皇帝派のザクセン公ロタール・フォン・ズップリンブルク側に参戦ザクセン公ロタールと共にハインリヒ5世に勝利した。

・セルジューク朝のガズナ支配
1115年、ガズナ朝で後継者問題が勃発すると、セルジューク朝のホラーサーン領主サンジャルが介在して首都ガズナを征服し、1117年2月にはバフラーム・シャーを傀儡君主として即位させた。

・ルーム・セルジューク朝のダニシュメンド朝侵略
1116年、ダニシュメンド朝と同盟したマスウード1世が、ビザンツ攻撃で成果を挙げられないマリク・シャーを廃位し、ルーム・セルジューク朝のスルターンに即位すると、ダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝を攻撃し、アンカラ、チャンクルを占領した。

・シリア・セルジューク朝の消滅/アルトゥク朝のシリア進出
1117年、ルウルウの暗殺が起きると、シリア・セルジューク朝の支配は崩れ始めた為、ハシャーブはアルトゥク朝のイル・ガーズィーを後見人に指名すると、翌年にはイル・ガーズィーはリドワーンの娘と結婚し、アレッポ政権の実権を握り、シリア・セルジューク朝のスルターン・シャーを廃位した。

・セルジューク朝のゴール支配
1117年、セルジューク朝のサンジャルはガズナ朝の地方政権であるゴール朝を征服した。

・ブレミュールの戦い/フランス王国VSノルマンディー公国
1118年、ギヨームを保護したボードゥアン7世の反乱軍がアルク包囲戦でヘンリー1世軍に敗れると、翌年にギヨームはフランス王に即位したばかりのルイ6世に保護され、セーヌ川下流のノルマンディー公国へ攻め込みたが、ブレミュールの戦いでヘンリー1世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の連合軍に敗北した。

・大セルジューク朝の分割統治
1118年4月、大セルジューク朝の第7代スルタンであるムハンマド・タパルが死去すると、大セルジューク朝はムハンマドの弟・アフマド・サンジャルと、ムハンマドの長男・マフムード2世との間で分割統治された。マフムード2世にはイラン・イラク領が与えられた。

・イスラムのムラービト朝のイベリア撤退
1118年12月、アラゴン王アルフォンソ1世がサラゴサの奪還に成功すると、カスティーリャのアルフォンソ7世にも遠征軍を送られて、後退を余儀なくされていた。

・アンティオキア公国の衰退/サルマダの合戦
1119年、エルサレム王ボードゥアン1世が死去したのを機に、エデッサ伯ボードゥアン2世がエルサレム王に即位した為、エデッサ伯にジョスラン1世が即位した。一方、アンティオキア公国はサルマダの合戦でアルトゥク朝とブーリー朝の連合軍に敗北し、サレルノ伯ロジェを失うと、エルサレム王ボードゥアン2世がアンティオキア公国の摂政を兼ねた為、アルトゥク朝はグルジア、ビザンツなどキリスト教勢力とは交戦しなかった。

・大セルジューク朝の再興/イラク・セルジューク朝の誕生
1119年8月、イラク・セルジューク朝のマフムード2世はイランのサーヴェの戦いで叔父のサンジャルに大敗し、大セルジューク朝を宗主国に認めた。更に、サンジャルの娘と結婚して、イラク・セルジューク朝のスルタンに成った。

・ノルマンディー公ロベール2世の遺児ギヨームとシビーユの結婚
1120年、ホワイトシップの遭難によりヘンリー1世の息子ウィリアムが死去すると、ノルマン貴族はギヨームを支援し始め、アンジュー伯フルク5世も未亡人と成った娘シビーユをロベール2世の遺児ギヨームに嫁がせ、メーヌ伯領を与えた。

・イラク・セルジューク朝のグルジア遠征
1121年、イラク・セルジューク朝マフムード2世はアルトゥク朝のイル・ガーズィーを使って、グルジア侵攻を試みるが、マフムード2世は失敗してトビリシ領を失った。一方、イル・ガーズィーはマイヤーファーリキーンを獲得した。

・ムワッヒド信者の反乱/ムラービト朝
1121年、ムラービト朝のマーリク派が、同じベルベルのマスムーダ族のイブン=トゥーマルトに批判され始め、神の唯一性を重視する彼の信徒(ムワッヒド)と共に、ムラービト朝への反乱が各地で起こるように成った。
※イスラム教徒は四法学に従う→コーラン・ハディース(ムハンマドの言行録)・イジュマー(イスラム共同体の合意)・キヤース(類推的判断)

・ポルトゥカーレVSレオン
1121年、ポルトゥカーレ伯領を巡って、妹テレサと姉ウラカの長い戦いが終わると、テレサのポルトゥカーレ伯領はレオン領になった。

・ヴォルムス協約/叙任闘争の終わり
1122年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間で、皇帝が教皇の聖職叙任権を認めるヴォルムス協約が結ばれて、叙任権闘争に終止符が打たれた。

・ユーフラテス川の戦い/十字軍国家vsアルトゥク朝
122年、アルトゥク朝のバラクが、ユーフラテス上流でエデッサ伯国と戦って勝利し、ジョスラン1世を捕虜にした。その後も、イスラエル王国と戦い、ボードワン2世を捕虜にした。123年、バラクはアレッポからシリア・セルジューク朝のスルターン・シャーを追放、ついでハルトパルトの本拠での十字軍捕虜と同地のアルメニア人による反乱を鎮圧した。

・ザクセンの自立/神聖ローマ皇帝の崩御
1123年、マイセン辺境伯ハインリヒ2世の死去に伴って、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は家臣のヴィプレヒト2世をマイセン辺境伯に任命したが、コンラートとザクセン公ロタールの同盟軍により、ヴィプレヒト2世を追放され、コンラートがマイセン辺境伯に即いた。

・2度目のノルマン貴族の反乱
1124年、ヘンリー1世は教会法に強く訴えたが、最終的にギヨームとシビーユの結婚は血縁関係の近さを理由に無効にされると、深刻な貴族の反乱が、ギヨームを支持するノルマンディーで起きた。ところが反乱は、ヘンリー王の情報網と指導者の組織化の欠如で敗北した。

・アルトゥク朝のマンビジ包囲戦
1124年、シリアのマンビジがエデッサ伯国と同盟を結び独立を企てると、アルトゥク朝のバラクはマンビジ包囲戦を開始して戦死すると、バラクの領地が甥のティムルタシュと、ヒスン・カイファー領主のダーウードによって分けられた。

・アルトゥク朝のアレッポ撤退/シリア・セルジューク朝の断絶
1124年、アルトゥク朝のティムルタシュは十字軍と同盟を結んだシリア・セルジューク朝のスルタン・シャーから圧迫されると、ボードワン2世を釈放し、アレッポからマルディンへと戻った。その後、スルタン・シャーが死去すると、アレッポの裁判官の決断により、モースル総督アル・ボルソキの保護下に入る事が決まると、暗殺集団によって二人とも殺された。

・西遼の建国
1124年、遼の属国であった金朝に追われ、遼の皇族である耶律大石が中央アジアのトルキスタンに逃れて西遼を建国する。翌年、金は内モンゴルを支配し、南宋と対峙した。

・イングランド女王の誕生
1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世が死去すると、その皇后マティルダはイングランドに返され、ヘンリー1世により、イングランド女王に即位した。3年後には、フランスのアンジュー伯ジョフロワ4世と再婚させられた

・ローマ王ロタールvs対立王コンラート(1127 - 1135)
1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の死去に伴い、マインツで次王の選挙が行われ、ザクセン公ロタールがローマ王に選ばれ、ロタールがローマ王ロタール3世した。
127年、シュヴァーベン大公フリードリヒ2世が弟コンラートを対立王に擁立して、ロタール3世と軍事衝突し、8年後、コンラートが王位を放棄した。

・ブルゴーニュ朝/カスティーリャ=レオン王国を樹立
1126年、カスティーリャ=レオン女王ウラカが死去すると、息子のガリシア王アルフォンソ7世がカスティーリャ=レオン王に即位してブルゴーニュ朝を開き、ヒスパニア皇帝として周辺諸国から宗主権を求め始めた。

・フランドル伯の後継者問題/アクスポールの戦い(フランスvsイングランド)
1127年、フランドル伯シャルルが聖職者ベルテュルフによって暗殺されると、ルイ6世はギヨームをフランドル伯に推薦すると、イングランド王ヘンリー1世の支援を受けたティエリーが現れ、伯位継承を巡って争いが勃発した。
128年、サントメールとヘント及びブルッヘなどの都市がギヨームに反旗を翻すと、アクスポールの戦いが起こり、ギヨームはノルマンとフランス騎士の同盟軍と共に、ティエリーを破った。その後、アールスト包囲戦でギヨームが急死した為、ティエリーがフランドル伯に成った。

・イラク・セルジューク朝のバグダード遠征
1127年、アッバース朝の29代カリフ・ムスタルシドが勢力を回復すると、イラク・セルジューク朝がバグダード遠征を行い、カリフ軍と戦ったが、マフムード2世軍は苦戦を強いられ、バスラのザンギーによって助けられた。

・ダマスカスのブーリ朝VS十字軍
1128年、ブーリー朝のトゥグ・テギーンが死去して息子のブーリが即位すると、彼はニザール派を大規模に粛清し、エルサレム王ボードゥアン2世をはじめとする十字軍諸国連合とテンプル騎士団の連合軍と戦って勝利し、最大の危機を乗り越えた。

・ザンギー朝の誕生
1128年、マフムード2世からモースルの太守に任ぜられたザンギーは、混乱状態に陥ったアレッポに入ると、アルトゥク朝アタベクのバラクの妻だった女性と結婚し、自らアタベクと成り、イラク・セルジューク朝から独立してザンギー朝を開いた。

・ポルトゥカーレ伯領(ポルトガル)の独立/カスティーリャ=レオン王国
1128年、アフォンソはガリシア貴族と結託する母テレサに不満を抱くポルトガル貴族から支持を集め、ギマランイス近郊のサン・マメデの戦いで母とフェルナン・ロペスらガリシア派を破り、彼らをガリシアに追放し、母を捕まえてガリシアの修道院へ幽閉した。翌年、アフォンソはポルトゥカーレ伯アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ=レオン王国からの独立を宣言した。

・エルサレム王ボードゥアン2世のシリア遠征
1129年、ボードゥアン2世は捕虜から開放されると、アレッポやダマスカスの占領を試みたが失敗し、31年に死去し、エルサレム王国をアンジュー伯フルク5世と娘のメリザンドに託した。

・反セルジューク派のブーリー朝とザンギー朝との攻防
1130年、ブーリー朝のブーリは、ザンギーに騙され、共同で十字軍攻撃するために、アレッポに向けて出兵した。その後、ザンギーは油断させ、ブーリの子や弟を人質にし、ハマの街と身代金を奪った。

・ムワッヒド朝の樹立
1130年、アブド・アルムーミンがムワッヒド集団の指導者に任命されると、アミール・アルムウミニーンと名乗り、アッバース朝のカリフからの独立を宣言し、ムワッヒド朝を築くと、アトラス山中のティンマルを拠点にし、モロッコの首都マラケシュ攻略戦を開始した。

・ローマ教会の内紛(シスマ)/シチリア王国の誕生
1130年、ローマ教会は教皇ホノリウス2世の死去に伴い、インノケンティウス2世とアナクレトゥス2世が、両立するシスマに陥った。その結果、教皇インノケンティウス2世はローマ王ロタール3世を支持し、対立教皇アナクレトゥス2世はシチリア伯ルッジェーロ2世を支持した。これにより、ルッジェーロ2世は対立教皇から戴冠を受け、シチリア王国を建国した。3年後、ローマ王ロタール3世も戴冠し、神聖ローマ皇帝に成った。

・大セルジューク朝のサマルカンド遠征
1130年、サンジャルはのカラハン朝の首都サマルカンド遠征を実施し、カラハン朝のアフマドをは廃位し、自らの甥のマフムード2世を即位させた。

・大セルジューク朝のイラン遠征/イラク・セルジューク朝の相続争い
1131年、イラク・セルジューク朝のマフムード2世が死去すると、サンジャルは弟のトゥグリル2世を即位させたが、兄弟のマスウードが反旗を翻した為、再びサンジャルはイラン遠征を実施し、ダイナワル付近でマスウード軍を破った。

・ザンギー朝のバグダード遠征
1131年、イラク・セルジューク朝の後継者争いが起きると、アッバース朝カリフ・ムスタルシドが権威回復を図った為、ザンギーはデュバイスと共にバグダードに進軍し、ムスタルシド自ら率いるカリフ軍と交戦して敗れた。

・ルーベン朝のキリキア支配(第一王朝)
1132年、キリキア・アルメニア王国のルーベン朝が東ローマ勢力を排除して、海岸を含むキリキア地方の全域を手中に治めた。

・ブーリー朝の内紛
1132年、ブーリー朝のブーリがニザール派によって暗殺されると、息子のイスマイルが即位し、ニザール派を討った。その後、イスマイルは莫大な資金を軍事費に費やして市民から反感を買うと、イスマイルは弟サウィンジをはじめ宮廷内外のあらゆる者たちを処刑し始めた。

・アッバース朝のモースル遠征
1133年、前年の戦いでザンギーを破ったアッバース朝カリフ・ムスタルシドはイラク・セルジューク朝の第4代スルタンにマスウードを任命すると、ザンギーの息の根を止めるため、モースル包囲戦を開始した。

・アラゴン王国vsカスティーリャ=レオン王国
1133年、メキネンサ攻撃で、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ7世と対立していた継父・アラゴン王アルフォンソ1世に、カスティーリャの東部を侵略された。翌年、アルフォンソ7世はフラガ包囲戦でアラゴン軍を破り、アルフォンソ1世を戦死させた。

・アルフォンソ7世のレコンキスタ(1133-1143)
1133年、タイファのサラゴサ王国の協力を取り付け、南下してグアダルキビール川を越えてグアダレーテ川下流域にあるヘレス・デ・ラ・フロンテーラを略奪し始め、1143年までにはタホ川流域のムスリムを排除した。

・ナバラ及びアラゴンの同君連合解消/カスティーリャ宗主国の誕生
1134年、アラゴン王サンチョ1世による併合以来58年に渡り、アラゴンとナバラは同君連合となっていたが、アラゴン・ナバラ王アルフォンソ1世の崩御を機に、アラゴン王国とナバラ王国は、それぞれ王を立てる事になり、アラゴン王にアルフォンソの弟ラミロ2世が、ナバラ王にガルシア6世が即位した。その後、アラゴン王国はカスティーリャ王国と主従関係を結び、翌年にはナバラ王国も従った。

・マスウード(1134-1152)の即位/イラク・セルジューク朝
134年、トゥグリル2世が死去したため、サンジャルは仕方なくマスウードをイラク・セルジューク朝の第4代スルタンに即位した。

・アッバース朝のムスタルシド暗殺
1135年、ムスタルシドがモスル奪取に失敗すると、部下の武将たちから見放されて、イラク・セルジューク朝のマスウードに捉えられ、乱入してきたニザール派の刺客に殺された。その後、ムスタルシドの子のラーシドがカリフに即位し、イラク・セルジューク朝のマスウードを討とうとして失敗し、逆にマスウードによって廃位され、136年にはムスタルシドの弟・ムクタフィーがカリフに即位した。

・ザンギー朝のダマスカス遠征/休戦協定
1135年、ブーリー朝のイスマイルが、ザンギー朝にダマスカスを売り渡した為、母によって殺害された。その後、もう一人の息子マフムードを即位させた。やがて、ブーリー朝の将軍ウヌルとザンギー軍が長い攻防戦を繰り返した後、ザンギー朝と休戦協定を交わした。帰国の途中、ザンギーはホムス城を襲ったが、またもやウヌル軍に阻止された。

・イングランドのブロワ朝の樹立(1135-1154)
1135年、イングランド王ヘンリー1世が死去すると、王女のモード(マティルダ)と、夫のアンジュー伯ジョフロワ4世が共に、イングランドの王位後継者に指名された。しかし、ブロワ伯家のエティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、カンタベリー大司教を説得してイングランド王スティーブンに即位し、ブロワ朝を開いた。

・ビザンチン帝国のキリキア遠征
1136年、ビザンチン皇帝ヨハネス2世コムネノスはキリキア遠征を実施し、キリキア全土がビザンチン帝国に併合すると、ルーベン朝のレヴォン1世を幽閉した。

・ガズナ朝の反乱/大セルジュークの遠征
1136年、傀儡だったガズナ朝のバフラーム・シャーが反乱を起こしたが、大セルジュークのサンジャルは遠征して再び征服した。

・南イタリア遠征/神聖ローマ皇帝の崩御
1136年、前年に開かれたメルゼブルク会議で、東ローマ帝国皇帝ヨハネス2世コムネノス及びヴェネツィア共和国総督にシチリア討伐を依頼され、神聖ローマ皇帝ロタール3世が南イタリア遠征を実施するが、シチリア王国の打倒にまでは至らず、翌年には帰路に付き、途中で死亡した。



続く



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ヨーロッパの歴史・経済--中世/初期その2

2017年03月27日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史と経済-中世/初期その2


◆中世初期(10世紀~)

・ムラディのバヌー=カシ家討伐/イスラム教徒の排除
901年、アルフォンソ3世はメリダ領主と共にクーデターを起こし、バラゲー地域を支配していたムラディのバヌー=カシ家を倒し、エブロ川沿いのトゥデラに住んでいたイスラム教徒を排除した。

・最後の西ローマ皇帝/ベレンガーリオ1世
901年、ローマ皇帝アルヌルフの死去により、プロヴァンス王ルイ3世が教皇ベネディクトゥス4世から皇帝に戴冠をされた。翌年、ベレンガーリオ1世はマジャール人の傭兵を率いて新皇帝ルイ3世と激突して勝利を治め、ルイ3世をプロヴァンスに追い返した。05年、再び両者は戦い、ルイ3世はヴェローナに幽閉された。915年、教皇ヨハネス10世よりベレンガーリオ1世は最後の西ローマ皇帝に即位した。

【イスラムの三カリフ時代】
・ファーティマ朝(909 - 1171)/アフリカの覇権
905年、アッバース朝からトゥールーン朝が独立してエジプト及びシリアを支配したが、再びシーア派の騒乱を機に、アッバース朝に討たれた。09年、アッバース朝を宗主国としてチュニジア・シチリア島を支配していたアグラブ朝イスマーイール派のファーティマ朝に滅ぼされた。910年には、ファーティマ朝のウバイドゥッラーが自らをカリフと名乗ると、929年には後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世もカリフと名乗り、アッバース朝・後ウマイヤ朝・ファーティマ朝がアフリカ覇権を巡る三カリフ時代が到来する。


・ルーシ・ビザンツ条約(907-911)
キエフ大公オレグはビザンツ帝国のコンスタンティノポリスを襲撃してルーシ・ビザンツ条約を結ばさせ、ルーシ商人をコンスタンティノポリスに移住させるのに成功させ、キエフ・ルーシを繁栄させた。

【修道院改革運動】
910年、フランスのブルゴーニュ地方に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院、つまりクリュニー修道院が建てられると、教会・修道院の堕落に対して本来の信仰主体の回復を目指す修道院改革運動が始まった。ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えて行った。

・レオン王国・ガリシア王国・アストゥリアス王国←アストゥリアス王国の三分裂
910年、アストゥリアス王アルフォンソ3世は息子ガルシアの反乱した為、ガルシアを捉えると、嫁のヌノがヒメナ、フルエーラ、オルドーニョに支持されて反乱を引き起こし、ガルシアを釈放させた。その後、アルフォンソ3世はサモラで隠居した。
その後、アストゥリアス王国はレオン王国ガリシア王国、アストゥリアス王国に三分割された。

・西フランク領ノルマンディー公国の誕生
911年、シャルル3世はノルマン人の長ロロと条約を結び、フランス北部のノルマンディー地方にノルマンディー公国を建国させた。

・ブルガリア皇帝の誕生
913年、ビザンツ帝国アレクサンドロスが貢納金を断ると、再びシメオン1世がビザンツ帝国を攻撃し、貢納金を払わせ、コンスタンディヌーポリ総主教ニコラオスから皇帝として戴冠された。やがて、それを取り消す姿勢をビザンツ帝国が見せると、イスラムのファーティマ朝と手を組んだが、927年にシメオン1世が死去すると、急に弱体して行った。

・レオン王国の併合/ガリシア王国
914年、レオン王ガルシア1世が死去すると、ガリシア王オルドーニョ2世はレオン王国を併合し、首都をレオンに移した。その後、オルドーニョ2世はイスラムのメリダやエヴォラを略奪し、地元のイスラム教徒総督に購入するよう強要した。また、パンプローナ王サンチョ1世と同盟を結び、コルドバの太守アブド・アッラフマーン3世と対抗した。17年のサン・エステバン・デ・ゴルマスの戦いでイスラム軍を破り、18年にはバヌ・カシー家からアルネードとカラオーラを奪った。

【ドイツ王国/神聖ローマ帝国時代へ】
・東フランク→ドイツ王国
919年、非フランク人のハインリヒ1世が東フランク王に即位する事で、東フランク王国はドイツ王国に変わって行った。就任当初、バイエルン公アルヌルフが対立王に選ばれたが、2年後には降参させた。また、西フランク王シャルルのも東フランク王である事認めさせた。

・バルデフンケーラの戦い/パンプローナ王国の敗北
920年、後ウマイヤ朝のアブド・アル・ラフマーン3世はオスマとサン・エステバン・デ・ゴルマス奪還に乗り出し、バルデフンケーラの戦いでパンプローナのキリスト教徒軍を破り、トゥイとサラマンカの司教を逮捕した。

・カスティーリャの伯爵の殺害/
920年、パンプローナ王サンチョ1世の要請によりレオン王オルドーニョ2世は、直に後ウマイヤ軍に反撃を開始し、ラ・リオハを占領、ナバーラにナヘラとビゲーラを併合した。その後、キリスト教徒軍の敗北を招いたカスティーリャの伯爵たちを殺害と、カスティーリャ貴族と対立する様に成った。

・西フランク/ロベール朝の誕生
922年、パリ伯ロベールのクーデターにより、シャルル3世は廃位され、ロレーヌへ逃れた。その後、ロベールが、西フランク王として戴冠した。
23年、再びロベールは廃王シャルルとソワソンの近くで交戦して勝利するが、自身は戦死してしまった。その後、廃王シャルルは娘婿のラウールと、ロベールの息子ユーグ大公に捉えられて幽閉された。
同年7月にラウールが西フランク王に即位した。その後、ロワール川から侵入するヴァイキングを退けた。
925年、ロートリンゲンをドイツ王ハインリヒ1世に奪われ、ドイツ領はフランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、ロートリンゲンになった。
936年、ラウールが病死した為、ユーグ大公はカロリング朝ルイ4世を即位させた。

・イタリアの諸家対立王時代
922年、イヴレーア辺境伯がブルグント王ルドルフ2世をイタリア王に即位させ、皇帝ベレンガーリオ1世からイタリア王の位を奪った。その後、ベレンガーリオ1世は報復の為、ルドルフ2世がブルグントに帰還した時を狙って、ハンガリー人傭兵軍を派遣し、パヴィアを占領した。
しかし、ハンガリー人傭兵が虐殺を行なった為、24年にベレンガーリオ1世が暗殺され、ローマ皇帝も空位に成った。その後、ルドルフ2世もイタリア貴族から嫌われ、プロヴァンス公ユーグ・ダルル(ウーゴ)をイタリア王に立てて挙兵する。
26年、ルドルフ2世はイタリアから撤退し、ウーゴがイタリア王に即位した。しかし、イタリア王の象徴である聖槍はドイツ王ハインリヒ1世に渡された。
28年、プロヴァンス王ルイ3世が死去すると、ウーゴはプロヴァンスの実権を握った。31年には、息子ロターリオ2世をイタリア王に即位させた。32年、ウーゴは異父弟トスカーナ辺境伯グイードの未亡人マロツィアと結婚式を挙げると、その最中にアルベリーコ2世のクーデターが起こった。その為、33年に、ルドルフ2世と同盟を結び、プロヴァンスのヴィエンヌとリヨネーを譲る代わりに、イタリアのすべての権限を放棄させた。

・アストゥリアス王国の併合/レオン王国の再分配
924年にオルドーニョ2世が死去すると、弟のアストゥリアス王フルエーラ2世がレオン王に即位し、アストゥリアス王国を併合した。翌年、ハンセン病に罹患して数日で急逝した為、フルエーラ2世の長男のアルフォンソが即位すると、後継者争いが勃発し、オルドーニョ2世の三人の息子たちはパンプローナ王ヒメノの力を借りてアルフォンソ・フロイラスをアストゥリアス東部の辺境へ退け、残った領土を3兄弟で分割した。

・ドイツの領地拡大/バイキング退治
926年、ハインリヒ1世は貢納金の支払を約束して、マジャール人と9年間の休戦協定を結ぶことに成功した。その間、エルベ川を越えてたマイセンに要塞を築き、ボヘミア公ヴァーツラフ1世にドイツの宗主権を認めさせた。33年、ドイツの全部族連合軍を率いてマジャール人をドイツから追いやった。翌年にはデンマークのバイキングを退治した。内政面では分割相続を禁止して単独相続に切り替えた。36年、ハインリヒ1世が死去し、オットーがドイツ王に即位するが、母親の反対によって兄弟で争うように成った。38年、異母兄タンクマールや弟のハインリヒが反旗を翻し、窮地に立たされるが、シュヴァーベン大公ヘルマン1世に救われた。

・イングランド王国の建国(927-1707)
アングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一

・ズィヤール朝(928-1043)の建国
928年、サーマーン朝がカスピ海の南岸に興ったザイド派のアリー朝を滅ぼすと、サーマーン朝に仕えていたマルダーウィージュがこの地域にズィヤール朝を建国し、イラン高原のゴルガーン、タバリスターン地方、カスピ海沿岸のギーラーン地方、アルボルズ山脈南麓のレイやクーミス地方を支配した。

・アルフォンソ4世の反乱
932年、ガリシア王国とレオン王国の統治をアルフォンソ4世から託されたラミロ2世は後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世軍に包囲されているトレド救出に挙兵すると、アルフォンソ4世が復位を企んで反乱を起こすが、カスティーリャ伯フェルナン・ゴンサレス、パンプローナ王サンチョ1世の協力を得て兄アルフォンソ4世を捕まえてルイフォルコ修道院に幽閉した。その後、マドリードに進撃して後ウマイヤ朝を破った。

【イスラムの二重構造の始まり、カリフ:宗教的権威、アミール:世俗的権威】
・ブワイフ朝(932 - 1062)の建国
932年、ズィヤール朝が内紛に陥るのを機に、イラン・イラク地方でイマード・ウッダウラがブワイフ朝を建国した。

・イフシード朝の建国(935-969)
935年、アッバース朝エジプト総督ムハンマドがアッバース朝から半独立してエジプトにイフシード朝を建国し、ファーティマ朝の侵攻からエジプトを守った。

・カロリング朝の復活/西フランク王国
936年、ユーグ大公はカロリング朝のルイ4世を西フランク王に即位させたが、統治権はランの街と北フランスしか与えなかった。39年、ロタリンギアを巡ってドイツ王オットーと争ったが、ルイ4世はオットーの妹と結婚した為、ロタリンギアはドイツ領に成った。この頃から、ユーグ大公との対立が始まった。
45年、ルイ4世はノルマン人と戦って捕らわれた時、ユーグ大公はピカルディ領地と交換に救い出した。
54年、ルイ4世が落馬して死去すると、ユーグ大公は息子のロテールが西フランク王に推薦し、代償にブルゴーニュとアキテーヌとを得た。そして、2年後にユーグも死去した。

・シマンカスの戦い/後ウマイヤ朝の大敗
939年、ラミロ2世はスペイン史上最大規模の戦闘であるシマンカスの戦いを繰り広げ、後ウマイヤ朝を大敗させ、ドゥエロ川とトルメス川の辺境にまで領土を広げた。レデスマ、サラマンカといった土地に再植民が行われた。

・イタリア王ウーゴの廃位/ベレンガーリオの即位
941年、アルベリーコのクーデターを機に、要職を親族や友人に分け与え続けたイタリア王ウーゴは、ベレンガーリオ伯からイヴレーアを取り上げ、ドイツへ追放した。その後、45年にドイツから帰還したベレンガーリオによってウーゴは廃位された為、
短い間ロターリオ2世が単独王と成るが、直にウーゴも王に復帰する。2年後、ウーゴは死去すると、950年にベレンガーリオはロターリオ2世を毒殺し、イタリア王に即位した。

・イスラムのシリア分割統治
942年、ハムダーン朝のハサンがアッバース朝を牛耳る大アミールのイブン・ラーイクを討つと、バクダットに入城すると、ハムダーン朝のが大アミールに任命されると、アッバース朝の政権を牛耳った。44年には、シリア地方に進軍してアレッポを占拠した後、イフシード朝と協定を結んでシリア地方を分割統治した。一方ではマケドニア朝東ローマ帝国の東アナトリア・北シリアへの攻勢が激化し、キリキア方面の北部領土を奪われた。

・カスティーリャ伯フェルナンの反乱/スペイン
944年、辺境地帯にレオン軍を駐留させるラミロ2世に不満を持ったフェルナンは反乱を起こし、カスティーリャ伯の称号を剥奪された。ラミロ2世は自身の子サンチョをカスティーリャ伯とし、重臣アンスル・フェルナンデスを摂政においた。

イラン高原でのイスラム覇権
・ブワイフ朝とハムダーン朝の覇権争い
945年、ブワイフ朝がハムダーン朝からアッバース朝の保護権を奪うと、大アミールの地位を世襲制にし、アッバース朝のカリフには何の権限も与えなく成った。これ以降、ハムダーン朝とブワイフ朝はバグダードの支配権とカリフの庇護権をめぐって激しく争ったが、ハムダーン朝はブワイフ朝に圧迫されて勢力を失っていった。
※ブワイフ朝がアッバース朝の権力を握ると税制がアター制からイクター制に!

・アデライーデの救出/ドイツのイタリア介入
950年、イタリア王ベレンガーリオはアダルベルト2世との結婚を拒んだ未亡人アデライデを幽閉しすると、ドイツ王オットーの息子リウドルフがアデライーデ救出にイタリア遠征を行なった。しかし、父オットーに無断で行なった為、オットーは激怒し、弟ハインリヒと婿コンラート赤公の大軍を率いてイタリアへ向かい、アデライーデを救い出した。

・イタリア総督/息子リウドルフの乱
51年、オットーはアデライーデを後妻してイタリア王を名乗り、ベレンガーリオをイタリア総督に任命した。52年にはアデライーデがオット2世を産むと、翌年にはリウドルフの乱が勃発し、オットーは窮地に立たされるが、非キリスト教徒であったマジャル人たちが攻め込んで来た為、リウドルフに味方する貴族がいなく成り、父オットーに降参した。

・ユーグ大公の死/西フランク王国
956年、ユーグ大公が没し、幼い息子のユーグ・カペーがフランク公位に即いた為、ロテールの叔父でケルン大司教のブルーノが西フランク王国の摂政役を務めた。また、ブルゴーニュ公の死去に伴い、後継者問題でカペーと西フランク王ロテールが対立した。

・サンチョ1世の廃位とレオン王位回復/レオン王国
951年、王位継承権を巡って異母兄オルドーニョ3世とサンチョ1世が対立するが、56年にオルドーニョ3世の急死によってサンチョ1世が即位した。2年後、サンチョ1世は肥満を理由にフェルナン・ゴンサレス率いるレオン貴族・カスティーリャ貴族によって退位させられ、新たにオルドーニョ4世が即位した。その後、サンチョは後ウマイヤ朝カリフ、アブド・アッラフマーン3世と取引し、ドゥエロ川両岸地域を与える代わりにレオン王位回復の支援を受けた。
960年、ナバーラとイスラームの連合軍はサモーラ・レオンを占領し、サンチョは王として復位した。オルドーニョ4世はアストゥリアスへ逃亡した。やがて、カスティーリャ貴族やガリシア貴族の独立運動が高まり、サンチョ1世は毒殺された。

・オットーの戴冠/神聖ローマ帝国(962-1806)の誕生/
オットーは聖職者による統治政策を始める為、ロートリンゲン公をコンラート赤公から弟のケルン大司教ブルーノを変えると、マクデブルクに大聖堂を建立し、そこを拠点に東方へ進出した。55年、レヒフェルトの戦いでマジャル人をパルテノン高原に追いやると、ヨーロッパ中から賞賛される。
960年、ベレンガーリオ親子がローマ教皇ヨハネス12世を攻撃した。翌年、オットー1世は7才の我が子を共同統治者に任命すると、二回目のイタリア遠征を行い、ベレンガーリオ親子を討伐した。962年、オットー1世はローマ教皇ヨハネス12世によって戴冠を受け、神聖ローマ帝国を築いた。67年、オットー2世を共同皇帝に任命し、72年には東ローマ帝国の皇女テオファヌと結婚させた。73年、オットー1世が死去する。

・カラハン朝のカシュガル遠征
960年、イスラム教に改宗したカラハン朝はホータン王国を攻撃し、カシュガルを奪い取って首都にした。69年、ホータン王国は天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結び、カシュガルを奪還した。

・トルコ系ガズナ朝(955?/77-1187)の建国
962年、サーマーン朝アブド・アル=マリク1世が死去すると、弟マンスール1世が新たなアミールに即位した。その為、弟マンスール1世の即位に反対していたホラーサーン総督アルプテギーンが総督職を解任された。その後、アルプテギーンはアフガニスタンのバルフでサーマーン朝と戦いで勝利を収め、更にガズナ(ガズニー)を占領すると、ガズナ朝を立ててサーマーン朝から独立すると、翌年に無くなった。

・ブロワ伯の反乱/西フランク王国
962年、ノルマンディー公国のルーアンにブロワ伯ティボー1世が侵入すると、西フランク王ロテールは必死になって介入した為、ノルマンディー公の報復は避けられた。65年、叔父のブルーノが死去する。

・スヴャトスラフの戦い/キエフ大公国
965年、キエフ大公国のスヴャトスラフ1世はハザール・カン国を滅ぼし、71年には第一次ブルガリア帝国を壊滅させ、ビザンツ帝国に進軍する。スヴャトスラフの戦いでビザンツ帝国に大敗した。

・レオン王国と後ウマイヤ朝に依るバイキング退治
968年、レオン王ラミロ3世はカリフ・ハカム2世との和平を批准し、ガリシア貴族ロセンドを副官に命じてスペイン北西部のガリシアに上陸したヴァイキングを退治した。

・ファーティマ朝のエジプト遠征/イフシード朝の滅亡
969年、エジプトを支配するイフシード朝の黒人宦官カーフールが死んでしまうと、内部崩壊が始まった。その結果、ファーティマ朝のエジプト遠征を招いてイフシード朝は滅亡し、ハムダーン朝はファーティマ朝の庇護を受けるように成った。

・ビザンツ帝国のファーティマ朝討伐
971年、キエフ大公国を破ったビザンツ帝国は第一次ブルガリア帝国を滅ぼすと、神聖ローマ皇帝オットー2世に姪テオファヌを嫁がせて神聖ローマ帝国と和平を結ぶと、イスラムのファーティマ朝討伐軍を派遣し、75年にはパレスチナまで占領したが、ビザンツ皇帝ヨハネス1世の死去によって帰還した。

・後ウマイヤ朝のアフリカ遠征/サン・エステバン・デ・ゴルマスの戦い
973年、将軍のガーリブに軍を預けて、ファーティマ朝の領土であったマグリブを奪取した。75年に後ウマイヤ朝はサン・エステバン・デ・ゴルマス城を攻略すると、レオン王ラミロ3世は危機的状況に成った。

・後ウマイヤ朝のレオン襲撃(976-781)
976年、後ウマイヤ朝のカリフにヒシャーム2世が即位すると、レオン王国への襲撃が激しく成り、サモーラ、ルエダ、アティエンサ、セプルヘダがイスラム教徒の手に落ちた。

・神聖ローマと西フランク王国の領土争い
977年、ロレーヌを巡って神聖ローマ皇帝オットー2世と戦い、80年には西フランク王ロテールはロレーヌを放棄した。

・インドのイスラム化/ガズナ朝
977年、サブク・ティギーンがガズナの元領主ラウイークが反乱を鎮圧し、ガズナ朝の君主に成ると、インドのパンジャーブ地方に侵入し、ラージプートを中心とするインド諸王の連合軍を撃破し、パキスタンのペシャーワルを占領した。

・ブワイフ朝の全盛期
978年、ブワイフ朝のムイッズ・ウッダウラが死去すると、イラク政権が混乱したため、ファールス政権とイラク政権が統一され、ブワイフ朝が全盛期を迎え、西アジアを支配したが、やがて、テュルク系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝はほとんど形骸化していた。

・ベルベル人のイスラム国家/ズィール朝の誕生(983 - 1148)
978年、ファーティマ朝が首都をチュニジアからエジプトに移す時に、チュニジア(イフリーキヤ)以西のマグリブの統治をベルベル人のズィーリーに委ねると、ズィーリーはズィール朝を開き、宗主国・ファーティマ朝の力を借りてトリポリタニア・リビアを支配した。更に西マグリブ遠征により、ファスとシジルマーサを占領した。

・レオン王国の分裂→ガリシア&レオン
982年、相次ぐイスラムの攻撃に対してガリシア貴族とポルトガル貴族はレオン王ラミロ3世に不満を募らせ、ガリシアで従兄弟のベルムード2世がガリシア王に即位した為、レオンはガリシア王国とレオンに分かれた。翌年にはガリシア、アンタス・デ・ウリャ近郊でラミロ3世とベルムード2世は激突し、ベルムード2世はガリシアに残り、ラミロ3世はレオンでイスラム軍と戦っていたが、85年に死去した為、レオンの王位はベルムード2世に渡った。

【西ヨーロッパの封建時代の幕開け】

・フランス王国の誕生
986年、ロテールが死去し、ルイ5世が西フランク王に即位するが、987年には不慮の死を遂げた。同年、ユーグ・カペーがランス大司教アダルベロンよって戴冠され、西フランク王に成ったことでカペー朝フランス王国が誕生した。暮には、息子のロベールを共同統治者に定めた。しかし、カペー朝は国王の権力基盤が非常に弱く、パリ周辺だけで、大半は伯と呼ばれる諸侯と、イングランド王のノルマンディー公に支配していた。

・西ブルガリア帝(989-1014)の建国
ビザンツ皇帝ヨハネス1世が死去し、ビザンツ帝国は混乱に陥った為、ボリス2世の弟ロマン1世の共同統治者としてサムイルは皇帝を称し、オフリダを首都して勢力を拡大し、バルカン半島の西北部やギリシャのラリサを占領した。89年のトラヤヌスの門の戦いで東ローマのバシレイオス2世軍に勝利し、西ブルガリア帝国を建国した。

・サーマーン朝の滅亡(-999)/カラハン朝の南下
980年、カラハン朝の南下に伴い、サーマーン朝は北アラル海に注ぐシルダリヤ川流域を占領された。その後、ホラーサーン総督とヘラート知事の裏切りに遭い、サマルカンドと首都ブハラを占領された。92年、カラハン朝の君主が急病でカシュガルに帰還した為、首都ブハラに帰還したサーマーン朝のヌーフ2世はガズナ朝のサブク・ティギーンに援助を求めてイラン東部のホラーサーンを回復させたが、再びサーマーン朝とガズナ朝は対立し始めた。
やがて、サーマーン朝の臣従国のガズナ朝とカラハン朝が同盟を結んだ。97年、サーマーン朝のマンスール2世が新たなアミールに即位すると、カラハン朝はマー・ワラー・アンナフルを侵食し始め、アフガンのガズニーを首都するガズナ朝はイランのホラーサーンを占領した。
999年、マンスール2世が家臣に暗殺されると、幼少のマリク2世が即位したため、カラハン朝のイリク・ハンがマリク2世の保護を名目にサーマーン朝の首都ブハラに進軍し、サーマーン朝を滅ぼした。

・後ウマイヤ朝のレオン征服
987年、レオン王ベルムードは後ウマイヤ朝からサモーラを奪還したが、カスティーリャ伯領が不安定であった為にイスラム軍を排除しきれず、逆に後ウマイヤ朝のアルマンソール将軍の報復を受けた。イスラム軍が、ポルトガルのコインブラを落し、レオンに進むと、ベルムード2世はサモーラへ逃げた。その為、997年までにはレオン・アストルガ・サンティアゴが襲われ、ベルムード2世は999年に死去した。

・ナバラ王国(パンプローナ王国)のキリスト諸国支配
サンチョ3世(1000-1035)はカスティーリャ伯領の女子相続人ムニアドナと結婚し、イベリア半島のキリスト教圏の大部分を支配し、その勢力圏は最大に達した。その後王国はレオン王国に属していたピスエルガ及びセアを制圧し、カスティーリャを得て、ガリシア国境からバルセロナまでの間を支配した。

・ハムダーン朝(-1004)の消滅
1004年、ハムダーン朝のモースル政権がブワイフ朝に倒された後、アレッポ政権がハムダーン朝を支えていたが、ファーティマ朝に吸収され、王家は断絶した。

・タムリ盆地のイスラム支配/カラハン朝
1006年、ウイグルのカラハン朝は、ガズナ朝のインド遠征に伴ってホラーサーンを支配し、一方でタムリ盆地のカシュガルに拠点を移し、ホータン王国を滅亡させた。17年には同じ民族でマニ教国家である天山ウイグル王国を攻略し、トルファンまで進軍した。これより、タムリ盆地のオアシス国家はイスラム勢力下に置かれた。

・ガズナ朝とカラハン朝の対立
1008年、ガズナ朝マフムードはパキスタンのラホール県でアーナンダパーラやラージプートの軍団に勝利、シャーヒー王朝を制圧すると、カラハン朝に奪われたホラーサーン(現トルクメニスタン)を取り戻した。そして、1018年に北インドのプラティハーラ朝の首都カナウジを攻略した。それにより、プラティハーラ朝は他のヒンズー王朝に滅ぼされた。

・後ウマイヤ朝の反アーミル家革命(-1009)
1002年、アル・マンスールのムハンマドが死去し、次男のアブドゥル・マリクがハージブに成った。08年にアブドゥル・マリクが急死すると、ナバーラ王女アブダを母に持つ三男のサンチェロが権力を握り、カリフの様に振る舞い、ベルベル人を重用することにより、ウマイヤ家やコルトバ市民から反感を買った。09年、コルトバ市民は反アーミルを掲げ、アーミル家一族及びサンチェロを討ち、ヒシャーム2世を廃位し、ムハンマド2世をカリフにした。

・ベルベル族とコルトバ市民の対立/後ウマイヤ朝
その後、アーミル家のサカーリバたちはサラゴサやバレンシアに逃れて、小政権を樹立した。09年11月には、ベルベル族とカスティーリャの連合軍がスライマーンを擁立し、コルドバ市民軍を破って、スライマーンをカリフにした。しかし、10年には、サカーリバのワーディフとバルセローナ伯たちが、コルトバを襲撃すると、ベルベル族以外のコルトバ市民は受け入れるが、ベルベル族は挙兵した為、ワーディフはヒシャーム2世が復位させ、和解を試みたが失敗し、ベルベル族はアンダルス南部へ移動した。

・ランゴバルト系貴族による反乱/ノルマン・東ローマ戦争の勃発(1011-1185)
1009年、ランゴバルド人貴族メールスは南イタリアのバーリを独立国と宣言して東ローマ帝国に反旗を翻すと、東ローマ皇帝バシレイオス2世が討伐軍を派遣して011年に南イタリアを回復した。その後、再びメールスは援軍のノルマン人傭兵と共に東ローマ帝国軍が戦うが、018年のカンネーの戦いで東ローマ帝国に敗北をするが、その後もノルマン人はイタリアに住み着くように成った。

【第一次タイファ時代】

・ベルベル系の後ウマイヤ王朝の誕生/ターイファ
1010年、ベルベル族はコルトバを攻め、013年にコルトバ市民軍を降伏させ、スライマーンをカリフに復位させて、ベルベル王朝を築いて行った。その為、コルドバ北部や東海岸の諸地域はこれに従わず独立し、小国分立(ターイファ)の時代を迎えた。

・第一次ブルガリア帝国(西ブルガリア)の滅亡
1014年、西ブルガリアのサムイル帝はクレディオン峠の戦いで東ローマに敗北して戦死したため、018年、ブルガリアは東ローマ皇帝バシレイオス2世によって完全に併合し尽くされ、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。

・ハンマード朝(1015 - 1152)の建国/ベルベルのイスラム国家
1015年、ズィール朝の王族のハンマードはアルジェリアを支配すると、ズィール朝から独立してハンマード朝を築き、シーア派のファーティマ朝と断交してスンナ派のアッバース朝をカリフとして承認した。

・北海帝国の誕生(1016-1035)/イングランドのデーン朝(1016-1042)
1016年、イングランド王国のエドマンド2世は、エセックスのアッサンダンの戦いでデンマーク人のクヌートに敗北し、テムズ川の北部をクヌートに譲る事で和解するが、エドマンド2世が急死した事でクヌートがイングランド王に即位してデーン朝を築くと、次にデンマーク王位とノルウェー王位も手に入れ、北海帝国を樹立しが、クヌートの死と共に北海帝国は崩壊した。その後、イングランド王位を巡って息子のハーデクヌーズとノルウェー王マグヌス1世が争っているうち、兄のハロルドがイングランド王に即位するが、継承問題は治まらず、7年後には再びウェセックス朝がイングランドを支配した。

・カラハン朝の東西分裂
1025年、ガズナ朝がマー・ワラー・アンナフル(ウズベクスタン)の侵入を開始すると、カラハン朝は次第に東西に分裂した。1032年、カラハン朝の君主の子であるアリーがサマルカンドを首都としてマー・ワラー・アンナフルの西部に西カラハン朝を建国すると、1041年にカシュガルの支配者ユースフがキルギス、ウズベキスタン、タジキスタンに股がるフェルガナ盆地に東カラハン朝を建国した。その後、ユースフが没すると、055年にはキルギスのタラス領主ムハンマド1世によってカシュガルを支配された。

・ズィール朝のアドリア海遠征(1026-1035)
1026年、ズィール朝は東ローマ帝国のアドリア海岸、エーゲ海岸を襲撃し始め、035年まで続けた。

・後ウマイヤ朝の滅亡(-1031)
ベルベル系のハンムード家出身者が相次いでカリフに成ったが、ムハンマド3世の時、ベルベル系ハムード朝軍がコルトバに攻めてくると、ムハンマド3世はサラゴサへ逃亡した為、家臣に殺された。その後、ウマイヤ家のヒシャーム3世がカリフに成るが、直にハンムード家によりコルドバを追放され、1031年に後ウマイヤ朝は名実共に滅んだ。その後、イスラム勢力はタイファと呼ばれる小国が乱立した。

・ナバラ王国の分割統治
1035年、サンチョ3世が死去すると、息子たちにナバラ王国は分割統治され、ナバラ、カスティーリャ、アラゴンに分かれた。

・カスティーリャ=レオン王国
1037年、カスティーリャを相続した次男フェルナンド1世はカスティーリャ王を称し、さらにレオン王ベルムート3世を倒してレオン王位をも獲得し、カスティーリャ=レオン王国を築いた。

・イスラムのセルジューク朝の誕生(1038 - 1308)
1038年、トゥーラーンに定住していたセルジュークの子孫たちは、進軍して来たカラハン朝に追われ、ニーシャプールの支配者に迎え入れられ、セルジューク朝を建国した。040年、セルジューク朝トゥグリル・ベグ兄弟らはダンダーナカーンの戦いでガズナ朝のホラーサーンを獲得し、042年にはアム川下流のホラズムを、050年にはイラン高原のイスファハーンを占領した。

・ムラービト朝(1040-1147)
1040年、イスラームのスンナを信仰したサンハージャ族たちがセネガル川にある島に城塞(ラバート)を築き、修道生活を始めた。056年頃から、ジハードを繰り返してモロッコ南部のオワシス都市シジルマサを確保すると、ムラービト朝を築いた。その後、061年からムラービト朝はモロッコ遠征とガーナ王国遠征に乗り出し、

・ズィヤール朝の滅亡/イラン
1043年、カスピ海南岸からイランのギーラーン州を支配し、中央アジアの三大イスラム国家の一つであるズィヤール朝がブワイフ朝との争い衰弱すると、ガズナ朝に吸収されて消滅した。

・第一次イタリア遠征
1046年、シルウェステル3世が教皇ベネディクトゥス9世を教皇座を簒奪し、再び教皇ベネディクトゥス9世が教皇座を取り戻すと、それをグレゴリウス6世に売却した為、ドイツ王ハインリヒ3世はイタリア遠征を敢行し、スートリ教会会議において、3人の教皇を罷免し、バンベルク司教のスイトガーを擁立して教皇クレメンス2世を誕生させると、ハインリヒ3世は戴冠して神聖ローマ皇帝に即位した。

・ケルマーンのセルジューク朝(1048 - 1187)
大セルジューク朝の初代スルタン、トゥグリル・ベグの兄弟チャグリー・ベグの長男カーヴルト・ベグがイランの東南部にあたるケルマーン地方を占領して政権を樹立した。051年にはペルシア湾の要衝ホルムズ海峡を抑え、対岸のオマーンまで窺った。

キリスト教会の東西分裂
1054年、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が完全に互いを破門して分裂した。和解は900年後であった。

・第二次イタリア遠征
1054年、前年ローマ教皇レオ9世がノルマン人との戦争で囚われ獄死すると、皇帝ハインリヒ3世はアイヒシュテット司教ゲープハルトをローマ教皇ウィクトル2世に即位さた。055年、ハインリヒ3世は再びイタリア遠征を行い、教皇領の譲渡を禁止し、司教にシモニア(聖職売買)と妻帯の有無の申告をさせ、バルセロナ伯ラモン・バランゲー1世とアルモディス・ド・ラ・マルシュを不貞の罪で破門した。これより、教皇権強化が図られた。

【セルジューク・東ローマ戦争】

・ブワイフ朝の滅亡
1055年、バグダードの支配権を握ったセルジューク朝に奪われ、062年にはトルコ系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝は滅んだ。

・ノルマン人の南イタリア攻略
1057年、フランスのノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士ロベルト・イル・グイスカルドは東ローマ帝国領だった南イタリアを占領した。

・カンパーニャの戦い/教皇抗争
1058年、選挙せずベネディクトゥス10世がローマ教皇に成ると、イルデブランらがニコラウス2世を対立教皇に擁立し、ベネディクトゥス10世への対抗を表明した。その後、ニコラウス2世派はノルマン人の援助を得ると、059年のカンパーニャの戦いに勝利し、ベネディクトゥス10世を廃位し、サンタニェーゼ修道院に幽閉した。ロベルト・イル・グイスカルドにアプーリア、カラブリア、シチリアの公爵位を、カプアのリチャード1世にカプア公国を、教会の擁護の誓約と引き換えに厳かに与えた。

・教皇選挙法の制定
1059年、クリュニー修道院出身の改革派は教皇選挙法を定め、教皇は直属の諮問機関である枢機卿会議で選出されるべきものとして、俗権の介入を排除した。

・カスティーリャ=レオン王国の遺産分割/再統一
1065年、フェルナンド1世が死亡すると、カスティーリャ=レオン王国は遺産分割が起こり、再びサンチョ2世に依るカスティーリャ=レオン王国の統一がなされる。

・ヘイスティングズの戦い/ノルマン朝の建国
1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世とイングランド王ハロルド2世との間で戦争が勃発し、ギヨーム2世はヘイスティングズの戦いで勝利すると、ロンドンにノルマン朝を樹立し、王権が強力な独自の封建制を作って行った。同年12月には、ギヨーム2世はウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。1086年には自分への忠誠を誓わせる「ソールズベリーの宣誓」を実施した。

・フランドル(フランダース)へ征行/フランス王国
1070年、母アンヌを摂政としたフィリップ1世のフランス軍はフランダース遠征を行なった。

・マラズギルトの戦い-セルジューク朝VS東ローマ帝国
1071年、アッバス朝のスルタンと成ったセルジューク朝は、マラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破った。ビザンツ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まった。

・ノルマン・シチリア王国の建国
1071年、ルッジェーロ1世はシチリア全島を占領し、シチリア王国を建てた。この功によりルッジェーロ1世は兄・ロベルトからシチリア伯位を与えられた。

・ザクセン戦争
1073年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン公国の貴族達の反乱が勃発した。翌年、ザクセン軍はハインリヒ4世が逃げ込んだハルツ城を包囲すると、二者の間でゲルシュトゥンゲンの和平交渉が開けれ、ザクセン戦争は終結するが、075年には再びザクセン戦争が勃発し、ハインリヒ4世が勝利した。

・ルーム・セルジューク朝(1077-1308)の誕生
075年、セルジューク朝のマリク・シャーはアナトリア方面のトゥルクマーン統制のため、スライマーンを送り込むと、スライマーンは東ローマ帝国領であったイズニクまで占領した。更にシリア北部のアンティオキアまで征服すると、マリク・シャーと対立し始めた。1077年、スライマーンはセルジューク朝から独立し、ルーム・セルジューク朝を築いた。

・グレゴリウス改革(1073-1085)
教皇グレゴリウス7世によって行われたカトリック教会の改革。叙任権の世俗権力からの奪還と聖職者の綱紀粛正が改革の二本柱であった。

・叙任権闘争/神聖ローマ帝国
1076年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世によって破門される「カノッサの屈辱」が起きると、翌年には自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した(カノッサの屈辱)。その後、ハインリヒ4世は体制を立て直すと、グレゴリウス7世をローマから追いやった為、叙任権闘争が始まり、政教分離がなされるようになる。

・イングランドとフランスの和解
1077年、イングランド王兼ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)がブルターニュ征服を諦め、フィリップ1世と和解した。

・カスティーリャ王国の台頭
アルフォンソ6世が、再びカスティーリャ=レオン王国を統一すると、タイファに対して貢納を強要し、諸国間の争いに介入することで影響力を行使し、1085年にトレドで内紛が発生するとそれに乗じて都市を攻囲して征服した。

・ノルマン人のギリシャ遠征
1081年、南イタリアを征服したロベルトはビザンチン帝国征服を企て、ギリシャ遠征を実施しデュラキウムを占領すると、神聖ローマ帝国が南下し始めた為、占領地を息子のボエモンに任せて、イタリアに帰国して、神聖ローマ帝国を追い払うと、再び占領地に戻り、085年に病死した。

・シリア・セルジューク朝(1085 - 1117)の誕生
ファーティマ朝とセルジューク朝の戦いが膠着すると、マリク・シャーは弟のトゥトゥシュがシリアに派遣した。トゥトゥシュはトゥルクマーンの部族長アトスズを処刑し、シリアやダマスカスを自らの手中に収めると、1085年に地方政権のシリア・セルジューク朝を築いた。

・サグラハスの戦い/カスティーリャ王国の敗北
カスティーリャ王国の脅威に晒されたタイファ諸王はムラービト朝に救いを求めた。1086年には、ムラービト朝のユースフはイベリア半島に上陸し、サグラハスの戦いでアルフォンソ6世軍を破った。

・ルーム・セルジューク朝VSシリア・セルジューク朝
1086年、アレッポの支配を巡ってルーム・セルジューク朝とシリア・セルジューク朝が戦い、ルーム・セルジューク朝のスライマーンが戦死した。

十字軍の遠征

1095年、セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは、ローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。
1096年、この呼びかけに応えた騎士団によってエルサレムの遠征(第1回十字軍)が行われた。

以上で中世初期が終わり
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FPDFで画像出力するには

2017年03月18日 | Tomcat プロジェクト
FPDFで画像出力するには


【開発環境】
OS:Windows10
XAMPP v3.2.1
PHP Version 5.5.15
Eclipse4.4(ルナ)

【Imageメソッドによる画像出力】
<?php
require('mbfpdf.php');//パスによって異なる

$pdf = new MBFPDF();
$pdf->AddMBFont(GOTHIC ,'SJIS');
$pdf->AddPage();
$pdf->SetFont(GOTHIC,'',20);

$x = $pdf->getX();
$y = $pdf->getY();
/*1番目の引数に画像のファイル名を指定します。(.png&.jpg)
2番目と3番目の引数で画像を出力する位置を表す座標を指定します。
4番目と5番目の引数で画像のサイズ(幅・高さ)を指定します。
*/
$pdf->Image('c:/test/sample.png', $x, $y, 100.0);//エラーに成る
$pdf->Output();
?>

【エラー】
sample.png→FPDF error: Alpha channel not supportedが表示された場合、拡張子を.jpg
に変更すると正常に表示される。
コメント
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PDFファイルの作成するには

2017年03月10日 | PHP
PDFファイルの作成するには


【開発環境】
OS:Windows10
XAMPP v3.2.1
PHP Version 5.5.15
Eclipse4.4(ルナ)

PHPを使ってPDFファイルにはFPDFのダウンロードを行なう必要があります
FPDFのホームページ→http://www.fpdf.org/

※Adobe社のPDFlibライブラリは無料ではありません


【FPDFのダウンロード】

FPDF Libraryのダウンロードをクリックする



v1.81 (2015-12-20)
zip|TGZのzipをクリックするとダウンロードが開始されるので、好きなフォルダを指定し、展開する

【FPDFのインストール】
任意ではあるが、php.iniでパスが通っている¥php¥includesルート上に「fpdfフォルダ」を作り、
先程展開したものを移動する。


【php.ini】の設定
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
; Paths and Directories ;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;

; UNIX: "/path1:/path2"
;include_path = ".:/php/includes"
;
; Windows: "\path1;\path2"
include_path=";C:/xampp/php/includes/fpdf"
;

【動作確認】
sample3-1.phpのプログラムを作成する
<?php
// PDFサンプル
require('fpdf.php');

$pdf=new FPDF();
$pdf->AddPage();
$pdf->SetFont('Arial','B',16);
$pdf->Cell(40,10,'Hello World!');
$pdf->Output();
?>

【表示】
下記のように成ればOK


【日本語対応にするには】
japanese.zipをダウンロードする。→http://www.fpdf.org/phorum/read.php?f=1&i=7977&t=7977
そして
ダウンロードしたファイルは圧縮ファイルとなっており、解凍すると「japanese.php」と「ex.php」の2つのファイルが含まれていますのでFPDFをインストールしたディレクトリ内に格納して下さい。
但し、
文字コードとしてShift_JISしか使えない。

注意
最新バージョンでおかしなエラーが出たら、旧バージョンを使うと良い!

日本語対応のプログラム(sample1-1.php)
<?php
require('mbfpdf.php');

$pdf=new MBFPDF();
$pdf->AddMBFont(GOTHIC ,'SJIS');
$pdf->AddMBFont(PGOTHIC,'SJIS');
$pdf->Open();
$pdf->AddPage();
$pdf->SetFont(GOTHIC,'',20);
$pdf->Write(10,"MSゴシックで文字列を表示¥n");
$pdf->SetFont(PGOTHIC,'',24);
$pdf->Write(10,"MSPゴシックで文字列を表示");
$pdf->Output();
?>
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EclipseにEmmetをインストールする

2017年03月02日 | Eclipse4.4
EclipseにEmmetをインストールには


【環境条件】
OS:Windows10
XAMPP v3.2.1
PHP Version 5.5.15
Eclipse4.4(ルナ)

【Emmetとは】
EmmetはHTMLやCSSを効率的に入力できるとても便利なツール。Zen Codingの新バージンなのでEmmetをプラグインするときにはZen Codingがあるかどうか?確かめ、ある時はアンインストールする事。

【EclipseにEmmetをインストールする】
1.「ヘルプ」→「新規ソフトウェアのインストール」


2.「作業対象」にhttp://emmet.io/eclipse/updates/と書いて、「追加」ボタンを押す

3.リポジトリー追加に何も書かずに、「OK」ボタンを押す

4.Emmetにチェックボックスを入れて、「次へ」ボタンを押す

5.「次へ」ボタンを押す


6.「使用条件の条項に同意します」にチェックを入れて、「完了」ボタンを押す


7.セキュリティー警告が表示されても「OK」ボタンを押す


8.ソフトウエア更新 「OK」ボタンを押す


9.「Emmet」のメニューが追加される。


基本的な使い方はこのサイトを参照にする→Emmetを始めるのに、とりあえずこれだけ覚えておけば大丈夫
以上
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