職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

NO14.僕の報告書

2011年03月31日 | ブログ

22年度3月のhpアクセス報告

今月も月末を迎えて、恒例のホームページアクセス数の報告をしたいと思います。

■小生の意見
今回は3月11日、午後14;47分頃に起こった。東北・太平洋沖地震の被害により、アクセス数が大幅に減った。確かに、この様な悲惨な光景を目にしながら法華経のHPを見る気は起きないと思う。

マスメディアは連日、被害が大きかった岩手県釜石・陸前高田・大船渡や宮城県若林・気仙沼や福島県の第一原発など放送し、それ以外の情報は流さなかった。

また、関東では計画停電や、それに伴う乾電池・水・パン・納豆・ガソリンの情報に埋め尽くされた。ツイッターでは安否確認情報・列車の運行状況・相次ぐ余震による地震情報が流れた。

メールではデマが流れ一時、混乱した。そうした中でHPを落ち着いて見る状況でない。小生もHPを書くどころか、毎日ながされる放射能の知識を調べる事や、友の安否確認の情報を得るのに必死であった。

今後のこの様な状況において、法華経のHPを掲載することはいかがなものかと思ったりしたが、遠い未来を踏まえて書き続ける事に決めた。

必ず、誰かの為に成ると信じているからだ。人受けするHPを作るより、人の為になるHPを作りたいからだ。

最後に、もし、小生のHPの読者がいて、亡くなっていたら、心からご冥福を祈るであろう。

合掌

アクセス数の概要
■hp全体
全アクセス数; 34534→35780
月平均;1246件/月
一日平均;  40.1件/日
トップカウンター; 9192→9367

■一番目に良いアクセス数のページ(方便品)
2011年3月;239→2月;285→1月;325→2010年12月;311→11月;185→10月;218
過去二年間の合計は 5346→5418

■二番目に良いアクセス数のページ(インデックス)
2011年3月;160→2月;191→1月;188→2010年12月;140→11月;130→10月;154
過去二年間の合計 4139→4133

■三番目に良いアクセス数のページ(jyomo.htm)
2011年3月;55→2月;66→1月;60→2010年12月;77→11月;54→10月;52
過去二年間の合計は 1382→1399

■四番目に良いアクセス数のページ(hokekyou2)
2011年3月;50→2月;49→1月;58→2010年12月;88→11月;37→10月;51→9月;55→8月;64
過去二年間の合計は1344→1345

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地震の加須被害

2011年03月21日 | ニュース

東北・関東大震災白書

平成23年11月、午後2時46分ごろ、三陸沖を震源として、マグニチュード9.0の地震が起きた。これにより、青森~千葉まで津波に襲われ、多くの人命や建物や車などが流された。

また、女川原子力発電所は地震で自動停止し、1号機のタービン建屋の地下1階で火災が発生し、福島第一原発では1号機から4号機で爆発し、放射能が発生して30キロ圏内の住民が避難した。

【埼玉県】
12日の県警のまとめによると、けが人は26人に上った。このうち6人が重傷、20人が軽傷。建物損壊は8件ですべて半壊、道路損壊は44件だった。

火災は2件で、いずれも加須市内の運送会社の倉庫から出火し建物が全半焼したが、けが人はなかった。上尾市愛宕病院では女性医師(87)が左足を骨折、越谷市赤山で男性(68)がかかとを骨折するほか。さいたま市内で男性(63)が搬送中にショック死。

ライフラインでは停電、断水が一部で発生し、JRが不通になった。現在でも計画停電や電車の間引き運転が行われている。

【加須市】
16日の市の発表によると、軽症者1名、火災2件、建物損壊は加須(1230棟)、騎西(825棟)、北川辺(166棟)、大利根(496棟)の計2717棟(屋根瓦損壊も含む)

道路の損壊は市内39箇所、液状化や地割れが生じ「いちご」始めとする農産物に打撃を与えた。

【犯罪】
18日現在で、埼玉県内の8か所の防災用の備蓄倉庫でガソリンなどが盗まれているのが相次いで見つかりました

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仏像の見方

2011年03月10日 | アート・文化

【ヒストリア】

彫った!祈った!戦った!
~乱世のトップランナー運慶~

■仏師・運慶とは
平安時代末期 - 鎌倉時代初期の頃、平清盛の五男の平 重衡(たいら の しげひら)が各地で乱を起こす。その時に南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。

その後、奈良市・興福寺を拠点に復興造仏が湧き起こり、その中心人物として奈良仏師・康慶が居た。運慶は、その康慶の子として生まれ、父が作った慶派を継いで様々な仏像造りの改革に乗り出した。

運慶は、仏像の目に「目力」を与える為に、今までの「彫眼」から水晶を利用した「玉眼」に変えたり、仏像の体内を彫った後に水晶を埋め込んだ。

更に、坂東武士と手を結んだ事で荘厳で穏やかな表情の仏像が、筋骨隆々として荒々しい姿になり、リアル性を追求する様に成って来たと共に、これまでの京仏師達は衰退して行った。

その後、運慶は東大寺南大門の仁王像をにまかさられ、快慶、定覚、湛慶らをはじめとする仏師100人を引き連れて2ヶ月で製作した。そして、その功績から法印を与えられた。

■仏師・運慶の作

  • 興福 寺西金堂本尊釈迦如来
  • 願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像
  • 円成寺の阿弥陀如来坐像、大日如来座像
  • ■仏像の流れ
    ・飛鳥時代→法隆寺金堂の釈迦三尊像
    渡来人の止利仏師によって作られた作品で、中国,朝鮮風であった。

    特徴として、①頭上の宝冠が3つに蓮弁状に分けられる。②垂髪が蕨手状に巻き上がり肩にかかる。③目が杏仁形をしている。④天衣の裾が魚鰭状に巻き上がり左右対称に成っている。また、一般の人には拝見できない

    ・奈良時代→盧舎那大仏(鋳造)
    この頃に成ると、力強くリアルな仏像が求められ、その力によって民衆の心を掴もうとしていた。

    ・平安・中期→木造仏像(一木造り)
    リアルで、個性にあふれた仏像が作られる様に成ったが、一本の木から彫られる為に時間が掛かった。

    ・平安・後期→木造仏像(寄木造り)
    定朝(じょうちょう)によって寄木造技法が開発されると、仏像が大量生産出来るようになった。また、彫りが浅く平行して流れる衣文、瞑想的な表情や、平明で優雅な仏像が貴族に受け入れられた。

    ・鎌倉時代→木造仏像(寄木造り)
    武士の時代に成ると、大胆に技巧を凝らした慶派の奈良仏師・運慶が受け入れ始めた。現在では海外でも認められ、運慶作の大日如来が13億円で売られた。

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