職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

仏教の流れー南北朝・室町時代

2013年09月27日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆南北朝時代の仏教
鎌倉時代末期、北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定した。しかし、幕府滅亡すると、後醍醐天皇は五山を鎌倉から京都本位に改め、京都五山を定めた。

*五山制度→南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って五山を定めたのが始り、日本では鎌倉の末期に禅宗が普及すると、執権;北条 貞時がそれらを保護する為、臨済宗を中心に寺院を格付けしだした。

寺院の格付けは、上位より、五山・十刹諸山・林下に区分された。
鎌倉五山→建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
京都五山→天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺

また、足利基氏によって臨済宗を中心にした漢詩・漢文が鎌倉を中心に広まり、五山文学が花開いた。→七仏通戒偈無常偈が有名

●歴史の概略ーー南北朝時代

建武政権時代

1333年::建武の新政
後醍醐天皇は、光厳天皇を廃位し、6月に足利高氏を鎮守府将軍に任じて、名を尊氏に改名させ、更に護良親王を征夷大将軍に任命させた。
10月::小幕府構想→陸奥将軍府
護良親王は、足利尊氏を牽制する為、斯波氏の領地に陸奥将軍府を設けて、北畠顕家を陸奥守鎮守大将軍に就かせ、更に、義良親王を陸奥太守させて、国府の多賀城へ赴かせた。
12月::鎌倉将軍府
尊氏は、弟の足利直義を執権に、成良親王を鎌倉府将軍に就けて鎌倉へ赴かせた。

1334年::立太子
恒良親王を皇太子にさせると、大内裏の造営のための二十分の一税を課す為の土地調査が図られ、更に紙幣の発行が行われた。
次に、中央組織(記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所)で権限の衝突が起こり、混乱を生じると、武士たちは朝令暮改の後醍醐天皇に失望し、尊氏に救いを求めるようになる。更に、天皇と対立して、尊氏を暗殺しょうとした護良親王を鎌倉に送った。

1335年::中先代の乱(北条家の反乱)
6月北条 泰家西園寺公宗と共に、後醍醐天皇暗殺して幕府再挙の企てを図るが、公宗の弟・公重に密告されて失敗した。
7月北条 時行が信濃の諏訪頼重、時継滋野氏に擁立されて挙兵し、信濃守護小笠原貞宗を破って鎌倉に向けて進軍し、渋川義季小山秀朝を倒して鎌倉を奪還した。その時、直義は護良親王を殺害して鎌倉を抜け出した。
8月、天皇の許し無く足利尊氏は出陣し、直義と合流して相模川の戦いで北条軍を破り、鎌倉を回復させた。

11月::延元の乱(尊氏の反乱)
尊氏が天皇に新田義貞の討伐を要請すると、逆に義貞の意見が取り入れられて尊良親王に尊氏討伐の命が下されると、東山道から洞院実世の追討軍が、奥州からは北畠軍が鎌倉に向かうと、光厳上皇から新田討伐の院宣をもらって尊氏も挙兵した。

12月::箱根・竹ノ下合戦(建武政権の終焉)
箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破ると、義貞は帰京して尊氏軍を迎え撃ったが、淀大渡の合戦で敗北して、尊氏軍が入京すると、後醍醐天皇は比叡山へ避難した。

1336年::豊島河原合戦(尊氏の敗北)
天皇を護衛した楠木軍と、遅れて来た北畠軍が新田軍に加わると、園城寺を本拠地した足利軍は北畠軍に翻弄され、丹波国篠村八幡宮まで退去させられた。
2月豊島河原の戦いで新田軍に大敗をすると、尊氏は兵庫→播磨国→九州へと逃れた。その時、少弐頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ出向いた最中、宮方の菊池・阿蘇軍に少弐氏の本拠地の太宰府を陥落させられた。

3月::多々良浜の戦い(尊氏の九州制覇)
宗像氏盛や少弐頼尚らの力を借りて、尊氏は宮方の菊池・阿蘇軍と筑前で戦い勝利すると、そのまま京まで進軍した。尚、多々良浜の戦いに新田軍が参戦出来なかったのは、赤松則村軍に苦戦して播磨で足止めされていた為
5月::
湊川の合戦(再び、上京)
上京を機に足利勢は直義軍と尊氏軍に分かれた為、後醍醐天皇は楠木に直義軍を、新田に尊氏軍討伐を命じた。しかし、尊氏の策略よって楠木軍は孤立され、湊川の戦いで滅びると、新田軍は京に敗走し、宮方は、再び比叡山に立籠った。

8月::北朝並立
光厳上皇は三種の神器無しで、弟の豊仁親王を光明天皇に即位させて院政を敷いた。
10::北陸朝廷(東山天皇)
尊氏軍が入朝すると、後醍醐天皇は比叡山で尊良親王 を東山天皇に即位させ、恒良親王と共に、新田義貞・脇屋義助・洞院 実世ら、を率いて北陸に落ち延び、越前の金ヶ崎城に入った。
11月::室町幕府の開幕
比叡山で、足利尊氏と後醍醐天皇が和解して、光明天皇に三種の神器を譲ると、直ぐに尊氏は建武式目を定め、室町に新しい幕府を置くと、後醍醐天皇を花山院に幽閉した。

南北朝時代

1336年12月::南朝並立
後醍醐天皇は京の花山院を脱出し、再び、奈良の吉野で朝廷を開いた。そして、京の北朝と奈良の南朝が対立する事態となった。
その後、後醍醐天皇は懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ赴任させた。

1337年::金ケ崎の戦い(北陸朝消滅)
新田義貞の入城直後から、北朝の斯波 高経軍が金ヶ崎城を包囲するが、中々陥落させる事が出来ない為、尊氏は高 師泰軍を派遣して落城させた。そして、尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は捕まった。
3月::新田一族の再興
義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利勢に対抗する。更に、北畠顕家は、足利勢の追撃を避ける為、拠点を多賀城から霊山に移した。

8月::利根川の戦い・薊山合戦(南朝の反撃)
北畠顕家は後醍醐天皇の尊氏追討命に応じて上洛を開始すると、利根川の戦いで足利勢の小山氏を破り、薊山合戦で足利勢を退けた。この時、新田義貞・北条時行らにも、北畠軍と合流する様に天皇から命令が出されていた。
12月::杉本城の戦い(足利勢の劣勢)
顕家が相模国の杉本城を攻め、関東執事の斯波氏を滅ぼして鎌倉を制圧すると、足利 義詮は上総国安房へ逃げ去った。

1338年::青野原の戦い(南朝衰退)
1月、北畠軍は鎌倉を出発して東海道を京へ向かった。途中で宗良親王・北条・新田軍が合流すると、岐阜の当たりで足利勢の土岐 頼遠と対戦し、青野原合戦に勝利するが、近江から足利追討軍が参戦する事を知ると、伊勢から吉野へ赴いた。
2月::般若坂の戦い(南朝の敗北)
顕家は軍を立て直して奈良を制圧するが、下旬には北朝方の桃井直常に敗北し、義良親王を密かに吉野に送った。
5月::石津の戦い(顕家の戦死)
顕家は、河内(藤井寺市)→和泉市と転戦して、大阪天王寺に軍を集結させると、石津・堺を焼討ちし、細川・日根野らの北朝方勢力と交戦するが、高師直と瀬戸内海水軍が石津合戦に参戦すると、敗北して戦死した。
7月::藤島の戦い(義貞の戦死)
斯波高経の足羽城を攻めた時、平泉寺衆徒の寝返りによって苦戦を強いられた為、衆徒が籠城している藤島城に向かった。その途中の福井の灯明寺町で高経勢の細川・鹿草軍と交戦して、戦死した。
8月::室町幕府の二頭政治
顕家や義貞が戦死した事で、尊氏は光明天皇から征夷大将軍を、弟の直義左兵衛督に任じられ、尊氏と二頭政治を行い様に成って行った。

1339年::後醍醐天皇崩御
3月、後醍醐天皇は吉野で譲位して、義良親王を後村上天皇に即位させる。
8月、後醍醐天皇が崩御した為、尊氏は天皇を弔って天竜寺を建立した。
その後、後村上天皇を補佐して、近畿地方の寺社や武士に対して綸旨を出して軍事催促や所領安堵を行った。

1340年::反幕府軍の集結
父・顕家の死後、北畠親房度会家行力の支援を受けて、南朝勢力の拡大の為、関東に赴いき、常陸の小田氏白河結城氏の力を借りて反幕府軍の結集すると、尊氏は高師冬軍を派遣した。

1341年::藤氏一揆
37年に吉野に行ったものの、自分の意に沿わず、41年近衛 経忠は、再び京都に戻ってきたが、ここでも冷遇されて、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏・小田氏に呼びかけて藤氏一揆を企てた。

1343年::北朝の関東平定
北朝の高師冬が関東統治に派遣されると、小田氏の裏切りに合って、親房は関城に入城して関氏・下妻氏・伊佐氏たちと共に、関城・大宝城の戦いを繰り広げ、高師冬に敗北し、親房は吉野に落ち延びた。

1348年::四條畷の戦い(吉野朝廷の崩壊)
47年楠木正行は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、続いて住吉付近で山名時氏を破ると、48年高師直を大将とする北朝軍と、四條畷の戦いを繰り広げ、楠木正行・正時軍は破られ、吉野山は焼き払われた為に、後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)に移った。

1349年::幕府の主導権争い
四條畷の合戦後、執事の高師直が重く用いられて、足利直義が軽視される様になると、武家拡大を狙う師直派と、公家・寺社勢力を取り込もうする直義派が激しく対立するように成る。
6月::高師直討伐
直義派の上杉重能畠山直宗の進言により、直義は尊氏を騙して師直の執事職を罷免させ、更に光厳上皇から師直討伐の院宣をもらう事に成功した。
8月::師直のクーデター(直義排除)
師直は上洛した師泰軍と共に、クーデターを起こし、直義らが逃げ込んだ尊氏邸を包囲した。その為、尊氏は直義を出家させ、上杉・畠山を配流した。これにより、政務統括者を嫡男義詮に、鎌倉公方を次男の基氏にした。

観応の擾乱(足利一族間の争い)

1350年::足利直冬の反乱
父が排除された為、養子の足利直冬が挙兵し、福山で師直軍と交戦して、九州に敗走すると、再び勢力を盛り返し、少弐頼尚と共に、博多の一色勢を破ると、尊氏が直冬討伐に乗り出すと、父・直義や畠山らが師直討伐を掲げて南朝入りし、尊氏の直冬討伐を止めさせた。

1351年::年号を正平に統一
1月;;京が南朝に敗れる
足利義詮は南朝方の足利直義軍に攻められ、尊氏の居る岡山備前に逃げた。
2月::高一族の滅亡
兵庫摂津の打出浜の戦いで尊氏軍は敗北し、高兄弟らが京都へ護送されるが、途中で上杉能憲に暗殺さた。再び、直冬は九州探題に成った。
8月::尊氏親子の陰謀
合戦後、再び直義と尊氏の兄弟対立は深まり、直義派の斎藤利泰の暗殺事件や桃井直常の襲撃事件が起きると、尊氏は佐々木赤松を離反させて討伐軍を編成し、直義勢を挟み撃ちして排除しょうとしたが、直義は難を逃れて鎌倉入りした。
11月::尊氏の南朝降伏(正平統一)
南朝から直義・直冬追討の綸旨を受ける為、尊氏は三種の神器を南朝に渡して、南朝の勅使が入京させ、北朝の崇光天皇皇太子を廃して、年号を南朝の「正平」に統一した。
12月::薩埵峠の戦い
尊氏は後村上天皇の綸旨を受け、静岡市の菩薩峠の戦いで直義勢を破った。

1352年::南朝年号の観応復活
2月::足利直義死去
尊氏は早川尻の戦いで直義を降伏させると、そのまま鎌倉入りして、鎌倉の延福寺に直義を幽閉して死なせた。その為、足利一族は混乱すると、北畠親房は正平統一を破棄した。
3月::武蔵野合戦
親房らは足利勢の一掃を図る為、征夷大将軍を尊氏から宗良親王に任命し、新田義興・脇屋・北条らを挙兵させ、足利基氏を破って鎌倉を占領する。しかし、尊氏が武蔵野合戦新田義宗を破ると、再び鎌倉を奪還した。
5月::八幡の戦い
楠木千種 -->

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする