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ヨーロッパの歴史・経済--中世/初期その1

2016年10月22日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史と経済-中世/初期その1


◆中世初期(5世紀~10世紀)
・東ローマ帝国(395-1453)による西ローマ再建へ
皇帝ゼノンは将軍オドアケルをイタリア王に任じ、イタリアを再統一を命じたが、オドアケルが次第に東ローマ帝国に干渉するように成ると、東ゴート王テオドリックに命じて討伐させた。テオドリックは、西ゴート族の力を借りて、オドアケルから奪還すると、イタリア王に任ぜられ、497年に東ゴート王国を建国した。

・東ローマに修道院が広がる(463)
古代末期のエジプトで世俗を離れて砂漠で孤独な生活を送り、ひたすら神を求める修道士が現れた。やがて、彼らは修道院を作り、そこで戒律(清貧・貞潔・従順)を守りながら、共同生活を始める様に成った。やがて、その修道生活が東ローマ帝国に伝わり、東ローマ帝国の首都に修道院が建てられる様に成った。


【首位権闘争--ローマ教会VSコンスタンティノープル教会】
・アカキオスの分離(484‐519)→両性vs単性
482年、コンスタンティノープル総主教アカキオスは単性論派問題の収拾のため,皇帝ゼノンに「統一令」を出させると、484年にローマ教会はアカキオスを破門し、東西の教会は分離した。その後、ローマ教皇は単性論に支持していた皇帝アナスタシウス1世をも破門した。よって、キリスト教会の東西分裂が起きた。

※両性vs単性の違い→イエス・キリストが復活したかどうか

・カトリックのフランク王国の樹立(511)
ゲルマン民族の一派であるフランク人のサリ族のメロヴィング家のクローヴィスがフランク人の各部族を統一し、496年にローマ=カトリック教会から洗礼を受けると、カトリックの王して異端との聖戦に臨んだ。507年には西ゴート王国攻めてアキテーヌ地方を支配し、西ゴート族をイベリア半島へ追いやった。しかし、08年に東ゴートよって南フランスを奪還されるが、34年にはブルグント王国を倒して、ガリア地方を統一し、メロヴィング朝フランク王国を建国した。511年、クローヴィスが死去すると、ゲルマン法に従って4人の王子に分国された。


・東ローマ帝の異端弾圧(518)
東ゴート王テオドリックがフランク王国封じや、パンノニア地方を平定すると、東ローマ帝は警戒感を持ち、テオドリックを牽制する為、イタリア半島沿岸に艦隊を差し向けたほか、ヴァンダル王国の懐柔に乗り出した。
518年、東ローマ帝ユスティヌス1世はローマ教皇の許可をえてアリウス派(景教)を弾圧が始まると、異端の東ゴート王国は動揺した。

・東ゴート王国の内乱(526-536)
526年、東ゴート王テオドリックが死去すると、孫のアタラリックが即位し、母のアマラスンタが摂政となって政権を握ると、トゥリンの乱が起き、更にアタラリックが死去した為、アマラスンタは女王に成り、東ローマ帝国に庇護を求め、更にテオダハドを共同支配者にし、自らは女王に即位した。36年には、テオダハドによってアマラスンタが殺害される。

【ローマ・カトリックの復興】
・イタリアで修道院運動(ベネティクトゥス派)が起きる(529)
イタリアでは移民よる戦争が相次ぎ、社会不安が深刻となると、信仰を捨てる者たちが現れた。そんな中、ベネティクトゥスは中部イタリアのモンテ=カシノの山中に修道院を建て、誓い「清貧・貞潔・服従・定住」を説き、「祈り、働け」をモットーとして純粋な信仰を深めようとした。590年、教皇グレゴリウス1世はゲルマン族にこれを薦めると、西ヨーロッパに数多くの修道院が建てられる様に成った。


【東ローマ帝による西方再征服戦争】
ヴァンダル戦争(533-534)
530年、北アフリカのヴァンダル国のヒルデリック王が、ゲリメルより廃位されると、東ローマ帝ユスティニアヌス1世はニカの乱やサーサーン朝との争いを片付けた後、533年に遠征軍を率いてゲリメルのヴァンダル国を征服した。

ゴート戦争(535-554)
535年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、東ゴートのテオダハド討伐に乗り出し、陸路と海路に分かれて軍を送った。しかし、テオダハドが暗殺されて
ウィティギスが新王に即くと、苦戦を強いられた。40年に東ゴートの本拠地を陥落して東ゴート国の消滅宣言を出した。
41年、抵抗続けた東ゴート族が西ゴート王の甥ヒルデバルトを新王に立てるが、トティラにその座を奪われた。49年、トティラによってローマ城は奪われるが、52年のスタ・ガロールムの戦いでトティラを討つが、再びテヤを新王に立て抵抗し、53年のサレルヌムの戦いで敗れる。
その後、アラマンニ族とフランク族と手を結んだ東ゴート族がイタリア中部を攻めるが、54年にはウォルトゥルヌスの戦いに破れ、フランク王国に亡命した。同年、西ゴート王国からイベリア半島東南部の領土を奪取

【戦後の東ローマ帝国】
ユスティニアヌス1世は共和政ローマ以来の執政官制度を廃止した。一方、サーサーン朝ペルシャとの和解金や長引いた戦争の戦費の為、市民には重税が課せられ、更にペストが流行して人口減少が起こり、飢餓状態に陥った。

・ランゴバルド王国(568-774)
東ローマ帝がゴート戦争を始めると、ゲピド族がパンノニア(カルパチア盆地)を支配して王国を築いた。この為、ランゴバルド族を使ってパンノニア地方から追いやった。66年、東ローマ帝とゲピド族と同盟を結ぶと、ランゴバルド族とアヴァール人が手を結んでゲピド族を滅ぼすと、アヴァール人はランゴバルド族を圧迫した為、ランゴバルド族はイタリア北東を攻略し、72年にはランゴバルド王国を建国した。

■イスラム教/イスラム国家の誕生(610-)
長引く、東ローマ帝とササン朝ペルシアの戦いで、シルクロードがアラビア半島のメッカを経由すると、アラブは貧富の格差に苦しむ様に成った。610年、「神の前ではすべての人は平等」を説いたムハンマドが現れ、貧困層のアラブ人へ急速に広まっていった。やがて、メッカの大商人たちから迫害され、北方のメディナに移ってイスラム教の共同体(ウンマ)を建設し、630年にはメッカ征服を成し遂げ、更にカーバ神殿に飾れれた神像・聖像を破壊してイスラム教の聖地にした。632年、ムハンマドが死去すると、カリフが選ばれた。その後、カリフの下でアラビア半島を統一し、政教一致のイスラム国家を築き、東ローマ帝やササン朝ペルシアへ遠征した。

※イスラム教徒の義務⇒六信:神・天使・啓典(コーラン)・預言者・来世・天命 五行:信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼

・宮宰(ゲルマン貴族)とローマ教会
フランク王国は統一と再分割を繰り返している内、貴族たちが力を持ち始める。613年、ネウストリア分国とアウストラシア分国の戦いの最中、ネウストリア王妃ブルンヒルドに対して貴族たちの反乱が巻き起こると、翌年にはアウストラシア分国のクロタール2世がフランク王国を統一し、「宮宰へ権限を委任と教会の裁判権」を認めるパリ勅令を発布した。

・ササン朝の滅亡/カリフ制イスラム
第2代カリフのウマルは637年のカーディシーヤの戦い、42年のニハーヴァントの戦いでササン朝ペルシア軍を破った。51年、ササン朝ペルシアの王ヤズダギルト3世が暗殺され、ゾロアスター教を教国としたササン朝ペルシアは消滅した。

・大ブルガリア連合国家(632-668)
西突厥(619-628)が衰退すると、遊牧民ハザールはカスピ海当たりにハザール・カガン国を建国した。また、632年には、ブルガール人も各部族を集結してクブラト王の下、北コーカサス地方に大ブルガリア連合国家を築くが、クブラト王が死去すると、ハザール・カガン国に脅かされて、5つに分かれた。

・ウマイヤ朝イスラムの誕生(661-750)
656年、3代カリフのウマイヤ家ウスマーンが暗殺され、4代カリフにハーシム家のアリーが指名されると、ウマイヤ家ムアーウィヤがダマスクスでカリフを自称した。その後、スィッフィーンの戦いが起き、アリーが暗殺され、ムアーウィヤがカリフと成って、ウマイヤ家が代々世襲するウマイヤ朝を築いた。
ウマイヤ朝の初代カリフ・ムアーウィヤは小アジア半島や地中海、アフリカで東ローマ帝国領への侵入を開始し、コンスタンティノポリス包囲するまでに至ったが失敗した。80年、ムアーウィヤが死去してヤズィードが第2代カリフになると、カルバラーの戦いが勃発し、シーア派のフサインを殺害した。これによって、ムアーウィヤのスンナ派がイスラムの覇権を築いた。

・カリフ並立時代-->第二次内乱(683-693)
83年、ヤズィードが死去し、息子のムアーウィヤ2世がカリフになると、それに異議を唱えたアッズバイルがメッカでカリフに即位し、シリア、イラク、エジプトを支配下に置いた。85年、ムアーウィヤ2世が急死し、アブドゥルマリクがウマイヤ朝のカリフに成ると、92年までには反体制のアッズバイル軍を制圧する。一方で、88年に、東ローマ帝国と和平協定を結ぶ。

【スラヴ民族の移動】
・第一次ブルガリア帝国(681-1018)
681年、クブラトの三男がドナウ川下流域のデルタ地帯の東ローマ帝国内に侵入し、東ローマ皇帝コンスタンティノス4世軍と戦い、第一次ブルガリア帝国を建国した。当初は、少数のブルガール人が多数の南スラヴ人を支配下に置いたが、次第に南スラヴ人と一体化し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かした。

・西ゴート王国の滅亡/ウマイヤ朝イスラム
711年、ウマイヤ朝イスラムがイベリア半島に上陸し、西ゴート王ロデリックはグアダレーテ河畔の戦いで戦死してしまい、西ゴート国は消滅した。これによって、イベリア半島のイスラム支配が始まった。

・サラゴサ独立国(714-929)
イスラム勢力の支配下でバヌー・カースィー家がサラゴサで独立国を築いた。やがて、タイファ諸国の一つであるサラゴサ王国に成る。

・アストゥリアス王国(718 - 925)の建国/国土回復運動
718年、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアス人勢力と結んでイベリア半島北部の山岳地帯にアストゥリアス王国を建国した。722年、アストゥリアス王国はコバドンガの戦いでウマイヤ朝に勝利すると、カンガス・デ・オニスを首都に決めて、再びイベリア半島をキリスト教の聖域に回復させる国土回復運動を始めた。た。

・カロリング朝の誕生/ウマイヤ朝のフランク侵入阻止
ウマイヤ朝イスラム軍がピレネー山脈を越えてフランク王国に侵入すると、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、宮宰カール=マルテルが率いるフランク軍に破れ、イベリア半島まで撤退した。41年、カール=マルテルが死去し、その子・ピピン3世がメロヴィング朝の宮宰を継ぐと、ローマ教皇ザカリアスの助言により、メロヴィング朝を廃止してカロリング朝を開くと、ランゴバルド王国のラヴェンナを奪ってローマ教皇領(ピピンの寄進)にした。

・ウマイヤ朝に対するレコンキスタ/アストゥリアス王国
アストゥリアス王アルフォンソ1世はムーア人(北西アフリカのイスラム教教徒)に対するレコンキスタ(国土回復運動)を行い、740年にガリシア地方を、754年にレオン地方を取り戻し、ドゥエロ川からアストゥリアス山脈までの居住者を山脈北側へ移住させた。

【イスラム帝国の分裂】
・アッバース朝(750-1258)の誕生
750年、アラブ至上主義のウマイヤ朝に於いて、「アリーの子孫だけを指導者」と認めるシーア派の過激な運動や、非アラブ人のイスラーム教徒への重税などにより、アッバース革命が勃発した。それにより、サッファーフをカリフする抵抗軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を破り、アッバース朝が建国した。51年には、唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配した。やがて、政権が安定すると、スンナ派を擁護し、シーア派を弾圧した。

・後ウマイヤ朝(756-1031)の誕生
756年、モロッコまで逃れたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に移り、スペイン・アンダルシア地方のコルドバを首都にして、後ウマイヤ朝を建国した。即位後は、アッバース朝第2代カリフ・マンスールの調略を受けて反乱を起こした者たちを制圧し、武威を示した。一方、国内では権力安定化のため、後ウマイヤ朝に反抗的な勢力を徹底的に弾圧した。これが、後のカール大帝のイベリア半島遠征の原因に成って行く。
57年、後ウマイヤ朝はスペイン北部のガリシア遠征を行なうが、アストゥリアス王国に敗北してしまった。その後、アラバとガリシア地方を巡って後ウマイヤ朝とアストゥリアス王国の興亡が続いた。


・ランゴバルド王国の滅亡/カール大帝
768年にピピン3世が死去し、フランク王国は分国統治された。しかし、弟のカールマンが早死した為、カール大帝のもとで一つに成った。74年、ランゴバルド王国がローマ教皇領を攻撃した事で、カール大帝はランゴバルド王を捕まえて鉄王冠を奪うと、自らランゴバルド王に即位した。これによって、イタリア半島の北部を手中に治めると、ランゴバルド王国は消滅した。

・イベリア半島遠征/北ドイツ遠征
772年、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族(サクソン人)を改宗させようと、ザクセン戦争を開始した。78年、カール大帝はイベリア出兵を決意する。これはアッバース朝のサラゴサの守将フサインや、ウエスカのアブー・タウルらがカール大帝に服従を申し出たからである。
その後、後ウマイヤ朝のオベイドを捕まえると、急にフサインがカール大帝への降伏を拒否し、一ヶ月後に休戦協定を結び、サラゴサ側が莫大な黄金をカール大帝に支払う代わりに、フランク軍は包囲を解いた。

・アストゥリアス王国の遷都
774年、フルエーラ1世の暗殺やガリシア地方の反乱が相次いだ為、アストゥリアス王シロはカンガス・デ・オニスからプラビアへ遷都した。783年にシロが没すると、イスラム教徒の奴隷の子孫であるマウレガートが王位を奪った。この頃、養子的キリスト論が北スペインで巻き起こった。89年、マウレガートの子のベルムード1世が即位すると、

・ロンスヴォーの戦い/カール大帝の大敗
778年8月、カール大帝はサラゴサ征服に失敗した帰り道、イスラム教徒のベルベル人と結託しそうなバスクの首都パンプローナを破壊すると、ピレネー山中でバスク人とロンスヴォーの戦いを繰り広げ、ブルターニュ辺境伯のローラン軍が全滅させられた。一方、後ウマイヤ朝はサラゴサ征服に成功し、北部のパンプローナ地方制圧の足がかりを付けた。

・カール大帝のアヴァール遠征/西ローマ帝国
791年、ドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領を置いた。翌年には、ウィーンにペーター教会を建設しすると、再び、アヴァール遠征を行い、アヴァールの首都を征服した。

・ブルビア川の戦い/後ウマイヤ朝vsアストゥリアス
791年、ブルビア川の戦いで後ウマイヤ朝がアストゥリアス王国を破って、アラバとガリシアを奪還すると、アストゥリアス王ベルムード1世は退位し、一時的に王座を奪われいたアルフォンソ2世にアストゥリアスの王位が戻された。その後、アルフォンソ2世は798年に後ウマイヤ朝支配下のリスボン(ポルトガル)を襲撃する。

・スペイン辺境領の設置/カール大帝
795年、スペイン辺境領を置いてイスラムと対抗した。

・西ローマ帝国の復興/カールの戴冠
800年、ローマ教皇はカール大帝に西ローマ皇帝の冠を授けて西ローマ帝国を復興させると、東ローマ帝国及びギリシア正教会と対抗した。しかし、東ローマ帝国の女帝はこれを認めなかった。802年、女帝はニケフォロス1世によって排除された。04年、カール大帝は長年のザクセン戦争に終止符を打った。

・第一次ブルガリア帝国のトラキア侵入
805年、アヴァール人の衰退を見たクルムはアヴァール領に侵攻し、ほぼカルパチア盆地(ハンガリーからルーマニア北部)を領土にすると、東ローマ領に侵入してソフィアを略奪。その後、11年のプリスカの戦いや、13年のヴェルシニキアの戦いに勝利し、東ローマ領のトラキア地方の殆どを手に入れた。そして、再びコンスタンティノープルを包囲する中、クルムが死去した。14年、オムルタグがブルガリアのハンになると、東ローマ皇帝レオーン5世と講和を結んだ。

・ゲルマンのローマ皇帝の誕生/ビザンチン帝国
811年、ニケフォロス1世はブルガリア帝国との戦い(プリスカの戦い)で戦死した為、ミカエル1世が即位すると、12年にカール大帝は東ローマ皇帝ミカエル1世にヴェネツィアを差し、フランク・ローマ皇帝に即位すると、14年にカール大帝は崩御した。これより、東ローマ帝国がビザンチン帝国と呼ばれる

・フランク王国の三分割
817年、ルートヴィヒ1世が帝国継承令を発布し、領土を三人の息子たち(ロタール・ピピン・ルートヴィヒ)に分けた。しかし、18年に四男・シャルルが誕生した為、ルートヴィヒ1世は改正帝国継承令を発布し、シャルルにも領地を分け与えると、イタリア王ベルナルドが反乱を起こし、ロタールによって討たれた。その後、息子たちによって父ルートヴィヒ1世は退位させられた。41年、ピピンや父の死を切掛に、兄弟の間でフォントノワの戦いが勃発し、兄・ロタールが大敗した。43年のヴェルダン条約に従ってフランク・ローマ帝国は三分割された。

・ターヒル朝(821年 - 873)/アッバース朝革命の名家
812年、アッバース朝7代カリフを巡って兄弟争いが勃発すると、ターヒルは兄のマアムーン側に付き、弟で6代カリフのアミーンを処刑し、マアムーンを7代カリフに即位させた。その功績によって、バグダード・ジャズィーラ及びホラーサーン総督に任命された。821年、マアムーンと対立してターヒル朝を建国した。その後もアッバース朝では反乱が相次ぎ、マアムーンがバクダットに入城するのに6年かかった。その為、ホラーサーン方面はターヒル朝に委ねられた。

・シチリア統治--アグラブ朝/ファーティマ朝
827年、チュニジアのアグラブ朝(800-909)がシチリア島侵攻が開始し、78年にはシラクサが占領されてほぼ征服が完了し、902年には残った島東部のタオルミナが陥落すると、シチリアを拠点にイタリア本土を攻撃した。その後、アグラブ朝はファーティマ朝(909-1171)に倒されるが、ムスリムのシチリア支配は継続した。

・バスク族のナバラ王国(824年 - 1620)建国/スペイン
824年、バスク人の首領アリスタがイベリア半島北東部でピレネー山脈のパンプローナで王として選ばれフランク王国に抵抗する拠点とし、ナバラ王国を建国した。

・アストゥリアス王国のガリシア奪還
825年、ガリシア地方のナロンとアンセオに駐屯しているイスラム教徒軍を破った事で、ガリシア州、レオン州、カスティーリャ州で政治的再編が進んだ。

・モラヴィア王国(830-906)
830年、チェコ東部当たりのモラヴィア地方に西スラヴ人がモラヴィア王国を建国し、フランク王国と接するほど領土を拡大し、ローマ・カトリックを容認した。しかし、フランク王国の分離後は、東フランクと関係が悪化し、ビザンツ帝国の東方教会に接すると、東フランクの圧迫を受け、更にマジャール人の侵入により、906年にはモラヴィア王国は滅亡し、その後にハンガリー王国、ベーメン王国、ポーランド王国が現れた。

・アッバース朝の遷都
836年、アッバース朝の第8代カリフは都をバグダードからサーマッラーに遷した。2年後に東ローマ遠征を行っている。

・南イタリアの東ローマ帝国支配
839年、南イタリアのベネヴェント公国で侯位継承争いが勃発すると、イスラム教徒の傭兵がバーリにイスラム教国を建国し、ローマ教皇領への侵入が始まった。その為、イタリア王ロドヴィコ2世がイスラム教徒をバーリから追放し、更に公国をベネヴェント侯国とサレルノ侯国に分離して問題を解決した。その後も南イタリアに侵入するイスラム軍との戦いに追われ、遂に東ローマ帝国の協力を仰ぎ、73年にはバシレイオス1世の宗主権を認めた。

・アストゥリアス王国のバスク制圧/モサベラの殉教
850年、選挙王制が廃止され、ラミーロ1世の子オルドーニョ1世が王位を継承した。また、パンプローナ王の姉と結婚した為、バスク人の反乱の鎮圧に向かった。鎮圧した帰り道、バルドゥリア地方を攻撃に向かうイスラム軍をエブロ河岸で敗退させた。

・グアダラセテの戦い/モサラベの殉死
オルドーニョは後ウマイヤ朝の拠点があるアンダルシア州に住んでる反イスラム派のモサラベ(アンダルシアに住むキリスト教徒)を支援して戦っていたが、852年のグアダラセテの戦いでモサラベ達のキリスト教国軍はイスラム軍に大敗すると、オルドーニョはレオン、アストルガ、アマヤ、トゥイに城壁を築き、更にイスラム領であったトゥデラを征服し、エブロ川流域のナバーラ及びバスク地方へのイスラム侵入を阻止した。


・メルセン条約--フランク王国の再分割
855年、ロタールが死去すると、中部フランクは三人の息子(ロドヴィコ2世・ロタール2世・カール)に分割され、帝国は5つに分けられた。しかし、カールやロタール2世が死去すると、再びロドヴィコ2世と叔父たち(ルートヴィヒ・シャルル)の間で領地の再分割が行われた。70年のメルセン条約によって、ロドヴィコ2世はイタリアのみと成った。

・サッファール朝(861-1000)の建国
861年、ヤアクーブがスィースターン地域を掌握したのを皮切りに現在のアフガニスタン全土とイラン東部、そしてパキスタンの一部を征服し、サッファール朝を建国した。サッファール朝は反アッバースを掲げ、ホラーサーン地方を支配して行った。

・モルクエラの戦いで/レコンキスタ(国土回復運動)の停滞
865年、コルドバの太守は最強の遠征部隊をアラバに派遣し、モルクエラの戦いで、初代カスティーリャ伯ロドリーゴ率いるアストゥリアス軍は大敗させた。数年間レコンキスタの動きを停滞させる事態に成った。

・アラヴィー朝又はアリー朝(864-928)の建国/ザイド派
864年、ハサン・イブン・アリーの子孫がイラン北部のカスピ海南岸地域、タバリスターン・ダイラム(現ギーラーン)などを支配し、アラヴィー朝を建国した。

・ザンジュの乱/アッバース朝の衰退
869年、アッバース朝に対する黒人奴隷の反乱が勃発し、878年には黒人奴隷によって「ザンジュ王国」を建設されたが、883年にアッバース朝軍によって滅ぼされた。

中央アジアのイスラム化/トルコ系民族の興亡

・サーマーン朝(875-999)の誕生
873年、アッバース朝の総督してイラン東部のホラーサーン州を支配していたターヒル朝(821-873)が、アッバース朝から独立した反アッバースのサッファール朝に倒された。その後、サッファール朝はイラン南東部~パキスタンの一部まで支配すると、アッバース朝の首都攻略に乗り出した。また、中央アジアのウズベキスタンを攻撃すると、875年にサーマーン家の君主ナスル1世はアッバース朝の力を借りてサーマーン朝を建国し、893年にはトルコ系民族国家カラハン朝(840-1212)のタラスを、900年にはバルフの戦いでサッファール朝に勝利し、ウズベキスタンとタジキスタン、カザフスタンの一部を支配した。

・教皇ヨハネス8世/東西フランク国
875年、教皇ヨハネス8世はイタリア王ロドヴィコ2世が死去した為、西フランク王シャルル2世を西ローマ皇帝に即位させた。76年、シャルル2世は東フランク王ルートヴィヒ2世の死を機に、領地拡大を図り、ルートヴィヒ3世領のアーヘン及びケルンを侵攻した。しかし、三兄弟(カール3世・カールマン・ルートヴィヒ3世)の連合軍にアンデルナハの戦いで敗北すると、シャルル2世は77年に死去し、イタリアはロドヴィコ2世の後継者であるカールマンに戻された。79年、カールマンが重病に成り、イタリアはカール3世に委ねられ、81年には教皇ヨハネス8世よって西ローマ皇帝として戴冠された。

・アストゥリアス王国のポルトガル遠征(領地拡大)
878年、アストゥリアス王アルフォンソ3世はポルトガル北部へ軍を送り、コインブラ、ポルトを征服し、南西の国境をモンデゴ川に定めた。

・フランク王国の統一/ノルマン人(バイキング)の脅威
879年、西フランク王ルイ2世が死去し、息子たち(ルイ3世とカルロマン)の分割統治が始まり、80年にはルイ3世とルートヴィヒ3世の間でリブモント条約が交わされ、ロートリンゲン地方を失った。また、バイエルン王カールマンが死去すると、ルートヴィヒ3世はバイエルンも領土に加えた。一方では、ノルマン人の侵略に苦しめられ、ザクセン公ブルンなどの多くの家臣を失った。
82年、東フランク王ルートヴィヒ3世が死去した為、弟のカール3世が東フランク王に即位した。更に、2年後には西フランク王カルロマンが死去し、カール3世は再び東西フランクとイタリアを統一した。

・タホ川の戦い/サラゴサ王国の襲撃
メリダ領主がコルドバの太守ムハンマドに反旗を翻した為、太守は大臣ハーシムを仲裁に送り込んだ。しかし、ハーシムのイスラム軍はメリダでは無くレオン、トレド、グアダラハラへ進軍した為、タホ川でアストゥリアス王アルフォンソ3世軍に戦い敗北し、コルドバの太守ムハンマドは大臣の身代金を払う羽目になり、更に3年間の休戦協定を結んだ。882年、復讐としてムハンマドはサラゴサ王国の襲撃し、そこには、バヌ=カシー家の息子ムーサとともに教育を受けていたアルフォンソ3世の子オルドーニョがいた。捕虜の交換が行われ、コルドバの太守軍は追い出された。

・カール3世の廃位→フランク王国の混乱
887年、甥アルヌルフがドイツを拠点に反乱を起こすと、カール3世はナイディンゲンに逃れた為、トリブールの帝国議会で退位が決められ、888年に死去した。これにより、西ヨーロッパは混乱に陥る。

【フランク国の選挙制王政】
・西フランク/対立王シャルル3世
888年、カール3世の廃位後、ノルマン人の包囲からパリを護った英雄、ロベール家のウードが諸侯から推薦されて西フランク王に即位した。しかし、93年に西フランク王ルイ2世の三男シャルル3世がカロリング派のフルク司教により聖別されて戴冠し、ウードと、3年間争った。98年、共同統治者のウードが死ぬと、シャルル3世が単独王に成り、西フランク全体を掌握した。

・イタリア王--諸侯の争奪戦が始まる
889年、カール3世の廃位後のイタリアでは、イタリア王に選任されたフリウーリ辺境伯ベレンガーリオ1世が、トレッビア川の戦いでスポレート公グイードに敗北し、イタリアの王座を奪われた。91年、グイード親子は教皇ステファヌス5世からローマ皇帝の戴冠を受けた。
94年、ベレンガーリオ1世の求めに応じて東フランク王アルヌルフのイタリア遠征が行なわれ、グイードは再びイタリア王に戻され、統治権は限定的なもの成った。96年、グイードの子・ランベルトに対抗する為、アルヌルフは教皇フォルモススからローマ皇帝の戴冠を受けると、東フランクのケルンテンに戻った為、ランベルトとベレンガーリオ1世は和解した。
98年にランベルトが死去すると、ベレンガーリオ1世がイタリア王に即位した。翌年には、アルヌルフが死去し、ローマ皇位が空位に成り、また、ベレンガーリオ1世がマジャール人との戦いに敗北して高額な身代金を払った事で諸侯からの信頼を失った。

・ハムダーン朝の建国/アッバス朝の衰退
890年、アラブ遊牧民のタグリブ部族のハムダーンがアッバス朝のマルディン(トルコ)総督に任命された。その後、アッバース朝と交渉して貢納を行うのと引き換え、ジャズィーラ地方の支配権を認めさせてハムダーン朝を建国した。やがて、アッバス朝のアミールの地位を巡って将軍達が争いを始めると、ハムダーン朝もこれに関与し、ラカブの地位を得ると、ブワイフ朝と争うように成る。

東ローマ帝国マケドニア王朝時代
・第一次ブルガリア帝国の全盛期
894年、ビザンツ帝国(東ローマ)がブルガリア商人を締め出すと、第一次ブルガリア帝国シメオン1世がビザンツ帝国に進撃して、貢納金を支払わせる事に成功した。更に、マジャル人をパンノニア平原に追いやった。

・東フランク/カロリング朝の断絶/大公の対立
899年、東フランク国及びロタリンギア国を征服し、更にルーヴァンの戦いでノルマン人の侵入を打ち破ったアルヌルが崩御した為、6才のルートヴィヒ4世が即位し、バイエルン辺境伯ルイトポルトが摂政を務めた。900年は異母兄のロタリンギア王ツヴェンティポルトが病死した為、ロタリンギア王も兼ねた。
907年、マジャル人の侵入により、バイエルン辺境伯ルイトポルトが戦死し、更に11年にルートヴィヒ4世が崩御すると、カロリング朝は断絶した為、コンラディン家のフランケン大公コンラート1世が継承したが、ザクセン公・部族大公と対立し、ロートリンゲンを西フランクに奪った。12年、ザクセン公オットーが死去し、ハインリヒは公位を継承するが、コンラート1世はこれを認めず、二人は対立した。13年、コンラートはバイエルン公アルヌルフとその伯父と手を結ぶが、4年後には二人と対立して戦った。918年、コンラートは病床に付くと、ザクセン公ハインリヒ1世を東フランク王に任命して死去した。

続く
















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PHPでGmailを受信するには

2016年10月19日 | xampp
PHPでGmailを受信するには


【環境条件】
OS:win10
XAMPP v3.2.1
Eclipse(ルナ)

参照サイト
PHPからGmailのメールを取得してゴニョゴニョする
imap関数を使ってGmailのメールを取得する – ONILOQ NOTE


【PHP.ini】
IMAP関数を利用するためPHP.iniの設定を変える
;extension=php_imap.dllの";"を外す

【Gmailの設定を変える】

gmail.com にアクセスします

1)設定から設定を選択する

2)メールの転送とpop/imapをクリックし、「ステータスIMAP有効」の所で「IMAPを有効する」にチェックを入れる


【プログラム】
下記のサイトをコピーしてください
Gmailの受信ボックスを表示する
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PHPでGmailを利用するには

2016年10月09日 | xampp
PHPでGmailを利用するには


【環境条件】
OS:win10
XAMPP v3.2.1
Eclipse(ルナ)

参照サイト→Web Design Leaves

【PHPでGmailを使って相手にメールを送るには】
1)PHPMailerをWebサイト「PHPMailer/PHPMailer」からダウンロードする。
ダウンロードするにはグリーンの「clone or download」ボタンを押す

2)展開する
「PHPMailer-master.zip」をC:/xampp/phpに展開する。


3)ホルダ名を「PHPMailer」に変更する


4)「php.ini」ファイルの設定を変える
ア)include_path=".;C:\xampp\php\PEAR"
から
include_path=".;C:\xampp\php\PEAR;C:\xampp\php\PHPMailer"
に変える。その際に「;」を外しておく

イ)php_openssl.dllの「;」を外しておく

5)Gmailのセキュリティ設定を変える。


Googleにアクセスして安全性の低いアプリのアクセスをオンにする。

6)Eclipseでメール送信テスト用のプログラムを書く

【Mail1.php】
<?php
header('Content-Type: text/html; charset=UTF-8');//文字化け
require_once('PHPMailerAutoload.php'); //PHPMailer の読み込み
$mail = new PHPMailer; //PHPMailer のインスタンスを生成

$mail->isSMTP(); // SMTP を使用
$mail->Host = 'smtp.gmail.com'; // SMTP サーバーを指定
$mail->SMTPAuth = true; // SMTP authentication を有効に
$mail->Username = '☓☓☓@gmail.com'; // SMTP ユーザ名
$mail->Password = '☓☓☓'; // SMTP パスワード
$mail->SMTPSecure = 'tls'; // TLS encryption を有効に
$mail->Port = 587; // TCP ポートを指定



$mail->setFrom('☓☓☓@gmail.com', 'Mailer'); //差出人from
$mail->addAddress('△△△@cube.ocn.ne.jp', 'WDL'); // 受信アドレスto
$mail->addReplyTo('☓☓☓@gmail.com', 'Information'); //返信用アドレス
$mail->addCC('test@example.com'); //Cc アドレス

//$mail->addAttachment('photo_01.jpg'); // 添付ファイルを追加
$mail->isHTML(true); // HTML形式のメールに設定

//英語の場合
$mail->Subject = 'Here is the subject';
$mail->Body = 'This is the HTML message body in bold!';
$mail->AltBody = 'This is the body in plain text for non-HTML mail clients';
//日本語の場合
$mail->CharSet = "UTF-8"; // 文字セット(デフォルトは'ISO-8859-1')
$mail->Encoding = "base64"; // エンコーディング(デフォルトは'8bit')
$mail->Subject = 'こんにちわ';//件名
$mail->Body = 'これはメールテストです';//本文
$mail->AltBody = 'あいうえお';//HTML用

//英語の場合
if(!$mail->send()) {
echo 'Message could not be sent.';
echo 'Mailer Error: ' . $mail->ErrorInfo;
} else {
echo 'Message has been sent';
}
//日本語の場合
if(!$mail->send()) {
echo 'メッセージの送信に失敗しました。';
echo 'Mailer Error: ' . $mail->ErrorInfo;
} else {
echo 'メッセージが無事送信されました。';
}
?>

6)プロクラムを実行する


7)成功すると下記のようなメッセージが出る


8)送った相手にメールが送信される


【ローカル環境[XAMPP]でmb_send_mail()のメール送信を可能にする方法】
・php.iniの修正
1)「;sendmail_path = “\”D:\xampp\sendmail\sendmail.exe\” -t”」のコメントアウトを外す
2)「sendmail_path = “D:\xampp\mailtodisk\mailtodisk.exe”」にコメントアウトを付ける

・sendmail.iniの修正
D:\xampp\sendmail\sendmail.iniを開きパラメータを変更する(Gmailの場合)

smtp_server=smtp.gmail.com
smtp_port=587
auth_username=xxx@gmail.com #自分の使っているgmailのメールアドレスを入力
auth_password=pass #gmailのパスワードを入力
force_sender=xxx@gmail.com #自分の使っているgmailのメールアドレスを入力

【phpのメールプログラム】
header('Content-Type: text/html; charset=UTF-8');


//言語設定、内部エンコーディングを指定する
mb_language("japanese");
mb_internal_encoding("UTF-8");

//日本語メール送信
$to = "△△△@cube.ocn.ne.jp";
$subject = "例の件について";
$body = "どうでしょう?";
$from = "☓☓☓@gmail.com";
//ちゃんと日本語メールが送信できます
if(mb_send_mail($to,$subject,$body,$from)){
echo '送信成功';
} else {
echo ‘送信失敗’;
}
?>
【結果】
OK成ら、無事に相手先メールが送られる
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