『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)について
#インド古代信仰(前1500~)
インド人は人生は苦であり、人は四季の様に輪廻転生するものと考えていた。その為、そこから解脱する方法として古くからタントラ信仰があった。
タントラ教とは男性性器や女性性器を祀り、性のエネルギーを利用して儀式を行いながら神と一体になり、宇宙の最高真理を悟ろうとする民族宗教。この頃、自分では気付かないものの、人の肉体にも神が宿っていると考えられていた。
#バラモン教(前800年~)
アーリア人がインダス川流域から進出して、梵我一如論を唱えるヴェーダの宗教(バラモン教)が誕生し、カースト制度が成立した。
そのバラモンの力が大きくなるにつれ、その祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が生まれ、やかて、ヴェーダやウパニシャッド哲学などの認識論的なすべての束縛から、瞑想などの修行をもって、解脱を求めてる沙門が現れる様になった。それが六師外道(唯物論、七要素説、 道徳否定論、決定論、懐疑論、相対論)と呼ばれる者達で、釈迦もその一人であった。
#初期仏教(前463年~ 前283)
インドは16国に分裂していた時代、現在のネーパルに生まれたゴータマ・シッダッタ(釈迦;前463年 - 前383)により仏教が誕生した。
釈迦は当初、バッカバ仙人・アーラーラ・カーラーマ仙人・ウッダカラーマ・プッタ仙人の下で修行するが悟りを得られないと、5人の比丘と共にウルヴェーラの林で苦行をするが、人生の苦を根本的に解決する事は出来ないと悟って難行苦行を捨てると共に5人の比丘と別れ、ガヤー村のピッパラ樹の下で瞑想に入り、悟った。
その後、サルナート(鹿野苑)にて、5比丘に十二因縁を説いて四諦ハ正道の実践を説いた。やがて、耶舎(十事非法)や富楼那などを次々と教下していく中、教団が急に大きく成ったのは事火外道の三迦葉と言われる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。
ついでに王舎城に行き、ビンビサーラ王を教化し、王から竹林精舎を寄進られる。ほどなくすると釈迦の所に、後に高弟となる舎利弗(しゃりほつ)・摩訶目?連(もくれん)・摩訶迦葉が加わった。元々、舎利弗・摩訶目?連は懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であった。
#初期仏教時代、釈尊入滅直後(前383~前282)
マガダ国ではシシュナーガ朝からナンダ朝に変わる頃、摩訶迦葉の下で阿難によって第一結集が行なわれる様になり、この後100年間だけ、教団は一枚岩であった。
時代としては
紀元前317年ナンダ朝はシュードラであるとバラモン教の知識人達に嫌われ、これに反旗を翻したチャンドラグプタにより、マウリヤ朝が建てられた。
チャンドラグプタはガンジス川流域を支配した後、紀元前323年にアレクサンドロスがに死去すると共にインダス川流域も支配した。
また、紀元前305年、ディアドコイ戦争の最中にセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばしたが、チャンドグプタにより制圧される。さらに、紀元前293年頃チャンドラグプタが死去し、息子ビンドゥサーラが王となる。
#部派仏教時代、釈尊入滅100年後(前283~前182)
紀元前259年頃、マウリヤ朝アショーカ王が南方のカリンガ国への遠征をして、多くの死者を出し悲惨を極めた為、仏教に帰依して仏教を保護した。
またアショーカ王は根本分裂の仲裁に入ったが、止める事が出来ずにアショーカ王の下、戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われ、大衆部と上座部に別れる根本分裂が起きた。
#部派仏教時代、釈尊入滅200年後(前183~前82)
またアショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。その後、大衆部及び上座部がそれぞれ枝末分裂を起こす。
先ず始に大衆部が一説部・説出世部・鶏飲部の3部派が分派した。
更に多聞部・説仮部が分派し、最後に制多山部・西山住部・北山住部が分派して、大衆部系は本末合わせて9部派となった。
この時代はマウリヤ朝最後の王ブリハドラタが暗殺され、将軍プシャヤミトラ・シュンガによってシュンガ朝(前180~前63)が建国され、仏教教団を弾圧してバラモン教の復興が進められた。
シュンガ朝にとって驚異となる勢力が現れる。中央インドではウィダルパ国・北西インドにおいてはギリシア人勢力であった。
#部派仏教時代、釈尊入滅300年後、(前83~16年)
上座部からも枝末分裂が起こり、説一切有部・雪山部の2部が分派し、更に説一切有部から犢子部が分派する。また、更に犢子部から法上部・賢冑部・正量部・密林山部の4部派が分出した。
また、説一切有部からは化地部が、化地部から法蔵部が分出し、更に、末には説一切有部から飲光部が分出した。
この時代はシュンガ朝からカーンヴァ朝(前68年~前23年)に変わる。カーンヴァ朝も
バラモン教を重視した。やがて、カーンヴァ朝もデカン高原で生まれたサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)に滅ぼされる。
サータヴァーハナ朝の王たちは、ローマと盛んに貿易し、商業に力を入れると共に、
バラモン教を信仰しながらも仏教やジャイナ教の発展にも寄与した。
#部派仏教時代、釈尊入滅400年後(17年~116年)
最後に説一切有部から経量部が派出して上座部系は合わせて11部、大衆部の9部と合計して20部派に及び、いわゆる小乗20部が誕生し、部派仏教時代が終わる。
これらの部派はそれぞれに教義解釈の体系を整え、教・律・論の三蔵を成立させる。中でも説一切有部は迦多衍尼子(かたえんにし)によって、まとめられた教義「発智論」が注目され、有力視された。
備考
日本では倶舎論がその流れを受け継いでいる。また南方の上座部(小乗仏教)だけが、パーリ語の三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)を完全な形で伝えている。
#部派仏教時代、釈尊入滅500年後(17年~116年)
1世紀前後から、上座部系の部派は次第に思弁哲学的傾向を強まり、仏教の哲学的解釈は深まったが、同時に苦行による自己の開悟解脱が目的となり、また社会的栄誉を求める傾向も現れ、保守化・形式主義化が著しく、衆生救済という原始仏教の本義から離れる様になり、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の一分派から、自己の開悟解脱の為で無く、大衆一般の救済を目的に説かれるべきであるとする大乗思想運動が起きた。
この時代
サータヴァーハナ朝が衰退して行き、中央アジアの大月氏から自立した貴霜翕侯(クシャーナ)がインダス川流域に進出してクシャーナ朝を築き始めた。
#大乗仏教時代、釈尊入滅600年後(117年~216年)
大乗思想運動が盛んに成り大乗仏教が生まれ、「般若経」を初めとする「華厳経」「維摩経」「法華経」「大無量寿経」「浄土経」などが編纂された。
これらの経典は自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行と般若波羅蜜多を説いたものである。
中でも「般若経」は呪術的な要素が強く、仏教がヒンズー化して行く密教の原因につながったものと思われている。
これまでの部派仏教を小乗仏教と呼ぶ様になり、在家を中心として広く衆生を救いとるという仏教を大乗仏教と呼ぶようになった。
2世紀中頃、
クシャーナ朝カニシカ王ははその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。また、 サータヴァーハナ王朝の仏教美術にも影響を与え「アマラーヴァティー様式」が誕生した。
#大乗仏教時代、釈尊入滅700年後(217年~316年)
サータヴァーハナ朝の支配下のアーンドラ地方で仏教を学んだ龍樹(150‐250年?)によって、大衆部・上座部・上座部系説一切有部、さらには当時はじまった大乗仏教運動を体系化したともいわれ、特に大乗仏教の基盤となる『般若経』で強調された「空」を、無自性に基礎を置いた「空」であると論じて釈迦の縁起を説明し、大乗仏教を決定的なものとした。
龍樹の教説は「中観派」によって発展され、大乗仏教は北西インドに伝わり、シルクロードを通じて中央アジア、中国、朝鮮、日本などへ伝播し、各地域に大きな影響を残した。経典としては「中論」「十二門論」「大智度論」がある。
デカン高原から南インドを支配していたサータヴァーハナ朝は西北のサカ族との争いが続き、王国は衰亡、分裂を起こして、デカン地方はヴァーカータカ朝の勢力下に入り、東南部海岸地方ではパッラヴァ朝が誕生した。
また、北西インドを支配していたクシャーナ朝もサーサーン朝ペルシア(国教;ゾロアスター教)によって滅ばされる。
#大乗仏教時代、釈尊入滅800年後(317年~416年)
320年、クシャーナ朝が衰退後、ガンジス河流域のマガダ地方(現ビハール州南部)にグプタ朝が起きる。そして、グプタ朝はナガ朝や、ヴァーカータカ朝らと手結び、サカ朝の西クシャトラパを滅ぼして北インドを統一した。
グプタ朝は君主制を強化し、ヴィシュヌ神を信奉し、バラモン教を国教に、サンスクリット語を公用語にしたが、他の宗教も保護した。
大乗仏教は無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟により完成され、兄弟の開いた唯識派と龍樹の開いた中観派とともに大乗仏教の2つの流れを形成した。
#大乗仏教時代、釈尊入滅900年後(417年~516年)
第4代クマーラグプタ1世の時、世界最古の大学であるナーランダ僧院が建てられた。
この時代は純インド的な仏教美術(グプタ美術)や、二大叙事詩である「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」、カーリダーサの戯曲「シャクンタラー」などが生まれ、マヌ法典も完成した。
550年頃、グプタ朝は遊牧民エフタル(フン族)の侵入によって衰退し、一度は復活したが小地域の支配者層が独立して北インドは分裂状態となった。
#大乗仏教時代、釈尊入滅1000年後(517年~616年)
グプタ朝が混乱していた中、606年にハルシャ・ヴァルダナによってプシュヤブーティ朝が建てられた。ハルシャは仏教に帰依しながらヒンドゥー教など諸宗教を保護した。
この頃、西遊記で有名な玄奘三蔵法師がナーランダ寺院に訪れ、大乗仏教を学び、般若経を中国に持ち帰った。
#密教時代、釈尊入滅1100年後(617年~716年)
647年頃、ハルシャ王が死ぬと、ラージプートの諸王朝が分立して北インドは再び分裂した。俗に言うラージプート時代
この頃、唐の僧義淨が訪れているが、仏教は密教化されヒンズー教と変わらなくなり衰退していった。
この時代以降、インドでは仏教が消滅した。
この後インドはプラティハーラ朝(778年~1018年)が起こり、北インドを支配して、イスラム勢力のシンド以東への進出をほぼ300年にわたって阻止した。
世界遺産にもなっているカジュラホの寺院群を築いたことで世界的に知られるチャンデーラ朝が10世紀前半から13世紀末まで北インド、マディヤ・プラデーシュの東部、ブンデルカンド地方を支配した。
以上