不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

ヨーロッパの歴史・経済--大航海時代-2

2021年09月08日 | 西ヨーロッパ史
■大航海時代(1470年-1517年)
百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である薔薇戦争(1455-1485年)の終結。ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)勃発。オスマン帝国の地中海の制海権。スペイン王国の建国(1479-)。レコンキスタ(714-1492年)の終結。イタリア戦争( 1494年–1495年)。ティムール朝(1370 - 1507年)の消滅。

ティムール朝の分立時代

・ティムール朝のヘラート政権樹立
1470年、ティムール朝の第7代君主アブー・サイードの処刑後、フサイン・バイカラが、ヘラートを占領すると、ヤードガール・ムハンマドが白羊朝軍と共にヘラートへ進軍してきた為、フサインはヘラートを放棄して撤退する。フサインは1か月半の間に軍隊を集めてアブー・サイードの王子たちとヤードガール・ムハンマドを破り、ヘラートを奪還すると、ヘラート政権を樹立した。アム川以北、アスタラーバード以西には軍を進めず、白羊朝やサマルカンドに政権を建てたアブー・サイードの一族と友好を保った。フサインは主要な都市や地方に王子や有力アミール(貴族)を総督(ハーキム、ダルガ)として派遣し、彼らは半ば独立した存在となる。

・ルーズコート・フィールドの戦い/薔薇戦争
1470年、エドワード4世は弟のグロスター公リチャードの援助より力を取り戻し、クラレンス公ジョージ・ウォリック伯らを政権中枢から追いやった。やがて、ウェルズ卿がリンカーンシャーで王に反旗を翻す為、兵士を集め始めると、エドワード4世は討伐軍をスタンフォードに進軍させた。3月、スタンフォードのエンピンハム付近で、ルーズコート・フィールドの戦いが両者の間で始まり、反乱軍は敗北した。その後、反乱軍のウェルズ卿が捕まり、ウォリック伯とクラレンス公の関与を自供した後に処刑された為、ウォリック伯とクラレンス公はフランスへ逃亡する。

・ランカスター派ヘンリー6世の復位/薔薇戦争
1470年10月、ウォリック伯とクラレンス公は王妃マーガレットを中心とする亡命ランカスター派と同盟を結び、再びエドワード4世軍に反撃し、エドワード4世をネーデルラントへ追いやり、ロンドン塔に幽閉されていたヘンリー6世を復位させた。一方、戦いに破れたエドワード4世は、オランダの西部・ホラントに渡り、フランスのブルゴーニュ公シャルルの援助を受け、イングランド奪回を図る。

・オスマン帝国のヴェネツィア遠征
1470年、ヴェネツィアはハンガリー王マーチャーシュと同盟し、オスマン帝国領ブルガリアを攻撃するが、オスマン帝国軍の激しい反撃により、エーゲ海の要衝、ネグロポンテを失った。やがて、オスマン帝国軍はペロポネソス半島を占領し、ヴェネツィア本国へ進軍を開始すると、ヴェネツィアは孤立無援となっていった。

・ボヘミア王ヴラジスラフVSハンガリー王マーチャーシュ1世
1471年3月、ボヘミア王イジーの死後、ポーランド王カジミェシュ4世の長男・ヴラジスラフがボヘミア王に選ばれた。しかし、内部ではフス派とカトリックの対立に苦しみ、外部ではハンガリー王マーチャーシュ1世の侵攻にさらされた。

・ポーランド=リトアニア王カジミェシュ4世VSモスクワ大公イヴァン3世
1471年、ポーランド王カジミェシュ4世は、ノヴゴロド共和国と同盟を結んだが、シェロン河畔の戦いによって、ノヴゴロド共和国はモスクワ大公国に併合され、大オルダの君主アフマド・ハーンとの同盟のあってイヴァン3世との関係は悪化、しばしばリトアニアを侵略され、リトアニア貴族の離反も招いた。

・オスマン帝国のカラマン征服/白羊朝との対立
1471年、オスマン皇帝メフメト2世が、再びカラマン侯国の攻撃に乗り出すと、君主ピール・アフメド・ベイは白羊朝のウズン・ハサンに救いを求める。やがて、オスマンに領地を奪われた他のベイリクの君主たちも、ウズン・ハサンの元に集まり、オスマン帝国から領地を奪還し始めた。しかし、マフムト・パシャが率いるオスマン帝国軍にベイシェヒルの戦いで白羊朝軍は敗北する。翌年には、オスマンと白羊朝との和約は破棄された。

・バーネットの戦い/薔薇戦争
1471年3月、エドワード4世は妹マーガレットの夫ブルゴーニュ公シャルルに軍資金を借り、末弟のグロスター公リチャードと共に、ヨークシャー海岸のレーヴェンスパーに上陸し、4月にはロンドンに入り、首都を奪還すると、ヘンリー6世を再度ロンドン塔へ投獄して復位を果たした後、エドワード4世のヨーク軍は、ロンドン近郊のバーネットに進軍し、バーネットの戦いを繰り広げ、ランカスター軍を破った。予備軍を率いていたウォリック伯は敗北を知ると、ロッサム・ウッドへ向かう途中でヨーク派の歩兵に捕まり、殺害された。一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前にウェイマスに上陸し、兵を掻き集めながら、ウェールズに向かった。

・テュークスベリーの戦い(ヘンリー6世の滅亡)/薔薇戦争
1471年5月、テュークスベリーの戦いで、王弟グロスター公リチャードのヨーク軍はサマセット公が指揮する王妃軍を破り、マーガレット王妃と義理の娘アン・ネヴィルを捕虜にした。また、エドワード王太子は戦死し、サマセット公は捕えられて処刑された。21日、ヘンリー6世が暗殺された事からランカスター家は滅亡した。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉されると、王妃の称号の剥奪と寡婦財産の放棄という厳しい条件のもと、開放され、82年に死亡する。


・モルダヴィアの反オスマン帝国闘争
1472年、モルダヴィアのシュテファン大公はオスマン帝国のメフメトに貢納金の支払いを拒むと、ポーランド、ハンガリー、ヴェネツィア、教皇庁に反オスマン連合の結成を呼び掛かける。

・オトゥルクベリの戦い/白羊朝の敗北
1473年、ヴェネツィア共和国と同盟を結んだ白羊朝は、エルズィンシャン近郊で、オスマン帝国軍と衝突し、オトゥルクベリの戦いを繰り広げ、オスマン帝国軍に敗北する。その後、ユーフラテス川が白羊朝とオスマン帝国の国境と定められ、白羊朝が喪失した領土は少なかった。しかし、白羊朝の君主ウズン・ハサンの権威は低下し、彼の兄弟や息子がたびたび反乱を起こした。

・ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)
1473年、ブルゴーニュ公シャルルは、フランス王ルイ11世に対抗するため、ブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ)の他にリエージュ司教領の支配権を獲得し、ネーデルラントを支配した後、周囲のロレーヌ公国やフランス北部地域ピカルディに遠征を開始する。

・モスクワ大公のロシア統合
1473年、モスクワ大公イヴァン3世は、父ヴァシーリー2世から4人の弟達に与えた分領を併合し始めた。二人の弟が死去すると、その領地であるドミトロフ、ヴォログダを回収し、これに抗議した弟・ウグリチ公アンドレイを捕まえて獄中死させた。

・ブルゴーニュ公シャルルのローマ王位請求/シャルルの敗北
1473年9月、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、ブルゴーニュ公シャルルとトリーアで会見し、対仏政策やオスマン討伐を議論した。また、シャルルはブルゴーニュの経済力を盾に、ローマ王位の授与などを要求したが、ローマ王の選定権は選帝侯が有していたこともあり、フリードリヒ3世は明言を避けて逃げ出すと、ブルゴーニュ公シャルルは激怒し、ブルゴーニュ戦争において帝国に報復するが、失敗に終わった。

・ブルゴーニュ公のアルザス遠征
1474年、アルザスに送り込んだ代官ハーゲンバッハの暴政により、アルザス市民の暴動が起き、アルザス代官ハーゲンバッハを処刑すると、ブルゴーニュ公シャルルはアルザスに進軍し、スイスやジギスムント大公に支援されたアルザスの反乱軍と、ブルゴーニュ戦争を始めるが、スイス諸州軍に敗北して、フランシュ=コンテのジュラを失った。

・オスマン皇帝メフメト2世の子ムスタファの暗殺
1474年、メフメト2世の子ムスタファは大宰相マフムト・パシャと彼の妻を巡って争い、マフムトに殺された。

・第二次カスティーリャ継承戦争
1474年、カスティーリャ王エンリケ4世が死去すると、イサベルと長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女の間でカスティーリャ継承戦争が勃発した。

・カスティーリャ共治王の誕生
1474年、カスティーリャ貴族たちはイサベルを女王に即位させて、アラゴン王の王子フェルナンドと結婚させた。その後、夫フェルナンドはカスティーリャ共治王フェルナンド5世と成って、対フランス王国戦をやめて、イサベルと共にカスティーリャ国内の統一に専念し、更にイスラム教のグラナダ王国の征服に乗り出す。


・スイス軍のヴォー遠征/ブルゴーニュ戦争
1475年、スイスのベルン軍がブルゴーニュ公と同盟関係にあったサヴォイア公国のヴォー地方を征服して破壊した。11月、独立共和国ジーベン・ゼンデンがプランタの戦いに臨んで、ベルン軍や他の同盟国の助力によりサヴォイア人を低地ヴァレーから追い払った。

・ヴァスルイの戦い/オスマン帝国の敗北
1475年、モルダヴィア公シュテファン3世はヴァスルイの戦いでオスマンに勝利すると、ローマ教皇から「キリストの戦士」と称えられた。翌76年、トランシルヴァニア軍を率いたヴラドが戦死しても、シュテファン3世はオスマンと戦い続けた。

・オスマン従属国のクリミア・ハン国の誕生
1475年、ハージー・ギレイの死後、クリミア・ハン国は内紛に陥り、オスマン帝国の介入を受け、ジェノヴァが保有していたクリミア半島南岸の諸港湾都市を奪って自領に編入するとともに、内陸部から半島以北を支配するクリミア・ハン国はオスマン帝国の従属国にされた。

・モスクワ大公のカザン・ハン国遠征失敗(69~76年)
1476年、モスクワ大公イヴァン3世は、カザン・ハン国の保護国化を試み、カザンの皇子でモスクワの臣下となってカシモフ・ハン国を統治していたカースィムをカザンのハンに立てようとして、カザン・ハン国遠征を三度も試みたが、失敗に終わった。

・ブルゴーニュ公女と神聖ローマ皇太子の婚約成立
1476年4月、シャルル突進公はローマ王指名の要望を取り下げ、マリーとマクシミリアンの婚約のみを再度申し込んだ。その時、神聖ローマ皇子マクシミリアンは、ハンガリー王マーチャーシュ1世にウィーンをはじめニーダーエスターライヒを陥落させられて敗走している中、マリーに手紙と婚約指輪を送り、婚約を成立させた。

・グランソンの戦い/ブルゴーニュ戦争
1476年3月、ブルゴーニュ公シャルルは報復のためにサヴォイアのピエール・ド・ロモンの領地グランソンへ進軍し、ヌーシャテル湖畔のグランソン城を包囲した。しかし、まもなく、スイスの援軍が到着した為、ブルゴーニュ軍はグランソンの戦いに臨み、大敗すると、スイス人の捕虜を木に吊るして逃走した。
6月、再びブルゴーニュ軍はムルテンの戦いでスイス軍と戦ったが、完敗した。

・トロの戦い/第二次カスティーリャ継承戦争
1476年、ポルトガル王アフォンソ5世は、フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女と婚約し、カスティーリャへ侵攻した。しかし、トーロの戦いでアラゴン=カスティーリャ軍に破れた。その後、ルイ11世の援助を求めたが失敗した。翌77年、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。

・ワラキア公ヴラド3世の死去/ブカレストの戦い
1476年、モルドヴァ公シュテファン3世によって幽閉から釈放されたヴラド3世は、トランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し、ダネシュティ家のバサラブ3世ライオタを追放し、三たび公位に返り咲いたが、ブカレスト近郊でオスマン帝国と戦って戦死すると、再びバサラブ3世がワラキア公に成った。

・オスマン帝国のセルビア攻撃
1477年、モルダヴィア遠征後、オスマン皇帝メフメト2世はハンガリーの勢力下に置かれているセルビアの要塞を攻撃する為、ダルマチアとクロアチアにアクンジュ(非正規の騎兵)を派遣し、更に北イタリアのヴェネツィアの勢力圏に侵入し、町々を破壊させた。しかし、ヴェネツィアの海外領土であるレパントの攻略に失敗し、アルバニアに進軍する。

・ナンシーの戦い/ブルゴーニュ戦争の終焉
1477年1月、ブルゴーニュ公シャルルは、再びロレーヌ公国の首都ナンシーを奪還するため、ナンシーを包囲すると、ロレーヌ公ルネ2世が率いるロレーヌ軍とスイスの傭兵と交戦し、シャルルは戦死した。その後、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の妻となるブルゴーニュ女公マリーが相続した。


・ブルゴーニュ継承戦争の勃発/ブルゴーニュの内乱
1477年1月、シャルル突進公の戦死後、ブルゴーニュ公国内は大混乱に陥った。国内では専制的だったシャルル突進公への不満が蓄積していた貴族や商人が権利の拡大を画策し、更に、フランス王ルイ11世も、ブルゴーニュ公爵領・フランシュ=コンテを接収して、ネーデルラントに程近いピカルディーアルトワを占拠すると、ネーデルランド各地で反乱が勃発した為、2月にブルゴーニュ女公マリーがネーデルランド諸侯から懇願され大特許状に署名すると、皇子マクシミリアンのもとに救いを求めた。
5月、皇帝フリードリヒ3世は、マクシミリアンをマリーのもとに派遣した。8月、マクシミリアンはマリーのいるヘントに到着すると、二人は結婚し、翌月にはルイ11世と休戦し、奪われた都市を奪還した。

・オスマンのアルバニア征服
1478年、オスマン皇帝メフメト2世がアルバニアに進軍する。しかし、他のヨーロッパの国々からアルバニアに援助は行われなかった。6月、アルバニアの首都クルヤは飢餓と疫病、援軍の敗退によってオスマンに降伏。その後、シュコドラ包囲戦の勝利を機に、オスマン帝国はアルバニアの大半を支配下に置いた。

・フランス王ルイ11世のエノー侵攻
1478年、ルイ11世はマリー公女との休戦協定を破って、エノーに侵攻し、マクシミリアンが率いる神聖ローマ帝国軍に敗北した。

・クラレンス公ジョージの謀反/薔薇戦争
1478年、エドワード4世はクラレンス公ジョージを謀反に関与した嫌疑で処刑され、末弟グロスター公リチャードはエドワード・オブ・ウェストミンスターの未亡人であるアン・ネヴィルと結婚して、ネヴィル家の私党を引き継ぎ、北部で大きな勢力を蓄えるようになった。

・白羊朝の衰退
1478年、ウズン・ハサンが没すると王位を巡る争いが起こって王朝は混乱し、ヤアクーブが再び白羊朝を統一したが、ヤアクーブの死をきっかけに、白羊朝は再び混乱状態に陥り、自滅しって行った。

・ハンガリー王マーチャーシュ1世のオーストリア支配
1479年、マーチャーシュ1世はオーストリア、ボヘミア方面に侵出し、ボヘミア王イジーからモラヴィアを奪い、後を継いだヴラジスラフとの戦いも有利に進め、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現し、ボヘミア王位やオーストリア大公位を得た。

スペイン王国(カスティーリャ=アラゴン連合王国)の誕生
1479年、フェルナンドは老父の死去に伴いアラゴン王位を継承し、アラゴン王フェルナンド2世となる。カスティーリャの共同統治者であるフェルナンドがアラゴンの王位をも得たことにより、両国は内政面ではそれぞれ独立しているものの対外的には一体化し、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国が誕生する

・ギネガテの戦い/フランスVSブルゴーニュ公
1479年、フランス軍がアルトワに侵入した為、ギネガテの戦いでフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。しかし、一方でマクシミリアンはシャルル突進公の死によって、混迷したブルゴーニュ公国を再統治した。

・オスマン帝国の制海権(黒海北岸やエーゲ海)の拡大
1479年、オスマン海軍は、タソス、レムノス、プサラを陥落させると、ヴェネツィアと和約を結び、黒海やエーゲ海の制海権を掌握した。

・大オルダのモスクワ遠征/ウグラ河畔の対峙
1480年10月、ジョチ・ウルスの後継政権の一つである大オルダの君主アフマド・ハン(ジョチ家)は、貢納を拒んだモスクワへ、大規模な遠征を開始したが、イヴァン3世はウグラ川に大軍を結集させてアフマド軍の渡河を阻止した。これにより、モスクワ公国は「タタールのくびき」から最終的に解放された事を意味した。

・大オルダのハンの暗殺/権力争い
1481年1月、シビル・ハン国のイバク・ハンにより、ジョチ・ウルス最後の政権である大オルダのハン・アフマドが殺害された。
その後、その息子たちが権力争いに明け暮れ、大オルダは衰退を続けた。このとき、大オルダはリトアニア大公国と同盟して、クリミア・ハン国及びモスクワ大公国と戦っていた。

・オスマン帝国の後継者争い/イェニシェヒルの戦い
1481年、メフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、バヤズィト2世と弟ジェムとの帝位をめぐる争いが勃発する。5月、バヤズィト2世は、第8代オスマン皇帝に即位すると、6月のイェニシェヒルの戦いでジェム軍を破った。その後、ジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、カラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗し、ロドス島の聖ヨハネ騎士団の元に身を寄せた。

・ムハンマド11世のクーデター/対グラナダ戦争
1482年、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、カスティーリャ攻撃を開始する中、息子のムハンマド11世がグラナダタイファの王位を自称し、父及び叔父ムハンマド12世と抗争した。その隙きを突いて、スペイン(アラゴン=カスティーリャ)軍はグラナダへの侵攻を開始する。

・アラスの和約/ブルゴーニュ継承戦争の終焉
1482年、母マリーが落馬して死去すると、長男のフェリペ1世がブルゴーニュ公を継承すると、父マクシミリアンが摂政となる。しかし、フランス王ルイ11世の煽動により公国内のヘント、ブルッヘ、イーペルを初めとする各地で反乱が起こった。父帝フリードリヒ3世もハンガリーを巡る抗争によって本拠地を転々とさせており、フリードリヒ3世どころかドイツ諸侯の支援を受けられる状況になかった。追い詰められたマクシミリアンはフランス王ルイ11世と、アラスの和約を結び、マクシミリアンの娘・マルグリットをフランス王太子シャルルに嫁がせ、ブルゴーニュの大半を獲得した。また、ルイ11世はシャルルが体現する騎士道精神には、嘲弄と軽蔑しか示さなかった。

・イングランド王エドワード5世の即位と権力闘争
1483年4月、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばす中、エドワード4世が急死すると、グロスター公リチャードが護国卿に成り、わずか12才のエドワード5世をイングランド王に即位させた。その後、リヴァーズ伯はエドワード5世の戴冠式を行うために、ラドロー城からロンドンに進軍したが、途中でグロスター公・ウィリアム・ヘイスティングス男爵・バッキンガム公ヘンリー・スタッフォードに捕えられ、エドワード5世は弟のヨーク公リチャードと共にロンドン塔に幽閉され、王妃の弟・リヴァーズ伯は殺された。
6月、グロスター公リチャードが会議を開いて、イングランド王リチャード3世として即位した。

・ボズワースの戦い/薔薇戦争
1485年、テュークスベリーの戦いで大敗し、フランスに身を隠していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、フランスの傭兵を引き連れて、ペンブルクシャーに上陸する。その後、ボズワースの戦いで、イングランド王リチャード3世が戦死すと、ヘンリー・テューダーは戴冠してイングランド王ヘンリー7世に即位した。

・マラティヤの戦い/オスマン帝国VSマムルーク朝
1485年、オスマン帝国とマムルーク朝はメッカの水路の修理を巡って対立し、マムルーク朝のジッダの太守にインドからの贈物を携えた使節が襲われたのを機に、ドゥルカディル侯国とオスマン帝国の連合軍はアシュラフ・カーイトバーイが率いるマムルーク朝軍と、トルコ中部東アナトリア地方のマラティヤ近郊で交戦し、敗北すると、アダナ、タルソス内の城砦を奪われる。その後も、ウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる。しかし、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化していく。

・ベロオーゼロ公国の併合/モスクワ公国
1486年、モスクワ公国の分領であったベロオーゼロ公国はミハイルが継承すると、モスクワ大公イヴァン3世と対立し始め、ミハイルの死去に伴って、モスクワ公国に併合された。

・ストーク・フィールドの戦い/薔薇戦争の終焉
1487年、ヘンリー7世はランカスター派の後継として王位を得て、エリザベス王女との結婚で旧ヨーク派の取り込みを図ったが、リンカーン伯ジョンが次第に王権への魅力は抑えきれず、間もなく王位継承権を持つウォリック伯エドワードの替え玉であるランバート・シムネルを擁立して反乱を起こした。その後、ストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世軍に敗北し、薔薇戦争に終止符が打たれた。


・白羊朝とサファヴィー教団の同盟関係
1487年、白羊朝はゾロアスター教の聖地アルダビールで、台頭してきた神秘主義のサファヴィー教団と同盟を結ぶ為、教主シャイフ・ハイダルにウズン・ハサンの娘アーラム・シャオを嫁がせ、二人の間にサファヴィー朝の建国者となるイスマーイール1世が生まれた。

ウルグ・ムハンマドが建国したカザン・ハン国の内乱
1487年、父のイブラーヒームの後継者争いに負けたムハンマド・エミーンは、モスクワ軍の支援を受けてアドハムの廃位に成功し、カザン・ハン国のハンになると、国内は親モスクワ派と親クリミア派の対立が起きた。やがて、モスクワからカザンへの干渉が強くなると、カザン・ハン国とモスクワ公国は対立するようになる。


・パーキン・ウォーベックの乱/イングランド
1490年、エドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗ったパーキン・ウォーベックは、ブルゴーニュ公妃マーガレットから支持を取り付けると、自らイングランド王リチャード4世と名乗り、イングランド王ヘンリー7世を脅かす事になった。これにより、フランス王シャルル8世やスコットランド王ジェームズ4世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となったが敗れて捕えられ、99年にパーキン・ウォーベックは処刑された。

・シビル・ハン国(1490-1598年)
1490年、大オルダ・ハンを暗殺したイバク・ハンがタイブカ家と婚姻関係を結び、ハーンを継ぎ、イルティシ川沿いのカシリクを首都としてシビル・ハン国を建国した。

・マムルーク朝とオスマン帝国の和解
1491年、ハフス朝はマムルーク朝とオスマン帝国を和解させた。

レコンキスタの終結
1492年、アルハンブラ宮殿が陥落し、ナスル朝グラナダ王国は滅亡、レコンキスタはここに終結した。

1492年10月、コロンブスがアメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達した。

・オスマン帝国のセルビア首都ベオグラード襲撃
1492年、ハンガリー王マーチャーシュ1世が死去すると、オスマン海軍はドナウ川とサヴァ川の合流地点にあるベオグラードを攻撃するが、失敗した。

・サファヴィー教団VS白羊朝
1494年、白羊朝はサファヴィー教団の社会的影響力を恐れて教団を攻撃し、祖父ジュナイド、父ハイダルを殺害したため、イスマーイールが教主の地位に就き、サファヴィー教団はカスピ海南岸のギーラーン地方に潜伏した。

イタリア戦争の勃発


・第一次イタリア戦争(1494-1495年)
1494年、教皇インノケンティウス8世によって破門されたナポリ王フェルディナンド1世が死去すると、息子のアルフォンソ2世がナポリ王に即位した。しかし、以前に教皇からナポリ王位への推薦を与えられていたフランス王シャルル8世がアルフォンソ2世に王位を請求する。10月、ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの病死を機に、シャルル8世はミラノ公国やフィレンツェ共和国を経てナポリへ進軍した。
翌95年2月、シャルル8世がナポリ王国に到達すると、アルフォンソ2世はナポリ王位を長子のフェルディナンド2世に譲り、逃亡した。
5月、フランス王シャルル8世は、ナポリの主要な都市を平定し、フェルディナンド2世を廃位して、新たなナポリ王に即位した。

・ティムール朝サマルカンド政権の内乱
1494年、サマルカンド政権の初代君主アフマドが死去すると、後継者をめぐって内紛が勃発し、サマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。

・フォルノーヴォの戦い/反仏同盟
1495年、イタリア諸侯の反仏感情が高まる中でヴェネツィア軍と教皇軍が助け舟を出し、ナポリ・ヴェネツィア・教皇領の反仏同盟が結成された。そして同盟にカスティーリャ・アラゴン連合と神聖ローマ、それにミラノが助力を申し出た事で反仏包囲が完成した。7月、反仏同盟
軍はフォルノーヴォの戦いでフランス軍に勝利し、シャルル8世をイタリアから追い出した。

・休戦協定/ハンガリーとオスマン
1495年、オスマン帝国はハンガリーと休戦し、黒海沿岸部のキリア、アッケルマン都市を支配下に置き、クリミア・ハン国の騎兵の動員を容易にした。更に、バルバリア海賊など地中海やエーゲ海で跋扈していたムスリムの海賊をオスマン海軍に編入し、ヨーロッパ各国と対峙する。

・バイスングル家の覇権争い/バーブルのサマルカンド遠征
1495年、従兄弟のバイスングルがサマルカンドの支配者の地位を継いだ後、サマルカンドの宮廷ではバイスングルを支持する派閥とバイスングルの弟スルターン・アリーを支持する派閥が争っていた。翌96年、バーブルは混乱するサマルカンド遠征を行い、スルターン・アリーと同盟してバイスングルに対抗するが、失敗に終わる。翌97年、バーブルは再びサマルカンド遠征を実施し、サマルカンド入城に成功すると、スルターンに即位した。しかし、臣下のスルターン・ムハンマド・タンバルが反乱した為、アンディジャンへ帰国すると、サマルカンドはスルターン・アリーの支配下に成った。

・ウズベク・ハン国の再建
1496年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した。

・ミラノ遠征/第二次イタリア戦争(1499-1504年)
1499年、シャルル8世の跡を継いでフランス王に即位したルイ12世は、ローマ教皇とヴェネツィアと手を結び、ミラノ公爵ロドヴィコ・スフォルツァにミラノ公国への権利を主張する。翌1500年、ルイ12世はミラノ遠征を決行し、ノヴァーラの戦いで勝利を収め、ロドヴィコ・スフォルツァを捕虜すると、ミラノ公国の併合に成功した。
更に、ルイ12世は、スペインイタリア南部のナポリまでも占領し、翌01年にはナポリ王フェデリーコからナポリ王位を譲られたが、スペインとフランスが対立し始めると、03年には、ナポリをスペインに奪われた。

・バーブルのアンディジャン奪還
1499年、本拠地を失ったバーブルはホジェンドを拠点とし、支持者の手引きによってようやくアンディジャンに入城することができたが、その後も、バーブルの弟ジャハンギールを擁立するタンバルとの争いが続き、翌年にはタンバルと休戦協定を締結する。

・サファヴィー教団の決起
1499年、イスマーイールはギーラーンの都市ラシュトを出発し、キジルバシを集結させて、政治不安に成った白羊朝の首都へ進軍し、白羊朝軍を次々と破って行った。

・ゾンキオの悲しい戦い/オスマンVSヴェネツィア
1499年、オスマン帝国のバヤズィトはヴェネツィア領のレパントへ親征し、ゾンキオ城近海の戦いで、ヴェネツィアのガレアス船を破り、ヤーニの艦は包囲を仕掛けたヴェネツィア船を沈める勝利を収め、8月にはギリシャのレパントを支配する。

・ヨーロッパの軍事同盟
1500年、モレア半島にあるヴェネツィア領のモドン、ナヴァリノがオスマン帝国軍の手に落ちると、ヴェネツィア、ハンガリー、スペイン、フランス、教皇庁による軍事同盟が結成され、3年までには、ヴェネツィアや、ハンガリーも加わった。

・サマルカンド政権の崩壊
1500年、スルターン・アリーの占領下に置かれたサマルカンドはウズベク・ハン国のムハンマド・シャイバーニー・ハンによって占領された。その後、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはマー・ワラー・アンナフルの支配権を得たが、サマルカンドは君主バーブルによって奪還されたが、翌01年のサリ・プルの戦いで、ウズベク・ハン国軍に敗れて、叔父のマフムード・ハンが統治するタシュケントに退却した。

・モスクワ・リトアニア戦争の再戦
1500年、モスクワ・リトアニア戦争が再燃すると、リトアニアは再び大オルダと同盟した。
翌01年、大オルダ・ハンのシャイフ・アフマド率いる軍勢がルィリスク、ノーウホロド=シーヴェルシクィイ、スタロドゥーブ近くでモスクワ軍を攻撃した。しかし、リトアニア大公アレクサンデル・ヤギェロンは、兄のポーランド王が死去した為、後継者問題に巻き込まれて参戦出来ずにいた。

・ナポリ遠征/第二次イタリア戦争
1500年、ルイ12世はアラゴン王フェルナンド2世と手を結び、ナポリ遠征を決行し、翌01年には、ナポリ王フェデリーコ1世を廃位させ、ルイ12世がナポリ王に即位した。

・サファヴィー朝の建国(1501-1736年)
1501年秋、サファヴィー教団は白羊朝の首都タブリーズを占領し、イスマーイールはタブリーズのモスクでシーア派の一派である十二イマーム派を信仰することを宣言し、サファヴィー朝を建国した。

・スラー川の戦い/大オルダの消滅
1502年、オスマン帝国の支持を得てクリミア・ハンのメングリ1世ギレイが、大オルダの首都サライを攻撃すると、シャイフ・アフマドはリトアニアへ逃亡。更に、スラー川の戦いで大オルダ軍を壊滅し、サライを支配した。その後、メングリ1世は「ハーガーン(皇帝)」の称号を名乗り、カスピ=ヴォルガ流域を支配するタタール系の諸ハン国に対し、自らがジョチ・ウルスの正統を継承する君主であると主張した。

・チェリニョーラの戦い/第二次イタリア戦争
1503年、アラゴン王フェルナンド2世はフランス王ルイ12世からナポリ王位を奪うため、チェリニョーラの戦いで、フランス軍を打ち破った。翌04年、両者は休戦してリヨン条約を結ぶと、フランスがナポリを放棄し、フェルナンド2世がナポリ王に即位した。これにより、ハプスブルク家がカスティーリャ・アラゴン(スペイン)、ナポリ、神聖ローマ帝国(オーストリア)を牛耳る事に成った。

・カスティーリャ女王フアナの誕生
1504年11月、 カスティーリャ女王イサベル1世が崩御すると、娘のフアナ がカスティーリャ女王に即位し、夫フィリップと共に、共同統治した

ポルトガル・マムルーク海上戦争の勃発(1505年–1517年)
1505年、香辛料貿易の覇権を巡って、ポルトガル海軍とマムルーク朝の海軍がインド洋で戦いを起こし、ポルトガル海軍が勝利した。

・カザン・ハン国のモスクワ抵抗
1505年、モスクワの援助によってカザン・ハンに成ったムハンマド・エミーンはモスクワからの干渉に抵抗し、翌06年にはモスクワ軍を追い払った。

・ホルムズ占領/ポルトガルのペルシア進出
1507年、ポルトガル人のアフォンソ・デ・アルブケルケがペルシア湾のオルムズ島を占領し、2年後、初代インド総督フランシスコ・デ・アルメイダから地位を譲られる。

・ティムール朝の滅亡/ウズベク・ハン国シャイバーニー朝
1507年、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝のハンマド・シャイバーニー・ハンはアム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地タシュケントを占領し、更にヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した。その後、カザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に乗り出すが、失敗する。


・カンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)
1507年、教皇ユリウス2世は教皇領のロマーニャ地方をヴェネツィアから取り戻す為、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に、ヴェネツィア討伐を命令したが、翌08年のフリウリ戦争で敗北すると、ユリウス2世はフランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、そしてアラゴン王フェルナンド2世との間に、カンブレー同盟を結成した。

・白羊朝の滅亡
1508年、サファヴィー朝軍は分裂状態にあった白羊朝の諸勢力を撃破し、イラン高原西部とメソポタミア平原の大部分を支配下に置くと、最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒してバグダードを制圧し、サファヴィー朝は白羊朝を滅ぼした。

・アニャデッロの戦い/カンブレー同盟戦争
1509年、カンブレー同盟軍は、アニャデッロの戦いでヴェネツィア軍を破り、イタリア半島におけるヴェネツィアの影響力を一挙に消滅させたが、今度はフランスの影響力が増して行った。翌10年、教皇ユリウス2世は、再びヴェネツィアと同盟を結び、フランスと敵対した。しかし、フランス王ルイ12世はトゥールで教会会議を招集し、教皇の廃位を企てた。11年にピサ教会会議が開かれた。

・ポルトガルによるゴア占領
1510年、インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケはビジャープル王国の支配下にあったゴア島を一時占領するが、いったん引き上げ、11月に再びゴアを恒久占領した。

・ホラーサーンのメルヴの戦い/ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の敗北
1510年、シャイバーニー朝シャイバーニー・ハンが率いるウズベク遊牧民と、サファヴィー朝のイスマーイール1世率いるクズルバシュ遊牧民は、ホラーサーンのメルヴで激突し、シャイバーニー・ハンは敗死し、その首はオスマン朝のスルターン・バヤズィト2世の元に送られた。やがて、ホラーサーン地方はサファヴィー朝の支配下に置かれると、イラン全土はサファヴィー朝に支配された。

・オスマン帝国のセリムのクーデター/父バヤズィト2世の廃位
1511年、サファヴィー朝に同調したシャー・クルの反乱を契機として、兄達が反乱にてこずっている隙を付いて、三男のセリムがクーデターを起こし、翌12年にイェニチェリを使って兄達や父バヤズィト2世を排除し、皇帝に即位した。

・サマルカンドの奪還
1511年、サファヴィー朝と同盟したティムール朝の王族バーブルはシャー・イスマーイールの援助を受けてサマルカンドに進軍すると、シャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニーの甥・ウバイドゥッラーはブハラを放棄し、テュルキスタン(ヤシ)に退却した。しかし、翌12年、ウバイドゥッラーは、従兄弟のムハンマド・ティムールと共に首都サマルカンドに進軍し、バーブルを中央アジアから追い払った。その後、バーブルはインドへ逃れてムガル朝を建国する。

・神聖同盟/ラヴェンナの戦い
1511年、フランス王ルイ12世がピサ教会会議開いて、ローマ教皇ユリウス2世を廃位しょうとすると、ローマ教皇はこれに対してヨーロッパ諸国に呼びかけて、神聖同盟を結成した。
翌12年4月、ラヴェンナの戦いで、フランス軍は神聖同盟軍に勝利したが、総大将ガストンが戦死した為、翌月に神聖同盟によりミラノから追い出された。

・ノヴァーラの戦い/ギネガテの戦い
1513年2月、教皇ユリウス2世が死去する。6月、ノヴァーラの戦いで、ミラノ軍はフランス軍に勝利すると、ルイ12世はミラノとイタリアから撤退することを余儀なくされた。また、フランスは、ギネガテの戦いで、イングランドと同盟した神聖ローマ帝国軍に敗北する。

・チャルディラーンの戦い/オスマンVSサファヴィー朝ペルシャ
1514年、オスマン皇帝セリム1世は、アナトリア半島粛清に乗り出し、サファヴィー朝と交戦する事になり、チャルディラーンの戦いで、オスマン帝国はサファヴィー朝を破った。この戦いにより、鉄砲や大砲が重視されるように成った。

・マルジュ・ダービクの戦い/マムルーク朝の消滅
1516年、セリム1世率いるオスマン帝国の遠征軍がシリアに入ったという一報を受け、マムルーク朝のスルタン・カーンスーフ・アル=ガウリーは、自らスルタン親衛隊の先頭に立ってアレッポを出発し、ダービク平原で両者は激突し、オスマン帝国軍が圧勝すると、翌17年には、本拠地であるカイロも陥落させ、マムルーク朝を滅亡させた。









世界史ランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパの歴史・経済--大航海時代-1

2021年03月10日 | 西ヨーロッパ史
■大航海時代(1453年-1469年)
ヨーロッパ人がアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。15世紀半ばから17世紀半ばまで続き、主にポルトガルとスペインにより行われた。その背景として、オスマン帝国に地中海の制海権を握られていた為、ヨーロッパ諸国が地中海以外の新たな交易ルートの開拓せざる負えなくなる。つまり、重商主義。また、百年戦争後、イングランドの薔薇戦争が起きた。また、東ローマ帝国の滅亡前後には、多くの知識人がイタリアへ亡命し、その携えた古典の文献がイタリアに伝えられて、イタリアでルネサンス運動が起きる

中世の封建社会では、領主が農奴を使役して経営する私有地(荘園)で、自給自足を営んでいた。いわゆる、閉鎖的経済であった。
やがて、農業が三圃式農業から三圃式農業に変わると、生産性が向上し、余剰生産物の貨幣化が進み、貨幣経済が興り、それにより農民の自立と荘園への貨幣地代の導入され、荘園制とそれを支えていた農奴/農奴制が崩壊して行く、また人口増加により十字軍運動が起こると、それに伴って商業ルネサンスが興り始め、イスラム国家のオスマン帝国が地中海に勢力を伸ばすと、大航海時代が到来する。

・アブー・サイードの台頭/ティムール朝
1453年、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブドゥッラーにアブー・サイードが反旗を翻し、新たなサマルカンド政権の支配者になると、ヘラート政権への進撃を開始する。

・白羊朝の台頭
1453年、黒羊朝とティムール朝がアゼルバイジャンおよびイラン西部の支配を巡って争っているすきに、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンは勢力を伸ばし、更にアナトリア北部のトレビゾンド皇帝ヨハネス4世の娘を娶り、トレビゾンド帝国と同盟を結び、オスマン帝国から独立した。

・ベオグラード包囲の失敗/オスマン帝国
1454年、オスマン皇帝メフメト2世はセルビア公ジュラジに割譲した領土の返還を求めた。しかし、ジュラジに拒否された為、翌55年にオスマン帝国はセルビアの首都ベオグラード遠征に乗り出し、56年にはメフメトが率いるオスマン軍がベオグラードの包囲を開始した。しかし、ドナウ川に浮かぶオスマン軍の艦船はドミニコ会修道士カピストラヌスが率いる民衆の攻撃を受けて壊滅し、ベオグラード市内に突入したオスマン軍はハンガリーのフニャディ・ヤーノシュの反撃を受けて惨敗し、エディルネに帰還した。その直後、フニャディはペストに罹り、死亡した。

・十三年戦争(1454-1466年)
1454年、ドイツ騎士団から独立を得るための、プロシア諸都市と地方貴族の反乱として始まった。プロシア連合は、ポーランド王カジミェシュ4世に助力を請い、プロシアをポーランド王国に取り込むと申し出た。国王がそれを承諾すると、戦争はプロシア連合が支援するポーランドとドイツ騎士団の支援者との間で起こった。1466年、プロシア連合側の勝利に終わった。

・イングランド王の精神錯乱/ヨーク公の台頭
1454年、カスティヨンの戦いの敗北後、イングランド王ヘンリー6世が精神錯乱に陥った為、枢密院は王妃マーガレットの願いを退け、ヨーク公リチャードを護国卿に任命した。その後、ヨーク公は政敵のサマセット公はロンドン塔に投獄し、政権を牛耳った。

薔薇戦争/イングランドの勃発(1455-1485年)
・セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1455年、ヘンリー6世が回復すると、ヨーク公リチャードの施策を覆した。ロンドン塔に幽閉されたサマセット公を開放し、ヨーク公から護国卿の地位を没収した。5月、ヘンリー6世はヨーク公リチャードたちを反逆罪に問う為、レスターの大評議会に向かったが、途中のセント・オールバンズ付近でヨーク公軍と交戦する。セント・オールバンズの戦いに於いてサマセット公は戦死し、国王軍は大敗した。戦後、サマセット公を支持していたランカスター派の指導者たちは処刑されると、ヘンリー6世は再び精神錯乱に陥った為、ヨーク公が護国卿に返り咲いた。


・ジャンヌ・ダルク復権裁判
1456年、フランス王シャルル7世はジャンヌの名誉回復を図るため、ジャンヌ・ダルク復権裁判を開き、翌57年にはジャンヌの有罪判決の無効が宣言された。

・イングランド北部の領土問題勃発/フランス海軍の略奪
1456年、ヘンリー6世が回復すると、2月にヨーク公は護国卿を解任し、サマセット公ヘンリー・ボーフォートを寵愛した。マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた。また、イングランド北部ではネヴィル家パーシー家が領土問題を起こし、南部海岸では、フランス海軍による海賊行為が増加していたが、ヘンリー6世は何もしなかった。

・アテネ公国の滅亡/オスマン帝国に併合
1456年、オスマン帝国のメフメト2世によってアテネ公国は征服された。しかし、その後もアラゴン王国内において「アテネ・ネオパトラス公」の称号は使われ続けている。

・ヴラド3世(ドラキラ伯爵のモデル)のワラキア公位回復
1456年、ヴラド3世からワラキア公位を奪ったヴラディスラフ2世がオスマン迎合政策を取り始めると、ハンガリー王国摂政兼トランシルヴァニア侯・フニャディ・ヤーノシュのフニャディの不興を買い、トランシルヴァニア内のワラキア公伝来の所領であったアムラシュ及びファガラシュを没収され、ヴラド3世に与えられた。これより、ヴラディスラフ2世はヴラド3世の暗殺を謀ったが失敗する。8月、フニャディの支援を受けたヴラド3世軍にヴラディスラフ2世は敗北して戦死すると、ワラキア公にヴラド3世が返り咲いた。その後、ヴラド3世はハンガリーと対オスマン同盟を結び、一方でオスマンに貢納金を払っていた。
翌57年には、シュテファン3世を支援して、モルダヴィア公に即位させた。

・フニャディ・ラースローの暗殺/ハンガリーの反乱
1456年、フニャディ・ヤーノシュが死去すると、ツェリェ伯ウルリク2世がハンガリー王国軍総司令官の職に就き、フニャディ・ヤーノシュが国庫から借り出して未払いのままになっているという借金の返済を息子・ラースローに迫ったが、ラースローは窮地をうまく切り抜けた。しかし、ツェリェ伯とハンガリー王ラディスラウスは、ラースローを自分たちの軍隊から追い出した。11月、ツェリェ伯がフニャディ家の者に暗殺されると、少年王ラディスラウスはフニャディ一家を庇護し、ラースローに王国軍総司令官の地位を与えた。
翌57年、ラースローは都市ブダでラディスラウスに対して謀反を企んだとして逮捕され、処刑された。これによって、ハンガリーで大規模な反乱を引き起こすことになり、国王はプラハに逃れ、11月にはプラハで国王ラディスラウスは病死した。

・ハンガリー王マーチャーシュ1世の誕生
1458年、ハンガリー王ラディスラウスが急死したことで、次男のマーチャーシュがハンガリー王に選出された。その後、オーストリア、ボヘミア方面に侵出し、ボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトからモラヴィアを奪い、後を継いだヴラジスラフとの戦いも有利に進め、一時はウィーンを陥落させるなど、ハンガリー最大の版図を実現する。

・黒羊朝の台頭/ティムール朝の混迷
1458年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、ティムール朝のサマルカンド政権の支配者アブー・サイードと同盟を結び、ヘラート政権を破り、翌年にはペルシャを黒羊朝とティムール朝で東西に分割する。

・イングランド両派の和解/コヴェントリー評議会
1458春、カンタベリー大司教トマス・バウチャーは両派の和解を調停しようとし、大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、両派は一旦和解した。その後、カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった為、彼は査問のためにロンドンに召還するが、カレーに戻った。更に、ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集するが、拒絶された。

・アルバニア人の反乱/モレアス専制公国の内乱
1458年、コンスタンティノポリス陥落後、東ローマ系国家モレアス専制公国の共同統治者であるソマスとディミトリオスが対立し、やがて、ソマスはディミトリオスに宣戦布告した。その後、モレアス専制公国は混乱に陥り、国内の有力者やアルバニア人勢力の離反していった。

・オスマン帝国のセルビアの征服
1459年、オスマン帝国は後継者問題で揺れているセルビアにオスマン軍を派遣し、親オスマン派を支援し、反オスマン派を討つと、セルビアを手中に治め、翌年にはボスニア攻撃を開始した。

・ブロア・ヒースの戦い/薔薇戦争
1459年、ヨーク公はネヴィル一族をラドロー城に集結させたると、ソールズベリー伯がミッドランズ北東部のミドルハム城からミッドランズ南西部のラドロー城に向けて行進した。それを聞きつけたマーガレット王妃は、オードリー卿ジェームス・トゥチェットにそれを捕らえるよう命じるが、9月のブロア・ヒースの戦いで、ランカスター軍を率いていたオードリー卿が戦死すると、ランカスター軍の一部がヨーク軍に合流し、味方を攻撃し始めた為、ランカスター軍は敗北した。

・ラドフォード橋の戦い/薔薇戦争
1459年10月、ブロア・ヒースの戦い後、ヨーク派はウスターに向かって進軍した。途中でヘンリー6世指揮する強大なランカスター軍に遭遇すると、すぐに拠点のあったシュロップシャーのラドフォード橋まで撤退した。その後、ヨーク派のアンドリューが離反して、ランカスター派に寝返ると、ヨーク公及びウォリック伯とソールズベリー伯は夜逃げし、ラドフォード橋の戦いに於いて、ヨーク派の居城ラドローを奪われた。

・ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世のワキア攻撃/ヴラド3世のトランシルヴァニア遠征
1460年、ヴラディスラフ2世の息子・ダン3世がトランシルヴァニアで挙兵し、ワラキアを襲撃したが、ヴラド3世はこれを打ち破ると、ダン3世に加担したブラショヴに制裁を加えるためトランシルヴァニアに侵攻し、ブラショヴに賠償金の支払いや、ワラキアがオスマン帝国やモルダヴィアから攻撃された際には援軍を送ること等ヴラド3世に有利な条項を含んだ平和協約を締結した。

・ノーサンプトンの戦い/ウェイクフィールドの戦い/薔薇戦争
1460年、ランカスター派がヨーク派逃走の機を捉え、議会を招集して彼らを私権剥奪に処して徹底的に弾劾、官職を取り上げて別人を任命して討伐隊を派遣した。ウィルトシャ―伯ジェームズ・バトラーをアイルランド総督に、サマセット公ヘンリー・ボーフォートをカレー総督に任命し、ヨーク派一掃を開始した。しかし、ヨーク派のウォリック伯軍によりサンドウィッチにあった艦隊が撃破された。
6月、国王ヘンリー6世と王妃マーガレットがロンドン北西のコヴェントリーにいるすきを見て、ウォリック伯・ソールズベリー伯・マーチ伯はロンドンに入った。
7月、ノーサンプトンの戦いでヨーク派はランカスター派を破り、ヘンリー6世を捉えたが、マーガレット王妃はウェールズに逃れた。
12月、マーガレット王妃は王太子エドワードを擁立し、ヨーク公を討つべく兵を集結させると、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯は、これを討つためにウェイクフィールド近郊のサンダル城に入ったが、マーガレット王妃軍に囲まれると、ウェイクフィールドの戦いに臨み、マーガレット王妃が率いるランカスター軍軍に大敗した。この戦いで、ヨーク公と17歳の次男のラトランド伯エドムンドが戦死し、ソールズベリー伯は捕らえられ斬首された。

・オスマン帝国のペロポニソス半島征服/モレアス専制公国の消滅
1460年5月、メフメト2世のオスマン帝国軍はペロポニソス半島全土の併合に乗り出し、モレアス専制公国の共同統治者・ディミトリオスを拘束すると、もう一人の統治者で兄のソマスは抵抗を諦めてヴェネツィア船でケルキラ島に脱出した。夏までには半島全土がオスマン朝の領土に加えられた。その後、イタリア・ローマに渡り、ペロポニソス半島奪回の為の十字軍の結成を訴えたが、65年にバチカンで病死した。


・アラゴン王フアン2世の父子対立
1460年、フアン2世はナバラ王位を巡って争った(ナバーラ内戦)長男ビアナ公カルロスを許して釈放するが、カルロスがカスティーリャと内通していた事を知ると、再び彼を投獄した。翌61年、アラゴン連合王国カタルーニャがフアン2世の横暴に反発し、アラゴン王フアン2世にカルロスの釈放を要求すると、カルロスは釈放されたが、まもなく死去した。その為、幼い我が子・フェルナンドをアラゴンの王太子にした。

・アブー・サイードの再統一/ティムール朝
1461年、ティムール朝の第7代君主アブー・サイードはアフガニスタンの大部分を征服し、ウルグ・ベク以来サマルカンド政権とヘラート政権に分割されていたティムール朝を再統合を成し遂げた。

・フランス王ルイ11世の誕生
1461年、シャルル7世は息子ルイ11世との対立に苦しみながら、崩御した。その後、フランス統一を目論むルイ11世がフランス王に即位し、近隣の大諸侯の権力を減殺する事に余念が無かった。翌62年、アラゴン王フアン2世を支援した事でルシヨンとセルダーニュを割譲された。

・モーティマーズ・クロスの戦い/薔薇戦争
1461年、父ヨーク公リチャードが戦死すると、息子のエドワードがヨーク公に即位した。2月、モーティマーズ・クロスの戦いで、マーガレット王妃の主流軍に合流しょうとするペンブルック伯ジャスパー・テューダーとウィルトシャー伯ジェームズ・バトラーを攻撃して倒し、オウエン・テューダーを処刑した。

・第二次セント・オールバンズの戦い/薔薇戦争
1461年2月、マーガレット王妃率いるランカスター本体軍は南イングランドで略奪行為を行いつつ、国王奪回を目指してロンドンへ南下していると、セント・オールバンズ付近でウォリック伯リチャード・ネヴィルのヨーク軍と交戦した。第二次セント・オールバンズの戦いに勝利したランカスター軍は、ヨーク軍が置き去りにしたヘンリー6世を奪還すると、捕えたモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルを処刑した。一方、ウォリック伯はマーチ伯エドワードとの合流を図り西へ退却した。勝利したランカスター軍は兵に略奪を許したために民衆の信望を失い、ロンドン入城を拒まれてしまう。その隙きに、ヨーク派のエドワードがロンドンに入城し、3月にイングランド国王に即位し、ランカスター派のヘンリー6世を廃位した。
これより、ヨーク派によるランカスター派の掃討作戦が開始される。

・フェリブリッジの戦い=タウトンの戦い/薔薇戦争
1461年3月27日、ヨーク派のイングランド国王エドワード4世は兵を集結させて、ヨークシャーのフェリブリッジへ進軍した。先に乗り込んだウォリック伯軍は、エア川のランカスター派の拠点を陥落させる為、フェリブリッジの戦いを繰り広げた。ウォリック伯はエア川に橋を架け、対岸に進軍すると、クリフォード卿ネヴィル卿が率いるランカスター派軍の奇襲を受け、大きな損害を被ったが、翌日には対岸に渡った。29日、エドワード4世のヨーク派主力軍が到着すると、ランカスター軍を蹴散らし、サマセット公が率いるランカスターの主力部隊と、タウトンの戦いを繰り広げ、大勝利を収めた。破れた王妃マーガレットとヘンリー6世、サマセット公はスコットランドに逃げた。

・トレビゾンド帝国の滅亡
1461年、白羊朝とオスマン帝国との不戦条約の締結されると、白羊朝の同盟国で有ったトレビゾンド帝国がオスマン帝国によって滅ぼされ、皇帝ダヴィドは63年に3人の息子とともに斬首された。

・トゥルゴヴィシュテの戦い/オスマン帝国の敗北
1461年、ワラキア公ヴラド3世は、オスマンへの貢納金の引き上げを機に、オスマン帝国から独立しようとすると、メフメト2世は大軍を率いてワラキア遠征をした。翌62年、トゥルゴヴィシュテの戦いで、メフメトの首を狙って、ヴラド3世は激しい夜襲を掛け、オスマン帝国軍とブルガリア兵を2万人を串刺しにして殺害すると、メフメト2世はワラキアから撤退せざる負えなくなった。

・カタルーニャの反乱と対立王との抗争(1462年-1472年)
1462年、カタルーニャはフアナ・エンリケスとフェルナンド王子が滞在していたジローナを包囲すると、アラゴン王フアン2世はフランス王ルイ11世の支援を求め、二人を救出したが、これにより、フランス、カスティーリャ、ポルトガルの介入も招き、対立王が3人も擁立される事態と成り、内戦が10年も続いた。
一人目はカスティーリャ王エンリケ4世(1462年 - 1463年)、二人目はアラゴン王ペドロ5世(1463年 - 1466年)、3人目はアンジュー公ルネ・ダンジュー(1466年 - 1472年)と戦ってフアン2世は勝利し、カタルーニャの反乱を終息させた。

・ヴラド3世の幽閉/ワラキアの継承問題
1462年、ヴラド3世に破れたオスマンのメフメト2世はヴラド3世の弟・ラドゥ美男公に内乱を起こさせ、ヴラド3世をトランシルヴァニアへ追いやった。その後、ヴラド3世はハンガリー王マーチャーシュ1世にオスマン帝国に協力したという罪状で捕らえられ、幽閉の身となる。
10月、ラドゥはワラキア公に即位すると、オスマンは自国に友好的なラドゥが治めるワラキアの貢納金を減額した。その後、ワラキア公ラドゥはハンガリー王マーチャーシュ1世にも、臣下として奉仕することを誓約することによってワラキアの安全を図った。

・ボスニア王国の滅亡/オスマン・ボスニア戦争
1463年、オスマン皇帝メフメト2世はボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され、ボスニア王スティエパン・トマシェヴィチが処刑され、ボスニア王国は消滅した。

・ウィーンの暴動/アルブレヒト6世の暗殺
1463年、ローマ皇帝フリードリヒ3世が不在の間、弟アルブレヒト6世大公はウィーンの不穏分子を煽り暴動を起こさせ、皇后エレノオーレと、息子のマクシミリアンを幽閉した。その後、フリードリヒ3世は屈辱的な内容の講和をアルプレヒトと取り交わすが、アルブレヒト6世が暗殺された為、ウィーン市民と和解したフリードリヒ3世はウィーンに帰還した。

・ヘッジレイ・ムーアの戦い/薔薇戦争
1464年4月、ヨーク派のウォリック伯の弟・モンターギュ卿はニューカースルでのスコットランドの外交使節との会合に出席するために北進している途中、サマセット公が率いるランカスター軍と、ヘッジレイ・ムーアの戦いを繰り広げ、ランカスター軍を打ち破った。

・ヘクサムの戦い/薔薇戦争
1464年5月、ヘッジレイ・ムーアの戦後、ヨーク派はスコットランドが和平を結ぶと、ランカスター派の北部基地は、ヨーク派に脅かされ始める。イングランド王エドワード4世は、レスターに軍を集結させ、北進を開始した。その後、ノーサンバーランドのヘクサムの戦いで、サマセット公が率いるランカスター軍を打ち破り、サマセット公は捕えられて処刑された。再びヘンリー6世はウォリック伯によって、ロンドン塔に幽閉された。一方、マーガレット王妃はフランスへ逃亡した。


・オスマン帝国に対する十字軍の中止
1464年、ローマ教皇ピウス2世はオスマン帝国に対する十字軍遠征を神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を始め、ヨーロッパ諸侯に呼びかけ、十字軍の出発地として決定されたアンコーナに赴くと、急死したため、十字軍遠征は中止に成った。

・オスマン帝国のカラマン征服
1464年、オスマン皇帝メフメト2世はカラマン侯国で起きた後継者争いに介入し、領土の割譲を条件にピール・アフメド・ベイを支援し、66年にはカラマン侯国のコンヤ、カラマンを略奪する。

・エドワード4世VSウォリック伯
1464年、ウォリック伯リチャードはイングランド王エドワード4世と、フランス国王ルイ11世の義理の妹・ボナとの縁談を進めたが、エドワード4世は既に結婚していた為、この縁談は破断に成り、フランスを欺いた事に成った。やがて、怒りを覚えたウォリック伯リチャードは宮廷から遠ざかり、反乱を企てる。また、ウォリック伯リチャードの弟・モンターギュ卿ジョンはノーサンバランド伯に叙された。

・モルドヴァ公のキリア奪還
1465年、モルドヴァ公シュテファン3世はワキア公ラドゥ3世から、ドナウ河口の要衝・キリアを奪還した。

・ロレーヌ公ジャン2世のイベリア遠征
1466年、息子のニコラとルイ11世の娘アンヌ・ド・ボージューの婚約を機に、カタルーニャの支援でイベリア半島に向かい、アラゴン王フアン2世と戦ってジャン2世は敗北した。

・オスマン帝国VS白羊朝
1466年、オスマン軍に領土を奪われたベイリク国家のカラマンのピール・アフメドは白羊朝のウズン・ハサンに庇護を求めた為、オスマン帝国と白羊朝の関係が悪化し始めた。

・アストラハン・ハン国(1466-1556年)の建国
1466年、ノガイ・オルダの支援するティムール・クトルクの後裔・カシム・ハンはヴォルガ川右岸のアストラハンにアストラハン・ハン国を建国した。この頃、ムーサーが支配していたノガイ・オルダも全盛期を迎えていた。


・バイアの戦い
1467年、モルドヴァ公シュテファン3世は、バイアの戦いで、父を暗殺した叔父のペトル・アロンを捉え、2年後に処刑した。

・ブルゴーニュ公シャルルの台頭/公益同盟
1467年、父・フィリップ3世が死去すると、三男・シャルルがブルゴーニュ公に即位した。翌68年には、イングランド王エドワード4世の妹マーガレットを3番目の妻として迎え、フランスの統一を図るルイ11世に対抗する為、ブルゴーニュを中心とした公益同盟を築き、エージュ司教領・ネーデルラントの支配権を握り、フランス王ルイ11世と戦った。

・黒羊朝の白羊朝討伐/黒羊朝の滅亡
1467年、黒羊朝のジャハーン・シャーは、黒羊朝の従属国である白羊朝のウズン・ハサンが勢力拡大を図ると、ウズン・ハサンを討つために西に進軍したが、黒羊朝のジャハーン・シャーは白羊朝にムシュで奇襲をかけられ殺害され、やがて黒羊朝は白羊朝に併合された。

・カザン・ハン国(ヴォルガ川中流域)の内乱
1468年、マフムーデクの次男・イブラーヒームがカザン・ハン国の第3代君主に即位すると、モスクワ大公国と戦闘を開始し、ヴャトカを従属させた。その後、イブラーヒームの子のアドハムとムハンマド・エミーンがカザン・ハン位を巡って争いを起こし、アドハムがハン位を勝ち取った。

・アラゴン皇太子のシチリア王即位
1468年、アラゴン皇太子フェルナンドはシチリア王に即位し、フェルディナンド2世となった。翌69年、カスティーリャ王女イサベルと結婚した。

・ハーレフ城の包囲戦/薔薇戦争
1468年、唯一残っていたランカスター派の拠点であるウェールズのハーレフ城をイングランド王エドワード4世は包囲して陥落させた。これにより、ランカスター派は全滅する。

・カザフ・ハン国の建国/ウズベク・ハン国の分裂
1468年、アブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベク・ハン国は分裂状態に陥り、その多くはモグーリスタン辺境のカザフのもとへ流れ、翌69年にケレイ,ジャーニー・ベクの両ハンを君主とあおいでカザフ・ハン国を建国した。一方で、アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。


・白羊朝のイラン高原支配
1469年、ジャハーン・シャーの息子たちは、ティムール朝の君主アブー・サイードに救いを求めると、再び白羊朝のウズン・ハサンに戦いを挑むが、再び敗北して、ティムール朝のアブー・サイードは政敵ヤードガール・ムハンマドに引き渡されて処刑された。その後、白羊朝はイラン高原西部を支配下に収めた。

・ティムール朝の分立時代
1469年、ティムール朝の君主アブー・サイードの処刑後、息子のアフマドがサマルカンドとその周辺を支配するサマルカンド政権を樹立し、ヘラートをはじめとする地域はフサイン・バイカラが占領していた。

・エッジコート・ムーアの戦い/薔薇戦争
1469年、ランカスター派に成ったウォリック伯はスパイを使って、エドワード4世が私生児である噂を流すと、クラレンス公ジョージがヨーク家の正当な後継者であるとして、ウィリアム・コンヤーズ卿が反乱を起こした。そのため、イングランド王ドワード4世は討伐隊を派遣するが失敗し、ノッティンガムで、新たに援軍を待った。
7月、ウォリック伯とクラレンス公は反乱軍に対する支援を表明し、ウォリック伯は軍を率いてロンドンを発ち、26日のエッジコート・ムーアの戦いで国王軍を破り、エドワード4世はミドルハム城に幽閉し、エリザベスの父リヴァーズ伯と弟ジョンを処刑した。その後、エドワード4世とウォリック伯は和解し、エドワード4世を開放した。

・チロル領主ジギスムント大公の策略
1469年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の従弟でチロル領主ジギスムントはシャルル突進公と共にスイスの拡大を防ぐため、アルザスにある自分の領地を抵当としてブルゴーニュ公シャルルに譲渡したが、ブルゴーニュ公はスイス攻撃せず、バーゼルやストラスブール、ミュルーズなどの都市に対抗して、通商の禁止令を出すと、アルザスはベルンに救援を求めた。


世界史ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その5

2020年10月25日 | 西ヨーロッパ史
■中世後期(1431年-1453年)
オスマン帝国が東ヨーロッパ諸国を次々と支配して行き、ビザンチン帝国は消滅して中世が終わりを告げた。また、百年戦争が終わり、イングランドとフランスの領土がはっきり別れた。
中央アジアではティムール朝が衰退していった。また、ジョチ・ウルスの分裂が始まる。


・アラゴンの王子たちの排除/カスティーリャ
1430年、アラゴン王アルフォンソ5世は、兄弟と共にカスティーリャ王フアン2世を圧迫すると、アラゴン議会により、カスティーリャから排除され、両国の関係は悪化した。

・エペイロス支配/オスマン帝国
1430年、オスマン帝国のムラト2世は、ヴェネツィア共和国のテッサロニキ、ヨアニナを占領、翌31年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。

・コンピエーニュ包囲戦/百年戦争
1430年、イングランド=ブルゴーニュ軍がフランス軍に投降したコンピエーニュの町を包囲すると、ジャンヌはコンピエーニュの救済を願い出たが、パリ包囲戦の失敗を理由に許されなかった。その後、ジャンヌは志願兵を集めて、城の北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとしたが、リニー伯ジャン2世よって呼び寄せられたブルゴーニュ派の援軍の反撃に遭い、ジャンヌは捕まり、それ以外のフランス軍は城内に退去した。その後、ジャン2世は身代金と引き換えにジャンヌをイングランド軍に渡した。10月26日、ジャン2世はコンピエーニュ周辺での戦闘で重傷を負って居城に引き上げたが、その2日後にイングランド=ブルゴーニュ軍勢はフランス軍に大敗し、コンピエーニュから撤退した。翌31年5月、ジャンヌはルーアンで火刑に処された。一方、善良公はフランスと改めて休戦する。12月、ヘンリー6世はパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠したが、イングランド軍が劣勢に成ると、イングランドに帰国する。


・シュヴィトリガイラの戴冠/ポーランドから宣戦布告
1430年、リトアニア大公ヴィータウタスが没すると、ポーランド国王ヴワディスワフ2世の弟・シュヴィトリガイラが、直ちに公位に要求した。しかし、リトアニア人やカトリック教徒はジーギマンタス・ケーストゥタイティスを対立候補者として推し進めた。最終的にはシュヴィトリガイラが勝ち、ヴィリニュスで戴冠した。
その後、リトアニア大公シュヴィトリガイラはポーランドからの完全独立と、正教徒への特権を与えると、ポーランドから宣戦布告を受けた。

・教皇派VS公会議主義者/バーゼル公会議
1431年7月、教皇エウゲニウス4世によってバーゼル公会議が開かれたが、ほとんど参加者が集まらなかった為、教皇は冬に公会議の解散を命じた。しかし、参加者たちはコンスタンツ公会議の精神を再確認して命令を拒否。逆に教皇を公会議に召喚するに至って、教皇対公会議主義者の争いという様相を呈し始めたが、ローマ王ジギスムントの調停で辛うじて決裂は回避された。2年後、教皇は解散命令を撤回し、公会議を正統なものとして存続を認めた。

・ルツク戦争/リトアニアの内戦の始まり
1431年、ポーランド王ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)がポジーリャに侵攻すると、弟シュヴィトリガイラに捕まり、ポジーリャをリトアニアに返す事を約束させられた後、解放された。
2月、ズビグニェフ・オレシニッキが率いるポーランド貴族たちはヴワディスワフ2世の誓約を無効にした上、逆にシュヴィトリガイラがヴワディスワフ2世に対して忠誠を認める事を要求すると、シュヴィトリガイラはこれを拒み、反ポーランド勢力を築く為、ドイツ騎士団やアレクサンダル善良侯率いるモルダヴィア勢と同盟を結んだ。
6月、ポーランド軍はヴォルィーニに侵攻し、ヴォルィーニの一部、ホロドウォ、ヴォロディーミル=ヴォリンスキー、ザラスを征服すると、ルツク付近でシュヴィトリガイラ軍と激突し、シュヴィトリガイラ軍を打ち破ったが、リウバルト城奪還は失敗した。8月、シュヴィトリガイラはポーランドと、和平を結び、ルツク戦争は終結した。

=ジョチ・ウルスの分裂=

シャイド・アフメド1世がリトアニア大公国東部のシュヴィトリガイラから要請を受け、リトアニア内戦の反ポーランド軍をドイツ騎士団と共に支援した。これより、ジョチ裔の様々な家系に属する王族によりサライのハン位が争奪され、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立したため、ジョチ・ウルスの分裂が始まる。

・ポーランド・ドイツ戦争(1431-1435年)
1431年6月、ドイツ騎士団はポーランドへ宣戦布告し、クヤヴィ及びクライナへ進軍し、
9月のドブキの戦いでポーランド軍に敗北した。その後、ポーランド、リトアニア、ドイツ騎士団の間で2年間の休戦が調印された。


・ジーギマンタスの反乱/リトアニアの内戦
1432年8月、セミョーン、ペトラス、ヨナスらが、アシュミニーで野営をしていたリトアニア大公シュヴィトリガイラを襲い、ジーギマンタス・ケーストゥタイティスを新たなリトアニア大公に据えた。その後、ジーギマンタスはヤガイラスのグロドノ合同条約に調印し、ヴォルィーニ、ポドレをポーランドへ譲渡した。その後、ルーシ貴族はシュヴィトリガイラをルーシ大公に擁立した為、リトアニアはリトアニア大公国とルーシ大公国(ベラルーシ)に分裂した。
12月、アシュマニの戦いでポーランド=リトアニア軍を主力とするジーギマンタス軍は、シュヴィトリガイラ軍を撃破した。

・ナポリ継承戦争(1435-1442年)
1432年、再び、アラゴン王アルフォンソ5世はナポリ王位継承権を要求したが、教皇エウゲニウス4世を始め、ミラノ公、ジェノヴァ、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国といったイタリア諸国に反対され挫折したが、34年にナポリ女王ジョヴァンナ2世が後継者に決めたフランスのアンジュー公ルイ3世が死去し、更に翌35年にナポリ女王が死去すると、ナポリ王ルネ・ダンジューと、アルフォンソ5世との間でナポリ継承戦争が勃発。1442年、アルフォンソ5世が勝利を収め、ナポリ王に即位した。

・シャルトルの奪還/イングランドの敗色
1432年、イングランド軍の敗色が色濃く成り始めた。まず、フランス軍にフランスの中部都市シャルトルを奪還された為、イングランド軍はラニ攻囲を断念。また、ベッドフォード公の妻・アンヌが死去した事で、ブルゴーニュ派との結び付きが弱く成り始めた。

・ジギスムントのボヘミア王即位/農民反乱
1432年、ジギスムントがボヘミア王位を獲得したことで、ハンガリーへもフス戦争が波及し、ボヘミア国境地帯で農民反乱が起きたのを皮切りに、ナジントルバ、トランシルヴァニアで次々と農民主導の反乱が起きた。これに対してローマ教皇はフランシスコ修道会士マルキアのヤコブスを異端審問官として派遣し、フス派を徹底的に弾圧した。翌33年、ジギスムントはローマ皇帝として戴冠した。

・シュヴィトリガイラのリトアニア襲撃
1433年、リヴォニア騎士団と同盟したシュヴィトリガイラ軍はリトアニアの地を徹敵的に荒らし回り、ジーギマンタスが有する東方領土の都市を占領した。

・ノルマンディーの蜂起/アラスの和約
1433年、リッシュモンがフランス宮廷に復帰し、逆にラ・トレモイユは追放されると、フランス政府は、再びブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)に和平交渉を持ちかけた。
翌34年、ノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を起こすと、それがノルマンディー全体に広まって行った。12月、ヌヴェールで、イングランド・ブルゴーニュ派・アルマニャック派の三者で平和交渉が行われた。
1435年、ベッドフォード公ジョンが死去すると、イングランドは離脱し、9月21日にアラスの和約がブルゴーニュ派とアルマニャック派の間で締結され、翌36年4月、デュノワ伯のフランス軍によってパリはイングランド軍から開放された。

・ヴワディスワフ2世の死去/ポーランド
1434年、ヴワディスワフ2世(ヨガイラ)が死去した為、ポーランドの大貴族によってカジミェシュ4世の兄・ヴワディスワフ3世がポーランド王に即位したが、一方で一部の貴族たちから根強い反発もあり、事実上の摂政であるオレシニツキ枢機卿が実権を握っていた。

・リパニの戦い/ フス戦争の終焉
1434年、ボヘミアが荒廃すると、フス派の間では内部抗争が起こり、リパニの戦い大プロコップと小プロコップが率いたターボル派が穏健派によって大敗し、ターボル派の兵士の7割が戦死した。その後、ターボル派の残党はヤン・イスクラをリーダーに据えると、北部ハンガリー(スロヴァキア)に落ち延びた。

・パバイスカスの戦い/リトアニアの内乱
1435年、ジーギマンタスがカトリックのリトアニア貴族と正教徒のルーシ貴族を同等に扱うという特権を公布し、シュヴィトリガイラ側にいる幾つかのルーシ貴族を自営に寝返らせた事から、シュヴィトリガイラはジーギマンタスに戦いを挑んだが、パバイスカスの戦いで、敗北すると、シュヴィトリガイラはクラクフへ逃げ、ワラキアに亡命した。その後、ジーギマンタスは、リトアニア=ルーシ大公に納まり、12月にはリヴォニア連盟結成に関する合意条約を締結した。更に、ポーランドも、ドイツ騎士団との間でブレスト=クヤフスキイ条約 を結んだ。

・ローマ皇帝アルブレヒト2世の死去/相続争い
1436年、皇帝ジギスムントは、ボヘミア貴族によって正式にボヘミア王位を認められたものの、翌37年にはチェコのズノイモで病死した。この為、一人娘エリーザベトの婿のオーストリア公アルブレヒト5世が後継者に指名され、ローマ皇帝アルブレヒト2世に即位した。

・オスマン帝国のスメデレヴォ包囲戦
1437年、オスマン軍はセルビアの首都スメデレヴォを包囲すると、ハンガリー王=神聖ローマ皇帝ジギスムントは、フニャディをカルパチア山脈、ドラーヴァ川、サヴァ川、ドナウ川が含まれるハンガリー南部に派遣した。その後、ジギスムントが死去し、娘婿のアルブレヒト2世が後継者に成ると、フニャディをセヴェリン侯し、共にオスマン帝国軍と戦い続けた。


・フィレンツェ公会議/公会議の分裂
1437年、ビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世は、オスマン帝国の脅威に対抗するため、教皇に十字軍遠征を呼びかけてもらうためにヨーロッパを訪問、東方教会との合同会議の機運が起こり、翌38年、エウゲニウス4世はイタリアのフェラーラへ公会議を移すと、反対派の公会議主義者らはバーゼルに留まった。一方、ビザンツ帝国内で、聖職者や国民らから大きな反発の声が上がり、東西教会の合同は現実しなかった。翌39年、公会議主義者等によって対立教皇フェリクス5世が誕生した。

・カザン・ハン国の建国/ルーシ遠征
1438年、ジョチ・ウルスのハン位を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガール王国の故地に退き、カザンを首都として、カザン・ハン国を建国し、翌39年からルーシ遠征を決行した。

・神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の死/相続争い
1439年、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世がオスマン帝国との戦争中に赤痢に罹り、ハンガリーのネスメーイで急死すると、ローマ皇位・ハンガリー王位・ボヘミア王位を巡って後継者問題が起こった。翌40年、アルブレヒト2世の息子ラディスラウス・ポストゥムスがオーストリア公とハンガリー王に就いた。

・プラグリーの反乱
1439年、フランス王シャルル7世は三部会で貴族の徴兵・徴税を禁止、国王が新たに徴兵・徴税することと、部隊の指揮を執る隊長は国王が指名することを勅令で布告した。9月、善良公はルクセンブルクを手に入れ、ブルゴーニュ公国の最盛期を迎えた。翌40年には、プラグリーの乱が起こり、(ブルボン公シャルル1世・アランソン公ジャン2世・デュノワやラ・トレモイユ)の貴族たちが王太子ルイを擁立し、各都市を略奪して行ったが、優秀なブルターニュ兵と砲兵を持つリッシュモン大元帥に鎮圧された。しかし、42年には、イングランドの捕虜に成っていたオルレアン公シャルルが、反乱勢力に担がれヌヴェールで謀議が行われたが、すぐに国王側に発覚して未遂に終わった。その後、政治から遠ざけられた。

・ジーギマンタスの暗殺
1440年、リトアニア大公ジーギマンタスはリトアニア貴族達の陰謀によって殺害されたことでリトアニア=ルーシ国家に帰還したシュヴィトリガイラは再び大公位を請求したが、リトアニア貴族たちは、ポーランド王ヴワディスワフ2世の次男のカジミェラス・ヨガイラタイティスをヴィリニュス城に迎え入れ、リトアニア大公に即位させた。これにより、ポーランドは猛反発し、リトアニアに軍事的圧力を掛けた。やがて、リトアニア貴族も、ポーランド貴族も、平等に扱われるように成った。


・プロシア連合の結成
1440年、ハンザ同盟の都市の指導の下、ドイツ騎士団に対抗することを目的としてプロシア地方の19の都市と貴族や僧侶53人が合同して自治領連合「プロシア連合」を結成した。

・ヴワディスワフ3世のハンガリー王即位/ハンガリーの内乱
1440年2月、ハンガリーの貴族身分はアルブレヒト2世の後継者としてポーランド王ヴワディスワフ3世を擁立した為、アルブレヒト2世の妻・エリーザベトが産んだラディスラウス・ポストゥムスと、ハンガリー王位を巡って争う。一方、選帝侯らは内オーストリア公フリードリヒ3世をローマ王に選出した。なぜなら、フス戦争で混乱に陥ったボヘミアをオスマン帝国から防衛する任を御しやすいオーストリア大公に託すという理由からであった。
42年、エリーザベトが死去したことで、ハンガリーの内乱は治まり、ポーランド王ヴワディスワフ3世のハンガリー王が決まった。翌43年、ヴワディスワフ3世は教皇エウゲニウス4世からの多大な援助を受け、トルコ人に対する十字軍を組織するようになる。

・クリミア・ハン国の建国
1441年、ジョチ・ウルスのハン位をめぐる激しい内乱の後、バシ・テムルの子・ハージー1世ギレイは、リトアニア大公国の支持を受けて、クリミア・ハン国を建国した。

・オスマン帝国VSフニャディ・ヤーノシュ
1441年1月、フニャディはセルビアのスメデレヴォでオスマン軍を撤退させた。翌42年、メジト・ベイの率いるオスマン軍がトランシルヴァニアに侵入すると、シビウ包囲戦で、フニャディはオスマン軍を敗走させた。これを機に、フニャディは、ハンガリー・兼ポーランド王ヴワディスワフ3世に「大遠征」を提唱し、更にアナトリア半島のカラマン侯国と同盟を結んだ。

・ヴァルナ十字軍/セゲド条約
1443年1月、教皇エウゲニウス4世はヴァルナ十字軍を結成すると、オスマン皇帝ムラト2世に宣戦布告し、ハンガリー王ヴワディスワフ3世とフニャディを中心とした十字軍は、ドナウ川を渡りニシュとソフィアへ進軍した。
ニシュの戦いで、十字軍のフニャディ部隊はカシム・パシャが率いるオスマン軍を破り、ニシュを奪還する。その後、カシム・パシャはブルガリアの首都ソフィアに居るムラト2世に合流し、オスマン軍は首都ソフィアから退却すると、代わりに十字軍のフニャディ部隊がソフィアに入城した。12月、十字軍はソフィアに集合すると、アドリアノープルに向って進軍し、ズラティツァ峠でオスマン軍と交戦し敗北した。


・スカンデルベグの反乱
1443年、オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官・スカンデルベクがオスマン帝国に反旗を翻し、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国やローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一し、オスマン帝国軍を跳ね返した。

・ヴァルナの戦い/ヴァルナ十字軍
1444年1月、クノヴィツァの戦いでオスマンの追撃軍を破った。ここでムラト2世の義理の息子で大宰相チャンダルル・ハリル・パシャの弟マフムード・ベイが捕虜となった。その後、十字軍はハンガリーの首都ブダに帰還した。8月に、両国の間で和平交渉がまとまると、枢機卿ジュリアーノは和平条約を無視し、再び十字軍遠征の準備を進めた。その頃、ムラト2世はスルタンの地位を息子のメフメト2世に譲った。11月、ヴァルナの戦いが始まると、ムラト2世は復位して、十字軍を打ち破った。この戦いで、ヴワディスワフ3世はイェニチェリ親衛隊に殺された為、ローマ王アルブレヒト2世の息子・ラディスラウスがハンガリー王に即位した。

トゥール条約
1444年、残るイングランド領は北のノルマンディーと南西のギュイエンヌだけと成った為、イングランドはフランスにサフォーク伯ウィリアムを送り、トゥール条約のもと、イングランドとフランスは和睦を結んだ。
その内容は、メーヌ・アンジューをフランスへ渡す代わりに、王妃マリー・ダンジューの姪マルグリット・ダンジューをヘンリー6世の王妃にすることだった。
翌45年、サフォーク伯は、ボーフォート枢機卿の甥・サマセット公エドムンドをノルマンディー総督に任命すると、ヨーク公リチャードを解任した。

・イェニチェリの反乱/オスマン帝国
1445年、エディルネでイェニチェリの反乱が勃発すると、大宰相ハリル・パシャがムラトに復位を要請した。翌46年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。この為、メフメトはハリル・パシャに恨みを抱いた。その後、ヴェネツィア共和国の船舶を襲撃し、ネグロポンテなどのヴェネツィアの支配下にあるエーゲ海の都市や島を襲撃した。

・スーズダリの戦い/モスクワ大公国の敗北
1444年、カザン・ハンのウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドを自国へと併合する為、モスクワ大公国のスーズダリ公国及びリニジニ・ノヴゴロド公国と、緊密な関係を築き、冬にはニジニ・ノヴゴロドを占領し、更にムーロム公国を占領した。
翌45年1月、モスクワ大公ヴァシーリー2世盲目公が軍を率いてウラジーミルに向うと、ウルグ・ムハンマドはニジニ・ノヴゴロドに引き返した。やがて、ニジニ・ノヴゴロドもモスクワ大公に奪還された。7月、ウルグ・ムハンマドは自身の息子であるマフムードとヤクブ率いる軍勢をルーシに派遣し、スーズダリの戦いに臨み、モスクワ軍を破ってモスクワ大公ヴァシーリー2世を捕虜にし、スーズダリを陥落した。その後、莫大な身代金をもってヴァシーリー2世を開放した。

・ウルグ・ムハンマドの暗殺/カザン・ハン国
1445年、マフムーデクは、父ウルグ・ムハンマドを暗殺して、カザン・ハン国の第2代君主になると、弟のユスフをモスクワへと追いやった。また、大オルダ(ジョチウルス裔の国家)から独立した。

・ティムール朝の内紛
1447年、ティムール朝の第3代君主・シャー・ルフはイラン高原で反乱を起こした孫を討伐するため、ヘラートを出発し、途中のシャフレ・レイで病死した。その後、ウルグ・ベクが第4代の君主に成ったが、各地で王族たちの反乱が発生した。

・サフォーク公の台頭/イングラン
1447年2月、ヘンリー6世はトゥール条約が公になると、サフォーク伯に対する民衆の怒りが激しく成り暴動が起きると、グロスター公ハンフリーとヨーク公に、その罪をなすりつけ、グロスター公を投獄して殺した。また、ヨーク公をアイルランド総督へ転出された。更に、4月にはボーフォート枢機卿は病死した為、残ったサフォーク伯がヘンリー6世政権を牛耳る様になる。

・第二次コソヴォの戦い/オスマン帝国のバルカン制覇
1448年、ムラト2世率いるオスマン軍は、第二次コソヴォの戦いで、フニャディ・ヤーノシュ率いるハンガリー、ワラキア、モルダヴィア混成軍を打ち破った。バルカン半島のキリスト教国家を破った。その後、ビザンティン帝国を次第に圧迫して行く中、皇帝ヨハネス8世パレオロゴスが死去した。翌49年1月、コンスタンティノス11世がモレアス専制公領の首都ミストラスで即位し、ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスへ赴き、ムラト2世と平和条約を結んだ。

・黒羊朝の台頭/ティムール朝混乱期
1449年、ウルグ・ベクの長男アブドゥッラティーフがバルフで反乱を起こし、父との戦いに勝利した。やがて、ペルシア人奴隷を遣わして父を殺害したが、アブドゥッラティーフも、ウルグ・ベクの忠僕によって暗殺された。翌50年、アブドゥッラーがティムール朝の第6代君主に即位する。ティムール朝が混乱しているすきに、黒羊朝が勢力を拡大し、イランの西部から東部まで進出してホラーサーンの主邑ヘラートまで占領した。

・ノルマンディー攻防戦/サフォーク公の暗殺
1449年3月、イングランドのサマセット公はブルターニュ公フランソワ1世が弟ジルを監禁した事を口実に、ノルマンディーに近接するフージェールを奪うと、フランス軍はノルマンディー遠征に乗り出してフージェールを奪還。その後も、ノルマンディーの首府・ルーアンへ進軍し、サマセット公のイングランド軍を破った。そのため、フランスのイングランド領は、コタンタン半島北端のシェルブール及びノルマンディー北部のカーン周辺だけに成ってしまった。
翌50年、ヘンリー6世はやむなく、サフォーク公を追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡で待ち伏せされ、5月に暗殺された。

・フォルミニーの戦い/百年戦争
1450年、ノルマンディー地方の喪失はイングランド王家にとって耐え難い屈辱で有った為、3月、ヘンリー6世はトーマス・キリエルが率いるイングランド軍を港湾都市シェルブールに上陸させ、ヴァローヌを突破し、カーンへ進軍した。途中で、クレルモン伯が支援した反英住民組織軍を破り、カーンとサン=ローとの中間地点・フォルミニーで駐留した。4月14日、フォルミニーの戦いが、クレルモン伯が率いるフランス軍とイングランド軍で始まった。翌日、リッシュモン軍がフランス軍に合流すると、イングランド軍は北のバイユー方面へ敗走したが、ノルマンディーの農民達によって虐殺され、司令官キリエルは捕虜に成った。
8月、フランソワ1世とリッシュモン大元帥はノルマンディー地方から、イングランド軍を一掃することに成功した。

・アキテーヌ遠征
1450年9月、フランス軍はギュイエンヌ遠征に乗り出し、都市ベルジュラックを奪った。翌51年、デュノワ伯ジャンのフランス軍はアキテーヌの都府ボルドーや、バイヨンヌを占領すると、ボルドー市民たちはイングランド国王ヘンリー6世に救済を求めた。


・アブー・サイードの乱
1450年、サマルカンドに投獄されたアブー・サイードはサマルカンド有力者によって救出され、反乱を企てると、ウズベクのアブル=ハイル・ハンの援助を得てマー・ワラー・アンナフルを征服し、翌51年には、サマルカンドを占領して、アブドゥッラーを処刑して、ティムール朝の第7代君主に成った。

・メフメトの二度目の即位/ルメリ・ヒサルの建設
1451年、父・ムラト2世が死去すると、メフメトはマニサからエディルネに直行し、スルタンに即位した。その後、弟アフメトを風呂場で絞殺させ、ハリル・パシャや宰相イスハク・パシャと対立し、ハリル・パシャを左遷させた。
その後、オスマン皇帝メフメトはヨーロッパの国々は停戦を求め始めた。その様子を見ていたアナトリア半島のカラマン侯国は和約を破棄し、オスマン領に侵入すると、ビザンツはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。この為、メフメトはカラマン遠征を決行した後、ボスポラス海峡のヨーロッパ岸にルメリ・ヒサルを建設することを命令した。

オスマン帝国のバルカン半島征服の始まり
・ヴラディスラフ2世のワキア公位回復
1451年、ヴラディスラフ2世は、再びヴラド3世からワラキア公位を奪還し、ヴラド3世をモルダヴィア公国に追いやった。更に、モルダヴィア公のボグダン2世が暗殺されると、ヴラド3世は従弟のシュテファンと共にトランシルヴァニアに逃れ、トランシルヴァニア侯フニャディに身を寄せた。

・ダートフォードでの実力行使/イングランドの内戦
1452年、ヨーク公はヘンリー6世に気に入られているサマセット公が王位継承にならぬ様、挙兵してラドローからロンドンに進軍した。しかし、ヘンリー6世の命令で都市の城門にかんぬきがかけられて封鎖されている事を知った。その後、ヨーク公はロンドンに連れて行かれ、そこで2週間の事実上の軟禁の後に、セント・ポール大聖堂で忠誠宣誓を誓うことを強いられ、ダートフォードの戦いに関係したヨーク公の配下を罰するために巡回裁判に乗り出した。

カスティヨンの戦い/百年戦争の終焉
1452年10月、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットが率いるイングランド軍がボルドーに上陸し、フランス守備隊を追い出すと、ガスコーニュ地方の各地でも、イングランド軍を受け入れられるように成った。やがて、イングランド艦隊がノルマンディーとブルターニュに迫り、フランスのリッシュモン大元帥及びブルターニュ公ピエール2世軍と戦いを始めた。翌53年春、フランス国王シャルル7世は、アンドレ・ド・ラヴァルにボルドー遠征を命じると、アンドレが率いるフランス軍はカスティヨンを包囲し、7月にはシュルーズベリーのイングラン軍と激突した(カスティヨンの戦い)。その後、ブルターニュ公ピエール2世の援軍により、イングラン軍を大敗させた。10月、フランス軍はボルドーを陥落させると、シャルル7世はアキテーヌを始めフランス全土を平定した。その後、イングランド王ヘンリー6世は精神錯乱状態に陥った。

・カシモフ・ハン国
1452年、ウルグ・ムハンマドの子カースィムが、兄マフムードとの政争に敗れてモスクワに亡命すると、カースィムはヴァシーリー2世からメシチョーラの地を与えられ、モスクワの庇護の下、カシモフ・ハン国を建国する

・ビザンツ帝国の滅亡/中世の終わり
1453年、オスマン帝国の第7代スルタン・メフメト2世は、ハリル・パシャらの反対を押し切って、コンスタンティノープルを包囲すると、主戦派と反戦派に分裂したが、5月、メフメト2世はコンスタンティノープルの砲撃を開始し、陥落させて、ビザンツ帝国を滅ぼした。その後、メフメト2世は利敵行為を働いた罪でハリル・パシャを処刑した。
翌54年、メフメト2世はセルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否された。そのため、セルビア遠征に乗り出した。


世界史ランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その4

2020年08月03日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史-中世/後期-4

■中世後期(1401年-1430年)
ヨーロッパの中世は、俗に暗黒時代と呼ばれ、ゲルマン民族が西ローマ帝国を滅ぼした事より始まり、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡後、イタリアで始まったルネサンス運動までを言う。中世後期には、飢饉や疫病の蔓延、大規模な農民蜂起、カトリック教会大分裂、百年戦争(フランスの内乱から、イギリスとフランスの戦いに発展)、オスマン帝国の驚異などがある。一時、オスマン帝国はティムール朝に敗北し、分裂する。

・ハンガリー貴族の反乱
1401年、ニコポリの戦後、ハンガリ王ジギスムントの権威が失墜し、再びナポリ王ラディズラーオを王位に即けようとする貴族の反乱が起き、ジギスムントはブダ城に監禁された。その後、信奉者によって救出されたジギスムントは謀反者に寛大な処置をする。翌02年、ハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト4世を後継者に指名すると、再びハンガリー貴族の反乱が起き為、ジギスムント自ら、鎮圧した。

・ローマ王ヴェンツェルの廃位/ボヘミアの混乱
1401年、帝国諸侯はヴェンツェルから帝位を剥奪した後、ループレヒトを新たなローマ王に迎えた。そのため、ループレヒトはローマ教皇ボニファティウス9世のもとに向かったが、イタリアで激しい抵抗に遭い、軍資金が底をついた為、翌02年に、イタリア行きを断念し、戴冠を果たせなかった。やがて、マインツ選帝侯と対立するようなる。一方、廃位されたボヘミア王ヴェンツェルは、異母弟のハンガリー王ジギスムントに監禁され、ウィーンへ護送されたが、翌03年に、荒廃したボヘミアの首都プラハに帰ってくる。

・ヴィリニュス・ラドム合同
1401年、ポーランドの配王・ヴワディスワフ2世は、ヤドヴィガ女王の崩御にともなって、ヴィリニュス・ラドム合同により、ポーランド・リトアニア連合王国の王に即位すると、ケーストゥティスの子・ヴィータウタスをリトアニア大公に任命した。翌2年にはカジミェシュ3世の娘アンナ・ツィレイスカと再婚した。

・第一次ジェマイティヤ蜂起(1401年-1404年)
1401年、リトアニア大公ヴィータウタスがドイツ騎士団と開戦すると、ジェマイティヤ蜂起が起こり、ジェマイティヤ人の反乱軍がドイツ騎士団の2つ城を焼いた。秋に、騎士団はリトアニアのカウナスとフロドナを襲撃した。翌2年、ドイツ騎士団はヨガイラの弟シュヴィトリガイラをリトアニア大公に擁立し、リトアニア大公ヴィータウタスとの正面対決に挑んだ。

・アンカラの戦い/オスマンVSティムール
1402年、オスマン皇帝バヤズィト1世は第4次コンスタンティノープル包囲戦をする一方で、アナトリアのゲルミヤン侯国 を征服する。また、ティムールに追放された黒羊朝がバヤズィト1世に援助を求め、逆にアナトリアのベイリクたちは、ティムールに援助を求めると、オスマン帝国とティムール帝国の間で、アンカラの戦いが行われ、オスマン帝国が敗北し、コンスタンティノープルは開放され、ビザンチン帝国は助かった。
翌03年、捕虜になったバヤズィト1世はティムール帝国の首都サマルカンドへ護送中に病死した為、バヤズィト1世の滅ぼしたベイリクが復活した。また、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。
また、ティムールはカラ・オスマンの白羊朝を認めた。

オスマン帝国の空位時代(1403~13年)


・スレイマンVSメフメト/オスマン帝国
1403年、バヤズィト1世の死後、オスマン帝国の領地はバヤズィトの四子(スレイマン、メフメト、イーサー、ムーサー)に寄って4分割され、互いに帝位を巡って争いを始めた。メフメト1世は、兄弟イーサーからブルサ、イズニク州を奪い、コンスタンティノープルへ追放した。更に翌4年には、カラマン侯国と同盟を結び、バルカン半島を支配していたスレイマン軍の攻撃を抑えた。
更に、メフメト1世は復興したアイドゥン侯国サルハン侯国テケ侯国メンテシェ侯国を傘下に治め、再び宗主権を認めさせた。

・ラチョンシュの和約--ドイツ騎士団とリトアニア
1404年、ドイツ騎士団はヴィータウタスの3回の裏切りを教皇ボニファティウス9世に訴えたが、教皇よりリトアニア攻撃の中止命令が出され、両者の間でラチョンシュの和約が結ばれ、
リトアニア大公ヴィータウタスはドイツ騎士団と共にジェマイティヤ反乱軍征伐をした。

・ティムールの明遠征(中国)/ティムールの死去
1404年11月、ティムールは亡命してきた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就ける為、遠征を決意すると、後継者にピール・ムハンマドを指名した後、ティムールはサマルカンドを出発したが、翌5年2月、明遠征途中のオトラルで病死してしまう。

---ティムール朝の衰退期--

・ティムール朝の第2代君主ハリールの誕生(1405年-1409年)
1405年、ティムールの死を機に、ティムールの甥・フサインがオトラル付近からサマルカンドに進軍すると、オトラルに居たティムールの側近たちは、ティムールの孫・ハリールにフサインの阻止を要求すると、ハリールはサマルカンド知事:アルグン・シャーらを味方に付けて、フサインや、従兄弟のウルグ・ベクらのサマルカンド入城を拒絶させ、ハリールはタシュケントから首都サマルカンドに入城すると、ハンマド・スルターンの遺児ムハンマド・ジャハーンギールを傀儡のハンに擁立した。その後、ティムール帝国はティムールの三男ミーラーン・シャーの子ハリール派とティムールの四男シャー・ルフ派に分裂していった。

・トクタミシュの死/ノガイ・オルダの設立
1405年、ティムールとトクタミシュが和解するが、ティムールが死去した為、後ろ盾を失ったトクタミシュは、マンギト部の将軍エディゲによって殺された。将軍エディゲはテムル・メリクの子テムル・クトルクをハンに擁立し、ジョチ・ウルスのアミールたちの盟主に成った。やがて、アミールたちエディゲの家系を盟主するノガイ・オルダを形成し、ヴォルガ川とウラル川の間のカスピ海北岸に勢力を誇った。

・カルシの戦い/シャイフの反乱
1406年、シャー・ルフの支援を得たピール・ムハンマドは、カルシの戦いで、ティムール朝のハリール軍に敗北すると、バルフに退却した。翌07年、ピール・ムハンマドは配下であるスルドゥズ部のピール・アリー・ターズによって暗殺された。一方、ハリールはシャーディー・ムルクを妃に迎えると、国政は王妃の意のままに成り、民衆の不満を募らせ、ジャライル部族のシャイフ・ヌールッディーンがモグーリスタン・ハン国の有力者ホダーイダードと、共に反乱を起こし、オトラル、タシュケント、ホジェンド、アンディジャン、スィグナクなどの都市を征服して行った。

・オルレアン公の暗殺/ジアン同盟(アルマニャック派)
1407年、フランス王シャルル5世の死去後、即位したシャルル6世が精神異常に成った為、王弟オルレアン公ルイが権力を握ると、ジャン1世を中心とするブルゴーニュ派によって暗殺された。10年には、叔父のベリー公ジャン1世がブルゴーニュ派に反発してジアン同盟を結成した。やがて、シャルルの舅であるアルマニャック伯が同盟の実権を握り、ブルゴーニュ派と軍事衝突を開始する。

・ドラゴン騎士団の創設
1408年、ハンガリー王ジギスムントはツェリェ伯ヘルマン2世の娘バルバラと再婚し、スロベニア東部のツェリェ地方を勢力下に置くと、国内の不満は和らいだ。その後、ジギスムントは、自分たちに忠誠心を示す貴族たちと、共にドラゴン騎士団を創設した。

・シュヴィトリガイラの幽閉
1408年、リトアニア大公ヴィータウタスと娘婿のモスクワ大公ヴァシーリー1世の間で、戦いが勃発すると、ヴィータウタスの従兄弟であるシュヴィトリガイラは、セヴェリアの全都市をモスクワに引き渡して彼の地へ亡命した。その見返りに、シュヴィトリガイラはヴォロコラムスク始め、いくつかの都市を与えられ、ヴィータウタス軍と戦うが、何度も大敗した。やがて、エディゲ軍の侵入を聞くと、リトアに逃げ帰ったが、クレメネツ城に9年間幽閉された後、ハンガリーへ逃げた。

・第二次ジェマイティヤ蜂起/ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争
1408年、スモレンスク遠征を終えたヴィータウタスは、ポーランド王ヴワディスワフ2世と会って、ジェマイティヤ人を利用してドイツ騎士団がポーランドへ宣戦布告をするよう策略を企てた。翌09年、第二次ジェマイティヤ蜂起が起こり、ジェマイティヤ人の反乱軍はドイツ騎士団の城塞を攻撃し始めた。やがて、ジェマイティヤ人はドイツ騎士団をリトアニア北西部ジェマイティヤ地方からプロイセンへ追いやった。その後、ドイツ騎士団がリトアニアへの侵攻をちらつかせてポーランドを脅迫すると、ポーランドはミコワイ・クロフスキ枢機卿を通じてリトアニア支援を表明し、逆にプロイセン侵攻をちらつかせて騎士団を脅かした。

・黒羊朝のアゼルバイジャン回復
1408年、黒羊朝のカラ・ユースフは勢力を盛り返し、アゼルバイジャン地方を支配するティムール朝の王子アブー・バクルを破って、アゼルバイジャンを奪還した。その後、ジャライル朝を復興させたアフマドと、タブリーズの覇権争いを行い、カラ・ユースフはアフマドを捉えて処刑した。翌11年にはジャライル朝を滅ぼして、バグダードを拠点に、イラク全土を征服した。

・ティムール朝のモグーリスタン遠征/シャー・ルフの即位
1409年、ハリールは反乱軍討伐にモグーリスタン遠征を繰り返すが、3月にモグーリスタンのホダーイダード軍に捉えられた。その隙きに、シャー・ルフがサマルカンドに入城し、ハリールを廃位すると、5月にシャー・ルフがティムール朝の第3代君主に即位いた。

・ポーランドへの宣戦布告/休戦協定
1409年8月、騎士団はポーランドに宣戦布告し、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争を始めたが、ボヘミア王ヴェンツェルの仲介により、1410年6月まで休戦協定が結ばれた。

・アナトリアの奪還/オスマンの空位時代
1409年、メフメト1世は弟ムーサーをバルカン半島に派遣し、スレイマンの居るエディルネを挟み撃ちにし、アナトリア西部をスレイマンから奪還した。

・3教皇鼎立/ピサ公会議
1409年、カトリック教会がローマとアヴィニョンに分裂している中、両教皇の枢機卿団が、ピサ公会議を開いて解決しようとしたが、失敗した。これによって、枢機卿団は両教皇の廃位し、新たにアレクサンデル5世を教皇に迎えると、3人の教皇が鼎立する事態(大シスマ)になった。

・タンネンベルクの戦い/トルンの和約
1410年7月、ポーランドのタンネンベルク村でポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団が交戦し、ポーランド=リトアニアはタンネンベルクの戦いでドイツ騎士団を破ったが、トクタミシュの息子ジャラールが率いるジョチ・ウルス軍はドイツ騎士団に壊滅させられた。その後、ポーランド=リトアニア軍はドイツ騎士団のマリーエンブルク城を包囲したが、収穫時期の秋に成っても陥落しなかった為、翌11年には、三者の間で第一次トルンの和約が結ばれ、ポーランドはドブジン地方を、リトアニアはサモギチアを回復した。これより、ドイツ騎士団は衰退し始めた。

・ローマ王ジギスムントの誕生
1410年、ジギスムントはローマ王ループレヒトの死去を機に、モラヴィア辺境伯ヨープストと、共に共同統治王と成った。しかし、ヨープストが翌11年に死去した事から、ジギスムントは単独ローマ王と成った。

・ジャライル朝の滅亡
1410年、ジャライル朝の第4代君主アフマドは、黒羊朝のカラ・ユースフに捕まり、処刑された。翌11年には、黒羊朝がジャライル朝の残党を滅ぼし、バグダードを占領して、イラク全土を支配すると、ジャライル朝は滅亡した。

・フランスの内戦/ブルゴーニュ派の排除
1411年、アルマニャック派とブルゴーニュ派による内戦が始まると、両派はイングランドの支援を求める様に成り、翌12年には、アルマニャック派とイングランドの同盟成立して、パリからブルゴーニュ派を排除した。しかし、8月に入ると、内戦に疲弊した両派は和睦し、イングランドとの同盟を解消した。

・ヴェネツィア共和国のダルマチア奪還
1411年、ヴェネツィア共和国は、国内が不安定なハンガリーに対して宣戦布告をした。その後、20年、ヴェネツィア共和国はジギスムントからダルマチア地方を割譲された。

・ナポリ対立王ルイ2世のローマ占領
1411年、カルロ3世の子ラディズラーオが教皇アレクサンデル5世から破門されると、ルイ2世ヨハネス23世を擁立し、ローマからラディズラーオを追い出した。2年後、再びローマはラディズラーオに奪還された。

・チャムルルの戦い/オスマン帝国の再統一
1411年2月、スレイマンがコンスタンティノープルへの逃走中に戦死した為、ムーサーはスレイマンが取得したバルカン領を手に入れると、イラン出身のスーフィーを大法官に起用してバルカン諸国を牛耳ると、貴族、富裕層、イスラム神学者からの猛反発を受けた。その後、メフメトは、ビザンツ皇帝とセルビア公と同盟を結び、13年のチャムルルの戦いで弟ムーサーを捕殺してオスマン帝国の再統一を果たすと、スルタンに即位し、カラマン侯国の侵入や将校ジュネイトの反乱を治める為、アナトリアに帰還した。

・業者カボシュの反乱/フランス
1413年、パリでブルゴーニュ派の業を営むカボシュが市民を扇動してアルマニャック派と見られた官僚達を虐殺する事件が起きると、シャルル6世とルイ王太子ら宮廷派はアルマニャック派の手を借り、翌年の5月にはコンピエーニュ・ソワソンなどを落としブルゴーニュ派を追い詰めるが、イングランド軍の襲来を知ると、両派はフランス北部のアラスで和睦を結んだ。

・ヘンリー5世の即位/ロラード主義
1413年、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患にため、ヘンリー4世が死去すると、父と対立していた王太子がヘンリー5世として即位した。翌14年には、ロラード派オールドカースルの反乱を未然に防ぎ、イングランドを盤石なものとした。

・アルフルール包囲戦/百年戦争の再開(1415-1453年)
1414年、イングランド王ヘンリー5世は、フランスのブルゴーニュ派やアルマニャック派に、オワイン・グリンドゥールへ援助した賠償や、両派に支援した代償に領土割譲とフランス王位を要求したが、アルマニャック派に拒否された。
翌15年8月、ヘンリー5世は北フランスに上陸し、9月にはアルフルール(セーヌ=マリティーム県)の要塞を陥落させた。その後、イングランド軍は多くの負傷者を出した為、一旦カレー港に向かった。

・コンスタンツ公会議/教会大分裂の終焉
1414年、神聖ローマ皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議を開き、翌15年には対立教皇ヨハネス23世を廃位し、17年までには残りの二教皇も廃位され、マルティヌス5世を教皇に据えて、教会大分裂を終われせた。

・ヤン・フスの火刑
1415年、ボヘミアのヤン・フスがコンスタンツ公会議に掛けられ、異端者として、火あぶりされると、ボヘミア人たち抗議した。ウィクリフ派は、ボヘミアでフス派を形成してローマ・カトリックと、ヴェンツェルの弟ジギスムントと対立し始める。

・アジャンクールの戦い/百年戦争
1415年10月、フランス軍はカレー港に帰還するイングランド軍を待ち伏せし、アジャンクール戦を繰り広げたが、イングランド軍に大敗すると、総指揮官のドルー伯は戦死し、アルマニャック派の幹部ら(オルレアン公シャルル、ブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンなど)は捉えられ、イングランド軍と共にロンドンに連行された。


・アルマニャック派の独裁/カンタベリー条約
1415年12月、叔父ベリー公ジャン1世はルイ王太子が死去すると、弟のトゥーレーヌ公ジャンを王太子に擁立し、更にアルマニャック伯をパリへ呼び戻す。翌16年、ベリー公ジャン1世の死を機に、アルマニャック伯は独裁政治を始めた。その間に、神聖ローマ皇帝ジギスムントはイングランドとフランスの和平調停の為、ヘンリー5世のもとを訪れたが、ヘンリー5世の持て成しにより、フランへの賠償請求権を認めるカンタベリー条約を8月に結び、同盟関係を築いた。

・オスマン帝国のアナトリア平定/カラマン侯国の征服
1416年、オスマン皇帝メフメトは、元ムーサーの将校ジュネイトが起こした反乱を制圧し、更に、オスマン領内に侵入したカラマン侯国を降伏させ、アクシェヒル、スィヴリヒサル、ベイシェヒル、セイディシェヒルを奪還した。また、ゲリボルでオスマン海軍とヴェネツィア共和国の艦隊との間に戦闘が起きる。

・フランスの分裂/ブルゴーニュ派政権の誕生
1417年、ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)は、アルマニャック伯によってパリから追放された王妃イザボーをトロワで保護し、彼女を擁立して政権を樹立した。このため、フランスは分裂した。一方、パリはブルゴーニュ派に補給を絶たれ市民が食糧難に苦しみ、ブルゴーニュ派への粛清でアルマニャック伯に対する市民の不満は高まった。

・イングランドのフランス遠征/教会大分裂の終焉
1417年、神聖ローマ皇帝ジギスムントによってコンスタンツ公会議が開けれ、3人の教皇達が廃止され、11月に教皇選挙が行われた。
一方、8月にはヘンリー5世が率いるイングランド軍がフランス北西部ノルマンディーに上陸し、カーンを始め、多くの沿岸部都市を征服し、翌18年7月にはルーアンに至った。しかし、フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派が対立していた為、パリからの援軍は来なかった。翌18年、コタンタン半島のシェルブールシェルブールが陥落し、翌19年1月、ルーアンがイングランド軍に敗北した。

・3つの反乱/オスマン帝国
1418年、アナトリアとバルカン半島のオスマン領で宗教反乱が起きる。シェイフ・ベドレッディン思想に共鳴したトルコ人イスラム教徒ベルクリュセ・ムスタファ及びユダヤ人のラビ・トルラクら起こした反乱と、ベドレッディンがエーゲ海沿岸部のカラブルン半島で起こした反乱、翌19年には、偽ムスタファの反乱が起こった。

・パリ市民の暴動/ノルマンディー征服
1418年、アルマニャック派の支配に不満を持つパリ市民が暴動を起こし、ブルゴーニュ派軍をパリに受け入れ、アルマニャック伯を虐殺し、アルマニャック派をパリから追いやった。その後、ブルゴーニュ派のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がパリを制した。一方、アルマニャック派はフランス南部のブールジュでシャルル王太子(後のシャルル7世)を擁立し、抵抗を続けた。

・無怖公の暗殺/トロワ条約
1419年、王太子シャルルとブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)はイングランドに対して共闘すべく、和解の交渉を開始したが、交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した為、息子のフィリップ3世(善良公)は、王太子シャルル(シャルル7世)と全面的に対立し、イングランドと同盟関係を結んだ。翌20年5月、フィリップ3世は王太子シャルルを排除し、シャルル6世の娘カトリーヌの夫・ヘンリー5世をフランスの王位継承者にするトロワ条約を結んだ。その後も、イングランド軍はフランス中央部のムランを攻略し終えると、翌21年2月にルーアンからヘンリー5世のイングランド軍はロンドンに帰還した。

・エディゲの死/ノガイ・オルダ
1419年、エディゲを盟主とするノガイ・オルダの勢力がヴォルガ川中流域のヴォルガ・ブルガール王国まで及ぶと、エディゲはトクタミシュの息子カーディル・ベルディによって殺害された。その後、ノガイ・オルダはエディゲの息子・ヌラディンを盟主に据えて、更にアラル海北岸からアゾフ海東岸まで勢力を伸ばして行った。

・フス戦争(1420-1434年)/十字軍の敗北
1419年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世は、弟の皇帝ジギスムントに頼んでローマ教会と和解し、フス派の新市街参事会を解散させたが、再びフス派はプラハ市庁舎を襲撃する第一次プラハ窓外投擲事件を起こした為、ヴァーツラフ4世は急死する。その後、皇帝ジギスムントがボヘミア王に即位した為、フス派はこれに反抗してフス戦争を起こした。この為、皇帝ジギスムントは、ボヘミアに十字軍を派遣したが、翌20年にはフス派のヤン・ジシュカが率いる農民軍に十字軍は大敗した。逆にハンガリーまで進軍された。

・アゼルバイジャン遠征/ティムール朝
1420年、ティムール朝のシャー・ルフは、ヘラートに住み、各方面に派兵してティムール没後に失った領地の回復を試み、黒羊朝のアゼルバイジャンを奪回した。しかし、シャー・ルフが本拠地ホラーサーンに帰還すると、カラ・ユースフの遺児カラ・イスカンダルが王朝を再統一して勢力を回復し、アゼルバイジャンの支配をめぐってティムール朝と激しく戦う。

・ボージェの戦い/モー包囲戦
1421年2月、イングランド王ヘンリー5世は、弟のクラレンス公トマスをフランスに残し、イングランドに帰国した。その後も、クラレンス公のイングランド軍によってアンジューやメーヌ周辺は荒らされていた。やがて、フランス=スコットランド軍がイングランド軍の奇行を止めるべく、イングランド軍の野営地ボージェ村に進軍し、ボージェの戦いで、イングランド軍を破り、クラレンス公を戦死させた。
6月、ヘンリー5世はカレーに上陸し、パリの東にあるシャルル王太子側の都市モー包囲戦を繰り広げ、翌22年5月にモーを陥落させたが、8月にヘンリー5世は病死した。その2ヶ月後、フランス王シャルル6世も、また、この世を去った。

・コンスタンティノープル包囲戦/オスマンVSビザンツ
1421年、スルタンのメフメト1世が死去すると、ビザンツ皇帝マヌエル2世の長男・ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭し、スルタンの息子ムラト2世に対抗してバヤズィト1世の息子と称するムスタファを擁立した。
翌22年、ムラト2世は偽ムスタファを打ち破り、スルタンに即位すると、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル包囲戦を決行した。しかし、マヌエル2世の巧みな外交交渉によって、弟のキュチュク・ムスタファにオスマンの首都ブルサを包囲させ、ムラト2世軍を撤退させた。翌23年、テッサロニキとモレアス専制公領がオスマン軍の侵攻を受け、テッサロニキは陥落した為、マヌエル2世はオスマンとの休戦・和平交渉に奔走し、翌24年、オスマン帝国の臣従となる事で和平が成立した。

・イングランド=フランス二重王国の誕生
1422年8月、シャルル6世の娘キャサリンが生んだ幼子のヘンリー6世がフランス=イングランド王に即位し、叔父のベッドフォード公ジョンが摂政に成り、彼の弟グロスター公ハンフリーがイングランド国内の行政を執る護国卿に成った。翌23年、ベッドフォード公ジョンはブルゴーニュ派との同盟関係を強化する為、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌと結婚し、更にブルターニュ公ジャン5世をも、取り込んだ。

・フス派内部統一/英雄ジシュカの死
1423年、ヤン・ジシュカは、ターボル派を抜けてオレープ派を結成すると、強大な軍事力を背景として諸派(ターボル派アダム派穏健派など)を統率し始める。翌年には穏健派との戦いに勝利すると、全フス派の指導者に成った。その後、ジシュカはモラヴィア(チェコ)を経てハンガリー遠征の途中で病死すると、フス派のジシュカ軍はボヘミアに撤退した。

・クラヴァンの戦い/百年戦争
1423年、王太子シャルルは、本拠地ブールジュに軍を結集させ、スコットランドの援軍と共に、ブルゴーニュ公国遠征を決行し、セーヌ川支流のヨンヌ川沿いのクラヴァン付近で、ブルゴーニュ=イングランドの連合軍とクラヴァンの戦いを繰り広げ、王太子軍は大敗し、捕虜になったスコットランド兵は殺された。

・ヴェルヌイユの戦い/百年戦争
1424年、スコットランド人たちは、ル・マンのイヴリー城の救援の為、ブールジュのシャルル7世の下に集結したが、救援の途中で城が陥落したため、ヴェルヌイユ攻撃を決める。その後、ヴェルヌイユの戦いで、ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍に敗北してしまう。その後、勝利したイングランド軍も、資金不足でロワール河畔への進軍が出来ず、孤立状態になった。一方、同盟者の善良公はフランドル政策に熱中し、アルマニャック派との戦いに関心が無くなった。

・ネーデルラントの紛争(1425年-1428年)
1424年10月、ジャクリーヌは、夫のグロスター公ハンフリーの力を借りてヨハン3世からネーデルラントの奪還を試み、グロスター公軍をカレーへ上陸させ、エノーを占領した。
翌年1月、バイエルン公ヨハン3世が暗殺されると、ネーデルラントは甥のブルゴーニュ公フィリップ3世が相続した。
4月、フィリップ3世はエノーに駐屯していたグロスター公軍を破り、ジャクリーヌを捉えると、グロスター公はイングランドに帰還し、12月には兄のベッドフォード公ジョンの反対を押し切って、再びネーデルラント攻撃するが、ブルゴーニュ軍に撃破された。28年、ローマ教皇マルティヌス5世によって、グロスター公と女伯ジャクリーヌの離婚が成立するまで続いた。

・ビザンツ帝国のアカイア併合
1425年、父マヌエルが死去し単独統治を開始したヨハネス8世は、モレアス専制公領に有能な弟コンスタンティノス11世を派遣し、領内の整備とアカイア公国の併合に乗り出した。

・アウシヒの戦い(ウースチー・ナド・ラベムの戦い )
1426年、フス派のヤン・ジシュカの死後、教皇マルティヌス5世は十字軍を編成し、ボソ・フィッツトゥームを指揮官にして、ジーギマンタス・カリブタイティスのフス派を殲滅するためにウースチー・ナド・ラベム遠征を決行したが、十字軍はフス派に敗北した。

・モンタルジの開放/フランスの内部抗争
1427年、イングランドとフランスのブルゴーニュ派は、シャルル7世のアルマニャック派に対抗する為、再度アングロ・ブルギニョン同盟を結び、モンタルジへ進軍し、モンタルジ包囲戦を開始したが、アルマニャック派のラ・イルジャン・ド・デュノワの両軍によって、イングランド軍の駐屯地メーヌで反乱を起こし、モンタルジを開放した。一方、シャルル7世のフランス軍は、ギーヌ伯ジョルジュリッシュモンが起こした内部抗争に巻き込まれ、麻痺状態に陥った。

・オルレアン包囲戦
1428年春、イングランド摂政のベッドフォード公ジョンはノルマンディーの南隣にあるメーヌ・アンジュー・トゥーレーヌへと進撃したが、やがて膠着状態に陥った。その後、第13代ウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムや第4代ソールズベリー伯トマス・モンタキュートから突き上げられ、フランス中部のオルレアン攻撃を決断し、イングランド軍を南下させた。7月、ソールズベリー伯のイングランド軍はパリ南西部の田園地帯に侵攻を開始し、ランブイエおよびシャルトル周辺を手中に収め、8月にはロワール川方面を攻めを決行し、オルレアンの西側の田園地帯を占領した。10月、ソールズベリー伯軍はシャトーヌフ=シュル=ロワールを陥落させると、ブルゴーニュ派勢力はシュリー=シュル=ロワールを攻略すると、オルレアン包囲戦が開始された。一方、オルレアン城側ではジャン・ド・デュノワやラ・イル及びジャン・ポトン・ド・ザントライユらがイングランド軍を迎え撃つ為に、集結した。

・アカイア遠征/モレアス専制公
1428年、モレアス専制公セオドロス2世が修道院に入ると、コンスタンディノスと末弟ソマスが共同統治者になり、翌29年にはパトラを占領し、翌30年にはアカイア公国の全土を併合した。

・トゥーレル砦攻撃/オルレアン包囲戦の初期
1428年10月17日、イングランド軍はオルレアンのブールバール砲撃と、共にオルレアン包囲戦開始したが、一旦、トゥーレル砦に居るフランス軍によって退けられた。24日、トゥーレル砦を嵐が襲来し、フランス軍は離散した為、トゥーレル砦は陥落した。その後、援軍を引き連れたジャン・ド・ブザックが到着し、ソールズベリー伯のイングラン軍を撤退させた。その時、ソールズベリー伯は負傷して戦死した。
11月、ベッドフォード公は、新たにサフォーク伯ウィリアムを総司令官に任命し、オルレアン包囲戦を続けた。サフォーク伯はオルレアン市民を飢えさす為、11箇所に外塁を築き、補給路を断つと、オルレアンは窮地に陥った。

この頃、フランス側ではラ・トレモイユが実権を握り、リッシュモンは宮廷から排斥されていた。

・ニシンの戦い/オルレアンの危機
1429年、クレルモン伯(ブルボン公シャルル1世)は、フランス軍及びスコットランド軍をブロワに集結させ、オルレアン解放に向かった。その後、クレルモン伯はイングランドのジョン・ファストルフ包囲部隊へ、パリから補給部隊が派遣される事を聞きつけると、補給部隊襲撃を決めた。一方、オルレアンからジャン・ド・デュノワや、ラ・イル、及びジャン・ポトン・ド・ザントライユらが加わった。2月、ルヴレ村でニシンの戦いが開始され、イングランド軍の勝利に終わった。やがて、クレルモン伯は敗北の責任を感じてオルレアンを離脱し、オルレアン城内の士気は下がった。

・ジャルジョーの戦い/ジャンヌ・ダルク
1429年、ロワール川以北のフランス領地は、ブルゴーニュ派とイングランド軍に占領された。3月、王太子シャルルはシノンの仮王宮でジャンヌ・ダルクと面会し、オルレアン救出の命を出した。その後、ジャンヌ・ダルクはイングランド軍の砦を攻撃し、5月にはオルレアンを開放させた。6月、王太子はロワール渓谷の奪還を決めると、オルレアンの東に位置するジャルジョーに進軍し、ジャルジョーの戦いで、サフォーク伯ウィリアムが率いるイングランド軍を破った。この戦いで、ジャンヌ・ダルクの活躍は目ざましかった。その後も、フランス軍は続けざまにロワール川沿いのモン=シュル=ロワール、ボージャンシーといった諸都市を攻略してロワール地方の制圧に成功した。

・パテーの戦い/王太子シャルルの戴冠
1429年6月、ボージャンシーが陥落した後、イングランド軍の指揮官ジョン・タルボット男爵とファストルフは直ちに反撃したが、モン橋の戦いで、ジャンヌとリッシュモンのフランス軍に破れ、イル・ド・フランス方面へ撤退した。その後、パテーの町近郊でフランスの追跡軍に捕まり、パテーの戦いで、イングランド軍は壊滅させられた。7月、王太子シャルルはランス大聖堂で戴冠式を行い。フランス王シャルル7世に即位した。

・パリ包囲戦/百年戦争
1429年8月、フランス王シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ3世に和平交渉を持ちかけたが、ブルゴーニュ派はこれを拒んだ上、パリを守るイングランド軍に援軍を送った。その後、シャルル7世は、ジャンヌとアランソン公ジャン2世が主張した通り、パリ包囲戦を決行する為、パリに進軍した。そして、パリ近郊に迫った時、ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙し、シャルル7世はパリ近郊のサン=ロッシュの丘に本陣を構えた。9月8日、ジャンヌらはサン=トノレ門を強襲し、パリ包囲戦が始まった。
しかし、ジャンヌが足に負傷したことで、フランス軍はパリ北側の郊外に位置するサン=ドニまで撤退した。


世界史ランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーロッパの歴史・経済-中世/後期-その3

2019年12月30日 | 西ヨーロッパ史
ヨーロッパの歴史-中世/後期-3

■中世後期(1370年-1400年)
西ヨーロッパでは百年戦争が一段落すると、東ヨーロッパではオスマン帝国がビザンチン帝国を始め、バルカン半島を征服して行った。また、中央アジアではティムール帝国の支配が始まり、ティムール帝国、オスマン帝国、マムルーク朝の三つ巴の戦いが、勃発した。

【スーフィー朝/ホラズム地方】


・ポンヴァヤンの戦い/百年戦争
1370年12月、イングランドの捕虜となったジャン2世の代わりに、フランス王に成ったシャルル5世はブルターニュ軍と共に、ポンヴァヤンの戦いに臨み、イングランド軍に勝利した。

・ティムールのモグーリスタン・ハン国遠征(1371年-1390年)
1371年、ティムール朝はモグーリスタン・ハンのカマルッディーンがマー・ワラー・アンナフル地域に侵入する事を恐れて、モグーリスタン遠征を定期的に実行し、90年までに7回行われた。また、カマルッディーンに暗殺されたイリヤースの弟ヒズルはイリ渓谷から離れてウイグルスタン(新疆ウイグル自治区)に移り住んだ。


・スーフィー朝のホラズム遠征/ティムール朝
1371年、マー・ワラー・アンナフル地方を再統一したティムールは、スーフィー朝のフサインに対してキャトとヒヴァの返還を強く要請したが、フサインが拒んだ為、翌72年にはティムールによるホラズム遠征が行われた。その後、首都ウルゲンチ包囲戦中にフサインが急逝したため、弟ユースフがスーフィー朝・ハンに即位し、キャトとヒヴァをティムール朝に割譲して和平を結んだ。


オスマン皇帝ムラト1世のバルカン半島征服(1371-1389年)


・マリツァの戦い/セルビア帝国の分裂
1371年、セルビア皇帝ステファン・ウロシュ5世は、プリレプの君主ヴカシン、セレスの君主デスポットたちと、反オスマン連合を結び、オスマン帝国軍に戦いを挑んだが、マリツァの戦いで敗北した上、ウロシュ5世たちも戦死した。そのため、セルビアではネマニッチ朝は断絶し、セルビア帝国は分裂した。その後、ラザル・フレベリャノヴィチがセルビア公国を建国した。

・オスマン皇帝ムラト1世のブルガリア・マケドニア遠征
1371年、セルビアに勝利したムラト1世は、トルコのエディルネを拠点に遠征軍を派遣し、ブルガリアとマケドニアを攻略する。翌年までには、ブルガリア南部とマケドニアのカヴァラ、ドラマを陥落させた。


・サライ占領/ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)
1372年、ジョチの十三男トカ・テムルの子孫オロスが サライを占領するが、ヴォルガ河流域を支配していたママイの勢力とは争わず、アラル海の北部に流れ込むシルダリヤ川方面に帰還した。

ラ・ロシェルの海戦/百年戦争
1372年、イングランド王エドワード3世は、フランス南西部のアキテーヌ公国のペンブルック伯ジョン・ヘイスティングスに命じてフランス本土への本格的な侵攻を図らせると、フランス軍司令官ベルトラン・デュ・ゲクランがラ・ロシェルを包囲した。その後、イングランド艦隊がラ・ロシェル港に近づくと、湾の入り口付近でカスティーリャ艦隊と交戦し、敗退した。

モスクワ-リトアニア戦争の終結
1372年、領土問題で対立していた甥のミクリン公ミハイルが、トヴェリ大公ヴァシリーの死去に伴って、トヴェリ大公位に即いた後、モスクワ-リトアニア戦争が勃発した。更に、宗主国であるジョチ・ウルスのママイが関わり、ウラジーミル大公位を巡って、トヴェリ大公ミハイルと、モスクワ大公ドミトリイが争い、終にトヴェリ大公ミハイルとリトアニア軍がモスクワ遠征を決行し、リュベツクの戦いでのモスクワ軍に敗れると、両者の間で休戦協定が結ばれてが終結し、ミハイルはリトアニア大公アルギルダスの元を離れ、トヴェリへ帰還した。


・サウジの反乱/オスマン帝国
1373年、オスマン皇帝ムラト1世の長男サウジはビザンツの共同皇帝アンドロニコスと共謀し、互いの父に対する反逆に踏み切った。その後、反乱軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリス及びオスマン帝国の首都エディルネ周辺を確保するが、小アジアから帰還したオスマンのムラト1世軍に征圧され、サウジは父ムラト1世に処刑されたが、アンドロニコスは父ヨハネス5世に目を潰されてアネマスの塔に投獄された。

・トヴェリ包囲戦/モスクワ大公国
1373年、モスクワ大公国はジョチ・ウルスへの貢納を停止し、ママイはリトアニア大公アルギルダス、リャザン公オレーグと同盟してモスクワの圧迫を企てると、再び、トヴェリ大公ミハイルをウラジーミル大公に任命してモスクワ戦争決断させるが、失敗に終わる。逆にモスクワ大公ドミトリイにトヴェリを包囲され、主教エフフィミーの仲介でモスクワと和平を結び、モスクワ公国に組み込まれる。

・第二次ホラズム遠征/スーフィー朝の滅亡
1373年、スーフィー朝・ユースフはティムールがモグーリスタン遠征に出陣した隙きに、キャトとヒヴァの奪回するが、ティムール朝の第二次ホラズム遠征により、取り戻された。75年、再びユースフはキャト.ヒヴァの奪回を試みるが、失敗した。79年、ティムールはウルゲンチ包囲戦にて、ウルゲンチを陥落させ、スーフィー朝は滅亡した。

・ジャライル朝の内乱
1374年、チョバン朝からジョチ・ウルスに所有が移ったアゼルバイジャンを奪還したジャライル朝の第2代君主シャイフ・ウヴァイス1世が死去と、惰弱なフサイン1世が第3代君主に即位した為、親族間での紛争が勃発した。

・黒羊朝(1375-1468年)の建国/ジャライル朝の従属国
1375年、トゥルクマーンと呼ばれたイスラム系の遊牧民は、ヴァン湖北岸からモースルまで支配して黒羊朝を築いた。そのうち、バイラム・ホジャを族長とする部族がイルハン朝の継承政権ジャライル朝に服属した。

・アンドロニコスの反乱/ビザンツ帝国
1376年、ビザンツのアンドロニコスは、ジェノヴァ人とオスマン皇帝ムラト1世の支持を得て、再び反乱を企て、父と二人の弟(マヌエルとテオドロス)を投獄してビザンツ皇帝に返り咲いた。

・トクタミシュのオルダ・ウルス侵攻
1376年、オロスは、自ら殺害したトイ・ホージャの遺児トクタミシュと、それを支援するティムール軍に幾度も攻撃を受ける。翌77年のウストユルト台地の戦いで戦死したため、息子のトクタキヤが即位するが、すぐに病死した為、トクタキヤの弟・ティムール・メリクを即位させた。

・スルタン=アシュラフの暗殺/バフリー・マムルーク朝の内戦
1376年、スルタンのアシュラフは、内戦を避けるためにメッカ巡礼の旅に出発した。その途中のヨルダン南部の港湾都市アカバで、スルタンバルクークやタシュタムルと口論になり、アシュラフは急いでカイロに帰還した。しかし、翌77年3月、カイロでもアシュラフの子マンスール・アリーを擁して反乱を起こしたアイナバクによってアシュラフは暗殺された。その後、アカバの反乱軍とカイロの反乱軍の間で内戦が発生する。

・第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争(1377-1381年)
1377年、ビザンツ皇帝アンドロニコス4世は約束通り、ジェノヴァにテネドス島を与えると、ヴェネツィアが島の返還を拒否した為、第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争が勃発した。その後、キオッジャの戦い
で、ジェノヴァはヴェネツィアに完敗した。

・ヴォルガ・ブルガール攻撃/ヴォジャ河畔の戦い
1377年、モスクワ公国はスーズダリの軍隊と共にジョチ・ウルスの臣従国であるヴォルガ・ブルガールを攻撃し、翌78年のヴォジャ河畔の戦いで、ママイが派遣したベギチ軍を破った。

・ボスニア王国の誕生
1377年、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求すると、トヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、ボスニア王国はセルビアに代わるバルカン半島最大の国家と成って行った。


教会大分裂時代(1378年〜1417年)

1378年、ローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する事に成った。

・オロス家の消滅/トクタミシュ・ハンの誕生
1378年、ティムール・メリクがカラタルの戦いで、トクタミシュに敗れると、首都サライは陥落し、オルダ・ハンにトクタミシュが即位した。

・スーフィー朝の滅亡/ティムール帝国
1379年、スーフィー朝のユースフは、ティムールが留守にしていたマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド周辺で略奪を行った。その後、ティムールはウルゲンチ包囲戦で、ウルゲンチ市民を焼き払い、ユースフを殺害すると、スーフィー朝は消滅した。

オスマン帝国の属国ビザンツ帝の誕生
1379年、ビザンツ皇帝の父ヨハネス5世はオスマンのスルタン・ムラト1世の臣下に成ることを約束し、アンドロニコス4世を追放し、ヨハネス5世は再度復位に成功した。

・リトアニア大公アルギルダスの死去
リトアニア大公アルギルダスが死去し、息子のヨガイラが継承する。当初は、リトアニア南西部を、叔父のトラカイ公ケーストゥティスが北西部を支配していたが、やがて対立する。

・クリコヴォの戦い/モスクワ遠征
1380年9月、ジョチ・ウルスの西部を支配していたママイはリトアニア大公国とリャザン公国と同盟を結び、モスクワ大公ドミートリーが率いるルーシ諸侯連合軍と、クリコヴォの戦いを繰り広げ、敗北した。再び、ママイはドミートリー討伐軍を編成するが、ハンのトクタミシュと交戦状態に陥った。

・トクタミシュのジョチ・ウルス再統一/ママイの死
1380年、オルダ・ハンのトクタミシュはクリコヴォ戦でモスクワ公ドミートリーに破れたママイをカルカ河畔の戦いで破り、ジョチ・ウルスの再統一を成し遂げた。その後、ママイはクリミア半島に逃れ、ジェノヴァ共和国の植民地カッファでイタリア人に殺害された。

・ドイツ騎士団とリトアニア公国との平和条約
1380年、ヨガイラはケーストゥティスを無視して単独でリヴォニア騎士団やドイツ騎士団と和平条約を結んび、ドイツ騎士団がケーストゥティスないしその息子たちを攻撃した場合、それを邪魔しないことに同意した。

・ドイツ騎士団のトラカイ公国攻撃
1381年1月、ドイツ騎士団はドヴィディシュケス条約の内容を遵守しつつ、ケーストゥティスのトラカイ公国とジェマイティヤ地方を二度に渡り遠征し、ナウヤピリスを破壊して3000人を捕虜として連れ帰った。

・ワット・タイラーの乱/イングランドの農民一揆
1381年、ペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化すると、ワット・タイラーを指導者とする農民一揆が勃発した。ついにはロンドンを占領し、リチャード2世に謁見を求めた。しかし、ロンドン市長に騙され、ワット・タイラーは惨殺され、反乱軍は討伐された。

・リトアニアの内戦が勃発(1381年-1384年)
1381年、ヨガイラの摂政スキルガイラに対してポラツク市の反乱が起きると、ヨガイラはこれを鎮圧するため、首都ヴィリニュスを離れた。この隙きに、叔父のケーストゥティスはクーデターを起こし、リトアニア大公に即位すると、帰還したヨガイラを捕まえた。その後、ヨガイラは叔父ケーストゥティスに臣下を誓って解放され、クレヴァとヴィーツェプスクを与えられた。再び、ケーストゥティスはドイツ騎士団との戦いを始めた。

・ブルジー・マムルーク朝の樹立/カラーウーン家世襲の終焉
1381年、バフリー・マムルーク朝のマンスール・アリーが死去すると、バルクークは、アリーの弟・ハーッジー2世を即位させ、自分は摂政と成った。しかし、翌82年、実権なきカラーウーン家の世襲支配が続いているバフリー・マムルーク朝のハーッジー2世を廃位し、自らスルターンと成って、ブルジー・マムルーク朝を建てた。これより、スルタンの世襲は禁止になり、軍閥同士の派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しく成って行った。

ティムール帝国のペルシア(イラン)遠征が始まる


・イラン=ホラーサーン遠征/ティムール帝国
1381年、前年にクルト朝のギヤースッディーンがクリルタイに出席しなかったため、ティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。

・アゼルバイジャン遠征/ムザッファル朝
1382年、ジャライル朝の権力闘争は君主フサイン1世の弟・アフマドが兄を暗殺した事で終了した反面、王朝の勢力は、すでに衰退していた。その為、ムザッファル朝のアゼルバイジャン遠征が始まり、アゼルバイジャンは占領された。しかし、ムザッファル朝の本拠地シーラーズで反乱が勃発し為、君主シャー・シュジャーはやむなく帰還した。また、シャー・シュジャーは拡大するティムール帝に忠誠を誓った。

・ヨガイラのヴィリニュス奪還/リトアニア大公ケーストゥティスの死
1382年、ケーストゥティスがノーウホロド=シーヴェルシクィイ遠征に、息子のヴィータウタストラカイ遠征に赴いて居る最中、ヨガイラは首都ヴィリニュスを奪還に成功した。その後、トラカイ遠征から帰還したヴィータウタス軍と抗戦するが、ヨガイラ軍は、再び彼らをトラカイへ追いやった。8月、ケーストゥティス親子は、トラカイ近郊でヨガイラ軍に決戦を挑むが、援軍のジェマイティヤ人が離脱したため、ケーストゥティス親子はヨガイラ軍に投降し、クレヴァ城の牢獄され、ケーストゥティスが獄死すると、スキルガイラがトラカイ公に成った。秋、ヴィータウタスは、脱獄に成功してマゾフシェ諸公の1人、シェモヴィト4世を頼ったが、最終的には仇敵であるドイツ騎士団国家へ身を寄せる事になった。その後、ヴィータウタスの母と、母方の親族は殺された。

・ドゥビサ条約/騎士団の封臣:ヴィータウタス
1382年10月、ヨガイラはドイツ騎士団とドゥビサ条約を結んだが、ヨガイラは次第に条約を無視し、マゾフシェ公国を勝手に攻撃すると、翌年にはドイツ騎士団との同盟を解消した。その後、ドイツ騎士団はヴィータウタスを封臣にすると、ネマン川の畔のノイ・マリエンブルク城を与えた代わりに、リトアニアのジェマイティヤ地方を騎士団領に譲渡された。

・ジョチのトクタミシュによるモスクワ再支配
1382年、トクタミシュはジョチ・ウルスから独立を図ったモスクワ大公国を攻撃し、モスクワ包囲戦を開始すると、首都モスクワを占領した。これにより、モスクワ大公ドミートリーは、再びジョチ・ウルスの従属国に成った。

・ナポリ女王ジョヴァンナ1世の暗殺
1382年、教皇ウルバヌス6世よって退位させられたナポリ女王ジョヴァンナ1世は、ルイ1世・ダンジューを擁立して教皇と対立すると、ハンガリーおよびポーランドの王ラヨシュ1世の命を受けたカルロによって暗殺された。その後、カルロは自らナポリ王カルロ3世に即位した。

・ローゼベーケの戦い/百年戦争
1382年、ヘントで市民の反乱が起こると、フランドル伯は町を包囲したが、5月のベーフェルハウツスフェルトの戦いで反乱軍が勝利すると、11月のローゼベーケの戦いでフランス軍に敗北した。

ヴィエルコポルスカ内戦(1382年-1385年)
1382年、ラヨシュ1世が死去すると、次女・マーリアがハンガリー女王に即位し、神聖ローマ皇帝カール4世の息子・ジギスムントと婚約した。これにより、ポーランドのヴィエルコポルスカ地方の貴族たちが分裂し、ヴィエルコポルスカ内戦が始まった。翌年、ナウェンチュ家勢力が擁立したマゾフシェ公シェモヴィト4世がクヤヴィを征服したが、マウォポルスカの貴族達とハンガリーの軍勢によって直ちに撃退された。

・ティムール帝国の大虐殺/クルト朝の滅亡
1383年、クルト朝のヘラート住民がティムール帝の徴税人を襲撃すると、ティムール帝国のミーラーン・シャー王子によるヘラート大虐殺が始まった。その後、クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーが責任を負って、処刑された為、クルト朝は滅亡した。

・ヴィエルコポルスカ内戦の終結/同君連合の解消
1384年、マウォポルスカの貴族たちはマーリアの妹で10歳のヤドヴィガがポーランド王に即位させ、内戦を終結させた。これによって、ポーランド・ハンガリー連合は解消された。

・ムザッファル朝の内紛/ジャライル朝の反撃
1384年、ムザッファル朝の第2代君主シャー・シュジャーが死去し、息子のザイヌル・アービディーンが即位すると、従兄弟のシャー・マンスールに反逆されて所領を横領された上、失明した為、実権を奪われた。更に、ジャライル朝にアゼルバイジャンを奪還された。

・リトアニア内戦の終結
1384年、ヨガイラはモスクワ大公ドミートリーと同盟を結ぶ為、ヴィータウタスと和解し、リトアニア内戦を終結させた。その後、ヴィータウタスはドイツ騎士団との同盟を破棄し、ヨガイラと共にネマン川河畔にあるドイツ騎士団領の幾つかの城を略奪した。その後、ヨガイラはドイツ騎士団の攻撃からリトアニアを守るため、モンゴル帝国によって弱体したモスクワと離れ、ポーランドからの誘いに乗った。

・アフガニスタン遠征/ティムール帝国
1384年、ティムール帝国軍は、カスピ海南岸に面したイランのゴルガーン州及びマーザンダラーン州を支配者アミール・ワリーや、イランのラザヴィー・ホラーサーン州の支配者アリー・ベクを破った後、アフガニスタンのカンダハルに進軍し、アフガニスタン全域を征服した。また、逃亡したアミール・ワリーを追って、アゼルバイジャン方面に進軍した。

・イラン北部のマーザンダラーン平定/ティムール帝国
1385年、ティムール帝国軍は、逃亡しているアミール・ワリーを追って、ジャライル朝の都市ソルターニーイェに入城した。その後、アミール・ワリーの首が、ティムールの元に送られた。

・クレヴォ合同/リトアニアとポーランドの同君連合
1385年、ヨガイラはポーランドとクレヴォ合同を結んだ。一方、ハンガリーでは、ナポリ王カルロ3世により、マーリアが廃位され、カルロ3世がハンガリー王に即位した。
翌86年、ヨガイラは、ヤドヴィガ女王と結婚してポーランド王に即位し、リトアニアとポーランドの同君連合を締結させた。一方、ハンガリーではマーリアの母親エリザベタ・コトロマニッチがハンガリー王カルロ3世を暗殺し、マーリアを復位させた。

・三年戦役/ティムール帝国
1386年、ティムール帝国はイランの西征に乗り出し、ザーグロス山脈のロレスターン州に住んでいるロル族を下した後、旧イルハン朝の首都タブリーズに進軍すると、ジャライル朝のスルタン・アフマドは交戦せずに、マムルーク朝領のバグダードに逃亡した為、タブリーズを容易に手に入れる事ができた。更に、ティムール帝国は北上し、黒海に面したキリスト国家のグルジア王国の首都トビリシを攻略した。


・トクタミシュのティムール帝国領ホラズム占領と侵攻
1386年、ティムールが西イラン平定する為、3年戦役に出発している間、トクタミシュはティムールに反旗を翻し、アムダリヤ川が流れ込むアラル海南岸のホラズム地方を占領した後、ティムール帝国の都市サマルカンド及びブハラに進軍した。


・アンドリュスの乱/リトアニア
1386年、ヨガイラはポーランドに移り、弟のスキルガイラがリトアニア大公国の摂政を務めると、異母兄のポラツク公アンドリュスの乱が勃発すると、スキルガイラはポラツクに攻め込み、アンドリュスは捕らえられ、ポーランドに送られ、捕虜生活を送った。

・ヴィフラ川の戦い/リトアニアVSスモレンスク
1386年2月、クレヴォの合同に抵抗するリヴォニア騎士団がリトアニア西部を侵略すると、スモレンスク公国軍はリトアニアの都市ヴィツェプスクとヴォルシャを荒らした後、ヨガイラの弟カリガイラが守るムスチスラヴリを包囲した。その後、ヨガイラは討伐軍を派遣し、4月のヴィフラ川の戦いでスモレンスク軍を破った。

・ラドコット・ブリッジの戦い/イングランド
1387年、ラドコット・ブリッジの戦いが勃発し、オックスフォード伯率いる王軍を訴追派貴族たちが破り、翌88年には非情議会を開いて、イングランド王リチャード2世の側近たちを大逆罪で訴追すると、リチャード2世は議会側に屈服、訴追派貴族が実権を握り彼らが入った評議会が国政を動かしていった。

・ムザッファル朝及び黒羊朝討伐/ティムール帝国
1387年、ティムール帝国軍はアルメニアを制圧する為、トゥルクマン系の国家黒羊朝を追いやった。その後、王族たちによって分割統治されているムザッファル朝を統一する為、都市イスファハーンやシーラーズを攻略し、王族たちを降伏させると、ムザッファル朝のザイヌル・アービディーンを廃位し、新たにシャー・ヤフヤーをムザッファル朝のスルタンに即位させた。
翌88年2月、トクタミシュがサマルカンドとブハラを包囲した為、帰還せざる負えなくなった。

最後の西チャガタイ・ハンの即位
1388年、ティムールは西チャガタイ・ハンに擁立したソユルガトミシュが死去すると、彼の息子のマフムードを最後の西チャガタイ・ハンに就かせた。マフムードが死去した後、ティムールはハンを擁立する事は無かった。

・ハージー・ベクの乱/ティムール帝国の危機
1388年、トクタミシュはスーフィー朝の君主スレイマンを誘惑して挙兵させ、更にモグーリスタンのカマルッディーンと同盟すると、ホラーサーン地方でハージー・ベクの乱が勃発した。

・ティムールのモグーリスタン遠征/カマルッディーンの追放
1388年、ウルス・ベギ職でカマルッディーンの甥ホダーイダードはカマルッディーンを追放して、トルファン居るヒズル・ホージャをモグーリスタン・ハンに擁立すると、カマルッディーンはジョチ・ウルスのトクタミシュと連合した。
翌89年、ティムール帝国のモグーリスタン遠征が本格的に始まり、モグーリスタン・ハン国の首都からウイグルスタンのトルファンまで征圧すると、ヒズル・ホージャはゴビ砂漠へ逃げた。

・コソボの戦い/セルビア公国VSオスマン帝国/反オスマン連合
1389年、コソボ平原の戦いで、セルビア公ラザル、ボスニア王トヴルトコ1世、ワラキア大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍が、ムラト1世率いるオスマン帝国軍に大敗し、ラザルは捕虜と成るが、セルビア貴族ミロシュ・オビリチがムラト1世を暗殺した為、ムラト1世の息子バヤズィト1世がラザルを処刑した。これより、オスマン帝国はドナウ川以南の支配権を確立し、セルビア・マケドニア・ブルガリアに服従を迫った。
一方で、アナトリア半島のカラマン侯国、サルハン侯国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国が反オスマンを掲げ、ムラト1世が死去したすきを狙ってオスマン領に侵入した。

・オッターバーンの戦い/親政を宣言
1389年、オッターバーンの戦いで、スコットランド軍がイングランド軍を敗北すると、訴追派貴族たちは対立し始め、再びリチャード2世が実権を握るように成った。

・2度目のリトアニアの内戦(1389年-1392年)
1389年、アンドリュスの乱の終結後、スキルガイラは約束を破り、ポラツク公国とトラカイ公国を手に入れると、スキルガイラはリトアニア人に憎まれ。再びヴィータウタスが大公国の権力奪取を目指して内戦を起こす。1392年のオストルフ協定によって、ヴィータウタスがリトアニア大公になり、自治権が認めれると、内戦は終結した。

バルバリア十字軍遠征/ハフス朝VSフランス軍
1390年、北アフリカ沿岸ではムスリムのバルバリア海賊が猛威を振るい、海洋国家ジェノヴァは少なからぬ被害を受けていた。そこで、ジェノヴァがフランス王シャルル6世に十字軍遠征を持ちかけ、更に教皇から贖宥が与えられると、ハフス朝の都市マーディアを攻撃するバルバリア十字軍が編成されたが、ハフス朝の救援軍と接敵するたびに多くの敵を殺したが、次第に疲弊して撤退を余儀なくされた。つまり、引き分けに終わった。

・ヨハネス7世の反乱/ビザンツ帝国
1390年、オスマン皇帝バヤズィト1世がセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナを娶り、セルビアを属国とすると、ヨハネス7世はオスマン帝国とジェノヴァの支援を受け、祖父ヨハネス5世を首都コンスタンティノポリスから追放し、ビザンツ皇帝に即位したが、市民からは歓迎されなかった。
9月、ヴェネツィアの支援を受けた祖父ヨハネス5世と叔父マヌエル2世の連合軍に、首都コンスタンティノポリスを包囲されると、オスマン帝国が支援を打ち切った為、皇帝ヨハネス7世は敗北し、レスボス島に逃亡した。

・アナトリア征服/オスマン帝国
1390年、オスマン皇帝バヤズィト1世はアナトリア遠征を開始し、ビザンツ帝国、セルビア、ブルガリア、アルバニアなどのバルカン半島の臣従国を従え、ビザンツ帝国領フィラデルフィア攻略した後、アナトリアの君侯国を征圧し、翌91年にはカラマンの首都コンヤを包囲し、カラマン侯国の君主アラー・アッディーンと和解した。

・ティムールの再モグーリスタン遠征/和解
1390年、ティムールは再びモグーリスタン遠征を行うと、カマルッディーンは首都アルマリクを放棄して逃走し、アルタイ山脈で消息を絶った。その為、ティムールはヒズル・ホージャを呼び寄せて、グーリスタン・ハンに即位させると、モグーリスタン・ハン国と和解した。

コンスタンティノープル包囲/オスマン帝国
1391年、ビザンツ皇帝ヨハネス5世が死去すると、アナトリア遠征に従軍していたマヌエルはバヤズィトに無断でブルサを脱出し、コンスタンティノープルに帰還し帝位に就いた為、オスマン帝国軍はコンスタンティノープル包囲したが、ハンガリーが軍事行動を起こした為、オスマン皇帝は貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めて包囲を解除した。

・コンドゥルチャ川の戦い/ティムールのキプチャク草原遠征
1391年、ティムール軍は飢餓状態のキプチャク草原を進軍し、コンドゥルチャ川でトクタミシュ率いるジョチ・ウルス軍と対峙し、翌92年にはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュ軍を破ると、ティムール・クトゥルグとエディゲをジョチ・ウルスの新たな支配者に任命し、ティムール軍は帰還した。


・ティムールのイラン再遠征/ムザッファル朝の滅亡
1392年7月、マーザンダラーンに進軍し、カスピ海沿岸のマーハーナ・サル要塞を攻略して同地を制圧する。翌93年、ムザッファル朝スルタン・シャー・ヤフヤーが、弟のシャー・マンスールによって廃位されると、ティーム軍はシーラーズに進軍して、ムザッファル朝を滅亡させた。


・ティムールのイラク及びアナトリア遠征
1393年7月、ティムールはクルディスタンを経由してジャライル朝の首都バクダットを攻めると、スルタン・アフマドはエジプトのマムルーク朝へ逃げた為、ティムールはイラク南部を掌握し、バクダットを出て北上し、黒羊朝のクルディスタン地方を征圧した。翌94年、黒羊朝の本拠地である東アナトリア及びグルジアを手に入れ、旧イルハン朝の領土を支配下に置いた。

・ブルガリアの首都タルノヴォ陥落
1393年7月、オスマン皇帝バヤズィトがバルカン半島を留守にすると、ハンガリーの支援を受けて、ブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンが反乱を起こすが、オスマンの討伐軍によって首都タルノヴォは征圧され、ブルガリア皇帝はニコポリスへ逃れた。その後、オスマン軍はワラキアへ進軍する。

・ビザンツ皇帝マヌエル兄弟の反逆
1393年末、マヌエルの弟・モレアス専制公テオドロス1世は、モネンヴァシアの有力者パウロス・マモナスがヴェネツィア共和国やオスマン帝国と組んで、ビザンツ帝国から離反した為、パウロス・マモナスをモネンヴァシアから追放した。その後、オスマン皇帝バヤズィト1世は激怒し、マヌエル及びテオドロス1世を処罰する為、軍を派遣すると、マヌエル、テオドロス兄弟は臣従の誓いを破棄する。

・ロヴィネ平原の戦い/オスマンVSワラキア公国
1395年、オスマン皇帝バヤズィト1世軍はダニューブ川を渡り、ワラキア公ミルチャ1世が率いるワラキア軍と、ロヴィネ平原の戦いを繰り広げ、敗北してダニューブ川南岸まで後退した。

・バグダードの奪回
1394年、 マムルーク朝のスルターン・バルクークはカイロに亡命して来たジャライル朝の君主アフマドを支援し、ティムール帝国からバクダットを奪還させた。翌95年には、バルクークはティムール討伐軍を編成し、アレッポに進軍すると、ティムール帝国軍は帰還した。

・テレク河畔の戦い/トクタミシュのジョチ・ウルスの没落
1395年、トクタミシュはティムールに復讐する為、マムルーク朝、オスマン帝国、黒羊朝、ルーシ諸侯やリトアニア大公国などに使者を送り、反ティムール同盟を結ぼうとした。しかし、リトアニア大公ヴィータウタスの支援しか得ることが出来なかった。4月、コーカサス北側のテレク河畔の戦いで、トクタミシュはティムール軍に敗北して逃亡すると、ジョチ・ウルスの首都サライは破壊された。その後、マンギト部の将軍エディゲが王族ティムール・クトルグを新たなジョチ・ハンに就け、自らはジョチ・ウルスのアミールたちの長に成った。翌年、ティムールはバクダットを経由してマサルカンドに帰還した。


ニコポリス十字軍/中世最後の大規模な十字軍
1395年、ハンガリー王ジギスムントが、オスマン帝国の侵攻を国内外に訴えると、ローマ教皇ボニファティウス9世も十字軍勅書を出して後援した。それにより、イングランド、スコットランド、フランス、神聖ローマ帝国諸侯、フランドル、イベリア、ポーランド、ボヘミア、ワラキアなどから次々と将兵が集まり、ニコポリス十字軍が結成された。翌96年、ブルガリア北部のニコポリスの戦いで、オスマン帝国軍に敗北し、ジギスムントは辛くも逃亡したが、1401年にブダ城に監禁された。

・オスマン帝国のペロポネソス半島征服
1396年、ニコポリスの戦いに勝利したオスマン軍はコソボ北部のミトロヴィツァを攻略すると、ギリシャに進軍し、翌97年にはラリサ、パトラ、アテネを占領しペロポネソス半島の大部分を支配下に置いた。
更に、翌98年には分裂状態にあったボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)に侵入した。また、オスマン領を攻撃したアラー・アッディーン候を討つ為、アナトリア半島のコンヤに進軍し、アラー・アッディーン候を処刑し、都市カラマンを滅亡させた。


・ティムールのインド遠征/トゥグルク朝の衰退
1398年4月、ティムールの孫・ピール・ムハンマドがインダス川支流のチェナーブ川の東に位置するムルタン攻撃に難攻すると、ティムールはサマルカンドを起ち、インド遠征を敢行した。
8月、ティムールはアフガニスタンのカーブルでパシュトゥーン人の攻撃に遭いながらも、パキスタンのタール砂漠を渡り、ジェルム川沿いのタラムバに至った。10月、サトレジ川付近でティムール軍はピール・ムハンマド軍と合流した後、トゥグルク朝の首都デリーに進軍し、12月にはデリーを攻略すると、ティムールはマサルカンドに帰還した。


・イングランドのランカスター朝
1399年、イングランド王リチャード2世と両院の貴族たちの間で内戦が起きると、リチャードは対立したランカスター公を追放処分にしたが、ランカスター家のヘンリー・ボリングブルックが反乱を起こし、リチャード2世を廃位した後、ヘンリー4世としてイングランド王に即位し、ランカスター朝を創始した。

・ティムールの七年戦役
1399年、マムルーク朝のスルターン・バルクークが食中毒で病死すると、ティムールは再びエジプト方面へ軍を進める七年戦役を始めた。この時、マムルーク朝とオスマン帝国はトルコ中部のマラティヤの所有を巡って対立していた。

・ミーラーン・シャーの反乱
1399年、ティムールがムハンマド・スルターンを後継者に指名すると、アゼルバイジャン総督ミーラーン・シャーが反乱を起こすと、オスマン帝国のバヤズィト1世がアナトリア半島のティムール帝国領に侵出して来た。更に、ジャライル朝と黒羊朝を支援し始めた。

・第4次コンスタンティノープル包囲
1400年、ビザンツ皇帝マヌエル2世がイタリア諸都市国家やフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を歴訪して支援を求めている間、オスマンの第4代皇帝バヤズィト1世は、コンスタンティノープルを再び包囲し、更にアナトリア半島に於いてエルズィンジャンを攻略した

世界史ランキング
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする