職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

埼大生の為の法華経(その24)

2007年05月27日 | 受験・学校

こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?

もう、5月も終わりです。電気の第二種電気主任技術者試験の申し込みも、そろそろ終わりです。試験日は9・1(土曜日)に変わりました。

この第二種電気主任技術者試験を受け続ける訳は、実際の現場では特に必要ないのであるが、それを受けることで、電気の事に関心を持ち続けることが出来、どんな小さな変化にも、目を向けることが出来るからです。

また、学ぶ習慣を身に付けることより、電気以外の事にも、興味が湧き、どうして、そうなるかなどを考えるようになるからだ。

この様な事は、仏教にも通じる事
なぜ、人が苦しむのかを考えて行くと、心はどう動くのかを知らないと解決できない。それを解決するには心と言う物は何から出来ているかを知らないといけない。そう言う風に考えて行くと何れは解決できる。

人間、楽することばかり、考えていると、最後は苦悩するでけである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼大生の為の法華経(その23)

2007年05月19日 | 受験・学校
こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?

ただいま、序品のHPを翻訳中です。少々、時間を下さい。
最近、秋葉原のヨドバシカメラに行き、”やさしいJAVA”と言う本を購入しました。

なぜかって?
ブログやホームページに動きを加えて、読みやすくするためインターネットのエクスプローラと相性が良いJAVA言語を知りたかったからです。

なに!年だから、読んでも無理だって!
大きなお世話だ~!。年齢や学歴や損得などに捕らわれていては何も出来ないし、また、その様に心を硬くしては苦から逃れる事はできないと言う事だ。!

幸い、著者高橋麻奈さんの書いた”やさしいJAVA”はその道のプロが書いた本に見られるようなある程度のjavaの知識を持っていないと理解できない本と違い、プログラミングに興味をもっている人には理解できる。

ただ、ブログやホームページなどに関心が無くHTLMなどを知らない人や見た事もない人では無理かもしれない。
様は何にも関心が無く、自ら学ぶ事をしない人は救われないと言う事だ!

お釈迦様の説いた事は
もし、自分がプログラミングがしたいと願うなら、PCを買い、プログラミングを学び、プログラミングに関心ある友だちを作り、プログラミングのすばらしさ、楽しさなどを話しあえる場所を持っている事である。
そうすれば、プログラミングがしたいと願いは叶うと言う事である。

ちなみに、本はアマゾン.COMでローソンからの端末で発注を掛けた所30時間後に届いた。
以上




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼大生の為の法華経(その22)

2007年05月10日 | 受験・学校
こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?

”最近、ブログを書いていませんね!どうしたのか?”と言う問いに答えて、
現在、ホームページに今までの事をまとめている。

なぜかと言うと、ブログだと冒頭の分部は読むが最後まではお頭の悪いお前は飽きて、読まないし、ページをめくる事も、しないからだ!

そうそう、おまえに伝えたい事がある。”後楽園で、5/19(土曜)転職フェアーに行け!”と、そうした所、就職が決まったとメールが届いた。

おまけに、神と佛の違いは何と、質問があった。
う~ん、妖精、霊、神などはもともと、人間の妄想から生まれた。過去において、人が科学的な思考、データ集取、分析、解析が無く。その場しのぎの考えや感情で物事を考えていた結果である。

最初は災害から人を守るアイドル的存在であった。やがて、それらは社会ルールやモラルを人に守らせる道具として変貌し、そして終には、人を支配する道具と変わって行き、守らない者に罰を与える存在になった。

そこで、お釈迦様は古代の神々を用いて佛とし、佛は罰を与える存在ではない事や害に合う事は人が自分で持っている癖によるものであり、それを治すのは佛である。と言う事を提唱した。


暫くの間、楽しみに待っていて下さい!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼大生の為の法華経(その21)

2007年04月30日 | 受験・学校
こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?

法華経の譬喩品の訳も、そろそろ終わりを告げそうです。この譬喩品では、有名は三界の火宅の話です。
そして、お釈迦様がここで伝えたい事は何だか、分かったでしょうか?

エッ~!、法華経をけなすと罰が当たり、生まれ変わった時、耳や眼が悪く成って?
違うよ!
貧乏になる?
違うよ!
犬、猫、牛に生まれる?
違うよ!
訳の分からない病気になる?
違うよ!

答えは、長者の子らのように、人は生まれながらに、善悪の判断がつかず、何が正しくて、何が悪いかを知ろうともせず、また関心を示す事なく、楽する事・遊ぶ事・物を欲しがる事を追い求めている。

つまり、心・身・住んでいる所の三界は煩悩の炎で、覆われている為、その事が、他人や自分の体に害を及ぼし、やがて、悩みに変わり、苦の報いを受ける事を教えている。

そして、多くの人は自分の犯す罪には目を瞑り、人の注意には耳を貸さず、他人の犯行には口を噤む。まるで、目が見えず・声が聞こえず・声が出ない人の様であり、その姿は餓鬼・夜叉・阿修羅のようであり、その行いは犬・狐・蟲と変わらない。

やがて、その報いとして、重篤な病気になり、終わることのない阿鼻地獄の苦を得る。
その者たちを阿鼻地獄の苦から救うのは、長者のようにその者たちの持っている三界を知り、その者たちの欲を利用し、煩悩から脱出させる。

では、今回は五蘊(ごうん)の識です。
識とは
対象を認識する心の働きで、六識と八識がある。
六識;眼・耳・鼻・舌・身(触覚)・意(認識・推論)の各識の総称。
八識;六識+末那(まな)識・阿頼耶(あらや)識の総称。
眼識→色、耳識→声、鼻識→香、舌識→味、身識→触、意識→法
末那識→自己意識、阿頼耶識→知覚や認識・推論・自己意識などの諸意識の根底にある意識

今回はこの辺でおわり、では法華経の譬喩品の続きをどうぞ!


舎利弗に告ぐ。
もし、この経をけなす者の罪を説こうとして、永い時間を費やしたとしても、説く事が出来ない。この因縁を持って、更に我は汝に語る。

無智の人の中で、この経を説く事はするな!
もし、利根を持ち、智慧があり、学問を学び、幅広い知識があり、佛道を求める者の為に、この経を説くべし。

もし、人がかつて、億百千の佛を供養し、色々な善の種を植え、意志が強く、簡単に相手に従ったり動かされたりしない人の為に、この経を説くべし。

もし、精進する人がいて、常に慈悲深い心を身に付け、何事にも身命を惜しまない人の為に、この経を説くべし。

もし、人を謹み敬い、人に逆らう心を起こさず、色々な凡愚な者から離れて、たった一人で山麓に住む人の為に、この経を説くべし。

また、舎利弗
もし、人がいて、その人が悪知識を捨てて、善友に親しみを持ち近づくを見た時、その人の為にこの経を説くべし。

もし、この教を信ずる人が戒を守り、心身をまるで、汚れのない光り輝く玉のように清めようとして、大乗経を求める者を見た時、その人の為にこの経を説くべし。

もし、怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪の感情を持つ事のない人がいて、なお、その人は素直で、柔軟な心を持ち、常にすべてのものに哀れみを持ち、諸佛を供養する者であるなら、その人の為にこの経を説くべし。

また、この教を信ずる人が大衆の中で、清浄な心をもって、数々の因縁・比喩・言葉をもって、救い以外に何の意図も無く、説法する者がいたなら、その人の為にこの経を説くべし。

もし、比丘の一切智により、あらゆる所に法を求めて、頭を下げ両手を合わせながら、教えを乞い、願って大乗の経典を授かろうとする者、あるいは他の経の一偈を授かろうとする者がいたとするなら、その人の為にこの経を説くべし。

人が心に応じて舎利弗を求めるように、経を求め、その教えを得たいと願い、自ら頭を下げ受けとる者。そして、その者は他の教えを求める事が無くまた、未だかつて、邪道の書物を念ずることが無いとしたならば、その人の為にこの経を説くべし。

舎利弗に告ぐ
我はこの様に、佛道を求める者の姿を説いて見せたが、いくら時間をかけて説いたとしても、尽きる事は無い。この様な人々はよく、この教法を信じ、理解する者達である。
汝、将に、この人々の為に妙法華経を説くのです。

・悪知識
悪法・邪法を説き、人を悪に導く人・悪友
・善友
人々を導いて仏道・悟りに導き入れる僧や友人
・一切智
三智の一。あらゆる事物について知る縁覚・声聞の智慧
三智→一切智(声聞縁覚の智)・道種智(菩薩の智)・一切種智(仏の智)

以上で、法華経の譬喩品は終り




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼大生の為の法華経(その20)

2007年04月28日 | 受験・学校

こんにちは
愚な教育学部の学生(甥)は元気でしょうか?

このブログを始めて、一年と半年が、経過しました。最初は就職や資格について、書くつもりだったのですが、それらに関しては様々なサイトが多数存在しているので、あえて就職や資格について、今更、掲載する必要が無いと考え、途中から仏教について書いた。

仏教を取り上げたのは、人が事をするに当たって、それを行なおうとする心の状態を作るには如何すれば良いかが、仏教を紐解く内に分かるかな!と思ったから。

では、今回は五蘊(ごうん)の想・行です。
想とは
事物の相を見て、思い描く心の働きで,言語のを起こす本となるもの。
・妄想---精神が対象の形態にとらわれて行う誤った思惟・判断をする事
・空想---自分に都合の良いように思う想い
・愛想---自分の好む者に執着し親愛する想い

行とは
身・口・意(心の意志的働き)で、つくられたもの。

今回はこの辺でおわり、では法華経の譬喩品の続きをどうぞ!

此の経をけなすと、次のような罪を獲るのです。
もし、人として生まれたとしても、六根がきわめて鈍く、小人の様な者・手足の自由に利かない者・耳が聞こえず、眼の見えない者・背虫のように背が曲がっている者など

この者達は、自分の意志を持ず、また意見を述べる事もないので人を信用しない。口から吐く息は常に臭く、鬼のような姿をしている。それゆえ、貧困で卑しく、また人に使われる為、病気が絶えず、その事に悩み、苦しみ、身はやせ細り、人から頼られる事がなく、人に親しんでつき従がったとしても、人から認められる事が無い。

もし、何か人に役立つものを得られたとしても、突然、得た時の心を忘れて自分の価値を失ってしまう。もし、医学道を学び、人の病を治療したとしても、更に別の病気を引き起こし、悪化させるか、或いは死に至らしめてしまう。

もし、自分が病んでいるなら、人を治療する事が無い。例え、良薬を飲んだとしても、病は突然、重くなる。もし、世の中に反逆して、人を脅してものをかすめ取り、終には窃盗を行なう様になる。

この様な者達の罪は早急に天罰が下される訳ではないが、これら罪人たちは、永く佛、つまり、大地の制する者が説法において、人を良い方向に向かわせるために、人を教え、導く姿を見る事をしない。

この様な罪人は、常に苦境に生まれ、叫び声を上げたくなる様に心が乱れ、永く法を聞く事ができず、ガンジス川の砂の数ほどの限りない時間、生まれては耳が聞こえず、声が出ず、六根が不自由である。

常に、地獄に住んでいるにも関らず、家の庭で遊でいるかのように安心し、また、他の悪の道に落ちたとしても、自分の家に居るかのように安住している。

また、陀(ラクダ)・驢(ろば)・猪(いのしし)・狗(いぬ)の例えはその者の行ないや心の有り様を示すものである。

この経をけなす故に、次のような罪を得る。
もし、人と生る事が得られとしたら、耳が聞こえず、目が見えず、口が聞けずにいる為、貧困にあえぎながら憔悴(しょうすい)して、水腫(すいしゅ)・かんしょう・けいらい・おうそ・などの重い病気に掛かる。

その為、常に体は垢で汚れて不潔である為、異臭の元となる。深く我見に執着して、瞋恚を増して、淫欲が盛んに成り、人も人として見ない。この事はこの経をけなす故に、得る罪である。

・我見(がけん)
五見の一で、自分だけの狭くかたよった意見や見方の事または、〔仏〕 自己の内部に不変の実体、本質が存在するとする、非仏教的な考え。
・瞋恚(しんに)
〔仏〕 三毒・十悪の一。怒り・憎しみ・怨(うら)みなどの憎悪の感情
・淫欲
十悪の一で、性的な欲望。情欲。色欲
・水腫(すいしゅ)
身体の組織液が異常に多量にたまった状態
・乾?(かんしょう)
常に頭痛がして、日常生活のおもしろさなどが感じられない
・けいらい
ライ病で、皮膚に腫れものや吹き出物ができ、かゆみをを増していく皮膚病
・おうそ
悪性の腫れ物、よく背中にできるできもの

今日はこの辺で終り、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする