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仏教の流れーその4

2012年02月14日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆中期の仏教流れ
国家体制は、律令国家体制→王朝国家体制へ。
仏教は南都六宗の奈良仏教→天台宗(大乗教)→真言宗(密教)→天台密教→天台浄土(教観相念仏)→天台宗分離→真言本末騒動→聖の誕生→大念仏宗(末法思想)へと変貌し、鎌倉の浄土宗に繋がる。

☆天台宗
→隋の智顗を開祖とする大乗仏教の宗派で『法華経』を根本経典とし、五時八教の教相判釈を説き、更に天台教学、真言密教、禅法、戒律の四宗相承を説て、誰でも成仏出来る一向大乗と呼ばれた。

☆真言宗
→唐の恵果から密教を学んだ空海が、それを基に今まで各派の教えを取り込みながら、十段階の思想を体系化(秘密曼荼羅十住心論)し、更に即身成仏と鎮護国家を唱えた。インドの正統真言密教は、空海の真言密教しか無くなった。

▲平安の初期
6年、最澄は比叡山に大乗戒を授ける大乗戒壇を設立し、鑑真が設立した具足戒を授ける小乗戒壇の奈良仏教と対立し、死去した22年に正式に大乗戒壇認められた。その後、66年に最澄に伝教大師の諡号が贈られた。

9年、空海が帰国して真言密教を開くと、急に天台宗は人気が無くなり、812年に最澄と弟子の泰範、円澄、光定らが高雄山寺に赴き、空海に弟子入りし、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けた。しかし、翌年に「理趣釈経」の借用を巡って争い始めた。

15年には、法相宗の徳一と仏教論争(三一権実諍論)を繰り広げ、両者が死ぬまで続けられ、最澄の弟子たちによって徳一の主張を論破した。

一方、空海は23年に真言密教の道場となる東寺を賜り、28年に私立の教育施設;綜芸種智院を建立すると、35年に入滅した。その後、921年に弘法大師の諡号が送られた。

▲平安の中期
天台浄土教の始まり
⇒851年、五会念仏を学んだ円仁が、延暦寺において常行三昧堂を建立すると、やがて阿弥陀如来の周囲を歩きながら念仏を唱える観想念仏行が実践されるようになる。

天台宗二派の始まり
⇒868年に円珍が園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした事。また、教義の違いが円仁派と円珍派で生じ、993年には円仁派が円珍派坊舎を焼き払った為に、円仁の山門派と円珍の寺門派に天台宗が分かれた。

二派の違いは、四宗兼学に修験道を加えるかどうかである。また、この二人によって天台密教が真言密教と肩を並べる事が出来た。円仁が天台宗を体系化し、円珍が本格的に密教化に取り組み、胎蔵・金剛界・蘇悉地の三大法を説いた。

真言宗本末転倒
⇒919年、真言宗では観賢が東寺長者になると、東寺を本寺として金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。

下級貴族・庶民に浄土信仰を広めた(天台宗空也派)の誕生
⇒948年、在家信者でありながら、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えて社会貢献をしていた空也が天台座主;延昌の下に出家し、空也派を設立した。そして、踊念仏・高野聖の先駆者と成った。

一般人向けに仏教解説本を書いて浄土信仰を広めた。
⇒985年、山門派の源信が『往生要集』に極楽浄土往生法・阿弥陀如来の事を細かく著し、一般民衆に「称名念仏」で無く、「観想念仏」を説いた。後に浄土真宗に多大な影響を与えた。

高野山の衰退と復興
⇒994年、真然が20年掛けて整備した高野山金剛峯寺は落雷によって殆ど、焼失して衰退し始めたが、1016年頃から祈親上人定誉によって再興され、藤原道長を始め、白河・鳥羽上皇が参詣した為、末には現世浄土としての信仰を集めて復興を遂げた。

▲平安の後期
末法思想により終末論が起きる
⇒1052年、災害・戦乱が頻発した事を機に仏教の末法思想と終末論が結びついて死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、藤原道長の子の頼通によって宇治平等院鳳凰堂が建てられ、明尊を平等院検校にした。

天台宗から大念仏宗が起きる
⇒1117年、良忍が大原来迎院にて修行中、阿弥陀如来から速疾往生の偈文(一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満)を授かり開宗した。この事で観想念仏から称名念仏を重要視した融通念仏を広めた。

経典は、『華厳経』・『法華経』を正依として『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」が説かれた。

また、大原来迎院を大原流魚山声明の道場とし、湛智によって新しい音楽理論に基づいて天台声明が完成られた。やがて、専修念仏を中心とする浄土宗が誕生する。

【略歴・平安中期】

944年
富士山の噴火や地震・洪水などの天変地異が発生した為に朱雀天皇は異母兄弟の成明親王に譲位し、仁和寺に入った。その後、成明親王が村上天皇に即位すると、兄の朱雀天皇が52年に30才で崩御した。

949年
関白の藤原忠平が死ぬと、再び天皇は親政を行なったが、実際は摂関家の藤原実頼・師輔の兄弟に牛耳られていた。

951年
文化面では『後撰集』の編纂・歌人を庇護して歌壇を作り、内裏歌合(60年)を催行した。また、自ら『清涼記』を執筆した。

967年
内裏焼亡をはじめとする数々の災難に見舞われ、村上天皇は在位のまま42歳で崩御し、初めて院号が使われた。尚、皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を持つようになる。

第二皇子の憲平親王が藤原兄弟によって冷泉天皇に即位する。儀式は大極殿から紫宸殿と移された。また、冷泉は精神病であった為、藤原実頼が関白についた。

969
村上天皇の第四皇子為平親王と、守平親王の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が勃発し、藤原実頼が源 高明を失脚させて大宰府へ流罪させ、守平親王を円融天皇に即位させた。

970年
実頼が薨去すると、天皇の外舅である藤原伊尹が摂政を引き継ぐが、一年後に死ぬと兼通・兼家が摂関職を巡って争い、兼通を関白に任じた。77年に兼通が病気に成ると北家の藤原 頼忠が関白にし、兼家を降格させた。

984年
懐仁親王を太子に立て相撲節会を開いた。その後、円融天皇は譲位して上皇に成り、詩歌管絃の遊楽や南都諸寺への御幸を行なった。翌年には平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らに和歌を奉納させる歌会を開いた。

花山天皇が即位すると、引き続き藤原 頼忠が関白を務めるが、実権は帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成が握り、翌年には荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行った。

986年
藤原 兼家は三男の道兼を使って寛和の変を起こし、花山天皇を元慶寺に入門させて退位させ、懐仁親王を一条天皇に即位させた。また、冷泉天皇の居貞親王を皇太子し、引き続き、兼家が摂政関白に就任した。

989年
兼家は長男の道隆を内大臣に任命し、律令初の大臣4人制を取った。90年、頼忠が死ぬと、太政大臣に就き、道隆の長女の定子を一条天皇の女御とした。その後、兼家は関白に成ったが、すぐに道隆に関白を譲り、二ヶ月後に法興院で死去した。

995年
道隆が糖尿で死去した為、弟の道兼が関白に成ったものの、道兼(七日関白)も7日で死去してしまった。その後、道隆の嫡男の伊周と叔父の長道が争い、長道が勝利すると、天皇の生母・詮子の推薦により、内覧となって実権を掌握した。

996年
藤原隆家が花山院に弓を射かける長徳の変が起こり、道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。三年後、道長は定子を皇后宮にさせ、娘の彰子も皇后とする一帝二后を築いた。

また、道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。

【略歴・平安後期】

1011年
一条帝から禅譲を受け、三条天皇が即位するが、眼病を理由に道長から譲位を迫られ、16年、彰子が生んだ敦成親王を後一条天皇に即位させ、17年に三条帝が崩御すると、皇太子の敦明親王を廃皇させ、敦良親王を皇太子にした。

1019年
藤原道長が長男の頼通に関白に成り、21年には左大臣に転じた。更に、道長は三女の威子を中宮に、末子の嬉子を東宮妃にした。27年、道長が死去すると、翌年に関東で平忠常(将門の従兄弟)の乱が起き、31年に源 頼信によって鎮圧された。

1036年
糖尿病により後一条天皇が崩御すると、弟の敦良親王が後朱雀天皇に即位する。中宮には頼通の養女、藤原げん子を迎えたが早死した。一方で、皇后の禎子内親王能信と頼通・教通らが対立する。

1045年
後朱雀帝は悪性腫瘍が悪化した為、親仁親王に譲位し、後冷泉天皇に即位させた。そして、貞子内親王の子の尊仁親王を皇太子に立てた。後冷泉帝は生母の藤原嬉子に皇太后を追贈した。藤原氏の摂関政治が全盛を極めた。

1051年
奥州で前九年の役が勃発し、52年には、藤原頼通によって西方極楽浄土をこの世に出現させたような平等院鳳凰堂が創建された。検校に明尊が選ばれた。この頃から末法思想が広がり、皇族・貴族による大規模寺院が建てられた。

1055年
有力貴族の寺院の荘園が増加した為に、荘園整理令を出すが権門擁護策に終わる。67年、頼通が関白職を弟の教通に譲った。

1068年
後冷泉天皇が崩御すると、尊仁親王を後三条天皇に即位させた。上東門院(藤原彰子)の推挙で頼通の息子で無く、弟の教通を関白にする反面、反摂関派の藤原能長源師房(村上源氏)・大江匡房藤原実政を登用し、積極的に親政を実施した。

東宮時代に後三条を蔑ろんじていた源隆国の息子の源俊明にも、報復せずに平等に登用した。

1069年
画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置。翌年には、絹布の制。二年後には、延久宣旨枡(枡の大きさが統一化)や估価法の制定された。また、この年から延久蝦夷合戦が始まり、源 頼俊と清原 貞衡が討伐に向かった。

1070年
藤原 基通が国司の印と国の正倉の鍵を奪い、逃走し、下野守の源義家に逮捕された為に頼俊は失脚し、清原 貞衡が鎮守府将軍に任ぜられた。72年、貞仁親王に譲位して院政を図ろうとしたが、73年に崩御した。そして、貞仁が白河天皇に即位する。

1083年
陸奥と出羽の領地を所有した清原一族の間で内紛の後三年の役が勃発し、最後に家衡と清衡との間で戦が始まり、清衡・源義家の連合軍が勝利する。源義家は帰京し、清衡は藤原と改名した。

1085年(院政の始まり)
後三条院と、その生母陽明門院が白河帝に実仁親王及び輔仁親王に皇位を継がせる様に迫り、実仁親王を皇太弟したが、死去した。86年、実子の善仁親王を皇太子に立て、更に譲位し、白河上皇による院政が始まった。

藤原賢子が生んだ善仁親王が堀河天皇に即位すると、藤原師実が摂政と成り、院政においても人事面を任せ、太政大臣の信長と距離を置くように成った。

1094年
師実が死去し、嫡男
師通が関白職を継ぐと、堀河帝と共に政権を奪還する。院の乳母兄弟の藤原 顕季の低を身分不相応だとして破壊させたり、上皇の近臣の受領受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止している。

1095年
美濃守の源義綱の流罪を求める延暦寺・日吉社の強訴に対して、要求を拒否して源頼治を派遣、攻撃を命じ、延暦寺は堀河天皇・師通を呪詛した。99年、師通が死去し、息子の忠実が摂関家を継いだが、関白に成れず、内覧に留まった。

1102年
義家の子の義親が康和の乱を起し、また、東大寺僧の赤袈裟着用問題が生じ、忠実は解決出来ずにいた。更に、叔父の興福寺別当である覚信を解任する際に、白河院の怒りを買い、院に政権を奪われた。

1103年
女御の藤原苡子が死去すると、堀河天皇から皇太子の宗仁親王を引き取り、白河法王が育てた。6年には、義親を成敗する為に父の義家が出陣したが、途中で死去した。

1107年
8月に堀河天皇が崩御し、宗仁親王が5才で鳥羽天皇に即位した。12月には白河院の命により、平正盛が派遣され、翌年に義親を誅した。

1109年
義親の乱後に河内源氏は内紛を起こす。義忠は暗殺され、義綱為義に討伐され、佐渡国へ流罪となった。そして、為義は左衛門少尉に任じられた。

1117年
白河法皇の養女である藤原璋子公実の娘)を入内させ、翌年には鳥羽帝の中宮にし、5男2女を設けた。更に、法皇は、翌年に延暦寺の強訴に対抗する為、北面武士を創設して、次々と検非違使に任命した為、検非違使庁は形骸化された。

1123年
白河院によって鳥羽天皇が譲位させられると、顕仁親王が崇徳天皇に即位する。翌年に璋子も院号を宣下された。

1129年
藤原忠通の長女である藤原聖子を入内させ、その後、崇徳の中宮にした。また、白河院が崩御し、鳥羽上皇の院政が始まった。39年に、鳥羽上皇と藤原得子の間に体仁親王が生まれ、皇太子に立てたが、翌年に崇徳と兵衛佐局の間に重仁親王が生まれた。

1141年
鳥羽上皇が崇徳に譲位を迫り、体仁親王を近衛天皇に即位させた。翌年、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院(璋子)を法金剛院で出家させた。

1150年
近衛天皇が元服すると、忠通と忠実頼長の間で多子呈子を巡って入内競争が起き、忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否した為、忠通を絶縁した。

1155年
近衛天皇が崩御すると、中継ぎとして鳥羽帝の四男の雅仁親王が後白河天皇に即位する。後白河帝によって田楽猿楽などの庶民文化と貴族文化が融合され、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様が誕生した。

1156年(保元の乱)
鳥羽法皇が崩御すると、摂関家の内乱により、朝廷を二分する -->

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