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職案人

求職・歴史・仏教などについて掲載するつもりだが、自分の思いつきが多いブログだよ。適当に付き合って下さい。

インド宗教史-仏教成立前-1

2022年04月27日 | 仏教史・宗教史
インド宗教史-1


・はじめに
このブログは、インド思想史略説を参照して、自分なりにまとめ直したものです。
自分の主観が入っているから、これが正しいとは思っていませんが、まんざらデタラメでもあ
りません。!
----インド史概略---



【インダス文明:ドラヴィダ人】
・紀元前53000年頃
ドラヴィダ人はアフリカ東岸からインド南西部に移住して来た。

・インダス文明(紀元前2600年頃)
ドラヴィダ人はインダス川流域(現在のパキスタン)に、インダス文明を形成する。
ドラヴィダ人は、母系家族で農耕・牧畜を営み、リンガ(男性器)崇拝、地母神崇拝、牡牛の崇拝、宗教的沐浴の風習、樹木崇拝を有していた。

・インダス文明の消滅(紀元前1800年頃~紀元前1500年頃)
気候の変化からドラヴィダ人はインダス文明の都市は放棄する

--ヴェーダ時代(BC15世紀-BC5世紀)--

【前期ヴェーダ(BC15世紀-BC10世紀)】

・アーリア人の移住(紀元前1500年頃)
中央アジアのステップル地方に住んでいたアーリア人が各地に移動し始め、インド・アーリア人と呼ばれた部族が、現在のアフガニスタン・バクトリアから北西インド(パンジャブ地方)に移住して来た。その後、一部のドラヴィダ人はアーリア人の奴隷となり、同化していった。また、アーリア人はバラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラなどの宗教的身分ヴァルナジャーティ(12因縁の生)を作り、ドラヴィダ人を支配しって行った。後のカーストである。

それ以外のはドラヴィダ人は、デカン高原に逃れ、サータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)、チョーラ朝、パーンディヤ朝を築き、サンガム文学を作り出した。

※アーリア人について
戦闘にたけ、家父長制の大家族を単位として部族を形成し、自分たちは全てに優れた民族と思っている(至上主義)。

一方で、遊牧生活を営みながら、自然現象を神格化させた自然崇拝を信仰し、戦勝や家畜や家族の繁栄などの現世利益を目的とする祭祀を頻繁に行っていた。

なぜなら、アーリア人は神々を不老不死を手にしているが、人と同じように感情を持ち、怒ると、人に自然災害を与え、喜ぶと、人に恵みをもたらす存在と、信じていた。
そこで、神と交信出来る神官(バラモン=ブラーフマナ)によって、神々を呼び出し、供え物や、神への讃歌(マントラ)を唱える事で、神々の機嫌を取る祭式を営む様に成ってきた。


・前期ヴェーダ時代(紀元前1200年~紀元前1000年)
古代のリシ(聖人)達によって神から授けられた天の啓示や、神への讃歌をアーリア人によって編纂され、ヴェーダ聖典が誕生した。ヴェーダ聖典はリグ、サーマ、ヤジュル、アタルヴァの四集から成っていた。
その中でも、リグ・ヴェーダが、最も古いとされている。この時代の初期は、「死後に天界へ行き永遠に安楽に生きる」という思想が見られたが、その後、天界での存在様相に関心が高まり、天界での死(再死)を恐れる思想が生まれ、
再死を恐れ涅槃を求める「輪廻と解脱」の思想が発達する。

・十王戦争の勃発
この頃、インド・アーリア人の諸部族同士で対立が起こり、パンジャーブ地方で十王戦争が勃発。やがて、トリツ族・バラタ族がプール族を中心とした十王の軍に勝利し、インド・アーリア人の諸部族の中での覇権を確立する。その後、プール族はバラタ族と連携を深め、後に融合して、支配階級としてのクル族を形成し、お釈迦様が生きていた十六大国時代にはクル国を建国した。


【後期ヴェーダ(BC10世紀-BC5世紀)】
・四ヴェーダ期の到来(ヴェーダ祭式)
サンヒター以外に、ブラーフマナ・アーラニヤカ・ウパニシャッドの三種の付属文献が加えられ、四ヴェーダ時代が到来する。これより、ヴェーダ祭式も、本格的に成ってきた。この頃から、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。一方で、ジャーティも細分化され始めた。

ヴェーダ祭式には、「グリヒヤ祭式」と「シュラウタ祭式」がある。
グリヒヤ祭式→家庭内の祭祀,儀礼をまとめたもの
シュラウタ祭式→正統バラモンの間で作成されたベーダ聖典の補助文献のうちの一種

・ブラーフマナ時代=祭式至上主義(BC9世紀~BC5世紀)
ヴェーダに注釈書・祭式の規定や意味などが記されたブラーフマナ(梵書・祭儀書)がバラモン達によって書かれると、祭式万能の思想(祭式至上主義)が起こり、祭式は神々の恩恵を求める場から、神々を呼び出し、マントラの呪力によって神々に願望を叶えさせる場に変貌した。やがて、ヴェーダの詩句(マントラ)の呪力が宇宙を支配する最高原理として神格化され、最高神・ブラフマン(梵)と見なされる。一方で、祭式は形骸化され、ジャーティもより細分化されて行く。

・ウパニシャッド哲学の誕生(BC8世紀~BC2世紀)
アーリア人がガンジス河中流地方まで進出し、徐々に商工業が盛んになり、都市が出来てくると、神々を支配して来たバラモンの権威も、徐々に弱まり、形式的な儀式に批判が高まるに連れて、バラモンの中から、ヴェーダの最終章:ウパニシャッドをもとに思索を通して真理を探求しはじめる動きが現れた。これより、ウパニシャッド哲学が開花する。

ウパニシャッド哲学の思想
・梵我一如
・業と輪廻
・解脱する方法


※白ヤジュル・ヴェーダに依ると、
古代ウパニシャッドの哲学者
ウッダーラカ・アールニが「有の哲学」を築いた。
有の思想→万有の根源は「無」ではなく、唯一不変の実体(有:ブラフマン)が、あらゆる現象の本質に存在し、その存在は極めて「微細なもの」であるが、繁殖の意欲をおこして、苦行(タパス)を行い、そのタパスの熱力によって、熱・水・食物の三要素を生み出した。そして「生命としてのアートマン」によって、この三要素の中に入り込み、三要素の混合によってさまざまの現象をつくりだした。したがって、多様な現象界もすべてこの三要素によって構成されている。

ウッダーラカ・アールニの弟子・ヤージュニャヴァルキヤは、ヨーガ哲学の元祖で、梵我一如を説いた。これより、ウパニシャッド哲学が誕生する。

・梵我一如を実感する事で解脱する=「ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、宇宙に遍在する梵と同一であること」を悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみ(輪廻)から逃れることができるとする。

輪廻)思想の始まり
・BC6世紀:チャーンドーギヤ・ウパニシャッドにプラヴァーハナ・ジャイヴァリ王が説いた五火二道説が描かれた。
五火とは、
死者は火葬されたのち
(1)月に行き
(2)そこから雨となって再び地に落ち
(3)植物に吸収されて穀物となり
(4)それを食べた男の精子となり
(5)女との性交により胎児となりこの世に再生する、という5段階で輪廻するという説である。

二道とは、人間の死後の運命
(1) 祖先の道(祖道):死後は先祖の世界に行き、後に再び五火のサイクルで人間界に戻る
(2) 神々の道(神道):死後は神々の世界に行き、人間界に戻ることはない

・業(カルマ)=輪廻(サンサーラ)の思想
ヴァルナのクシャトリアによって説かれた五火二道説は、更にバラモンによって「命あるものが何度も転生し、人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わる」輪廻思想が誕生した。また、生物ら(衆生)は、死して後、生前の行為つまりカルマ()の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとした因果応報の思想が生まれ、人々は輪廻を苦と考え、輪廻から解脱する事を探し求めるように成った。

解脱方法
1.常に穢れを遠避け、心身を清淨する事。
2.瞑想(ヨーガ)によって自己の内側と対話し、「聖典ヴェーダ」などの文献で学んだ世界の心理が、自分の心の中にも存在するということを認知する。
3.バラモンに輪廻転生して、梵我一如を理解する

穢れの思想
穢れには物質的ものと、精神的な物がある。
・物質的もの→体液・血・唾液・汗・糞尿・死体・皿・さじ・穢れた者が使った水・外国人
・精神的な物→邪悪な行為・不道徳な考え
清めるには
神の名、聖句を唱える
ガンジス川の水で洗う
食べ物を焼いたり、煮たり、油で揚げたりする

・苦行(タパス)思想↔ヨーガ(瞑想)
古代インドでは、人里離れた森林の中で、減食、菜食から断食(だんじき)や、火・川の淵に身を投げたり、灰や棘(いばら)や牛糞の上に臥(ふ)したり、呼吸を止めるなどの苦行をする事で、修行者(サドゥー)は天界に輪廻する事を確実にし、更に神々から超能力(不老不死、神通力など)を授けてもらおうとするもの。→ヨーガは真理の直観、悟りを得て、苦しみ(輪廻)から解放されること(解脱)が目的とするもの。

【十六大国時代(BC6~5世紀)】
アーリア人のバラタ族がガンジス川流域で本格的に農耕を営むと、農耕技術の発展と余剰生産物の発生にともない、徐々に商工業の発展も見られるよう成る。また、政も部族集会からラージャンと言われる指導者によって決められ、ジャナパダと呼ばれる国家が数多く存在するように成った。やがて、十六大国が群雄割拠する時代へ突入し、マガダ国とコーサラ国が二大勢力となっていった。お釈迦さまのシャーキヤ国はコーサラ国に攻め滅ぼされた。

一方で、祭司階級のバラモンがその絶対的地位を失い、戦争や商工業に深く関わるクシャトリヤ・ヴァイシャの社会的地位が向上していった。

・ペルシャ帝国の誕生
ペルシャ帝国(アケメネス朝ペルシャ)のガンダーラ支配が始める。ガンダーラは十六大国の一であったが、アケメネス朝ペルシャのキュロス大王にされていった。


・自由思想家の登場(BC6世紀~)
商工業も発達し、物質的に豊かになって来ると、バラモン教ヴェーダ学派を否定する自由な思想家(沙門)が多数輩出され、中でも、仏教の開祖:釈迦や、それ以外の六師外道が現れる様になった。

【六師外道】
1)プーラナ・カッサパの行為の善悪否定論
プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。あらゆるものごとを「平等」にみることによって、行為に附随する罪福へのこだわりとその結果生まれる苦しみから心を解き放とうとする教え

2)アージーヴィカ教・マッカリ・ゴーサーラの宿命論
一切万物は細部にいたるまで宇宙を支配する原理であるニヤティ(宿命)によって定められている。輪廻するもののあり方は宿命的に定まっており、6種類の生涯を順にたどって浄められ、解脱にいたる。業には、運命を変える力がない。行為に善悪はなく、その報いもないと考える。

3)アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
アジタは業・輪廻の思想を否定し、次のような唯物論を説いた。
「人間は地水火風の四要素からなり、各元素は独立して実在し、死によって人間を構成していた四元素は各元素の集合へと戻り、ゆえに人間は死ぬと空無となり霊魂も何も残らない。
よって、輪廻も、業も無い。よって、宗教も道徳も不要であり、現世の快楽・享楽のみである。」他の沙門たちからは、道徳の根本を破壊するものと恐れられ、激しく攻撃された。

4)パクダ・カッチャーヤナの七要素説
パクダ・カッチャーヤナは、人間は七つの要素(地・水・火・風・楽・苦・霊)からなるもので、これらは作られたものではなく、何かを作るものでもない。不動、不変で互いに他を害することがない。殺すものも殺されるものもなく、学ぶものも教えるものもいない。
つまり、人間の本質は霊魂にあると見て、霊魂は不動、不変なものなので、殺すことも害することもできないというのである。

5)ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)のジャイナ教
23人目のティールタンカラ・パールシュヴァマハーヴィーラがニガンタ派を開き、そのニガンタ派の教義を改革してマハーヴィーラがジャイナ教を開いた。
ジャイナ教は全てのものに霊魂の存在を認め、その各々の霊魂が本質的に人間と同質のものだという認識を持っています。その根拠を仏教と同じ業(カルマ)の消滅と個人の救済としています。

6)サンジャヤの不可知論
サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとった。仏教の無記に似ている。

--仏教の興隆--


【初期仏教::原始仏教(DC6世紀-DC4世紀)】
・初転法輪
紀元前5世紀頃、ヒンドゥスターン平野にある16国の一つ、コーサラ国の属国:シャーキヤ国の族長の息子ガウタマ・シッダールタが出家し、苦行やヨーガによって梵我一如を体感し、ついにブッダガヤで悟りを開くと、サールナートで初転法輪(中道・四諦・八正道などの法)を行った。
ブッタは、当時勢いのあった苦行主義(肉体的苦痛に耐える事で生ずる熱力によって、欲望と業を消滅させる)を否定し、真理を悟る智慧によって欲望をコントロールする事を提唱した。
※智慧はヴェーダからの知識ではなく、自ら実践して得られるものである。

・第一回結集
前484年、お釈迦様が入滅すると、1年後には第一回結集が行われた。


・ガンダーラの分割統治が始まる
紀元前380年、ガンダーラはペルシャの支配から逃れて、多くの小王国に依って分割統治される。

・アレクサンドロス大王の東征と、マウリヤ朝のインド統一
紀元前327年には、アレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻したが、大王はこの地に1年も留まらなかった。同じ頃、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収め、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一した。

【仏教の根本分裂】
お釈迦様の入滅後100年頃(BC4~3世紀)、マウリヤ朝のアショーカ王の時代に仏教教団の根本分裂が起きた。
根本分裂の原因は、托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、それを認めるか?どうか?で、大衆部と上座部の2つの教団に分裂した。

【バラモン教→ヒンドゥー教へ】
BC5-4世紀頃
政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教はヴェーダ聖典を継承しながら、シヴァ信仰・ヴィシュヌ信仰などの民間の宗教を受け入れ、同化してヒンドゥー教へと変化して行き、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。
神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制(ヴァルナ制)等を特徴とする宗教になった。

【ヒンドゥー教の聖典:マハーバーラタの編纂(紀元前4世紀~4世紀)】
紀元前4世紀
インド二大叙事詩でもあり、ヒンドゥー教の聖典「マハーバーラタ」が編纂され始め、4世紀には終わった。
 そこには、苦行より、善行より、知を追求し悟りを開く事より、最高神ヴィシュヌに対するバクティ(信愛)が重要で、それによって誰もが神の恩恵を受けられる事が説かれている。

【インド六派哲学の誕生(14~15世紀)】
バラモン教の聖典ヴェーダに収録されている「ウパニシャッド」を基に発展した哲学。
1)サーンキヤ 学派: 無神論的で、意識と物質の二元論を強調する。
2)ヨーガ 学派: 瞑想・黙考・解脱を重視する学派。
3)ニヤーヤ学派: 知識の根源を研究する。『ニヤーヤ・スートラ』。
4)ヴァイシェーシカ 学派: 原子論をとる経験主義的学派。
5)ミーマーンサー 学派: 反禁欲主義・反神秘主義的な形式主義学派。
6)ヴェーダーンタ 学派: ヴェーダの最後の部分である知識を扱った節、つまり「ジュニャーナ」(知識)・「カーンダ」(部分)。ヴェーダーンタは中世以降ヒンドゥー教の支配的な潮流となった。













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仏教の流れー南北朝・室町時代

2013年09月27日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆南北朝時代の仏教
鎌倉時代末期、北条氏は南宋にならい五山制度を導入し鎌倉の寺院を中心とする五山を選定した。しかし、幕府滅亡すると、後醍醐天皇は五山を鎌倉から京都本位に改め、京都五山を定めた。

*五山制度→南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って五山を定めたのが始り、日本では鎌倉の末期に禅宗が普及すると、執権;北条 貞時がそれらを保護する為、臨済宗を中心に寺院を格付けしだした。

寺院の格付けは、上位より、五山・十刹諸山・林下に区分された。
鎌倉五山→建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
京都五山→天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺

また、足利基氏によって臨済宗を中心にした漢詩・漢文が鎌倉を中心に広まり、五山文学が花開いた。→七仏通戒偈無常偈が有名

●歴史の概略ーー南北朝時代

建武政権時代

1333年::建武の新政
後醍醐天皇は、光厳天皇を廃位し、6月に足利高氏を鎮守府将軍に任じて、名を尊氏に改名させ、更に護良親王を征夷大将軍に任命させた。
10月::小幕府構想→陸奥将軍府
護良親王は、足利尊氏を牽制する為、斯波氏の領地に陸奥将軍府を設けて、北畠顕家を陸奥守鎮守大将軍に就かせ、更に、義良親王を陸奥太守させて、国府の多賀城へ赴かせた。
12月::鎌倉将軍府
尊氏は、弟の足利直義を執権に、成良親王を鎌倉府将軍に就けて鎌倉へ赴かせた。

1334年::立太子
恒良親王を皇太子にさせると、大内裏の造営のための二十分の一税を課す為の土地調査が図られ、更に紙幣の発行が行われた。
次に、中央組織(記録所・恩賞方・雑訴決断所・武者所)で権限の衝突が起こり、混乱を生じると、武士たちは朝令暮改の後醍醐天皇に失望し、尊氏に救いを求めるようになる。更に、天皇と対立して、尊氏を暗殺しょうとした護良親王を鎌倉に送った。

1335年::中先代の乱(北条家の反乱)
6月北条 泰家西園寺公宗と共に、後醍醐天皇暗殺して幕府再挙の企てを図るが、公宗の弟・公重に密告されて失敗した。
7月北条 時行が信濃の諏訪頼重、時継滋野氏に擁立されて挙兵し、信濃守護小笠原貞宗を破って鎌倉に向けて進軍し、渋川義季小山秀朝を倒して鎌倉を奪還した。その時、直義は護良親王を殺害して鎌倉を抜け出した。
8月、天皇の許し無く足利尊氏は出陣し、直義と合流して相模川の戦いで北条軍を破り、鎌倉を回復させた。

11月::延元の乱(尊氏の反乱)
尊氏が天皇に新田義貞の討伐を要請すると、逆に義貞の意見が取り入れられて尊良親王に尊氏討伐の命が下されると、東山道から洞院実世の追討軍が、奥州からは北畠軍が鎌倉に向かうと、光厳上皇から新田討伐の院宣をもらって尊氏も挙兵した。

12月::箱根・竹ノ下合戦(建武政権の終焉)
箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破ると、義貞は帰京して尊氏軍を迎え撃ったが、淀大渡の合戦で敗北して、尊氏軍が入京すると、後醍醐天皇は比叡山へ避難した。

1336年::豊島河原合戦(尊氏の敗北)
天皇を護衛した楠木軍と、遅れて来た北畠軍が新田軍に加わると、園城寺を本拠地した足利軍は北畠軍に翻弄され、丹波国篠村八幡宮まで退去させられた。
2月豊島河原の戦いで新田軍に大敗をすると、尊氏は兵庫→播磨国→九州へと逃れた。その時、少弐頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ出向いた最中、宮方の菊池・阿蘇軍に少弐氏の本拠地の太宰府を陥落させられた。

3月::多々良浜の戦い(尊氏の九州制覇)
宗像氏盛や少弐頼尚らの力を借りて、尊氏は宮方の菊池・阿蘇軍と筑前で戦い勝利すると、そのまま京まで進軍した。尚、多々良浜の戦いに新田軍が参戦出来なかったのは、赤松則村軍に苦戦して播磨で足止めされていた為
5月::
湊川の合戦(再び、上京)
上京を機に足利勢は直義軍と尊氏軍に分かれた為、後醍醐天皇は楠木に直義軍を、新田に尊氏軍討伐を命じた。しかし、尊氏の策略よって楠木軍は孤立され、湊川の戦いで滅びると、新田軍は京に敗走し、宮方は、再び比叡山に立籠った。

8月::北朝並立
光厳上皇は三種の神器無しで、弟の豊仁親王を光明天皇に即位させて院政を敷いた。
10::北陸朝廷(東山天皇)
尊氏軍が入朝すると、後醍醐天皇は比叡山で尊良親王 を東山天皇に即位させ、恒良親王と共に、新田義貞・脇屋義助・洞院 実世ら、を率いて北陸に落ち延び、越前の金ヶ崎城に入った。
11月::室町幕府の開幕
比叡山で、足利尊氏と後醍醐天皇が和解して、光明天皇に三種の神器を譲ると、直ぐに尊氏は建武式目を定め、室町に新しい幕府を置くと、後醍醐天皇を花山院に幽閉した。

南北朝時代

1336年12月::南朝並立
後醍醐天皇は京の花山院を脱出し、再び、奈良の吉野で朝廷を開いた。そして、京の北朝と奈良の南朝が対立する事態となった。
その後、後醍醐天皇は懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ赴任させた。

1337年::金ケ崎の戦い(北陸朝消滅)
新田義貞の入城直後から、北朝の斯波 高経軍が金ヶ崎城を包囲するが、中々陥落させる事が出来ない為、尊氏は高 師泰軍を派遣して落城させた。そして、尊良親王・新田義顕は自害し、恒良親王は捕まった。
3月::新田一族の再興
義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利勢に対抗する。更に、北畠顕家は、足利勢の追撃を避ける為、拠点を多賀城から霊山に移した。

8月::利根川の戦い・薊山合戦(南朝の反撃)
北畠顕家は後醍醐天皇の尊氏追討命に応じて上洛を開始すると、利根川の戦いで足利勢の小山氏を破り、薊山合戦で足利勢を退けた。この時、新田義貞・北条時行らにも、北畠軍と合流する様に天皇から命令が出されていた。
12月::杉本城の戦い(足利勢の劣勢)
顕家が相模国の杉本城を攻め、関東執事の斯波氏を滅ぼして鎌倉を制圧すると、足利 義詮は上総国安房へ逃げ去った。

1338年::青野原の戦い(南朝衰退)
1月、北畠軍は鎌倉を出発して東海道を京へ向かった。途中で宗良親王・北条・新田軍が合流すると、岐阜の当たりで足利勢の土岐 頼遠と対戦し、青野原合戦に勝利するが、近江から足利追討軍が参戦する事を知ると、伊勢から吉野へ赴いた。
2月::般若坂の戦い(南朝の敗北)
顕家は軍を立て直して奈良を制圧するが、下旬には北朝方の桃井直常に敗北し、義良親王を密かに吉野に送った。
5月::石津の戦い(顕家の戦死)
顕家は、河内(藤井寺市)→和泉市と転戦して、大阪天王寺に軍を集結させると、石津・堺を焼討ちし、細川・日根野らの北朝方勢力と交戦するが、高師直と瀬戸内海水軍が石津合戦に参戦すると、敗北して戦死した。
7月::藤島の戦い(義貞の戦死)
斯波高経の足羽城を攻めた時、平泉寺衆徒の寝返りによって苦戦を強いられた為、衆徒が籠城している藤島城に向かった。その途中の福井の灯明寺町で高経勢の細川・鹿草軍と交戦して、戦死した。
8月::室町幕府の二頭政治
顕家や義貞が戦死した事で、尊氏は光明天皇から征夷大将軍を、弟の直義左兵衛督に任じられ、尊氏と二頭政治を行い様に成って行った。

1339年::後醍醐天皇崩御
3月、後醍醐天皇は吉野で譲位して、義良親王を後村上天皇に即位させる。
8月、後醍醐天皇が崩御した為、尊氏は天皇を弔って天竜寺を建立した。
その後、後村上天皇を補佐して、近畿地方の寺社や武士に対して綸旨を出して軍事催促や所領安堵を行った。

1340年::反幕府軍の集結
父・顕家の死後、北畠親房度会家行力の支援を受けて、南朝勢力の拡大の為、関東に赴いき、常陸の小田氏白河結城氏の力を借りて反幕府軍の結集すると、尊氏は高師冬軍を派遣した。

1341年::藤氏一揆
37年に吉野に行ったものの、自分の意に沿わず、41年近衛 経忠は、再び京都に戻ってきたが、ここでも冷遇されて、藤氏長者の立場を利用し、関東の小山氏・小田氏に呼びかけて藤氏一揆を企てた。

1343年::北朝の関東平定
北朝の高師冬が関東統治に派遣されると、小田氏の裏切りに合って、親房は関城に入城して関氏・下妻氏・伊佐氏たちと共に、関城・大宝城の戦いを繰り広げ、高師冬に敗北し、親房は吉野に落ち延びた。

1348年::四條畷の戦い(吉野朝廷の崩壊)
47年楠木正行は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、続いて住吉付近で山名時氏を破ると、48年高師直を大将とする北朝軍と、四條畷の戦いを繰り広げ、楠木正行・正時軍は破られ、吉野山は焼き払われた為に、後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)に移った。

1349年::幕府の主導権争い
四條畷の合戦後、執事の高師直が重く用いられて、足利直義が軽視される様になると、武家拡大を狙う師直派と、公家・寺社勢力を取り込もうする直義派が激しく対立するように成る。
6月::高師直討伐
直義派の上杉重能畠山直宗の進言により、直義は尊氏を騙して師直の執事職を罷免させ、更に光厳上皇から師直討伐の院宣をもらう事に成功した。
8月::師直のクーデター(直義排除)
師直は上洛した師泰軍と共に、クーデターを起こし、直義らが逃げ込んだ尊氏邸を包囲した。その為、尊氏は直義を出家させ、上杉・畠山を配流した。これにより、政務統括者を嫡男義詮に、鎌倉公方を次男の基氏にした。

観応の擾乱(足利一族間の争い)

1350年::足利直冬の反乱
父が排除された為、養子の足利直冬が挙兵し、福山で師直軍と交戦して、九州に敗走すると、再び勢力を盛り返し、少弐頼尚と共に、博多の一色勢を破ると、尊氏が直冬討伐に乗り出すと、父・直義や畠山らが師直討伐を掲げて南朝入りし、尊氏の直冬討伐を止めさせた。

1351年::年号を正平に統一
1月;;京が南朝に敗れる
足利義詮は南朝方の足利直義軍に攻められ、尊氏の居る岡山備前に逃げた。
2月::高一族の滅亡
兵庫摂津の打出浜の戦いで尊氏軍は敗北し、高兄弟らが京都へ護送されるが、途中で上杉能憲に暗殺さた。再び、直冬は九州探題に成った。
8月::尊氏親子の陰謀
合戦後、再び直義と尊氏の兄弟対立は深まり、直義派の斎藤利泰の暗殺事件や桃井直常の襲撃事件が起きると、尊氏は佐々木赤松を離反させて討伐軍を編成し、直義勢を挟み撃ちして排除しょうとしたが、直義は難を逃れて鎌倉入りした。
11月::尊氏の南朝降伏(正平統一)
南朝から直義・直冬追討の綸旨を受ける為、尊氏は三種の神器を南朝に渡して、南朝の勅使が入京させ、北朝の崇光天皇皇太子を廃して、年号を南朝の「正平」に統一した。
12月::薩埵峠の戦い
尊氏は後村上天皇の綸旨を受け、静岡市の菩薩峠の戦いで直義勢を破った。

1352年::南朝年号の観応復活
2月::足利直義死去
尊氏は早川尻の戦いで直義を降伏させると、そのまま鎌倉入りして、鎌倉の延福寺に直義を幽閉して死なせた。その為、足利一族は混乱すると、北畠親房は正平統一を破棄した。
3月::武蔵野合戦
親房らは足利勢の一掃を図る為、征夷大将軍を尊氏から宗良親王に任命し、新田義興・脇屋・北条らを挙兵させ、足利基氏を破って鎌倉を占領する。しかし、尊氏が武蔵野合戦新田義宗を破ると、再び鎌倉を奪還した。
5月::八幡の戦い
楠木千種 -->

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仏教の流れー後編・鎌倉

2013年03月29日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆歴史の概略----鎌倉時代
平安末期から開墾する土地が無くなり、領地を巡って豪族同士が争い始めると、源頼朝の御恩と奉公が約束された御家人制度が築かれ、豪族は自己防衛することが無くなった。しかし、領地を増やすには将軍を初めとする幕府に貢献する必要が有った。

やがて、源氏の血が絶えると、北条家が政権にを握るが、身分が低い為に将軍職に成れず、それを支える執権職に留まり、北条傀儡政権を作った。そして、末には北条得宗家が絶大な力を持つように成ると、得宗家の家臣団が横暴を極めて幕府は滅ぶ

一方、仏教はこの時代から民衆に溶け込みだした。そして、以前のような厳しい修行や戒律を守らなくても念仏や座禅で救済出来る新興仏教が広まった。

鎌倉の初期(1185~1235年)
1185年::文治の勅許
壇ノ浦で平家軍を討伐した源 義経は、頼朝の内挙を得ずに朝廷から任官を得た。すると、頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを拒まれ、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受けた。

しかし、義経らの下に頼朝討伐軍の兵が集まらず、11月には頼朝軍が駿河国黄瀬川に着陣した。その為、義経らは京から逃げ、行方を暗まし、やがて、後白河法皇から義経ら確保の院宣が出され、諸国に守護地頭が配置された。

守護→平安末期、国司が治安の為、地方の武士を国守護人に指名したのが始まり
地頭→平安末期、平氏が所領の現地管理者として家人の武士を地頭に任命したのが始まり

1186年::家領の二分
頼朝が押す九条家と、後白河法皇が押す近衛家とで摂関家領が二分された。

1189年::奥州合戦
88年に義経追討の院宣が下ると、89年閏4月、泰衡によって義経を衣川館で自害に追い込まれる。そして、7月には頼朝の御家人である大庭景義と、藤原泰衡の間で合戦が繰り広げられ、9月2日に、泰衡は郎党の河田次郎に討たれた。

1190年::建久新制
一時的な守護・地頭を恒久的にし、治安警察権の行使のために改める新制が行われた。そして、頼朝は征夷大将軍に成ることが出来ず、朝大将軍に成って鎌倉に戻った。

1192年::開幕により、公武の二頭政治が始まる
3月に後白河法皇が崩御し、頼朝は後鳥羽天皇から征夷大将軍を賜ると、鎌倉幕府を開いた。この頃の幕府は、将軍の館の事を指す。政治組織を意味する幕府は江戸時代から

◆組織
頼朝は平家打倒する際に、関東の豪族達をまとめて「御家人」組織を作り上げた。この組織によって武家同士の主従関係を強化して行き、問注所(裁判所)によって武力による領地紛争が無くなった。また、この頃は武家(東国)と公家(西国)の二元支配体制であった。

挙兵の頃
鎌倉殿→侍所→御家人【御恩(本領安堵・新恩給与)と奉公(地頭・大番役・武家役)】
平家追討の頃
鎌倉殿→侍所・公文所・問注所・追討師・地頭
義経追討の頃
鎌倉殿→侍所・政所・問注所・総追捕使・京都守護・[国地頭ー地頭]
開幕の頃
【鎌倉殿→侍所・政所・問注所・公事奉公人】→京都守護・[守護→地頭]

日本仏教の再生
1195年::公案禅の臨済宗
栄西は日本最初の禅道場である聖福寺を博多に
建立して臨済宗を広めた。日本仏教の精神の立て直しを図った。やがて、禅・天台・真言の三宗兼学の寺・建仁寺を建て、武士や朝廷に受け入れられて行った。

1196年::建久7年の政変
93年、頼朝は御家人を集めて軍事訓練の巻狩を行い。2年後には住吉大社で流鏑馬を再開した。96年には娘の大姫の入朝させる為、兼実の政敵である土御門通親と丹後局に近付くが、通親に阻まれて親幕派公卿の失脚を招く建久七年の政変を起し、更に娘も亡くした。

1200年::十三人の合議制
99年、頼朝が落馬して急死して、源頼家が征夷大将軍に任ぜられ、北条政子は出家して尼御台と成った。翌年、頼家の独裁政権を嫌った御家人達によって有力者十三人の合議制が取られた。また、権力闘争起き、侍所別当の梶原景時が追放される景時の変が起きた。

鎌倉幕府の権力争い
1203年::比企能員の変(頼家暗殺)
頼家が病床に就くと、頼家の嫡男、一幡と、実弟の実朝で分割して日本を治める事が、政子と父の北条時政によって決められると、比企能員の変が起り、時政によって制圧され、一幡と能員が殺され、頼家は修善寺に幽閉された後、暗殺された。

北条家内乱・牧の方の陰謀
1205年::畠山重忠の乱
実朝が12才で3代目征夷大将軍になると、時政が初代執権に就任した。すると、時政の後妻の牧の方が政権を握ろうと画策し、平賀 朝雅と畠山 重保が言い争ったのを機に、畠山氏が謀反を起すとして、時政に報告すると
畠山重忠の乱が勃発した。

執権の世襲制

同年、7月::牧氏事件
重忠の死後、その乱が牧の方の陰謀と知った政子は、弟の北条義時に命じて平賀 朝雅を討伐し、父の時政と牧の方を伊豆国に幽閉する牧氏事件を起して、義時を2代目執権とした。

新興宗教(浄土宗)の弾圧
1207年::承元の法難
南都の興福寺や比叡山から専修念仏の停止が訴えれて、後鳥羽上皇から「専修念仏の停止」命が下され、住蓮房・安楽房が死罪に、法然と弟子の親鸞は流罪に成った。

臨終を重要視した念仏から、日々の生活を重要視した念仏へ
1214年::阿弥陀仏、以外の力で絶対に真実を悟れないとする浄土真宗の誕生
11年11月親鸞は流罪を許されたが、翌年の1月に師の法然が死去した為、京に戻らず、伝道の地を東国に求め、そして、14年に常陸国の笠間に庵を構えて、真宗を布教した。

北条家の台頭
1213年::泉親衡の乱・和田合戦

頼家の三男、千寿丸を将軍に据えて北条義時を打倒しょうとして泉親衡の乱が勃発。しかし、千葉 成胤によって阻止された。之を機に、義時が政所別当の和田氏を挑発して和田合戦を起こさせ、和田氏を全滅させ、義時が御家人筆頭に躍りでた。

源氏の滅亡と尼将軍
1219::実朝の暗殺
18年実朝は武士として初めて右大臣に成り、19年には、頼家の子、公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺された。その為、朝幕の安定を図った「宮将軍」構想に終止符が打たれ、公暁も、三浦義村よって暗殺された。その後、二才の藤原頼経を鎌倉に迎え入れ、政子が将軍代行を務め、執権を最高機関にした執権体制が始まった。

朝幕の対立と統一
1221年::
承久の変
親朝派の実朝が死んだ事で幕府を朝廷の下に置くことが出来なくなり、更に後継者問題では北条義時に邪魔された後鳥羽上皇は、「流鏑馬揃え」を口実に諸国から兵を集めて挙兵した承久の変を起した。

守護・地頭の全国制覇
しかし、朝廷
軍は破れて後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇が流刑され、仲恭天皇も廃位して後堀河天皇や、父の行助入道親王を後高倉院にして院政を行わせた。更に、京の北と南に六波羅探題が設置され、後鳥羽院派の武家や公家は一掃され、全国に守護・地頭が置かれた。

二頭執権制
1224年::伊賀氏の変
義時が死去すると、後妻の伊賀の方と兄の伊賀光宗が政権を握ろうとして伊賀氏の変を起こすが、政子によって阻止された。その後、甥の泰時を執権に、弟の時房を執権補佐の連署に任命し、伊賀の方・光宗・実雅らを流罪した。また、北条泰時によって北条嫡流の家事を司る家令が置かれ、尾藤景綱を任命した。

評定衆の合議体制
1226年::征夷大将軍の復活
25年、政所別当の大江や政子が死去すると、泰時は大胆な政治改革を行う。之までの専制体制から、執権及び連署の両立執権に、11名の有力御家人を加えた評定衆を設置し、更に御家人の領土問題を解決する引付衆も置いた。
26年、将軍宣下により、藤原 頼経が鎌倉幕府の4代将軍と成り、源頼家の娘の竹御所を妻に迎えて、幕府を大倉→宇都宮辻子に移した。

浄土四流と新興仏教
1227年::嘉禄の法難
どんな悪人でも極楽に逝ける」とした教えを誤解した信者が、強盗や殺人などの悪業やった為、再び「専修念仏の停止命」が出されると、延暦寺の衆徒によって祖法然の廟堂が破却されて、浄土宗西山義鎮西義長楽寺義九品寺に分裂した

日本禅宗の誕生
1227年;;曹洞宗
道元によって、ひたすら坐禅して自性清浄心に気付く事を目ざす曹洞宗を開き、更に、末法は方便である事を説くと、次第に有名に成り、延暦寺の衆徒から弾圧を受ける様に成った。

初の武家法
1232年::御成敗式目

泰時によって慣習法の武家法に道理を盛り込んだ武家法典;御成敗式目が編纂された。この背景には前年に起きた寛喜の飢饉の影響が有った。
これにより、公家法本所法と並んで武家法が初めて揃った。また、四条天皇に譲位し、後堀河上皇が院政を始めたが、34年に崩御してしまった。

反得宗・反執権政治
1234年::竹御所が死去
正室の竹御所が死去すると、将軍頼経の実権も衰退していった。そこで、義時の次男、朝時を筆頭し、反執権政治を試みようとする反得宗派が、頼経に近付いて勢力を伸ば始めた。

南都北嶺の制圧
1235年::寺社勢力の争い
石清水宮神人と、興福寺及び比叡山の僧兵が大規模な争いをした為、幕府は武力を持って僧兵を鎮圧した。この頃、各寺社が独立して朝廷や幕府から一線を画していた。

鎌倉の中期(1236~1285年)
九条道家が朝廷の権力者に成る
1238年::道家太閤の誕生
32年
九条道家は長男の教実を四条天皇即位と共に摂政にして有力公家と成ったが、35年に教実が早死して、再び道家が摂政と成った。しかし、近衛家の反対を受けた為、37年に娘の仁子を嫁がせて近衛 兼経を摂政にすると、38年に道家は出家して禅閤と成った。

天皇空位--道家と泰時の対立
1242年::四条天皇崩御・泰時の死
天皇崩御後、道家が順徳天皇の皇子である忠成王を推薦した為北条泰時と対立して11日間、天皇空位状態に陥った。その後、泰時は後鳥羽天皇の孫の邦仁王を後嵯峨天皇に即位させ、関東申次西園寺家と婚姻関係を結ばせると、7月に死去した。

北条一族の対立
1244年::将軍職解任
北条泰時の孫の経時が執権に成った事で、反得宗の名越家と藤原頼経が、反執権体制を取ろうとした為、経時は将軍・藤原頼経を失脚させて、子の頼嗣を5代将軍にし、翌年には妹の檜皮姫を嫁がせた。


得宗専制政治の始まり
1246年::寛元の政変
46年5月、北条経時が死去して、弟・時頼が執権に成ると、前将軍・頼経と共謀して、名越光時らは時頼打倒を図り、寛元の政変を起しすが、すぐに反執権派は鎮圧された。

西園寺の世襲:関東申次
7月、頼経が京都六波羅に送還され、10月、父の九条道家も関東申次を解かれ、西園寺公経の嫡男・実氏と交代させられた。そして、後嵯峨天皇が4歳の後深草天皇に譲位して院政を開始した。

三浦泰村と義景の覇権争い
1247年::宝治合戦
九条道家の失脚を機に、三浦光村が反北条勢力を集めると、北条氏と外戚の三浦氏の対立が深まり、やがて安達景盛より、戦いの火蓋が切れると、北条時定三浦泰村討伐の命が下され、宝治合戦が勃発。その後、三浦氏と共に上総千葉氏までが滅亡した。

朝幕一体化と宮将軍
1252年::5代将軍頼嗣の解任
51年に、了行法師らが勧進をしながら、謀叛を図る事件が起きると、頼嗣の父・頼経も関与したとして頼嗣将軍の排除運動が起り、52年、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍に迎える事に成った。これで北条執権体制が完璧なものと成った。

浄土思想から法華経信仰へ
1253年::日蓮宗
「南無妙法蓮華経」と唱えだけで、釈迦と同じ功徳を授かり、即身成仏を目指す事が日蓮によって唱えられて日蓮宗が誕生した。また、浄土教の隆盛の世に於いて、天台宗の法華経信仰を再興を目指した。

両統迭立・眼代の始り
1259年::
亀山天皇の即位
56年、北条時頼は執権職を長男・ -->

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仏教の流れー前・鎌倉時代

2012年09月15日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆鎌倉仏教(仏教の変革)
院政から武士の時代に入ると、鎮護国家や極楽浄土を願う貴族の為の仏教から、民衆の救済の為の仏教と変貌して行った。

主に、叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られて新しい宗派が、次々と誕生した。これらの宗派は、以前の様に難しい理論や厳しい修行を重ねる必要が無く、在家の信者が生活の合間に実践できる易行(念仏)で有った。

●鎌倉新仏教

1) 阿弥陀信仰、他力本願グループ(浄土系)
末法思想、源信の浄土教の流れから誕生した宗派

ⅰ)法然の浄土宗
三心をもって、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える事で、身分や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生する事ができる専修念仏を説いた。そして、聖人が修行して悟る自力を捨て、菩薩・仏の力によって悟りが開かれる他力を示した。

ⅱ)親鸞の浄土真宗
阿弥陀仏の本願を聞いて、それを信じて心を悔い改めるならば(信心)、どのような悪人でも救われ、極楽浄土に行ける事(悪人正機)を説いた。更に、親鸞は初めて僧侶でありながら、戒律を定めず、肉食妻帯を許した。

ⅲ)一遍の時宗
阿弥陀仏の絶対性は、「信」すらも不要、念仏のみでよいと主張。すなわち、阿弥陀仏の本願を信じようが信じまいが「南無阿弥陀仏」と唱えるならば極楽往生できる事を説いた。また、「踊念仏」をしながら布教し、その際に「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と記した札を渡した。

2) 釈迦信仰、菩提心重視グループ
・禅宗
大乗仏教の六波羅蜜の(禅定)が南インド出身の達磨によって中国に伝えられ、その後、唐代に東山法門の道信・弘忍によって坐禅を中心に行う仏教集団の禅宗が築かれた。その特徴は教義と成る経典が無く、全ての教えが方便などを通して師弟の間で伝えられる。

ⅰ)栄西の臨済宗
会昌の廃仏後、唐末の宗祖臨済義玄によって開かれた禅宗。その後、宋時代に留学した栄西によって日本に伝えられた。臨済宗は知識より、悟り(あらゆるものに仏性がある)を重んじ、悟りを得た者から公案・読経・作務を通して悟りを得る仕組に成っている。

また、悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとして色々な方法で悟りの境地を表現する事が出来るとし、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上にも悟りが表現されており、その香りを味わう事が出来るとした。これにより、茶道・花道などが生まれる。

ⅱ)道元の曹洞宗
日本の曹洞宗は宋代の禅宗五家の一つ、曹洞宗の禅僧、天童如浄に弟子入りした道元によって開かれた。曹洞宗は公案中心の臨済禅に対し、ひたすら禅に打ち込む只管打坐を説いた。

こうする事で内面の自在な境地を体得しようというものであった。更に末法思想や浄土系の易行道を否定した。

・悪政末法(鎌倉時代)を生き抜く宗教
ⅰ)日蓮の日蓮宗
日蓮宗は、法華経(妙法蓮華経)だけが釈迦の正しい教えを伝えていると考え、「南無妙法蓮華経」と唱えて尊ぶ事で末法の世を正せると説いた。

また、法華経・密教・浄土教を兼修した天台宗の教えを「理の一念三千」と呼び、法華経の迹門(仏の始成正覚)を説いたものとし、これに対して日蓮宗の教えは「事の一念三千」で、法華経の本門(仏の久遠実成)と称した。

更に、釈迦を無視した禅宗や、他力本願によって極楽往生しょうとする浄土真宗を邪教とし、それらが蔓延した為に、災難が起きるとする立正安国論を説いた。

※仏教の概念;縁起(釈迦)→無自性空・二諦(竜樹)→三論(鳩摩羅什)→空・仮・中の一心三観(天台僧、慧文)→法華経の十如是→一念三千・十界互具(天台僧、智顗)→事の一念三千(日蓮)

・旧仏教側の改革者
法然の専修念仏批判し、天皇が許可する官僧体制・受戒させる場所としての寺院・護国家の祈祷だけの仏教を改革しょうとした。

ⅰ)新義真言宗の覚鑁
覚鑁は高野山の僧侶の腐れきった姿を見て、根来山に新宗派を建てた。更に、今までの本地身説法に対し、加持身説法三蜜加持)を説いた。更に、密教と浄土教を融合し、大日如来=阿弥陀如来とする同体異名を唱えた。

ⅱ)法相宗(興福寺)の貞慶
第二の俗世界になってしまった官僧世界から、再び出家して遁世僧となり、釈迦信仰を中心に弥勒信仰・観音信仰・地蔵信仰を普及させ、唯識思想の立場から法然の専修念仏を批判して、その活動を止めさせた。

ⅲ)華厳宗(東大寺)の明恵高弁
仏陀の説いた戒律・『華厳経』で説かれた菩提心を重要視し、称名念仏が浄土往生の正業と説いた法然の専修念仏を否定した。更に、戦で敗れた武士の妻達の為に尼寺を建立した。

ⅳ)律宗の叡尊
自から、仏菩薩の形像の前で誓いを立て菩薩戒を受ける自誓受戒の儀式やった後、西大寺を拠点に各地で授戒を行なった。

更に、叡尊は殺生を禁じ、慈善事業を行い、文殊信仰による(ライ病)救済も積極的に推進して、忍性と共に律宗を再建させた。

◆鎌倉時代の概略

飛鳥時代

大化の改新が行われる後、公地公民が称えられ、班田収授の法が定められた。これにより、農民は朝廷から口分田を与えれれた。更に租・庸・調の重い税が課せられると、口分田を放棄する浮浪人と呼ばれた者が現れた。

奈良時代

初期(710~729年)
23年、長屋王は浮浪人対策として良田百万町歩開墾計画を立て、田地開墾を促進する三世一身の法を定めた。

中期(730~763年)
43年、開墾が進まなかった為、桓武天皇が、再び、墾田永年私財の法を定めた。しかし、国が整備した水路を利用する開墾田は公田とした為、有力な豪族・貴族・寺社しか、未開拓地を開墾して私有地である墾田を得る事が出来なかった。

荘園誕生
藤原四家が病死すると、長屋王の霊を追悼する為に東大寺・国分寺・国分尼寺を建立し、52年に奈良の大仏が完成させた。その後、東大寺や有力な寺社及び貴族に大規模な墾田の開拓を許し、墾田を管理する為の荘所が置かれた。

そして、寺社や貴族が所有する墾田を荘園と呼び、豪族の墾田と区別した。但し、有力な寺社を除いた荘園も、輸租田とされて田租を国衙に収めなければ成らなかった。

後期(764~793年)
二頭体制(称徳天皇と道鏡)→墾田制の排除令
65年、道鏡によって、寺社を除いて一切の墾田私有の法が禁じられた。この頃、飢饉や叛乱が起きて社会は混迷していた。72年、道鏡の死去と共に墾田私有の法を再開した。84年、桓武天王は奈良仏教各寺の影響力を嫌って未開の山城国に長岡京を造営が失敗する。

平安時代

初期(794~926年)
794年、桓武天皇は平城京→平安京に遷都した。801年、8年間続いた蝦夷征伐が坂之上田村麻呂によって終止符が打たれた。

天皇の命によって与えられる賜田も荒廃地・空閑地が多く成ってきた。806年、桓武天皇が崩御して平城天皇が即位した。

二所の朝廷時代
809年、平城天皇が病気の為に弟の嵯峨天皇に譲位するが、上皇と成って政治に関与した為、薬子の乱が起きた。また、この頃、平安密教と呼ばれた天台・真言宗が誕生した。

既墾地系荘園の誕生
これまでの自墾地系荘園は労働不足で姿を消し、買得・譲与・寄進などで開墾田を集めた既墾地系荘園が現れた。そして、その所有者である有力寺社・貴族は、在地の新興富豪層を荘長にして労働力を掻き集め始めた。

勅旨田の再利用
810年(貧民救済)
右大臣の藤原園人が、皇室財源の確保の為に天皇の勅旨により、開墾された勅旨田を貧民救済の為と有力貴族・寺社の乱開発の抑止の為に利用した。しかし、農民の経済格差が広がっていた為、失敗した。

820年(班田制の崩壊)
既墾地系荘園の増加に伴い、人別課税が滞る様に成る。その社会情勢に応じて、太政大臣の藤原冬嗣が開発奨励政策の一つに勅旨田を導入すると、空閑地・荒田などを勅旨田に指定して不輸租田として、その経営を国司に任せた。

公営田誕生(窮民救済)
823年、大宰府管内で飢饉や疫病が起きた為、大宰大弐の小野岑守の命より、期限付きで大宰府が直接管理する公営田が実施された。この目的は、財源獲得と窮民救済である。

勅旨田の拡張(人別課税→土地課税)
824年-847年の淳和天皇と仁明天皇の治世には、勅旨田が全国的に広がりを見せ、既墾地系荘園時代の頃の様に近畿地方だけに収まらなかった。その為に、華やかな王朝文化が生まれた。

摂関家の誕生(勅旨田の廃止)
850年、文徳天皇が即位すると、皇室以外の者である藤原 良房が初めて摂政の座に就き、勅旨田制を止めさせた。

律令国家から王朝国家へ

郡国体制の廃止
郡司・国司の二司を廃止して、国司だけの国制改革がなされた。国衙機構の強化された。
1)租税収取を所管する部署→税所・田所・大帳所・出納所
2)軍事を所管する部署→健児所・検非違使所
3)厩所所務・雑務を所管する部署→政所・調所・細工所・膳所

里倉負名制公出挙・私出挙)
この頃から、地方財源に正税と公出挙(米の利子)が当てられる様に成った。その為、地域の富豪・有力百姓らの私倉を正倉と定めて正税の対象し、更に彼らを負名に任命して公出挙運用を請け負わせた。

その為、彼らも自分たちより貧しい百姓に種を貸して利子を摂る私出挙をやった。やがて、地方の富の格差が激しく成り、富豪層と呼ばれる者が現れ、地域支配を強めっていった。

中央集権国家の復活(昌泰の変)
897年、醍醐天皇が即位すると、菅原道真が中央集権的な財政を図り、朝廷への権力の集中を嫌う有力貴族の藤原氏と対立し、901年の昌泰の変で失脚すると、道真は太宰府に左遷された。

受領国司と摂関家の拡大
国衙領制の租税収取システムが軌道に乗ると、国司の上位官である守の多くは遥任するように成った。その為、現地に赴く受領国司に大きな権限を与えると、国司たちは摂関家に取り入って受領国司にしてもらった。

負名体制
901年-923年
の延喜、国衙の支配地である公田を名田と改め、更に田堵と呼ばれた富豪層に名田の経営を担わせ、官物・雑役などの租税・課役を国衙へ進納する義務を負わせる負名体制を敷き、王朝国家の基礎を築いた。

延喜の荘園整理令
902年、醍醐天皇の下で藤原 時平が左大臣に任命されると、新規荘園や違法性のある荘園を取締り、国衙領(公田)を回復させる為、荘園整理令を発布した。

官省符荘(太政官・民部省による免田)
租庸調の税制が機能しなくなると、租の代わりに官物が認められるように成った為、皇族や貴族に対する公的な給与が彼らの荘園が納付している官物をもって代替とするようになり、不輸租の荘園が誕生した。そして、それを官省符荘と呼ぶように成った。

中期(927~1058年)
藤原 時平よって律令制度の法令集である延喜格式が編纂され始め、927年に実弟の忠平らによって完成された。
※律令格式→律;刑法、令;行政法と民法、格;律令条文の改廃・増補、式;法を施行する際の細かな規則

軍事貴族の誕生(国衙軍制)
889年の東国の寛平・延喜東国の乱を機に軍団兵士制から、国司に追捕官符を与え、更に地方に押領使が置かれる国衙軍制へと変貌し、939年には関東で平将門の乱が、瀬戸内では藤原純友の乱が勃発すると、新たに瀬戸内に追捕使が置かれ、全国に国衙軍制が敷かれた。

更に、国衙・押領使・追捕使の配下には国内から募った武勇者が当てられ、群盗追討で名を馳せた没落した下級貴族が現れると、軍事貴族として朝廷から認められて領地を与えられたが、時代が進むに連れ冷遇される様に成り、不満を募らせて行った。

免田寄人型荘園(国司による免田)
950年頃から、国司請負制と変わる中で、寄人と呼ばれる田堵が現れ始めた。彼らは国司と特別な関係を築き、自らの荘園を名田から租税の対象外となる免田にしてもらった。いわゆる免田寄人型荘園(国免荘)が誕生した。

臨時雑役(寄進地系荘園の始まり)
980年頃から、内裏や寺社の造営・修繕などの臨時雑役を特定の令制国の正税や不動穀で賄い切れず、公田にも課せられる様に成った為、有力農民(富豪層)が私有地を有力貴族・寺社に寄付して年貢・公事の名目で官物・雑役を逃れ始めた。

藤原摂関家の最盛期
一条天皇の内覧と成った藤原道長が実権を握ると、郡司・田堵・負名・百姓階層が地方官である国司の苛政・非法が頻繁に国司苛政上訴が行われた。974年が歴史上、初めて見られる様に成った。また、平等院鳳凰堂が建てられた。

摂関家と源氏武士団
1028年、関東で平忠常の乱が起きると、軍事貴族の平 直方に討伐を命じたが、失敗した為、清和源氏出身の源 頼信に命じて鎮圧させた。これにより、源氏は関東に勢力を築き、本格的に武士が表舞台に登場するようになる。元々、清和源氏は藤原家の家司として使えていた為、やがて武士の棟梁に抜擢される。

長久の荘園整理令
1040年、後朱雀天皇が内裏造営を名分として、現任の国司の任期中に立てた国免荘の停止を命ずる為、整理令を発布した。

寛徳の荘園整理令
1045年
、後冷泉天皇は不法国免荘を整理する為に整理令を発布したが、違法の寄進地系荘園や国免荘は止らず、国衙領が次第に不法荘園に侵食された。この対策に国衙は、支配する公田を領域的にまとめて、郡・保・郷・条などの支配単位に再編成した。

源氏=武士の棟梁奥州十二年合戦
1051年前九年の役において、源 頼義鎮守府将軍に任命されて武士の棟梁に成る。また、1083後三年の役では源 義家に受領功過定が中々許されず、関東から出征してきた将士に私財から恩賞を与えた為、関東で絶大な人気を得た。

後期(1059~1191年)
新政の再興(延久の荘園整理令)
1069年
、後三条天皇の下、再び荘園整理令を発布して、荘園の調査機関の記録荘園券契所を設け、役人には反摂関家の者を起用して、不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収を行なった。更に、1070年には絹布の制、1072年には延久宣旨枡や估価法の制定して、弱体化した皇室の経済基盤の強化を図った。

院政時代

院政と摂関家衰退
1086年
、白河天皇は皇位継承の安定化を図る為、8歳の堀河天皇に皇位を譲り、上皇と成った。更に藤原摂関家の内紛に乗じて院政を敷き、更に院を警護する北面の武士を作り、検非違使に抜擢し、形骸化させた。

官司請負制の完成
この時代から朝廷に使える公家社会は、特定の氏族が特殊技能を家職・家業とし、それに関連する官司を支配し、その最高責任者にあたる官職を世襲する官司請負制へと変貌した。→「家」と言う概念の始り

寄進地系荘園
荘園整理令が発令される度、国司が荘園を公領に加えて行くように成ると、開発領主から寄進を受けた領家(中央の有力貴族や有力寺社)だけでは、荘園を維持出来なくなり、更に権威のある本家(皇族や摂関家)への荘園寄進が増大した。

本家と領家のうち、荘園の実効支配権(荘務)を有した者を本所と呼んだ。そして、開発領主は領家から荘官に定められ、更に本所から監視役の預所が送られた。また、荘園内の住む者は荘民とした。

武士化する荘官
荘官と国司の間で荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が多く成ると、中央の官職にあぶれた下級の軍事貴族と荘官が主従関係を結んで、これに対抗する様に成っていた。

荘園公領制(荘官Vs国司)
整理令以降、内裏や大寺社が火災で焼失する度、これらを復興する為の臨時的な租税(一国平均役)を課した。その為、荘官に朝廷から荘園の行政や徴税を委ねられると、領地が荘官の支配する荘園と、国司の支配する公領の二つに分類される荘園公領制が誕生した。

平氏の台頭
平 将門を倒した平 貞盛や、軍事貴族の基礎を築いた維衡を祖に持つ伊勢平氏は、藤原道長の頃に成ると、河内源氏と双璧を成す武門を誇ったが、後ろ盾が居ない平氏は官位が源氏より低く、冷遇されていた為、瀬戸内や九州に勢力を伸ばした。

院政時代に入ると、藤原氏・源氏は敬遠され始める中、伊勢平氏平正盛が伊賀国の所領を白河院に献上して北面武士に任命され、1107年に起きた源義親の乱を鎮圧した。

国衙軍制崩壊
白河院と鳥羽天皇が対立すると、有力寺院が荘園の優遇措置や人事を巡り、僧兵を使って国司に強訴する様になるが、在地領主・田堵農民層との闘争で国司の支配体制が崩れていた為、1118年比叡山の強訴から北面武士が当てられた。

日宋貿易・院領荘園
鳥羽院政期、荘園整理政策は転換されて、知行国制度に大きな影響を与えた。国衙領が縮小され、院領荘園が拡大して行った。更に、武家の棟梁である平 正盛を受領に任命して院領荘園を管理させた。その後、正盛は肥前国神崎荘で日宋貿易を手掛け、更に国衙に代わって瀬戸内の海賊を退治した。

摂関家の衰退
関白の忠通と内覧の頼長が対立する中、近衛天皇が崩御して皇位継承問題が起き、後白河天皇が即位する。翌年の1156年には、鳥羽法皇が崩御した事を機に、崇徳上皇と藤原頼長が挙兵する保元の乱を起し、天皇軍に破れて摂関家も弱体化された。

王朝国家の終焉・荘園公領制の最盛期

保元の荘園整理令君臣共治思想王土思想
戦乱後、後白河帝は信西が提唱した王土思想に基付く新政を行う為、荘園整理令を発布し、全ての公領・私領の支配権を天皇や上皇にした。そして、1158年に二条天皇に譲位すると、院政を開始した。

平家政権の自立
信西が子らを天皇の側近にし始めると、同じ院の近臣の藤原 信頼と対立し、源 頼政軍に信西が斬首され、更に院と天皇を軟禁する平治の乱1160年に勃発した。平清盛は院と天皇を救出すると源 頼政・藤原 信頼らを討伐し、ここに河内源氏は滅亡した。

その後、清盛は二条帝と後白河上皇の間を上手く渡り歩きながら、摂政近衛基実と姻戚関係を結び、1167年には武士として、初めての太政大臣にまで上り詰めた。1169年、藤原成親に対して延暦寺の強訴が起きたが、清盛は延暦寺の大衆を制圧しなかった。

院政の終焉

白山事件山門Vs院勢力
1177年、藤原師経が僧侶と口論をして、白山の末寺・宇河寺を焼き払うと言う事件を起した。これにより、藤原師経の処分を巡って、山門の大衆の強訴が起き、師経は尾張に配流と成った。この頃、各地で目代と現地の寺社が寺領荘園の所務を巡り、頻繁に紛争が起きていた。

鹿ケ谷の陰謀(院の孤立)
同年、師経の父である西光が後白河院に天台座主明雲の悪巧みと訴えた為、明雲が伊豆に配流されたが、途中で僧兵によって救出された為、院が経盛に比叡山攻撃を命じる。しかし、経盛が拒んだ為に清盛に命じられ、清盛は5/28に比叡山攻撃を決めた。
しかし、2日前に成って、源行綱から後白河院らが企てた平家打倒の陰謀で有るとの密告がが有り、西光を問い質すと認めた為、比叡山攻撃を中止し、院近臣の中核である西光成親らを処刑して後白河院を孤立させた。

治承三年の政変(院政の崩壊)
1178年に中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子を出産する。翌年、清盛は皇子を皇太子にすることを後白河法皇に迫り、皇太子にした。更に、高倉天皇の准母・平 盛子が死去すると、法皇がその財産を取り上げてしまった為、清盛は挙兵して法皇を鳥羽殿に幽閉した。また、1180年高倉天皇は譲位させて徳子の産んだ言仁親王を安徳天皇に即位させた。

武家政権

平家終焉
1180年、後白河法皇の三の宮・以仁王源 頼政と共に平氏打倒の挙兵を計画(以仁王の乱)し、諸国の源氏や大寺社に平氏打倒の令旨を出した。その後、以仁王・源頼政軍は平家軍に討伐されて処刑された。
更に、令旨を受けた諸国の源氏追討を企てると、源 頼朝が挙兵し始め、6年に渡る源平合戦が始まると、清盛の福原行幸が中止され、帰京した。

院政復活
1181年、高倉上皇・平清盛が死去すると、再び後白河法皇の院政が再開され、平宗盛が畿内惣官に任命された。更に、宗盛は法皇に追討の院庁下文を強要して追討使に成ると、西国・北陸・東海に討伐軍を派遣し、東北では豪族の藤原秀衡城助職を国司に任じた。
一方、法皇側は反平家の者たちと繋がりを持つ八条院と手を結ぶ様に成り、翌年の82年には壊滅状態だった院政派も息を吹き返した。
1183年源 義仲平 維盛の追討軍を破って上洛すると、法皇は法住寺殿から比叡山の東塔円融坊に脱出した。これを知った宗盛は安徳帝を連れて西国に逃れ、更に神鏡剣璽を持ち去ったとして、平氏追討宣旨が法皇から下された。

源氏Vs源氏
神器無き新帝践祚を行なって後鳥羽天皇が即位すると、皇位継承問題の介入や京の治安に失敗した義仲が平氏追討に西国へ赴き、水島の戦いで平氏に敗北した。更に、源 頼朝に寿永二年十月宣旨が下された事から源 義経軍が上洛した。
この事より、義仲は帰京して後白河法皇に義経軍の追討する様に抗議するが、聞き入られず、天皇や法皇を幽閉する法住寺合戦が勃発した。
1184年範頼と義経軍が合流して義仲軍との戦いが始まると、義経は宇治川の戦い志田義広軍勢を破って入京し、一月には敗走した義仲軍を粟津の戦いで破った。

平家の滅亡
1184年3月、三種の神器奪還為、範頼・義経の鎌倉政権軍が一ノ谷に結集して居る平家軍と戦闘を開始し、5年3月に屋島の合戦で大打撃を与え、同年の4月に平家最後の戦いとなる壇ノ浦の戦いを行い、安徳天皇を入水させて三種の神器奪還に失敗した。

奥州藤原氏の滅亡
1185年、平家軍を滅ぼした源 義経は兄・頼朝の許可なく、任官を受けて頼朝の怒りを買い、更に源行家の追討を断ると、二人は対立し、義経は頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。そして、土佐坊昌俊が義経軍に打たれると、頼朝軍が鎌倉を出て黄瀬川まで来ると、九州の緒方氏を頼って京を離れた。
その途中で、多田行綱らの襲撃を受けてると、摂津から吉野に隠れ住んだ。しかし、院から捕縛の命が出され、更に頼朝から義経らの追捕のための守護地頭が全国に設置されると、行家と主な家来が捕まり、義経は藤原秀衡を頼って奥州へ赴いた。
1188年、秀衡の死んだ後、頼朝は朝廷に宣旨を出させて、泰衡と基成に義経追討を要請すると、翌年の5月に衣川の戦いで義経を討った。
1189年の7月、泰衡が義経の首を差し出す事で、頼朝が奥州の藤原氏を滅ぼす奥州合戦が勃発した。

鎌倉幕府
1192年、3月に後白河法皇が崩御して、7月に頼朝は征夷大将軍へと任ぜられると、鎌倉に幕府を開いた。

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仏教の流れーその4

2012年02月14日 | 仏教史・宗教史
日 本 仏 教 史

◆中期の仏教流れ
国家体制は、律令国家体制→王朝国家体制へ。
仏教は南都六宗の奈良仏教→天台宗(大乗教)→真言宗(密教)→天台密教→天台浄土(教観相念仏)→天台宗分離→真言本末騒動→聖の誕生→大念仏宗(末法思想)へと変貌し、鎌倉の浄土宗に繋がる。

☆天台宗
→隋の智顗を開祖とする大乗仏教の宗派で『法華経』を根本経典とし、五時八教の教相判釈を説き、更に天台教学、真言密教、禅法、戒律の四宗相承を説て、誰でも成仏出来る一向大乗と呼ばれた。

☆真言宗
→唐の恵果から密教を学んだ空海が、それを基に今まで各派の教えを取り込みながら、十段階の思想を体系化(秘密曼荼羅十住心論)し、更に即身成仏と鎮護国家を唱えた。インドの正統真言密教は、空海の真言密教しか無くなった。

▲平安の初期
6年、最澄は比叡山に大乗戒を授ける大乗戒壇を設立し、鑑真が設立した具足戒を授ける小乗戒壇の奈良仏教と対立し、死去した22年に正式に大乗戒壇認められた。その後、66年に最澄に伝教大師の諡号が贈られた。

9年、空海が帰国して真言密教を開くと、急に天台宗は人気が無くなり、812年に最澄と弟子の泰範、円澄、光定らが高雄山寺に赴き、空海に弟子入りし、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けた。しかし、翌年に「理趣釈経」の借用を巡って争い始めた。

15年には、法相宗の徳一と仏教論争(三一権実諍論)を繰り広げ、両者が死ぬまで続けられ、最澄の弟子たちによって徳一の主張を論破した。

一方、空海は23年に真言密教の道場となる東寺を賜り、28年に私立の教育施設;綜芸種智院を建立すると、35年に入滅した。その後、921年に弘法大師の諡号が送られた。

▲平安の中期
天台浄土教の始まり
⇒851年、五会念仏を学んだ円仁が、延暦寺において常行三昧堂を建立すると、やがて阿弥陀如来の周囲を歩きながら念仏を唱える観想念仏行が実践されるようになる。

天台宗二派の始まり
⇒868年に円珍が園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした事。また、教義の違いが円仁派と円珍派で生じ、993年には円仁派が円珍派坊舎を焼き払った為に、円仁の山門派と円珍の寺門派に天台宗が分かれた。

二派の違いは、四宗兼学に修験道を加えるかどうかである。また、この二人によって天台密教が真言密教と肩を並べる事が出来た。円仁が天台宗を体系化し、円珍が本格的に密教化に取り組み、胎蔵・金剛界・蘇悉地の三大法を説いた。

真言宗本末転倒
⇒919年、真言宗では観賢が東寺長者になると、東寺を本寺として金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。

下級貴族・庶民に浄土信仰を広めた(天台宗空也派)の誕生
⇒948年、在家信者でありながら、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えて社会貢献をしていた空也が天台座主;延昌の下に出家し、空也派を設立した。そして、踊念仏・高野聖の先駆者と成った。

一般人向けに仏教解説本を書いて浄土信仰を広めた。
⇒985年、山門派の源信が『往生要集』に極楽浄土往生法・阿弥陀如来の事を細かく著し、一般民衆に「称名念仏」で無く、「観想念仏」を説いた。後に浄土真宗に多大な影響を与えた。

高野山の衰退と復興
⇒994年、真然が20年掛けて整備した高野山金剛峯寺は落雷によって殆ど、焼失して衰退し始めたが、1016年頃から祈親上人定誉によって再興され、藤原道長を始め、白河・鳥羽上皇が参詣した為、末には現世浄土としての信仰を集めて復興を遂げた。

▲平安の後期
末法思想により終末論が起きる
⇒1052年、災害・戦乱が頻発した事を機に仏教の末法思想と終末論が結びついて死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、藤原道長の子の頼通によって宇治平等院鳳凰堂が建てられ、明尊を平等院検校にした。

天台宗から大念仏宗が起きる
⇒1117年、良忍が大原来迎院にて修行中、阿弥陀如来から速疾往生の偈文(一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満)を授かり開宗した。この事で観想念仏から称名念仏を重要視した融通念仏を広めた。

経典は、『華厳経』・『法華経』を正依として『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」が説かれた。

また、大原来迎院を大原流魚山声明の道場とし、湛智によって新しい音楽理論に基づいて天台声明が完成られた。やがて、専修念仏を中心とする浄土宗が誕生する。

【略歴・平安中期】

944年
富士山の噴火や地震・洪水などの天変地異が発生した為に朱雀天皇は異母兄弟の成明親王に譲位し、仁和寺に入った。その後、成明親王が村上天皇に即位すると、兄の朱雀天皇が52年に30才で崩御した。

949年
関白の藤原忠平が死ぬと、再び天皇は親政を行なったが、実際は摂関家の藤原実頼・師輔の兄弟に牛耳られていた。

951年
文化面では『後撰集』の編纂・歌人を庇護して歌壇を作り、内裏歌合(60年)を催行した。また、自ら『清涼記』を執筆した。

967年
内裏焼亡をはじめとする数々の災難に見舞われ、村上天皇は在位のまま42歳で崩御し、初めて院号が使われた。尚、皇子具平親王の裔は「村上源氏」として、以後の宮廷政治において大きな影響力を持つようになる。

第二皇子の憲平親王が藤原兄弟によって冷泉天皇に即位する。儀式は大極殿から紫宸殿と移された。また、冷泉は精神病であった為、藤原実頼が関白についた。

969
村上天皇の第四皇子為平親王と、守平親王の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が勃発し、藤原実頼が源 高明を失脚させて大宰府へ流罪させ、守平親王を円融天皇に即位させた。

970年
実頼が薨去すると、天皇の外舅である藤原伊尹が摂政を引き継ぐが、一年後に死ぬと兼通・兼家が摂関職を巡って争い、兼通を関白に任じた。77年に兼通が病気に成ると北家の藤原 頼忠が関白にし、兼家を降格させた。

984年
懐仁親王を太子に立て相撲節会を開いた。その後、円融天皇は譲位して上皇に成り、詩歌管絃の遊楽や南都諸寺への御幸を行なった。翌年には平兼盛・大中臣能宣・清原元輔・源重之・紀時文らに和歌を奉納させる歌会を開いた。

花山天皇が即位すると、引き続き藤原 頼忠が関白を務めるが、実権は帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成が握り、翌年には荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政治を行った。

986年
藤原 兼家は三男の道兼を使って寛和の変を起こし、花山天皇を元慶寺に入門させて退位させ、懐仁親王を一条天皇に即位させた。また、冷泉天皇の居貞親王を皇太子し、引き続き、兼家が摂政関白に就任した。

989年
兼家は長男の道隆を内大臣に任命し、律令初の大臣4人制を取った。90年、頼忠が死ぬと、太政大臣に就き、道隆の長女の定子を一条天皇の女御とした。その後、兼家は関白に成ったが、すぐに道隆に関白を譲り、二ヶ月後に法興院で死去した。

995年
道隆が糖尿で死去した為、弟の道兼が関白に成ったものの、道兼(七日関白)も7日で死去してしまった。その後、道隆の嫡男の伊周と叔父の長道が争い、長道が勝利すると、天皇の生母・詮子の推薦により、内覧となって実権を掌握した。

996年
藤原隆家が花山院に弓を射かける長徳の変が起こり、道隆の一族、中関白家が排斥される結果となった。三年後、道長は定子を皇后宮にさせ、娘の彰子も皇后とする一帝二后を築いた。

また、道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達し、皇后定子に仕える清少納言、中宮彰子に仕える紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた。

【略歴・平安後期】

1011年
一条帝から禅譲を受け、三条天皇が即位するが、眼病を理由に道長から譲位を迫られ、16年、彰子が生んだ敦成親王を後一条天皇に即位させ、17年に三条帝が崩御すると、皇太子の敦明親王を廃皇させ、敦良親王を皇太子にした。

1019年
藤原道長が長男の頼通に関白に成り、21年には左大臣に転じた。更に、道長は三女の威子を中宮に、末子の嬉子を東宮妃にした。27年、道長が死去すると、翌年に関東で平忠常(将門の従兄弟)の乱が起き、31年に源 頼信によって鎮圧された。

1036年
糖尿病により後一条天皇が崩御すると、弟の敦良親王が後朱雀天皇に即位する。中宮には頼通の養女、藤原げん子を迎えたが早死した。一方で、皇后の禎子内親王能信と頼通・教通らが対立する。

1045年
後朱雀帝は悪性腫瘍が悪化した為、親仁親王に譲位し、後冷泉天皇に即位させた。そして、貞子内親王の子の尊仁親王を皇太子に立てた。後冷泉帝は生母の藤原嬉子に皇太后を追贈した。藤原氏の摂関政治が全盛を極めた。

1051年
奥州で前九年の役が勃発し、52年には、藤原頼通によって西方極楽浄土をこの世に出現させたような平等院鳳凰堂が創建された。検校に明尊が選ばれた。この頃から末法思想が広がり、皇族・貴族による大規模寺院が建てられた。

1055年
有力貴族の寺院の荘園が増加した為に、荘園整理令を出すが権門擁護策に終わる。67年、頼通が関白職を弟の教通に譲った。

1068年
後冷泉天皇が崩御すると、尊仁親王を後三条天皇に即位させた。上東門院(藤原彰子)の推挙で頼通の息子で無く、弟の教通を関白にする反面、反摂関派の藤原能長源師房(村上源氏)・大江匡房藤原実政を登用し、積極的に親政を実施した。

東宮時代に後三条を蔑ろんじていた源隆国の息子の源俊明にも、報復せずに平等に登用した。

1069年
画期的な延久の荘園整理令を発布して記録荘園券契所を設置。翌年には、絹布の制。二年後には、延久宣旨枡(枡の大きさが統一化)や估価法の制定された。また、この年から延久蝦夷合戦が始まり、源 頼俊と清原 貞衡が討伐に向かった。

1070年
藤原 基通が国司の印と国の正倉の鍵を奪い、逃走し、下野守の源義家に逮捕された為に頼俊は失脚し、清原 貞衡が鎮守府将軍に任ぜられた。72年、貞仁親王に譲位して院政を図ろうとしたが、73年に崩御した。そして、貞仁が白河天皇に即位する。

1083年
陸奥と出羽の領地を所有した清原一族の間で内紛の後三年の役が勃発し、最後に家衡と清衡との間で戦が始まり、清衡・源義家の連合軍が勝利する。源義家は帰京し、清衡は藤原と改名した。

1085年(院政の始まり)
後三条院と、その生母陽明門院が白河帝に実仁親王及び輔仁親王に皇位を継がせる様に迫り、実仁親王を皇太弟したが、死去した。86年、実子の善仁親王を皇太子に立て、更に譲位し、白河上皇による院政が始まった。

藤原賢子が生んだ善仁親王が堀河天皇に即位すると、藤原師実が摂政と成り、院政においても人事面を任せ、太政大臣の信長と距離を置くように成った。

1094年
師実が死去し、嫡男
師通が関白職を継ぐと、堀河帝と共に政権を奪還する。院の乳母兄弟の藤原 顕季の低を身分不相応だとして破壊させたり、上皇の近臣の受領受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止している。

1095年
美濃守の源義綱の流罪を求める延暦寺・日吉社の強訴に対して、要求を拒否して源頼治を派遣、攻撃を命じ、延暦寺は堀河天皇・師通を呪詛した。99年、師通が死去し、息子の忠実が摂関家を継いだが、関白に成れず、内覧に留まった。

1102年
義家の子の義親が康和の乱を起し、また、東大寺僧の赤袈裟着用問題が生じ、忠実は解決出来ずにいた。更に、叔父の興福寺別当である覚信を解任する際に、白河院の怒りを買い、院に政権を奪われた。

1103年
女御の藤原苡子が死去すると、堀河天皇から皇太子の宗仁親王を引き取り、白河法王が育てた。6年には、義親を成敗する為に父の義家が出陣したが、途中で死去した。

1107年
8月に堀河天皇が崩御し、宗仁親王が5才で鳥羽天皇に即位した。12月には白河院の命により、平正盛が派遣され、翌年に義親を誅した。

1109年
義親の乱後に河内源氏は内紛を起こす。義忠は暗殺され、義綱為義に討伐され、佐渡国へ流罪となった。そして、為義は左衛門少尉に任じられた。

1117年
白河法皇の養女である藤原璋子公実の娘)を入内させ、翌年には鳥羽帝の中宮にし、5男2女を設けた。更に、法皇は、翌年に延暦寺の強訴に対抗する為、北面武士を創設して、次々と検非違使に任命した為、検非違使庁は形骸化された。

1123年
白河院によって鳥羽天皇が譲位させられると、顕仁親王が崇徳天皇に即位する。翌年に璋子も院号を宣下された。

1129年
藤原忠通の長女である藤原聖子を入内させ、その後、崇徳の中宮にした。また、白河院が崩御し、鳥羽上皇の院政が始まった。39年に、鳥羽上皇と藤原得子の間に体仁親王が生まれ、皇太子に立てたが、翌年に崇徳と兵衛佐局の間に重仁親王が生まれた。

1141年
鳥羽上皇が崇徳に譲位を迫り、体仁親王を近衛天皇に即位させた。翌年、皇后得子呪詛事件が発覚したことで待賢門院(璋子)を法金剛院で出家させた。

1150年
近衛天皇が元服すると、忠通と忠実頼長の間で多子呈子を巡って入内競争が起き、忠実は忠通に対し摂政職を頼長に譲るよう要求するも忠通が拒否した為、忠通を絶縁した。

1155年
近衛天皇が崩御すると、中継ぎとして鳥羽帝の四男の雅仁親王が後白河天皇に即位する。後白河帝によって田楽猿楽などの庶民文化と貴族文化が融合され、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様が誕生した。

1156年(保元の乱)
鳥羽法皇が崩御すると、摂関家の内乱により、朝廷を二分する -->

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