語る、シェフ

小さなレストランのオーナーが、日々の出来事を語ります。

  わかっちゃいるけど・・・暑いです。

2009-07-25 00:24:18 | シェフが店を持つまで
今日は変な日でしたね。
お店でも、雨バージョンか、晴れバージョンか迷いました。
結局「すぐ撤退できる晴れバージョン」で行ったのですが、2:00ぐらいにザァーっと雨。
偶然、お客様をお送りして外に出ていたので、事なきを得ましたがびっくりでした。

そうですね、今日は「洋食亭 ラ・ポンム」の名前について・・・。
昨日も「期待しないで」と書いたとおり、全然ドラマチックじゃないです。
若い時も、「店を出したらこんな名前!!」なんていうのも無かったし・・・。

 

物件が決まって、12月の幼なじみの忘年会の時に、みんなで名前を考えてくれたんです。
その時に、「なんとか亭」みたいに、亭が付くのがいい。と言う友達がいて、
「洋食 はさみ亭」とか、考えたんですが、どうもピントこなかったんです。
「はさみ」って名前は、何でも挟んで出しちゃおう!!って店にしようかな?なんて思ったんです。
でも、「亭」は残したいかなと思って、「洋食亭」、その後に名前を付ける・・・までいったんです。
そこからが、なかなか決まらなかったですねぇ~。

年も明けて、そんなある日、ふと自分の書いた年賀状のデザインを見て、ひらめいたんです。
この年賀状は、もちろん前の年に書いたんですが、何せ仕事をしてなかったので、
11月30日には出来上がっていたんです。
そして、そこには、
「今年は僕にとって、記念すべき年になるでしょう」と書いて、
バックには、朝日の様な真っ赤な林檎が書いてあったんです。
林檎なんて、何にも関係ないのに、こんなにでっかく書いて・・・
これはきっと、林檎って名前にしなさい!!って事なんだーとこじつけた訳です。

 

でも、日本語で「りんご、林檎」 英語で「アップル」 フランス語で「ラ・ポンム」 ドイツ語で「アプフェル」
やっぱりフランス語がかっこいい!!という事で決定!
「ポンムじゃない、ポムだろう」という指摘もありましたが、
「ポンム」の方がかわいいので、

「洋食亭 ラ・ポンム」に決定です。
とまあ、つまんないですよね。(笑)
でも、子どもの名前を付ける時のように、「将来、名前と共に成長していって欲しい」と思ってつけると、
あんまり奇抜な名前や、偉そうな名前?は、つけられなかったですね。
「ラ・ポンムってどういう意味なんですか?」
「フランス語で『りんご』って意味なんです。」
「あ~だからりんごグッズがたくさんあるのね。」
なんていう会話が、今日もラ・ポンムでは聞こえてきますよ。

明日からは、いよいよ「焼きアイスクリーム」と「海老フライセット」プレステン攻撃が始まります。
果たして、反響があるのだろうか?いまだにドキドキしています。
基本的には、予約でお願いしているのですが、
明日チラシが入って、当日予約がいっぱいだと・・・あ~プレッシャーです(笑)
まあ、明るく元気に頑張ります。
  
   それでは、また。

  振り返れば・・・

2009-07-24 02:51:12 | シェフが店を持つまで
今日も、ハッキリしない天気でしたね。
主婦の方たちは、洗濯物など大変でしょう。がんばってください。

ラ・ポンムを、オープンした時の事を思うと、反省だらけです。
もっとああしたら、とか、こうしてたら・・・とかだらけですね。
でも、当時はオープンの日時にあわせて、全ての事を間に合わせる事に精一杯だったような気がします。
はっきり言って、スタッフは1人もいなかったわけですから、そりゃ大変ですよね。
独身だったし、弟や友達だって、もちろん仕事の合間に手伝ってくれてる訳ですから、無理は出来ません。
オープン当初の写真を見ると、頬はコケ、もともと細い目が益々細く、なんかひょろ~んとした感じですね。
実際体重も、51Kgまで落ちていました。
当時は、携帯電話はおろか、デジカメだって無いですから、写真は無いんですよ。
お店にはありますので、見たい方はどうぞ(笑)
今でも、マラソンの大会前でも54Kg前後はありますから、相当痩せちゃったんだと思いますよ。
もうろうとしていて、とにかく目の前の仕事をこなしていくだけ・・・そんなオープンでした。
オーナーシェフとして、「全ての事に目を行き届かせる」なんて事は、まったく出来ていませんでしたね。

 

本当は、夢を実現できてすご~く嬉しいはずなのに、
「なんか、とんでもない事を始めちゃったんだな~」と思ったことを覚えています。
店を出せた嬉しさよりも、続けていく事の困難さの方が強かったです。
店を出す事が、目標だったんですが、達成して終わりじゃないんですね。
それからが、本番なんです。そういう意識が無かったものだから、「なんか、とんでも~」と思ったのです。

初めて、フルマラソンに挑戦した時に、
走り始めて6Kmぐらいのときに、「あ~とんでもない事を始めちゃった」と思ったものです。
だって、6Km走っても、まだ36Kmもあるんですよ!!「マジかよ」(笑)と思いましたね。
32Km過ぎで、左膝が痛くなって、35Kmで右もだめになって、
それでも、ひたすらゴールを目指して歩き続け、残り2Kmを棒のようになった足を必死に動かしゴールした時の感動。
あれから10年、もう膝を痛めることなく42.195Kmを走れるようになった今でも、
あの、最初のレースは、一番心に残っていますね。
 
 

ラ・ポンムも、マラソンのようにゴールの時・・・最後の時に、
「優勝は出来なかったけど、精一杯走ってきたんだ。」と思えるように、
とにかく前に向かって、進んで行きたいです。

 

なんか、話が脇道にそれたような・・・(笑)つい語っちゃいましたね。
今度こそ、なんで「ラ・ポンム」になったか?なんて話を・・・あんまり期待しないで下さいね。
 
   それでは、また。












  夢実現に向かって・・・

2009-07-23 00:57:09 | シェフが店を持つまで
今日は、「皆既日食」残念でしたね。でも、太陽は見えなくても、もっと暗くなると思いませんでしたか?
「ふたごの母のひとり言さん」は、見たらしいですが(ブログに書いてあった)すごいなぁ~。でも、ちょっと・・・ずるい。
きっと、この夏は良い事だらけだと思いますよ!!


そんな訳で、久し振りにラ・ポンムのお話。

正月気分もそこそこに、店の掃除をしたり、変えるところとか、直すところの手配をしたり、
店のロゴ作り、看板、パンフレット、メニューブック・・・などなど、
居抜きだったけど、テーブルが小さかったので作り直し・・・テーブルクロスも作りました。

それから、料理や飲み物のメニューの決定、食材の調達方法、
食器やグラス、シルバー類(ナイフやフォークなど)を合羽橋まで買いに行きましたね。
 
   
      義父作               弟作

店のロゴなどは、デザイナーの弟にかっこいいのをいっぱい作ってもらいました。
看板だって彫ってくれたんですよ。
テーブルクロスやメニューブックの布カバー、ランチョンマットなど布製品は、
母が、プロ級の腕で作ってくれました。母は、プロのつもりらしいですが・・・(笑)
 
   
        母作 ランチョンマットとメニューカバー

オープンしてからの、ホールでの仕事も、友達が「正式な人が決まるまで」という事で、手伝ってくれました。

以外に難航したのが、食材の調達です。
東京だと、「どこにしようか?」迷うぐらい業者があるんですが、いやはや、大変でした。
特に、ラ・ポンムみたいに小さい個人店だと、ますます不利です。

  肉・魚・卵・野菜・乳製品・酒類・珈琲・乾物類(缶詰やパスタ、スパイスなど)

これらの業者から仕入れる訳ですが、一般のお店でも最悪、何とかなる物がほとんどなんですが、
乳製品に関しては、価格、量とも専門店で無いとかなり厳しいです。
ラ・ポンムも開店ギリギリまで決まらなかったのですが、
卵屋さんを通じて、ケーキ屋さんの紹介で、何とか今の乳製品屋さんとお付き合いさせていただいてるんです。

こうして、数多くの業者さんと付き合っていくわけですが、
給料は払っていなくても、ラ・ポンムのスタッフだと思って、接しています。
彼らがいるから、僕も美味しい料理が作れるのです。本当に感謝です。

本当に、今、思い返しても、オープンするに当たっては、多くの方々に助けて頂いて、
今こうして、曲がりなりにも13年半も続けていられるのも、皆さんのおかげの何ものでもありません。
ありがとうございます。

次回は、「洋食亭 ラ・ポンム」の名前の由来とかオープン当時について、語っちゃおうかな?
なんて思っています。

     それでは、暑中見舞を作らなければ大変なので、この辺で・・・。。



  決定!!物件

2009-07-19 01:18:56 | シェフが店を持つまで
20日の月曜日に、息子と2人で「地下鉄博物館」に行ってみようかな、なんて思っています。
もちろん、息子ほどではないにしても?僕もとても楽しみです。(笑)


話があった物件をさっそく見に行ったのだが、なんと同級生の家ではないか。
小学校と中学校で一緒だったんだが、同じクラスになった事もある。
確か中3の時も同じクラスだった。そこには、その両親が住んでいた。
ただ、一軒家なのに、その店の部分だけ借りるという変則的な賃貸だった。
元は、ご両親がやっていたので、店と自宅もドアひとつで繋がっている・・・。
逆に、彼らからすると、知らない人じゃないので、「ぜひ借りて!!」って感じでした。

ただ、「一から店を作ってみたい」という気持ちもあったので、居抜き物件はどうかな?とも思った。
それでも、居抜きなら、自己資金で開業できるというメリットはあった。

  
           タイルを張る前と張った後

今思えば、良くこんな物件を借りたものだと思う。ただ、結果的にはとてもラッキーだったという事だ。
人生、どう転がるかは解らない。

僕は、実家からも近いこの物件を借りる事にして、保証金を払い、
いよいよ開店の準備に向けスケジュールを立てていった。
ただ、年内は、アルバイトの契約が残っていたので、そんなに大きくは動けなかったが・・・。
さて、年が明けると、僕は本格的に動き出した。

    それでは、また。

  すべての事が、今に繋がっている。

2009-07-18 01:12:16 | シェフが店を持つまで
今日は、息子がずっと外で近所の友達と遊んでいた。
こうやって、だんだんと、「パパ」より友達の方が良くなっていくのだろう。
分ってはいたけれど、嬉しいような悲しいような・・・。

昨日まで、僕がこの世界に入ってからのことを書いてきたけれど、
もちろん、かなり端折って書いてきた。
まあ、ざっと書いてきた・・・って感じでしょうか?(あれでざっと?笑)
今まで書いてきたお店の他にも、「ヘルプ」といって、知り合いが居るお店から、
「今あいてるなら、ちょっと手伝ってよ」的なアルバイトをしたところや、
笹塚の銀座中村屋の工場で、仕分けのアルバイトをしたり、
下北沢でお世話になった「マスター」のスナックなんかも手伝った事がある。

今書いた仕事は、長くても1ヶ月ぐらいの仕事だけれど、
それぞれイロイロな出会いがあったし、本当に勉強になった。
僕は、村上春樹の小説に出てくる文章で、
「学ぼうと思えば、灰皿からだって人生は学べる。」って言うのが大好きなんだけど、
全くその通りだと思う。
大切なのは、見えるものじゃない。見えないものほど大切なのだ。
そして答えは、自分で見つけ出すものだ。
見えないものが、少し見えるようになってきた時、人生も少し解るようになってきたと思う。

 

麻布食堂をやめ、僕は実家で料理を作ったり、洗濯をしたり、自転車で1日走り回ったり・・・
そんな合間に、不動産屋に物件を探しに行ったりした。
でも、東京と違って、そう簡単にいい物件は見つからなかった。
ただ何となく過ぎていく日々に焦りを感じてきた僕は、アルバイトをする事にした。
お店もそうなんだけど、暇な時は、掃除とか、行動を起こすとお客さんが来るものなのだ。
そして決めたのが、お歳暮配り・・・ヤマトでの経験があったので自信があったのだ。
ところが仕事を始めてすぐに、今のラ・ポンムの物件の話が舞い込んできたのだ。
掃除を始めると、お客さんが来るものなのだ(笑い)

 

今思えば、それはまさしく、人生の岐路だった。
  それでは、また。




 

  変わったズッキーニ  

2009-07-15 02:33:40 | シェフが店を持つまで
今日は、元パートさんに頂いた「変わったズッキーニ」に豚肩ロースをまいて、煮込んでみたよ。
まだ食べてないから分らないけど、きっと美味しいさ!!
 
   

「麻布食堂」については、まだ実際に営業しているので、あまり触れないことにして・・・
当時の僕の生活について、語りましょう。

最初は、江の島から通っていたんですよね。
なにせ、小田原での仕事をあがった次の日には、西麻布まで行ったんですよね・・・仕事で。
それから、何週間か江の島から通ったような気がします。
もしかしたら、1ヶ月ぐらいかな?
下北沢の友達に大っきい車を借りて、弟に手伝ってもらって、実家に引っ越したのは、覚えています。

なぜ実家から通おうと思ったかと言うと、お金を貯めたかったのです。
「麻布食堂」に3年勤めて、独立しようと心に決めたからです。
今思うと、なぜその時、そんなに独立する事を強く思ったのか、不思議です。

父には、3年間だけ家に居てもいいと、許しを受け、(もちろん、家にも毎月いくらか入れましたよ)
とにかく通い始めました。

でも、結果的には、父が4年後(ラ・ポンムを始めて1年後)に亡くなってしまったことを思うと、
この時実家から通って、父と一緒に一つ屋根の下で暮らせた事は、とても貴重でした。
高校を卒業後、父に反発し家を出てから、彼と本音を語り合う事も無く過ぎた13年間。
一緒に住むようになって、2人きりでいろいろと話もしたし、言い争いもしました。
欲を言えば、もう少し、ゴルフとか旅行とか付き合ってあげればよかった・・・かな。
 
 

実家から、西麻布までは遠かったです。
朝は、10時位までに行けばいいので、江戸川台をam8:34の電車で出かけました。
柏に出て、常磐線で北千住、千代田線で乃木坂、歩いて15分ぐらいだったかな?
帰りは、乃木坂から柏まで座ってず~と本を読んでましたね。
もうこれから先、本を読む時間なんて無いだろうと思って、いっぱい読みました。

でも、通い始めて3週間目の月曜日(日曜休みだった)危機は訪れた。
僕は、すごくイライラしていた。
2階から、準備を終えて降りてきた僕は、鞄を投げつけ、叫んだ。
「早く起きなくっちゃ、早く行かなくっちゃ、早く帰らなくっちゃ、早く寝なくっちゃ・・・あ~もうたくさんだ!!」
am8:34の電車で行き、帰ってくるのはam0:00過ぎ・・・。
土曜日は、ほぼ確実に終電だった。6日間続けていると、さすがに疲れた。
僕はその日、それでも気を取り直すと、予定通りの電車に乗り、店へと向かった。

それからは、そんな事は起きなかった。
僕は店を出す為に頑張っているんだ。誰に強制されている訳でもない。がんばるんだ!!
僕は自分に、そう言い聞かせると、毎日をなるべく淡々と過ごせるように努力した。

3年目に入るとと、さすがに限界が近づいてきたのが分った。
土曜日の夜から、月曜日の朝まで、何も食べずに、起きずに寝ている事も、たびたびあった。
さすがに、月曜日外に出ると、フラフラしたが。

とにかく、本当に精神力が弱いんだと、改めて思ったものだ。
たまに、当時はまだ新しかった「ジャスコノア店」に行って、
買物したりして気分転換していたつもりだったんだけど・・・。

でもまあ兎に角、無事?3年間勤め上げ、必死に貯めた資金を元に、
この世界に入って以来の夢である、「お店を出す」事になるのだが・・・。

   それでは、また。





  キングスクロスとセミの一生

2009-07-13 01:48:57 | シェフが店を持つまで
今日、隣の家の塀に羽化に失敗したセミの幼虫がくっ付いていた。
背中が少し割れただけで、息絶えてしまったらしい。
きっと、前の晩・・・土の中のあるバーで友達と飲んでいる時、
「明日、羽化しに行こうかな、なんて思っているんだ。」と言うと、友達が・・・
「明日は、あまり気温が上がらないらしいぜ。やめたほうがいいんじゃないか?」なんて言われて、
「いや、もう僕は待てないよ。明日、決行だ!!マスター、お愛想、お願い・・・」
なんて言って出て来たけど、力尽きちゃったのかもしれない。
僕と息子は、公園に穴を掘って、土に返してやった。   キミは良くやったよ。合掌

 

ところで、キングスクロス・・・。

変わったところは他にもたくさんありました。
僕も、いろんな店で働いたけど、キングスクロスは特別でしたね。
張り紙や賄いもそうだけど、メニューも変わってました。

 

確か、800円のドリアから7000円の和牛ステーキまであったと思います。
もちろん夜のメニューに、です。
ファミリーレストランだって、こんなに価格差は無いと思います。
ドリアを食べている隣の席で、ステーキを食べているお客様が居る・・・なんか妙に感じました。
仕込みを手伝っていて感じた事は、1人で作っている割にはメニューが多いいのはもちろんですが、
何を仕込むのでも、分量をすごく重視するんです。1人で作っているのに・・・。
もちろんそれも大切ですが、なんか違和感を覚えましたね。
複数の人が作るとか、あるいは多店舗化しているとか、それなら分るんですが・・・。
 
 

レジ・・・会計ですね。消費税が導入されて端数が細かかったので、何円か合わない時があるんですよ。
そうすると、給料から引かれるんです。
まあ、決まりだから仕方がないですが、僕はしません。
だいたい従業員のミスは、オーナーのミスです。指摘し注意はしますが、ミスの責任は僕が取ります。

ティータイムの時のケーキセット680円・・・単品だと飲み物が350円、ケーキが400円なんです。
2人で来たお客様が、ケーキセットひとつと飲み物単品で頼むとするじゃないですか。
で、ケーキを2人で分けて食べていると、「ケーキセットじゃない。単品で取れ」って言うんですよ。
そんな事、出来ないですよね。まあ、彼の言っている理屈も分らないではないですが・・・。
もちろん、彼の意向を無視してケーキセットと飲み物単品で会計しちゃいましたけど・・・。
後で彼と、よーく話し合いましたけど・・・平行線でしたね。

 

まあ、そんなキングスクロスとも8月いっぱいでお別れということで、
「9月から、社員として働かないか」と、オーナーとお父さんに言っていただいたけど、
丁重にお断りしました。

そして、いよいよ最後の勤めとなる「麻布食堂」に行く事になるのですが・・・。

    それでは、また。


  キングスクロス

2009-07-12 01:46:38 | シェフが店を持つまで
今日は、結構涼しかったです。
明日(12日)は、「人間ドック」の日らしいですよ。
皆さんも、「病気にならないように」自分の体を把握するきっかけに・・・いかかが?

朝、店に着くとだいたいパートさんが先に来ていて、
「おはようございます」なんて言いながら、オーナーを待つんですよ。
前にも書いたとおり、11:00オープンなのに11:00出勤なのに、
オーナーがよく遅れるんです。パートさんがプリプリ怒ってましたっけ(笑)

 

それから、準備ですよ・・・店はオープンしているのに!!
更衣室は、厨房を通って自宅のお風呂場の脱衣場でした。
そこまで行くのに、自宅の台所を通って行くのですが・・・。
オーナーのお父さんが、小説家だからかは、定かではないですが、そこらじゅうに張り紙が・・・
それがみんな、従業員に対する注意書きなんです。
「何々は、何とかだから、あーしないように・・・」みたいな張り紙がそこらじゅうに貼ってある。
なんか、異様な光景でした。

 

店内は、1階に、なんと本物の暖炉があって、本当にカッコよかったです。
2階は結構広くて、合計50席ぐらいあったかな?
ただ、閉口したのは照明のスイッチを時間や外の状況によって、変える決まりがあったんですが、
すごくたくさんあって、覚えきれないんですよ(笑)
仕方がないので、ノートにスイッチ版を書き写して、いろいろ細かく記入しました。

 

それからびっくりしたのは、賄いです。
お昼なんか、出前を取っちゃったりするんです!!僕にはちょっと考えられなかったです。
例えば、今日は大掃除だけとか、壁にペンキ塗ったとか、そんな日だったらありうるかもしれないけど・・・。
夜も、僕は最終電車の関係で、閉店までは居なかったんですが(閉店は、am0:00だったと思う)
とにかく毎日、ギリギリにならないと賄いを作ってくれないんです。
しかも、なぜかバケットを使ったオープンサンド的なものが多くて、まいりました。
だって、晩ご飯ですよ。しかも本当にギリギリなので、食べている暇はない。
「もういい」って、言うんだけど作られちゃうんですよね。
仕方がないので、アルミホイルに包んでもって帰るんですよ。
もうひとつ困るのが、この暑い時期に(6月~8月まで働いた)、
歩いて15分かかる小田原駅まで全力疾走しなくちゃならないのが辛かったです。(爆笑)
なんて言ったって、乗り遅れたら帰れない訳ですからね。
でも東京行き最終電車は、圧倒的に空いていて、
誰にはばかる事無く窓を開けて、思いっきり風を受け涼みながらパンをかじる・・・。
そんな日が結構ありましたね。パンだけじゃ足りなくて、帰ってからなんか食べたのかな~?
もう覚えてないなぁ~。

なんか、僕もお腹空いてきちゃいました。続きは、また・・・。



  観光地から観光地へ

2009-07-11 01:00:58 | シェフが店を持つまで
毎日暑いですね。昨日の夜は、あまり眠れませんでした。
でもそうも言ってられないので、今日はぐっすり寝たいと思います。

そうなんですよ、そんな訳で江の島から小田原に通う事になったのです。
確か、アパートを出てからお店に着くまで1時間30分ぐらいかかったと思ったけどな。
でも行きも帰りも、逆方向なので空いていました。
 
 

新しいお店は、「キングスクロス」という名のお店で、小田原駅から歩いて15分ぐらいの、もう海に近い方でしたね。
3階建ての1階の3分の2ぐらいと2階がお店で、残りが住居でした。
オーナーシェフは、僕より1歳年上の×いちの男性で、近くのアパートに住んでいました。
お父さんは、お店の3階に住んでいる小説家でした。
キングスクロスという名は、イギリスの駅名からとったそうです。
アルバイトは、昼と夜に、1人づつ女性が来た。もちろん何人か交替でだ。
僕は、何曜日が休みだったか忘れてしまったけど、週6日勤務だった。
僕は、オーナーとアルバイトのクッションになりつつ、オーナーの仕込みや、
オーダーが入った時のサポートなど、もちろんホールからレジまで、飛び回る事になった。
どうして、こうなってしまうのだろう?考えてみれば、今も全く同じ事をしている。(笑)

 

この店で働く事になって、一番驚いたのは、出勤時間がam11:00だった事だ。
なぜ驚いたかというと、なんと、am11:00オープンの店だからだ!!
もちろん、僕は彼に進言した。
「オーナーは、ゆっくり来て貰ってかまいませんが、僕たちは、1時間前に来て準備していますよ。」
「せめて、30分前には、出勤する事を許してくださいよ・・・。」と、言ったのだが・・・・NOだった。
今でも訳が判らない。なんで、オープン時刻と出勤時刻が一緒なんだ!!

でも、こんなのは、単なる始まりに過ぎなかったんですよ。
本当に変わった店?オーナー?でした。

   その話は、また明日から・・・。それでは。

  3年目

2009-07-10 01:21:00 | シェフが店を持つまで
厨房が・・・熱くなってきましたよ!まだ、36度ぐらいですけどね。

江の島で委託経営という経験をさせてもらった僕は、まず生活の拠点をどうするか?悩んだ。
ここにしばらく残るか?それとも、東京に戻るか?それとも、実家に帰るか?
で、出した結論は、「江の島に残る」だった。
理由としては、もう東京には住みたくないと思っていたし、
実家に帰るときは「店を出す時」と思っていたので、まあ、もう少しここでのんびり行こうか・・・と。

 

それでも、東京の先輩に紹介してもらった茅ヶ崎のフレンチのお店のオーナーに、
イロイロとお店を紹介してもらったりして、仕事は探していた。
でも結局、下北沢時代の友人が宅配弁当をやる事になってそこを手伝う事になった。
妙な事に、毎日江の島から下北沢まで通った。でもそれも、3ヶ月ぐらいで・・・終わった。

次に僕が選んだのは、なんと、ヤマト運輸の「宅急便」だ!!
11月の終わりから、年が明けて1月ぐらいまで・・・荷物を運んだ。
今でも思うけど、この経験もすごく人生に生きている。
今でも目を閉じると、あの時のいろいろな経験が脳裏に浮かんでくる。
でも、その事をひとつひとつ語っていては、キリがないので(笑)、またの機会にしよう。

ただ、今まではアパートで、宅配便が来ても寝ていたりすると、居留守を使ったりしていたけど、
絶対にしないようになったし、不在票が入っていたら直ちに電話するようにもなった。(笑)
配達してもらった時も「何度もすみません。」と、必ず言うようになった。
分かってはいるつもりだったけど、たとえ批判するにしても、
「相手の気持ちになる」って事はとても大切な事なんだと、このとき身を持って良~くわかった。

 

宅急便の仕事は、朝6時にアパートを出て帰ってくるのは、夜の8時か9時頃・・・。
もちろん12月は休み無し。本当にハードでした。
基本的なことを教えてもらうと、後は自分次第・・・。
初めて荷物を36個持って出た時は、あまり遅いので、心配だったらしく迎えにこられちゃいました(笑)

まず朝、営業所に行くと、自分の担当地域の荷物が、夜中のスタッフによって仕分けされています。
そこから伝票を抜き、事務所で自分のルートに合わせて、地図を見ながら伝票を順序良く並べていきます。
そして倉庫に戻ると、自分の車を荷物の前に着け、
伝票どおりに最後に配る荷物から、ていねいに積んでいきます。
ハッキリ言って、ここまでの作業で上手く行くかどうか、ほとんどが決まります。

初めて36個の荷物を配達した時は、伝票をわしづかみにし、荷物を適当に積んでいったのです。
ところが次の日、社員や先輩の人達を観察していると・・・上に書いてあるような事をしているじゃあないですか。
僕はすぐさま要領を聞きにいきました。
向こうからは、教えてはくれないけれど、聞きに行けば、何でも教えてくれました。
僕はメキメキ上達しました。早く正確に(何度か失敗もしたが・・・)配れるようになって、
社員の人達からも、一目置かれるようになりました。もちろん「アルバイト」としてです。
 
 

しかし、お歳暮が終わり、年が明け新年になると荷物は激減します。
アルバイトもお払い箱です。
そんな訳で、僕は再び仕事を探す事に・・・。
結論から言うと、5月までプータローでした(笑)
東京とか、鎌倉とかいろいろと面接には、行ったのですが、なかなか良い店がありませんでした。
ただ、年末に「宅急便」で稼いだので、家賃を払っても細々と暮らしては行けました。
そして、6月から茅ヶ崎のフレンチのオーナーからの紹介のお店で、アルバイトで働く事になりました。
なんと今度は、小田原です。これがまた変わった店で・・・

  それはまた今度ということで・・・。   それでは、また。