語る、シェフ

小さなレストランのオーナーが、日々の出来事を語ります。

  レストラン ラ・フーマ

2008-11-10 01:17:43 | 店を持つまで番外編
彼が、いなくなったおかげで、僕はランチタイムだけストーブ前を任されることになった。
とはいっても、まだ経験2年そこそこの若造だったので何も出来ない。
せいぜい賄いぐらいしか作ったことが無かった。
そんな僕に、シェフはせっせと仕事を教え込んだ。

特別に、ノート持ち込みOKでとにかく何でも早く覚えて「もの」にしてくれと・・・。
何せ3人メンバーだったのが、2人になってしまって彼はとても焦っていた。

   
   当時使っていたノート あぶらと手垢でボロボロだ。
        もちろん清書したものは別にある。
 
  
でも、僕にとってはラッキーだった。もちろんそれはそれは厳しい日々だったけれど、
なんかとても楽しかった。

ランチの時、ストーブ前で仕事をしていると、後ろから
「遅い!!」と、大きい木の胡椒挽きでよく殴られた。一瞬「クラッ」と来たものだった。
 
 

またある時、ケーキを作っていると、
「なんだそれは・・・そうやれと言ったか!?」とシェフ。
「はい。」と僕。その途端平手打ち!!
結局、3回聞かれて3回「ハイ。」と言って、3回平手打ちでした。

そしてある時は、ドレッシングをシェフに味見してもらおうと持っていくと、
「なんだこりゃ!!やり直せ~」
とぶちまけられました。掃除が大変でした。もちろん僕もべとべと・・・。

まだあの頃は、コックさんと言えどもあまりデザートは出来なかった。
当時、日比谷にデザートレストラン?とでも言うのかな、が出来て、けっこう話題になっていた。
そこに勤めている若いパテシェをシェフが知っていて、彼が休みの日に良くデザートを教えに来てくれた。
僕にとっては、これもまた超ラッキー!!
彼が来た時は、もうつきっきりで、時間の許す限り教えてもらった。

今もその時、彼にもらったレシピは、大事にとってある。
 
 


しかしこの店も、僕らは2月から入ったのだが、10月には人手に渡る事になった。
もちろん次の経営者は、僕たちを雇うことは無かった。

僕にとってのこの店は、「料理を作るっていう事は、とても大変なことなんだ」と言う事を初めてわからせてくれた所だ。
出来なくて、悔しくて店に泊り込んで仕込みした事も何回もあった。
朝、千代田線に乗っていて乃木坂の駅が近づくと、胃が痛くなってきて、ホームでうずくまっていた事も何回かあった。
何度も、「今日こそやめよう」と思ったけど、
「やめるのはいつでもできる。もうちょっと、頑張ってみよう。」と思って続けてきた。
何より、シェフの要求に答えられない自分が情けなかった。
いくら怒られても、決してシェフを憎んだりはしなかった。出来ない自分に腹がったった。

店を辞めなければならなくなった時、正直言って、ホッとした。
若いから出来たけど、あんな長い間、緊張し続けながら仕事をするなんて今じゃあとても出来ない・・・と思う。
でも、怒涛のような8ヶ月は、僕を飛躍的に成長させた。
「もう、どこの店だって働ける。」そんな自信も持てるようになった。23歳になったばかりの頃だった。


あの時のシェフは、今もどこかで一生懸命料理を作っているのだろうか?

  ミルクレープといえば・・・

2008-11-09 00:43:03 | 店を持つまで番外編
ミルクレープを初めて作ったのは、21歳の時。
六本木のフレンス料理のレストランに勤めていた時・・・。
確か給料は、95000円だったな。そこから年金と、国保を払っていたから、
手取りは、いくらだったのだろう?
下北沢のアパートの家賃は、確か20000円だったと思います。まだ、バブル前・・・。
 
  

そこのレストランの名前は、「ラ・フーマ」確かオーナーが「風間」という名前だったかららしい。
最初は、僕を含め3人メンバーで始まった。
20席の小さな店だ。厨房もこじんまりとしている。
ホール担当は、もちろんオーナーだ。
シェフは当時30歳、とても几帳面な気難しいシェフだった。
僕は、自分を鍛えるために前の店から移るときに、
「なるべく厳しいシェフをお願いします。」と紹介してくれる人に頼んだのだ。
全くその通りで、始まって何日もたたないうちにもう1人のコックさんが、来なくなってしまった。
彼は、中卒だが、もちろん現場での経験は僕よりはるかにあったので、
年下でも、上司だった。その彼が、いなくなった。

今思えば、彼が居なくなってくれたおかげで、僕はこの店で飛躍的に進歩する事になる。
ただし、かなりハードな毎日を過ごす事になるのだが・・・。

   今日はこの辺で・・・  では、また。