スポーツ選手の不祥事がクローズアップされています。
覚せい剤使用、賭博と、それは「罪」という文字がつく犯罪で「依存性」という人間の弱さを前提に処罰規定によって自戒を持たせ、人生を踏み外さないようにする法治国家の姿で、善き国家でありたいと願う意味での社会防衛として規定されているものです。
「軽率な行動」
と行為者は語るが、悪いことだとの意味理解はあるが、露呈しない、公になることはないという、都合のよい正当化理由を創作し悪事に染まります。
不倫関係者が、他者から見れば不自然行動に見えるものも、関係者の二人には全く自然な行動であるとの意味づけをするのと同じです。
不倫相手からの電話も友人(男)であると妻に答える。
妻からすればそこに不自然な電話への応答や態度が見られわけで、正当化理由で相手には不自然さを与えてはいないとの勝手な解釈納得は、悲しいかなです。
覚せい剤の常用は、行動や精神に異常さが現れ依存性は、行為の正当化理由を語る意志も霧散させ人格も失われていきます。
賭博も依存性を持つものですが、薬物使用とは異なりどこまでも露呈しない正当化理由を堅持し続けます。
偶然の輪贏(ゆえい)という言葉があります。偶然の事情により勝敗を決めるときに使われる言葉で、「賭博罪」でよく使われる言葉です。
射幸心という言葉があります。射幸心を煽(あお)ると表現され、まぐれ当たりによる利益を願う気持ちが醸成される心を表しています。バトミントン選手は射幸心に煽られての偶然の輪贏に興じたわけです。
遊ぶ 飲む打つ買う 遊び呆ける姿が興じることなのですが、国民全員が賭博に走るわけではなく、善き自覚に生きる人々は拒絶できるわけです。闇社会に生きる人々が資金稼ぎに暗躍しあの手この手を駆使して人々を誘う現実はよく耳にしますし過去にも同じようなことがありました。
善き自覚と書きましたがそもそも自覚は、己の覚醒であって、おのずから、みずから目覚めた状態にあるということです。夢物語ではなくしっかりとした意識状態にあることであって、自分を見失わない状態とも表現されましょう。
何があなたをそうさせる。
バトミントン選手は「軽率な行為」と、よく考えずに行い、かるはずみであったと反省の弁を語りました。
汝自身を知れ!
哲人ソクラテスも影響を受けたデルポイのアポロン神託所、その入り口に「汝自身を知れ」(分をわきまえろ、身の程を知れ)や「度を越すことなかれ」といった言葉が刻まれていたという。
問いのソクラテスは、何を思うていたか。
悲しい意味理解もあるのですが、自分自身を問うことができない人間、問われる存在でもある人間を思う時、「問い」の意味を咎人(とがにん)に対する問いに限定してしまう人もいます。
そうではない、人間になるための「問い」のできる能力を有することこそが人間に必要な条件でもあると思うのです。
「私を私に育てる責任者は私」
これが自覚のように思います。「人が人になるために」と、人は人でなしにならないために人生の意味の問いに正しく答える責任がある。
「意味への意志」は、他の誰かによって命令されたものではない。自分で「人生の意味」を見出すことでだけ「意味の意志」は生まれてくる。
V・E・フランクルは語りさらに、
あたかも二度目の人生を生きているかのように生きる。
とも語っています。
何事に対しても自覚的に生きるしかありません。