Eテレでモーガン・フリーマンの「時空を超えて」という番組が今季も放送されています。先週は「人間にとって“神”とは何か?」というテーマで、脳科学者、心理学者の視点から人間が神を信ずるこころを作り出す過程が語られていました。
世界には超越的神を信仰する人々もいれば、そのような超越的、人間の知的な世界を超えて存在するものそのものを否定する無神論者もいます。番組では神を信仰する人々の信ずるに至る科学的な理由の解明ですが、外国版のこの番組はそもそも信ずる、信じないの二者択一の視点から番組制作が行われています。
人間存在そのものの不思議を語るのではなく、モーガン・フリーマンが番組最初に自己の「神の存在への疑い」を持つに至る契機から話は進められています。
最愛なる者の死。神はそのような理不尽なことはしないはずだ!
幼きモーガン・フリーマンはそのように感じたとのこと。神の国に召されたのだという理由付けができるまでに信仰の成熟が無い頃には確かに疑いが起こります。
それならば子供が神を信ずるきっかけは何か。
心理学者のジェシー・ベアリングは自分の体験とともにその解明を試みています。謎解きの思考発想の元は、「ルール」と「他者の目」です。
ルール、言葉を換えれば倫理・道徳で、大人に守るべきことを教示されそれに従うことが正しいことだと子供は思う。しかし「守るべきことに従う」という決断決定が「他者の目」の不存在ともに瓦解する姿は、かつて倫理・道徳観の根源を探求する実験に見た自動販売機に貼付された人の目シールを思い出させます。
コーヒーを飲む場合は販売機の横の箱にお金を入れる。
大人でさえ自動販売機の設置場所に他者がいなければ、支払わないものも現れます。
当然子供もルール破りをします。
当然子供もルール破りをします。
結論から言えば「人間は他者の目を気にする存在」ということになります。
アドラー心理学では最初にこのことが語られます。
番組では「問いに満ちたこの世界」という発想から解明する心理学者も紹介されます。テキサス大学の心理学者ジェニファー・ウィッドソンは「人がものごとの意味をどのように読み取るか」も研究者が登場します。「脳は意味を求める」ものであるという発想からすると、「人は意味を問う存在である」という考えということになります。
本能的に眼前に広がる世界に意味を求める。
思うに人間の五感の世界は、意味を問うための器官ということになります。人類へと進化する過程において五感が作り出されていく。これは生きるため、生命存在の根本的な防衛器官でもあるように思う。
失うことは死を意味する。
心理学者V・E・フランクルは「人は人生に期待された存在であり、人生にはどんな時のも意味がある」と、意味の問いを語りました。
現実存在(実存)として人は、存在の只中で生きる意味を問われる事態に遭遇します。出遭ったことを無かったことにすることは不可能です。「人間は、人生の意味を問う存在である。」というフランクルの思想は、人は問われる存在だからこそ経験するその只中で「意味」の問いを喚起される、呼び覚まされるものであるといいます。自明ということ「おのずから、みずから」に明らかにされる、照らされるというわけです。
意味の転回の世界です。
フランクルの思想を語る哲学者の山田邦男先生は、
フランクルの「意味への意志」は、意味欲求が人間の根本の意志であることを逆に証明していることではないか。
と語っています(『フランクルとの<対話>』春秋社p96)。
それは、
人間であることに課せられた不可避的な運命とも言うべきものである。
とも言っています(『フランクル人生論 苦しみの中にこそ、あなたは輝く』PHP・102)。
仏教では、法灯明、自灯明という釈迦の教えがあります。
聖書の世界では「はじめに光あり」と神の声を聞くことを求めます。
思うに、五感の形態形成が人間存在に関わるものということは、不可避な運命であって宿業なのだと思うのです。
問いを聞く意志というもの、自覚は直観と反省において連続的に形成され私を作ります。それは、みずからに、おのずからに自明の世界です。
神の声と聞こうとする意志の現れは、内なる神(汝)の声として聞こうとする意志の現れでもあります。
善し悪しの分別を離れ意味を聴くしかありません。それが常に己の自覚だと思うのです。
「人間にとって“神”とは何か?」というテーマ(問い)は、時々の場の問いとして現れます。
それが有形か無形かは、存在それ自身の不思議の中に現れます。
存在の不思議の中でどのように自分を依処できるか。人生とは常に試される体験を与えるものです。
まず、特定の1つの状態として全知全能の「神」を定義しようとすると、解無しです。「神」を「○○○である」と定義すると、「神」は「○○○でない」を放棄し、全知全能でなくなってしまうからです。「神」が全知全能であるためには、「○○○である」と「○○○でない」の両方を満たさねばなりませんが、これだと矛盾が生じ、矛盾が生じるとあらゆる命題の肯定も否定も証明できてしまい、「神」とは何かを議論する事自体が無意味になってしまいます。
これを超越する方法が1つ有ります。量子力学の多世界解釈です。「神」は、この世界で「○○○である」を、別の世界で「○○○でない」を実現し、両者は線形の重ね合わせであって互いに相互作用しないので、個々の世界に矛盾は無い、と考えれば良いのです。つまり「神」を、様々な状態の集合として定義することになります。
「全知全能の「神」は、存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験しているか?」と尋ねてみます。もちろんYESです。NOだったら全知全能とは言えません。つまり、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要条件です。では、これ以外にも条件が必要でしょうか? それは不要です。仮にこれ以外に「○○○であること」が必要だと仮定してみても、結局これは、「「○○○である」と認識している心を体験すること」になるからです。従って、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を体験すること」は、全知全能の「神」であるための必要十分条件です。そして全知全能の「神」の定義は、「存在し得るすべての心M0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}」になります。
M0が完全な無意識状態「空」です。M1、M2、M3、…が特定の有意識状態「色」です。すべての「色」を重ね合わせると、情報が打ち消し合い、消滅して「空」になります。つまり、M0=M1+M2+M3+…〔色即是空・空即是色〕。「神」は完全な「無」M0であると同時に、すべての「有」M1、M2、M3、…でもあります。大乗仏教で言う「真如」の、超越状態がM0、束縛状態がM1、M2、M3、…です。あるいは、西田幾多郎の言う「絶対無」がM0、「絶対有」がM1、M2、M3、…であり、M0=M1+M2+M3+…が両者の「絶対矛盾的自己同一」を表し、すべてのM0、M1、M2、M3、…を要素とする集合{M}が「神」です。
こういう定義でいかがでしょうか?
コメントありがとうございます。
総じていえば、誰という例外なく(無神論者でさえ)誰にでも現れるもの(働き)とでも言えるかもしれません。
死んであの世でもしも神に出会ったら「私は神を信じていました」というつもりです。もしも「そうではあるまい」と言ったら「あなたは神ではない」というかもしれません。