どう考えても話している内容を理解することができない、そういう相手に出会うことがある。本人は一生懸命に話しているのですが分らない、「支離滅裂な話」としか言えない場合です。
V・E・フランクルの著書に次のような記述があります。
精神分裂病の患者の中には、その話し方が偽の言語と解釈されても仕方がない話方をする人がいる。つまり、気分だけは表現しているにもかかわらず、その言葉で表現しようとしている現実、その言葉が指し示す現実が存在しないのである。(フランクル著『<生きる意味>を求めて』春秋社からp103)
精神分裂という言葉はいまは統合失調症と呼ばれますが、「絶対におかしい」と思うわけです。今朝は精神病患者の差別的なことを書こうというわけではありません。それを最初に断わっておきます。
最近のオレオレ詐欺は、特殊詐欺という名称に改められたようです。「オレオレ詐欺」がなくなったわけではなく手口が巧妙になったからで、騙しの言葉も「信じさせる」ことに巧みな技を使います。より現実的なリアルな演出がそこでは偽りで彩られます。
間違いなく結果は、偽りの言葉でした。進行中ならば偽りの言葉です。
被害者側からすれば「支離滅裂な話」ではなく、今まさにそうであるという現実体験を進行させ続け、被害の道へと進みます。
何が偽りであって、何が確かな話なのか。
そこで言えるのは、現実存在としての人と人の会話です。会話が成立するには出会いがなければなりません。実存同士の体面です。
会話には現実を離れた部分があります。希望的観測もあれば過ぎ去った過去話もある。
偽りの言語には今まさに現前を離れた、創造が含まれるとも、想像が含まれるとも言えるかもしれません。
結論的にはしっかりしなさい。
という話なのですが、世の中には偽りの言葉が多すぎます。メディアから流される言葉は、ほとんどが希望的観測か、災厄的悲劇です。
やはり結論的には、己に言い聞かす。
「しっかりしなさい!」と。