7月18日に松本市自殺予防対策推進協議会の本年度会議が開かれた。約30人の委員が集い昨年の自殺者の現状と防止の為の対策について意見が交わされた。この話があくまでも地元紙に書かれていたことで、私は委員でもなくこのような問題に心動かされる一市民であることを前もって言明しておきます。
その18日の午後6時から8時まで、よく哲学講座で聴講に出かける信州大学人文学部人文ホールで倫理学・西洋哲学がご専門の三谷尚澄准教授による「若者のための〈死〉の倫理学」という講義があり、副題は「いま (さら) 哲学/人文学 (なんか) に何ができる (というの) か?」というものでした。一般にも公開された講義でしたが平日の夕方6時はどうしても都合が悪く受講できませんでした。
多分最後には質問時間もありかなり貴重な意見も聞くことができただろうと思うと残念です。これも何かの縁でありまして偶然性のなかでこの出来事、内容について知ることになるかもしれません。
さて最初の協議会の話になりますが、昨年の自殺者数については新聞にも掲載され以前ブログにも書いたような気がしますが、昨年平成24年度の全国の自殺者数警察庁調べで2万7858人でした。一昨年の23年に比すと2793人減で3万人というのが例年の恒常的な数字でしたので、ある程度の対策の効果があったように見受けられます。
長野県はどうだったか。全県で480人で前年度比21人減。そして松本市は44人で前年度比19人減でした。
全国の人口が、128057352人で0.0275%
長野県の人口が、2152449人で0.0223%
松本市の人口が、243052人で0.01810%
となります。身近な死という問題は、病死や事故、自然災害等がありますが交通事故死と比べてみると次のようになります。
昨年の交通事故死亡者数が4411人で、長野県が97名で松本市はとなるのですが解りませんでしたが、この自殺という問題が身近な死の現象として交通事故の遭遇による死よりも高いことがわかります。
自殺はある意味では故意であり、交通事故死は過失で自身にその原因があるものや全く落ち度のないもの(被害者的立場)までが含まれます。
協議会の話にもどりますが、課題としてうつ病患者や多重債務者への自殺予防対策が一定の成果を挙げている中で自殺者に占める高齢者と若者の増加の傾向にあるということ、その対策はどうあるべきかが問われるところであるようです。
高齢者のうつ病の増加についてはブログに書きました。若者の自殺には昨今いじめからの自殺問題も後を絶たず、これについても書いてきました。
同協議会の信州大学医学部付属病院長大野直二会長は、「自殺対策のネットワークを強化し、情報を共有することで一人でも多くの人を救いたい。」と述べられていたそうですが、痛いほどわかる話です。
何かすべき、という時に、行政的機構が一本化されていて想いが行き渡る。
「いま (さら) 哲学/人文学 (なんか) に何ができる (というの) か?」
は、過去とこれからを今に問う課題ですが姜尚中さんの『心』『続・悩む力』そしてNHK『地方発・ドキュメンタリー「二度生まれ 姜尚中 息子への道」』は深く考えさせられます。
『鉛筆部隊と特攻隊』『きけ わだつみのこえ』の文頭の上原良司の遺書にいう自由主義の自由の意味するところ、どんな場合でも極限的苦悩においても選択の自由は平等に開かれています。今まさに自分がしようとする瞬間において委ねられています。「ゆだねられる」とは「まかされる」ているということで委任されているという言葉になります。
そこに他人はどのような関わりを持てるのか?
W・ジェイムズは『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)に次のように語っています。
<『宗教的経験の諸相』上から>
・・・・ある人々は最初から調和的で良く均衡のとれた内的素質を持って生れている。この種の人々のもろもろの衝動はお互いの調和を保っており、彼らの意志はなんの苦も無く彼らの知性の指示に従い、彼らの情熱は過度に陥らず、彼らの生活が後悔に念につきまとわれて苦しめられることはほとんどない。
ところが他の人々は、それとは反対の素質を持っていて、しかもその程度の差によって、あるいは単に風がわりで、あるいは気まぐれで一貫性がないというだけの軽度なものから、極端に不都合な結果を招きかねないような不調和にいたるまで、さまざまである。・・・
<上記書p254>>
まさに人さまざまです。V・E・フランクルは「人は常に生きる意味を探し求めている。」と語り、この「意味への意志」はアブラハム・マズローの言うところの「人間の根元的関心」であるといいます。
そして以前ブログにも書きましたが動機理論の人間観における刺激に対する「反応」や「解放」ではなく「応答」ではないかとし、
「人は、人生がその人に問いかけてくる問いに応答しようとし、それに応答することによって、人生が差しだしてくれる意味を満たしているのではないだろうか。」(以上『<生きる意味>を求めて』春秋社・p33-p34から)
私自身ジェイムズの言うところの「他の人々」の一員であると思っています。それだけに逆にフランクルの「応答」の考えに強く魅かれます。
その時その人は何を選択するのか。
コロンビア大学の心理学者アイエンガー教授の「選択の科学」のアンコール放送が今月末から予定されています。
人生とはその時々の選択に違いなく、ある面統計学的数値に左右される現代ですが、その判断は自律的な個であろうと思います。そして、そこに委任がある。誰から委任されているのか。
存在そのもののであり、何か足りない実存としての葦のような存在の私で生(あ)るとも言えそうです。
「若者のための〈死〉の倫理学」という講義、結果が知りたい。
※ 午前7時5分に参議院議員選挙県区・比例区の投票に行ってきました。5番目でした。