平成24年6月6日にEテレ日曜日「こころの時代」で放映された、愛知専門尼僧堂堂長青山俊董(しゅんとう)さんと金光寿郎との対談『人生に光あり』は私にとって永遠に私を包むお話で、いまも時々再確認しています。
その対談の後半部に「因果」の考え方に言及している箇所があります。
【金光寿郎】よく聞く言葉に、「今ここ」ということを聞きますけれども、「一歩前に出す」というのも、今ここで一歩出せばそこに結果が現れる。
【青山俊董】そうなんですね。
【金光寿郎】これは因の場合、原因は一歩出す。結果は、身体は前に行っている。
【青山俊董】自ずから「因」と「果」―「修」と「証」は一つなんだ、と。そこでもう一つ、果を待たない―結果を待たないでやればいいんですわなぁ因を。話が行ったり来たりですがね、「百不當」のさっきの話に戻りますけども、私自身が大学の二、三年頃でしたかね、ですから二十二、三歳ぐらいでしょうかね。
その時の学長先生が衛藤即應(えとうそくおう)先生だった。私は、衛藤即應先生に、「〝百不當〟だけ書いてください。〝一老〟は要りません」と。二十二、三歳の頃は、どっかに悲愴な思いがありましてね。「私などは一生涯やたって、一老はありそうもないと。なくてもいいから百不當、千不當の努力はさして頂きたいと思うから」というようなことを言いまして、「百不當」だけ書いて頂いて、「一老」が書いてないお軸を今大事にしていますですよ。
しかし後に、「百不當」はそのまま「百當」なんだと。「一老」を向こうへもっていっちゃいけないんだ、ということに―勿論もう一つは、「老」を考えなくていいんですわね。今の結果を考えなくていい。今ここでやることだけ考えたらいい。だから結果は問わずに、ただただやるだけ。
そこがやはり私が心で忘れない一句ですが、大竹晋(おおたけすすむ)先生という唯識の先生がおられましたね。ここにも何度もお越しになりました。こうおっしゃったですね。今の「修」と「証」を、「修」が「因」、「証」が結果の「果」、「因」と「果」ですわな。「仏教は因果論というけれど、我々が発言権をもっているのは、因のみ、果に発言権はない。ただ良き師の仰せのままに、限りなく良き因を積むのみ」とおっしゃった一言が忘れませんですね。
「限りなく良き師の仰せのままに、今ここを良き因を積み続けるのみ。果に発言権はない。果はお任せ」こうおっしゃった言葉、そういう意味で、「修」と「証」とかね、そういうのは結果を問わず、今私が為すべきことは何なのか。同時にやりたいことじゃなくて、仏様の光に引っ張って頂きながら、今ここをどう仰せのままに一歩踏み出す。
限りなく一歩踏み出すことだけを考えていく。そうすれば、行くべき方向に向かって、そうすれば自ずから果は付いてくる。ほんとは同時でしょうけどね。同時でしょうけど、そして最後に熟するという先の方にも果はありましょうけど、証はまた証待たず、修だけ修のみある。修のみを考えていこうじゃないか。この辺が修と証においては修証、その辺がそうですね、大事なことですが、良き人の仰せのままに、今ここを光に導かれながら、わかってもわからなくてもいいから、ただ仰せのままに今ここを一歩一歩、歩もうじゃないか、と。その辺が修あるのみ。
【金光寿郎】 それが戯論に陥らない。自覚への道ということになるんでございましょうか。
【青山俊董】 そうですね。より深い世界へと・・・。
<以上>
最後の金光さんのおっしゃる「戯論」とは、「誰々がおっしゃった」ということです。自分の身から出る言葉ではなく、私もそうなのですが「誰々がそう言っている」話でそれが動かしがたい真理であると・・・・。そういうのを戯論(けろん)というのだそうです。
今現在の一刹那という「因」の今いまが一大事であるということです。
一大事とは、今日ただ今のことなり。(正受禅師)
再確認ですが、
『一夜賢者の偈』
過ぎ去れるを追うことなかれ。
いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ。
過去、そはすでに捨てられたり。
未来、そはいまだ到らざるなり。
されば、ただ現在するところのものを、
そのそのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく、動ずることなく、
そを見きわめ、そを実践すべし。
ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。
たれか明日死のあることを知らんや。
まことに、かの死の大軍と、
遭わずというは、あることなし。
よくかくのごとく見きわめたるものは、
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ。
かくのごときを、一夜賢者といい、
また、心しずまれる者とはいうなり。
(中部経典 増谷文雄訳)
参考
今現在説法と一夜賢者の偈[2006年02月19日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8d3e2267cb8ccc8a7891dda95396781e
朝に夕に唱える般若心経、好きな現代語訳の中に、
<抜粋>
シャーリプートラよ。
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で[ありうるので]ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
[このようにして、]およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、認識も、すべて実体がないのである。
という箇所があります。全くわけが判らない。戯論かもしれませんが、ある日突然わかった気がするときがあるのです。ストンと・・・。(中村元訳)
<以上>
一刹那にそう思うときがある。苦楽もないそのときを。
参考
好きな「般若心経」現代語訳[2013年01月25日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/08a6d0527b7e12c5d76d657fbb617776
今朝のブラブラ散歩で感ずる今現在説法でした。