思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

誠実なる作品

2018年06月23日 | 思考探究
 女性看護師が拉致され、その遺体が山中から発見され、拉致した男は間もなく逮捕され首謀者は自殺したとの報道がありました。性目的が根底になければこのような事件は起きることはなかったでしょうし、男はどうしようもなく動物的に見えます。

 個人的に女の子を持つ親の立場からすれば脱力感と呪いと憎しみが溢れます。「なぜ我が子が被害に遭わなければならないのか。」と誰に向かって問うのか、親の問が聞こえてきそうです。

 不条理極まりない現実、世の中には誠実に生きられない男は間違いなく存在するわけで、性犯罪は減ることはなく、確率現象でそれはそこに起きる。

 色欲を常態化した色魔、セクハラ的言動や行為をしなけれは生きられない人々、性欲がなければ人間の歴史はないわけですし、そもそもそれはある意味誠実さで抑制し秩序が保たれるのが理想でしょう。

 「誠実でありたい。」という宣言、聖者の吐露でしょうか。

 マハトマ・ガンディーの異様な「超越」という話があります。ガンディーはインド独立の前夜から「平和の行脚」のために東奔西走していました。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が血で血を洗う相互殺戮の行動に走っていたからでした。

 その行脚の中でガンディーは「非暴力」を説いていましたが、その個人的な生活においてはまことに奇妙な実験を行っていました。マヌベンと呼ばれる孫姪にあたる少女と、毎晩のように寝床を同じくしていました。これはガンディーの妻カストルバイは、死を前にしてマヌベンの養育を夫ガンディーに言い残していたからです。

 しかしガンディーは、妻の遺言でいいのこした以上のことをやろうとしました。暴力を乗り越える戦略は、女性原理のうえに打ち立てられなければならぬという強い信念があったのでしょうか。マヌベンの養育という機会を契機に母になろうとする途方もない実験にガンディーは身を乗り出していくのです。

 少女と床を同じくして自分がなお男であることを自覚したが、しかしそのことによって打ち負かされることはなかったとガンディーは言ったといいます。彼の実験が性の乗り越えを意図としていたことなのでしょうか。
 人間がついに動物が持っていた攻撃の儀式化という本能を失う実験なのか。ガンディーの非暴力の活動、微笑は男のもつ女性に対する野獣的行動を抑制、超越からくるとも言われるが・・・。
 浮気男が相手の女性を単なる女性友達と抗弁する態度。セクハラに対して相手も黙認していたするいう言動。

 異常と正常のはざ間に人はおかれ、問われる存在として今に態を成しています。正常と異常と言葉区分が人それぞれのその時その場の創造で、もともと区分は結果に現れるように思う。それも第三者の評価によって。

 「誠実でありたい」

という宣言、誰がどこから発動、創造するのでしょう。

 太宰治の信の友情を描いた『走れメロス』という作品を残しています。彼らの姿を見て王は人を信じるという心をとり戻したという話です。

 Eテレ番組を見ていたところ、この作品の背景について作家の檀一雄が太宰本人から聞いた言葉が紹介されていました。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」

 この思考視点の転回、「待つ身」と「待たせる身」の「辛さ」、ここに量的な比重を人は重ねることができます。それも自己と他者のものとして。
 太宰は次のようにも語ります。

「教養人とは他人の辛さをわかる人をいう。」

 そして太宰は「優しい」の「優」という感じが好きで、理由は、人偏に「憂(うれう)」と書くからだといいます。

 今回、死体遺棄事件からガンディーの孫姪との話、そして太宰の話と書いてきて、言いたいことも失せてきました。

 人とは作品である。

 誠実を表すような作品を創造したいが、造形としては個々の認識の範疇でしか現れません。しかし、それを求めんと欲する人は確かにいます。だから宮沢賢治は「そういう人になりたい。」と書き残したのかもしれません。

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