思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

裁判員制度を再考する。

2010年11月03日 | 法学

 過去には覚せい剤で錯乱状態の男に出くわし殺されそうになったことはありますが、当然人を殺したことはありません。

<引用>

 行為を自己のものとして-----正犯者の意思をもって-----実行しようとするものが正犯者である。「したがって、正犯とは行為支配である。それは、故意すなわち正犯者の決意の中に存する。正犯者は熟考し、実行者として行為する。彼は、犯行をなすかどうか、およびいかになすかを決定する。行為の結果に対して自己の利益の存するということは、自己の手によって活動することの範囲と同様に、行為支配の単なる徴表にすぎず、つねに不可欠の要素ではない。犯行はまた他人の利益のために、あるいは助力によって行うこともできるのである。行為故意は、結果に向けられた、しばしば永続的かつ行為の全系列を包含する」。

 ところで、間接正犯とは、かような場合に、「正犯者の意思を欠く関与者の助力を実行にひきよせる」ことである。「間接正犯者とは、自己の行為の実行に、他人をあたかも道具のように利用する者である。その前提となるのは、この他人じしんが正犯者でない、すなわち、みずから行為支配の意思をもって行為しないことである」。ヴェーベルはかように論ずるのである。

<引用終わり。『間接正犯の研究』(大塚仁著・有斐閣)p98から>

 刑法では、違法性を阻却する事由の中に「正当業務」というものがあります。医師による医療行為が典型的な例です。刑務官が死刑判決の判決を受け確定した死刑員を処刑場で処刑することも法律で定められた行為であることは明白な事実として世の中ではそのように行われています。

 しかし私は、通説的な「違法性阻却事由」という考え方に反対で、緊急避難のところでも述べましたが、どんなことがあっても「人の生命」を奪うことは違法だという考える者です。

 仕事ですし、国家から命令を受忍する義務があり、違反すると法的な処分等が下されますので従わざるを得ないわけで、責任を阻却というよりも、犯罪論的には、殺人罪に類型化されて「人を殺したる」という構成要件的行為該当以前の裸の「行為」の段階で刑法典には抵触しないのではないかと思うのです。

 これは非常に説明が難しいのですが、法治国家である日本ではそうせざるを得ない状況下にあるわけでいちいち問題視できないことだということです。

 裁判員制度の裁判員は、超法規的な存在で故意ある道具とは思えますが、そのような人々(刑務官)を道具とし、突然、殺人罪の正犯者にされそうになっている人々のように思えるのです。

 公務試験を受け合格し、それなりの研修と心構えを身に付けた人々が仕事として行うのとはわけが違います。

 わたしは宗教を信ずるものですからそんな罪深いことは到底できません。何という愚かな制度を作ったものかろと、たびたび言及していますが、「結審で求刑--死刑」の検察官の声を聴くと・・・・・。であります。過去に長野地方裁判所で女性検事の「死刑」という求刑の声を聴いたことがありますがいやなもんです。
 
 (※結審とは求刑までの段階の審理をいいます。誤りではありません)

 前段の引用文は非常に専門的な文章ですが、間接正犯は大変難しい問題を含んでいます。

 死刑求刑で困惑し、結局無期に懲役になりましたが、これは「監禁罪で「人を拘束」することですから犯罪ですが違法性を阻却されるだけです、と考えてしまうのです。


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