法治国家において、明文化されたされた条項に従うことが求められるのは当然のことで身近な話しならば、赤信号ならば車両も人も止まらなければならない。よく昔は「信頼の法則」とか言われ私以外の他人も当然にその行動を行なうものと信頼していましたが、過失ではなく「みんなで渡れば怖くない」的ではなく積極的にそれに従わない者、いわゆる故意の意思をもって法を犯(おか)し、我が道とばかりに渡ってしまう人(犯罪者)がいます。
信号機のない国では当然それは犯罪ではなく、赤信号無視という言葉そのものが意味ある言葉にはなりません。
「してはならないことはしない」
「住人の多数がその決まりに付従うことが当然のこと」
しかし、今の世の中、国境や垣根を越えた我が生きる範疇の外界はわが認識を越えた流れの中にあります。
「そうでしょう」と思ったところで「そうではない」という他者が存在し我が意とは異なる世界がそこにあります。
なぜそのよう私の意図するところとは異なる者の行為に右往左往しなければならないのか。
私は法治国家に生きている。眼前に広がる現象の中に「他者」を常に意識するのが法治国家ではないだろうか。ということは、
他者の予測不可能な私(自己)への不法行為・侵害に常に警戒しなければならない。
なんとも・・・悲しき世界ではないだろうか。
「信義則」
信頼し義務としてそれに付従うのが当然こと。
冷血に条項に付従った裁断
「悪いことは悪い」
大岡裁きはありえないのが今の世の中、「御慈悲を」とひれ伏したところでどうにもなりません。
法を作ればそれに従うのが、法治国家に生きる国民の義務
しかし「信頼」すべき条項なのか・・・という疑問が残る。
交通社会においては「赤信号」がなければ二進も三進もいかない。
赤信号は「信頼」が背後に存在し、止まるという・・・もう無意識的にブレーキを踏む・・・ことが義務以前のこととしてなくてはなりません。
しかし信号無視する者はいるのです。
夜間、他の車両や歩行者がいない交差点の赤信号の燈火。周辺には誰もいない。
赤信号の向こうには、帰宅すべき我が家がある。
法益の衡量だという人もいましょうが何んと疲れる話でしょう。
決められた事は決められた事として「青色燈火を待つ」者もいれば、簡単なことなのに「いいじゃないの」と犯す者がいる。
その裁断は己のみに生じている事態であることに気がつきます。
「第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断がかのうであることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうにかんがえられるように、他者との関係であるよりも、自己との関係であることに注目する。カントの定言命法は、主観的な原則としてみずからにてらして吟味する性格のものであり、他者に対する影響や、他者に対する配慮などが入る余地がないのである。」
この文章は、ハンナ・アーレント遺稿集ジェロ-ム・コーン編『責任と判断』(みすず書房)の訳者中山元先生のあとがきの言葉です。
吾々のいるところは現在であって、その現在というところから時が考えられる。私の時は流れ、私の裁断の時が現われ続ける。
不法行為に対する制裁には侵害の程度すなわち衡量があり、罰則という処罰規定もそれに合わせて存在します。
世の中が進むと衡量は二の次、「侵害行為には銃弾を浴びせる」自立的ロボット信号が出来るかもしれません。
絶対に赤信号は守られるでしょうね。
誰が設置を決めたのだと言ったところで、完璧に法は守られるに違いなく・・・安全・安心なのです。
いつだれが何を決めているのか。
足下の此岸(しがん)か、遥か彼岸(ひがん)にあるのか。
私はどうも関東系のようで「し」「ひ」の区別が無意識の世界で出来ません。
しおしがりに行く・・・のです。
そういう話はさておき、
領土に対する侵害がある。無視がある。侵害する国・者にその「無視」なる前提がない。無視の言葉が想起されない。即ちこの事態では、
そこは私の領土・土地ですよ・・・と叫んだところで両者には意味の無い言葉になっています。
意味ある事がらにするには、互いにしっかりと決めるべきことを決めるしかありません。
先決事項は武装なのか話し合いなのか・・・。
相手国・者の出来具合にもよりますが・・・出来の悪いのには・・・とつい先に思ってしまいます。
止めどない話を続けていますが、結論などというものは・・・ないと言ったところでしょうか。