「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」(九鬼周造)。なぜ今日の空は美しいのか、親しい人を喪うとはどういうことなのか、私とは何か-----哲学の問いはつねに日常のなかから生まれ、誰にとっても身近なものである。古今東西の思想家の言葉をたどりながら、読者それぞれが「思索の旅」を始めるためのヒントを提供する。」
こんな言葉が新書の表紙カーバーの裏側に当該著書の紹介文として書かれ哲学者藤田正勝著『哲学のヒント』(岩波新書)、昨年(2013年)の2月に出版されています。藤田先生は現在京都大学大学院文学研究科教授で2007年3月には『西田哲学-生きることと哲学-』(岩波新書)を書かれており、新書ですから千円札一枚でおつりがくる値段の本です。
西田哲学好きですので読ませていただきましたが、新書でわかり易い本とは言え書かれていることはまさに頭の運動、哲学的な用語のみならずかなり他の分野の専門用語も出てくるので前提の知識があるていど、理解には必要だと思います。
3月11日に長野県立高等学校入学者選抜試験が行なわれました。翌日の紙面に試験問題と解答が掲載されていて、第1ページの国語の問題を見たところ、上記の藤田先生の『哲学のヒント』から出題されていました。
「次の文章を読んで、下の問いに答えなさい。・・・・」というお決まりの言葉からはじまり、四角の罫線内にびっしりとその文章は書かれていました。
この本の目次は、
序章 「対話」としての哲学
第1章 生 --- 「よく生きる」とは
第2章 私 --- 「有る私」と「無い私」
第3章 死 --- 虚無へのまなざし
第4章 実在 --- 「もの」と「こと」
第5章 経験 --- 生の「脈動」に触れる
第6章 言葉 --- 「こと」の世界を切りひらくもの
第7章 美 --- 芸術は何のために
第8章 型 --- 自然の美、作為の美
となっています。
以前ブログにも書きましたが、信濃教育会は戦前戦後の多く京都学派の学者先生が教職員の教育講座に講師として来られていて、今もその伝統が続いています。
私は教育関係者ではありませんが時々その講座を拝聴し西田哲学を勉強するようになったのですが、第1問の文章には問題内容とは別に先人の構築した信濃教育の原点は生きていることを実感し感激しました。
昨日は、最近携帯電話の調子が悪く機種変更のためにドコモショップへ開店前に出かけたのですが、既に10名ほどの人たちが訪れていて、その後開店時間前に50人ほどが並びました。多いのは親子連れ、そうなんですね、進学祝いでしょう。
私のすぐ後ろに丁度中学三年生らしき男の子の親子が並び、元来話し好きな私、親子連れに話しかけてみるとやはり受験生でした。
聡明そうなその子の雰囲気に、この試験問題の話をしてみると、学校での話で各科とも相当難しく平均点は低いという話でした。
さっそく最初の科目国語の第1問を聞いてみると「難しすぎる」という話で、私は他の教科は見ていないのですが、相当きつかったようです。
前置きが長すぎました。第1問全文ではありませんが、第1問の(一)から(九)まである小問の(一)から(四)までの問いに該当する部分のみを紹介します。(※第1問に引用されている文章は『哲学のヒント』の第6章「言葉」の「言葉は思考の道具か」(同書p132-p134)の全文でかなり長い文章です。)
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一般的に「言葉とは何か」ということを考えてみますと、二通りに解釈することができると思います。まず第一に、言葉は、考えるための、あるいは考えたものを表現するための「道具」であるということができます。つまり言葉は、あらかじめ存在している思索の内容に一つ一つ形を与えていくものであると考えるのです。
しかし、そもそも「言葉のない思索」というものを考えることができるでしょうか。むしろ、思索は言葉を通してはじめて成立するのであり、言葉は思索の単なる「道具」ではない、という考えも成り立つと思います。そこに、思想は言葉という形を得てはじめて思想になるのであり、それ以前に純粋な思想というものがあるのではないという、もう一つの考え方が成り立ちます。
前者は次のような考え方と結びついています。私たちが日本語なり、英語なり、自分の言葉を使う以前に、つまり、日本語の場合で言えば、水とか、土とか、木とか、光といった言葉を使う以前に、言いかえれば、ある事柄にそういう名前をつける以前に、もの、あるいは世界が客観的に区分ないし分節されているという考えです。私たちはそのあらかじめ区分されたものに、いわば偶然的な仕方で、たとえば日本語であれば「水」という名前を、英語であれば“Water”という名前をつけていくのだと考えられます。ここでは言葉は符牒(ふちょう)のような役割をしています。
それに対いして第二の解釈は、ものは言葉以前にあらかじめ分節されているのではなく、言葉とともにはじめて分節されるのだという考えに結びついています。つまり言葉によって世界の見え方が決まるのです。(以上藤田正勝先生の『哲学のヒント』(岩波新書)から)
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長い文章が引用されていますが、概ね上記の文章から、次のような問いが出されます。
・「言葉は思索の単なる道具ではない。」の「ない」と文法上同じ働きをする「ない」が含まれているのはどれか?
(1)会場への行き方がわからないんだ。
(2)その本は、ぼくの家にはないよ。
(3)もうあきらめるなんて情けない。
(4)雨は降りそうもないね。
答えは、(4)
・「それ以前に純粋な思想・・・」の「それ以前」は何を指しているか? 以前につながるように8文字異常10文字以内で書きなさい。
答えは、「言葉という形を得る」
・上記の文章から「第一の考え」「第二の考え」をまとめた。「空欄」に言葉を入れなさい。
(1)第一の考え
思索は、「あらかじめ存在している」
純粋な思想というものはある。
世界は言葉を使う以前に「分節されている」
(2)第二の考え
思索は「言葉を通してはじめて成立する」
純粋な思想というものはない。
世界は言葉とともに分節される。
今読んでもかなり難しいのですが、自分は中学3年の時に自分はどんな本を読んでいたろう。藤田正勝著『哲学のヒント』のような本は読んではいませんでした。
言語哲学の世界、分節、範疇、概念・・・生物学的にネコとイヌは異なりますが、四足動物であることに違いなく、ネコと言えば概ねネコは共有され、イヌといえばイヌが共有されます。
安全・安心といえば概ね、概念を共有でき、思索・思考は言葉を使って考えられ、コミュニケーションの道具として言葉は必要不可欠です。
思索する能力・思考する能力を人は持っています。
今年の高校入試の国語の第1問の「言葉は思考の道具か」、今の私にも難しい問題ですが、藤田正勝著『哲学のヒント』、お父さんお母さんも読んでみましょう。
ちなみに『哲学のヒント』紹介サイトには、次のように書かれています。
<サイトから>
思想家たちの言葉と、対話しつつ考える
「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」(九鬼周造)。
哲学というと、どこか浮き世離れした、抽象的な議論というイメージが強いかもしれません。しかし、哲学的な思索を始めるきっかけは、私たちの日常生活の中にこそあると、著者は考えています。あまりに美しい夕焼けを見て、ふと足を止めたとき。身近な家族や友人を喪って、生を、死を考えざるを得ない状況となったとき。誰しもが経験するそうした「現実」を理解し得てこそ「生きた哲学」であると、かつて日本の哲学者・九鬼周造は言いました。本書も同じ問題意識にみちびかれ、私たちが日常的な生の中から、自ら「思索」を始めるための、ヒントとなることを目指しています。
その際に導きの糸となるのは、古今東西の思想家たちが紡いできた言葉です。老子、孟子、蓮如、世阿弥、松尾芭蕉、西田幾多郎、和辻哲郎、九鬼周造、西谷啓治、三木清、田辺元、深田康算、岡倉天心、柳宗悦、井筒俊彦、大森荘藏、ソクラテス、プラトン、デカルト、カント、パスカル、ヘーゲル、サルトル、メルロ=ポンティ、ベルクソン……彼らの思考の軌跡をたどり、彼らの言葉と対話するところから、「自ら考える」手がかりが見いだせるかもしれません。ぜひご一読をおすすめします。(以上)
と「一読のすすめ」が書かれています。