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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「実存」「実在」最終章

2012年06月10日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 「実存」という言葉がいつごろか使われたのか、またどうして「実在」という似たような言葉があり分かりずらいのか。そんな疑問に答えるように松浪信三の『実存主義』(岩波新書)に次のような書かれています。

<『実存主義』(岩波新書)から>

・・・・人間のばあいにこのように比類のない重みをもつ現実存在を言いあらわすのに、エクシステンチアという従来の存在論の用語から由来したエクシステンツ Existenz エグジスタンスexistence が用いられるが、それは特に「人間的現実存在」の意味においてである。そして、これをわれわれのことばに移すのに、「現実存在」をつづめて「実存」という。だから実存と本質が対立概念として語られるのは当然なことである。たんに漢字の字づらからその意味をおしはかると、実存は、現象に対する本体、仮象に対する実在のようなものと思い誤られるおそれがある。

また、「現実存在」という語をつづめるにも、「現在」といえば、時間の現在と混同されるし、「実在」といえは、レアリテと区別がつかなくなるし、そうかといって、「現存」ということばには、「物故」に対して「いまなお存命中の」という意味があるのでまぎらわしい。そこで「実存」という訳語が選ばれたまでである。この訳語がわが国の哲学界で通用しはじめたのは、昭和十年ごろからで、一般に使われるようになったのは、戦後、サルトルらの実存主義が伝えられてからのちのことである。

「実存」なる語がまだ国語としてはほんとうに熟していないのも、日が浅いためであろう。

<以上同書p20~p21>

 今から50年も前の書籍でこのように語られている「実存」の話で、昭和10年頃からとなると70年も前になります。

 PHP文庫の小川仁志著『超訳哲学用語辞典』(2011.11)によると、「実存」という言葉は直接解説されていませんが、

<実存主義>自分で人生を切りひらく生き方

と解説されているほか、

【レゾンデートル】存在理由

【アンガージュマン】積極的かかわり

【限界状況】のり越えようとしなければならない壁

の中で実存主義の言葉は使われています。では実在という言葉はどうか、

<実在>意識とは別に存在しているもの

と解説されているほか、

【観念論】世界は私たちが頭の中で作り上げたものだとする考え方

【普遍/特殊】常にあてはまる性質/固有の性質

という用語の解説の中で「実在」は実在論として使われています。しからば<実在論>とはどう解説されているかというと、

【実在論】存在するとはどういうことかを考えること

と超訳され次のように書かれています。

解説
 実在論というのは、存在の意味を問う営みのことです。アリストテレスは存在するものの性質をとうのではなく、「存在するとはどういうことか」を問いました。ここにおいてはじめて、存在論が誕生したのです。
 ところが、近代に入ると、物事の存在は認識によるとする認識論が盛隆になってきます。その中、再び存在論に光を当てたのは、ハイデガーでした。というのも本来哲学は「存在するもの」の意味ではなく、「存在すること」の意味を問う学問であるにもかかわらず、そのことがないがしろにされてきたと感じたからです。
 そこで彼は、存在するとはどういう意味なのか考えました。そしてそこに、有限な時間の中で生きる人間存在の姿を見い出すに至ります。つまり、人間だけが、自分の存在を意識しながら生きているからです。しかもそれがもっとも明確になるのは、自分の死を意識した時のほかになりません。その意味で、人間こそが存在の現れでる場だといいます。
<以上>

冒頭の「実存主義」はサルトルを中心に語られカタカタ用語もフランス語でサルトルの実存主義に関係した言葉です。それが「実在」「「実在論」になると先ほど観念論という言葉が出てきましたが次のように超訳解説されています

「実在」解説
 実在とは、実際に存在することをいいます。そかし哲学では、人間の意識の外に独立して存在するもののことを意味しています。たとえばロックは、物事が客観的にもつ空間的な広がりなどは、色彩や形のような主観的なものとは異なるとします。これが実在です。またカントは、人間の認識できるものとは別に存在する「物自体」という観念を提起していますが、これも実在だといえます。
 なお、実在論という場合は観念論に対置される用語となります。観念論が世界は頭の中で作り上げるものであるととらえるのに対し、実在論は、世界は私たちが頭の中でどう考えるかということとは別に、存在しているととらえる立場を意味します。
<以上>

観念論=世界は人間が頭の中で作り上げたもの

実在論=世界は人間がどうとらえるかとは無関係に存在

でギリシャ哲学の存在論がドイツ観念論に対しする概念形成の過程で再度浮上した理論で現象学のハイデガーの名が超訳解説では上記の通り登場します。

 過去ブログに書きましたが「実存」という言葉の歴史はギリシャ哲学におけるプラトン哲学アリストテレス哲学の思想的特徴から発生しています。その点に関して超訳解説としては冒頭の松浪信三著『実存主義』に次のように書かれています。

<プラトン哲学・アリストテレス哲学>

 一般に哲学史の教えるところでは、プラトン哲学は本質に重きをおく普遍主義であり、アリストテレス哲学は「このもの」に重きをおく個物主義であるとされている。というのも、プラトンが真の存在であると説くイデアは、普遍的な本質であり、個々のもののうえに、個々のものから離れて存在するのに反して、アリストテレスが第一義的に端的に存在すると考えるのはウシア(実体)であり、この実体はまず第一に「このもの」といわれるような個物であり、普遍はかかる個物を離れては存在せず、個物のうちにのみ存在する、とされているからである。

しかしアリストテレスによれば、ただたんに「このもの」として指さされるにすぎないような個物は、これを定義することも認識することもできない。したがって、定義によって認識されうるのは、「このもの」の「このもの」たるゆえんの「本質」である。かかる本質は、この個物を離れては存在しえないが、そうかといって、たんに感性的な知覚によってとらえられるにすぎないような個物とは異なり、「素材における普遍」「素材に内在する形相」である。

論理学でいえは、類と種差(しゅさ)との結合である。たとえば、人間の本質は、動物という類と、理性的という種差との結合である。してみると、アリストテレス哲学は単純に個物主義だといってしまうことはできない。

<以上松浪信三の『実存主義』岩波新書p13>

 プラトンは愛の哲学とも言われるそのニュアンスからも普遍主義が理解できアリストテレスの場合は目的論的論法にみられるフルートの存在に様相や形相といった概念で解るように一概には個物主義とは言えないようですが、そう言われてもよいほどにその存在のとらえ方は愛を離れています。

 その後アリストテレス哲学はキリスト教の神学とともに西洋哲学に組み込まれていきます。形而上学いわゆる存在を課題にするかリストテレスの第一哲学は、

超訳解説
【形而上学】自然の原理を度外視して考える学問

 形而上学は「メタフィジカ」と呼ばれ「メタ(超)」ですので自然を超えた超自然的な力、神存在の人間の意志の及ばない世界の学問となって行きました。

 ところが宗教改革にみられるように歴史において人間の意志の目覚め、実証的な思考が求めれれるようになりました。啓蒙主義が盛んになり近代哲学が形成されていきます。

 その中で「存在」という言葉が「神の存在」「人の存在」そして「物の存在」のなかで意味概念が大きく変化してきました。

 その中で現象学は「存在」という言葉をさらに深化させてきました。

超訳解説
【現象学】無心で頭に浮かんだものの中にこそ真実があるとする考え方

小川仁志の超訳では「フッサールによって提唱された哲学的立場」となっています。上記の【実存論】で登場するハイデガーはフッサールの弟子です。

 現象学が日本に入ってきたのはいつごろか?

 「すでに大正の末年から昭和の初年代にかけて一度、次いで昭和の十年代前後にもう一度、フサールの思想が紹介され、いわばその流行を見たことがある。」(木田元著『現象学』岩波新書p2)

ということで、上記の「実存」と同時期です。それは当然で現象学で語られる「 Existenz 」が実在と訳されたからです。このフッサールの著書は戦後しばらくした1969年ごろの学生運動が盛んになると多くの学生に読まれ、またフランスのサルトルの「実存主義」に関する著書も多く読まれるようになりました。ドイツ哲学、フランス哲学の二つの流れの中で「存在」という言葉が日本的に理解され現在に至っています。

 ドイツでは「神の存在の証明」については「Existenz」ではなく一般的には「Dasein」(ダーザイン)が使われていると書きましたが、この言葉はハイデガーの造語で国語訳は「現存在」という言葉が当てられています。一方フランスでは有名なサルトルの演説で「実存」というフランス語「existence」(エグジスタンス)が使われます。従ってサルトルの演説は次のように訳され実存の解説に使われます。

<サルトルの「実存」>

 フランスではサルトル(一九〇五~八〇)が「実存は本質に先立つ」と主張し、あくまで無神論的立場からこれを探求した。彼にとって実存するとは自由であるということであり、たえず自己を生成し、未来へ向かって自己を投企することである。ひとは自由な存在であるがゆえに、つねに選択や決断に迫られ、またその行為にたいする責任は各自がすべて背負わなければならない。しかもその責任は自分ひとりだけでなく社会全体にまで及ぶ。人間は自己を自由に作り上げることができるが、しかしそれはけっして逃れることができないような自由であって、いわば「人間は自由の刑に処せられている」と言えよう。(文責:鈴木保早)

<以上木田元編『哲学キーワード事典』(新書館)p230>

ここにあるようにサルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」と「existence」は実存と訳されています。

 ところがどうでしょうそもそも日本の哲学はドイツ留学からあるようです。すなわち「Existenz」・「Dasein」からはじまり、文頭にもあるようにそれを「現実存在」を短縮させ「実存」という言葉にしています。

 上記の『哲学キーワード事典』(新書館)は木田元先生が編責ですが、木田先生はその著ではサルトルのこの演説を次のように訳し、存在論を展開しています。とても内容が参考になるので長めの引用にします。

<サルトルの「実存」>

 よく知られているように、サルトルは第二次大戦終結直後の一九四五年十二月に、パリのクラブ・マントナンで『実存主義とは一つのヒューマニズムであるか』という講演をし、いわば実存主義の旗上げをした。そこで彼は、こんなことを言う。たとえばペーパーナイフなどのばあいだったら、それを作る職人がまずこれから作るものの<人何である>、つまりその本質存在を考え、それに従って一本一本のペーパーナイフが作られ、それらのペーパーナイフが事実存在するにいたる。つまり、時間的にも論理的にも、「本質存在が事実存在に先立つ」のである。人間のばあいも、もしその創造者である神が存在するとしたら、個々の人間の創造に先立って神の念頭にあった本質存在、つまり普遍的人間性のようなものが先にあって、それに従って個々の人間が創られる。

ここでも、「本質存在が事実存在に先立ち」、事実存在する個々の人間はその本質存在に沿うべく生きなければならない。だが、もし神が存在しないとしたら、どうであろうか。もはや個々の人間の事実存在に先立ち、いわばそれを規制するような本質存在などまったくないことになる。

われわれはまず事実存在し、その上で自分が何になるか、何であるか、つまりおのれの本質存在を自由に選ぶことができるし、また選ばざるをえない。聖者になることを選ぼうが、ジャン・ジュネのように男色の泥棒になることを選ぼうが、まったく自由である。自分は神の存在を否定し、人間の絶対的自由を主張する。無神論の立場に立って本質存在に対する事実存在の絶対的優位を主張する実存主義こそが真のヒューマニズムである。

こうサルトルは主張し、その無神論的実存主義の先駆者としてハイデガーの名前を挙げているのであるが、ジャン・ボーフレはこれを引き合いに出して、ハイデガーにヒューマニズムについてどう考えるかを質問したらしい。

 これに対してハイデガーが、自分の考えでは、人間よりも存在が、そしてその存在の住処である言葉が先立つのであり、<言葉(ロゴス)をもつ動物>と言われてきた人間はせいぜいその存在の家である言葉の見張り番にすぎない、したがって、人間の絶対的優位を主張するのがヒューマニズムなら、自分の立場はアンチ・ヒューマニズムだと言わざるをえないと答えたことは、すでによく知られていよう。

そして、人間よりも言葉が、つまり構造が先立つと説くハイデガーのこのアンチ・ヒューマニズムが、一九六〇年代フランスに実存主義への対抗イデオロギーとして登場してきた構造主義によって一つの拠りどころとされたことも、いまさら言うこともあるまい。

<以上木田元著『わたしの哲学入門』(新書館)p248~p249>

「本質存在が事実存在に先立ち」は実存主義者の二種類(キリスト教的実存主義・無神論的実存主義)における前者のキリスト教的実論主義者(ヤスパース、ガルビリエル・マルセル)の思考展開を言ったもので、サルトル自身は無神論的実在主義者と宣言し、ハイデガーやフランス実存主義者(メルロー・ポンティ、シモーヌ・ボーヴォワールなど)も「事実存在は本質存在に先立つ」という考えであるというのです。

 木田先生の文章にはサルトル宣言に自分の名が実存主義という言葉とともに紹介されていることに対するもので非常に興味深いものがあります。

 木田元先生はサルトルの「existence」を「実存」ではなく「事実存在」と訳しドイツ哲学の初期段階の日本語訳からその違いを明示しているということのようです。

 ドイツ語の「Existenz」、フランスの「existence」を日本語でどう訳するかこの歴史は70年たっても素人には難しい話ですが(私だけかもしれませんが)しっかり押さえておきたい言葉です。

 なお上記の木田先生の話の中に「構造主義」が出てきます。小川人志の超訳解説では次のように説明されています。

【構造主義】何でも仕組みで考える立場
解説
 構造主義というのは、物事や現象の全体構造に目を向けることで、本質を探ろうとする思想です。1960年代、文化人類学者のレヴィ・ストロースによって広められました。レヴィ・ストロースの基本的な発想は、現象の部部に理由を求めるのを止め、全体を構造として見ようとするものです。・・・・
<以上>

と説明され、構造すなわちシステム論にもつながる話に発展して行きます。さらに先にメルロー・ポンティの名が出てきましたが、私の好きな哲学者で身体論と深く関わりが出てくるわけです。

 「存在」めぐる哲学は、「神なき時代」における拠りどころの根源探求の世界におかれています。

 自然との関係、他者との関係、関係性における存在論における「実存」「実在」の不鮮明は日本的な思想展開いわゆる民俗学的な歴史身体にあるように思います。さらに戦後加速された西洋流の思考法にもあるように思います。

ということで「実存」「実在」についてはこの程度で納得することにしました。

禅の哲学・「真実の自己を尋ねて<実存>」の意味するもの[2012年06月04日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ddd25a0dc76913ab3e2bd259b28743d7

ということで、仏教学者の竹村牧男著『禅の哲学』の「実存」について書きました。

 真実の自己を尋ねること=実存

仏教の無自性の思想とともに考えると、思考の視点の発源の置き方、また立ち位置を探究したくなります。

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