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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

翻訳の姿と翻訳本の中のニーチェ

2010年06月27日 | ことば

 最近翻訳本を読む機会が多くなり、著者の思想なり哲学にどこまで触れることができるのか考えさせられます。100%他者が自己に重なることはあるはずもなく、いわんや専門的な分野なると素人では10%もいけばいいほうかもしれません。

 哲学者の場合ニーチェとなると彼の狂気や死後の著作の篇冊の問題等も関係し、よりいっそう難解なものになっているように思います。しかし、理解しがたいものかもしれませんがなぜかひきつけられるものがあります。

岩波新書『ニーチェ』で著者の三島憲一先生は次のように語っています。

・・・・彼の思想が狂気をはらんでいることは間違いないからである。その狂気は我々にさまざまなことを考えさせる。<力への意志>に頼る近代の価値観が狂気なのか、それによって失われたものの側につく方が狂気なのか。ヴェレッキャというイタリアのニーチェ研究家は、そうした内省をまことにエレガントに次のように言っている。「なぜ馬を抱きしめたことをそんなに問題にするのか。うまというこれほど高貴な動物は、多くの二本足の動物より抱きしめるのに値するではないか。馬を抱きしめたからといって狂気であることの証明には全くならない」

と。(P192から)

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 今朝は、ニーチェを語るというよりも、翻訳本を読む場合の心得的なことを書きたいと思います。

 翻訳本の誤訳批評・批判で知られる英文学者の別宮貞徳元上智大学教授は、その著『こんな翻訳に誰がした』(文藝春秋)に、D・R・グリフィン著、桑原万寿太郎訳『動物に心があるか』(岩波現代選書NS版)の英語訳の翻訳批判を書いています。

 批評の内容については別にして、この中で桑原先生は翻訳家の必要条件について、

○ 翻訳で大事なものは、辞書よりもむしろ想像力です。
○ 想像力こそ人間たる翻訳者の絶対武器です。

と、述べています。
 この評論で印象に残る箇所があります。

(原文) Jennings---argued the case for an open mind concerining---mental continuity between men and other animals (p.47)

 訳文 ジェニングス---は---ヒトと動物との間のーーー心的な連続性に関して、公共心の論を主張した。

と訳した部分です。これを別宮先生は、試訳として「an open mind」の訳について

 ---については、偏見を捨てるべきことを主張した。

と訳すべきで、想像力もあったものではないと翻訳を批判しています。

 最近私は、『共感の時代へ』という動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールの著書について時どき引用しますが、上記の心的連続性 mental continuity という言葉が、非常に「共感(enpathy,sympathy)」と密接な関係にあることです。

 共感能力がヒトと動物の心の働きの連続性の中にある。

というのが、ヴァールの主張です。
 連続性とはヒトと動物の共感能力は等式ではないが進化的な連続性の中にあるということで、欧米のヒトと動物との間を不連続とみる偏見を否定するものです。

 したがって別宮先生の想像力ということも確かですが、訳する分野の知識量は当然に前提とするのですが、このような専門分野の書籍の場合、想像力、専門知識、表現力が非常に重要に思います。

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 ここで文を止めればそれまでですが、思考の世界はさらに進みます。
 翻訳文を読む者の理解力に与える影響です。翻訳本にはこのような違いが出てきます。

 フランス語、ドイツ語全ての翻訳本は翻訳家のその力量によりますし、それが読む側の理解にも影響してきます。持ち論専門家は原文から理解するので問題は無いのですが、私のような素人は、例えばニーチェの「力への意志」「ルサンチマン」「永遠回帰」「ニヒリズム」という言葉を理解することは不可能に近いように思います。

 できるだけ理解をするには、多くの研究者の解説書を参考にニーチェの著書の多くの翻訳本を参考にし、ニーチェの言葉を自分の能力で理解するしかありません。

 これは哲学書だけにいえることではありません。

ニーチェが『権力への意志』について次のように語っています。

 思索のための一冊の書物なのであって、それ以上の何ものでもない。この書物は、思索によって楽しみをおぼえさせられる人々のものなのであって、それ以上の何ものでもないのだ・・・・

 この書物がドイツ語で書かれているということは、少なくとも反時代的である。この書物はがドイツ帝国国民の何らかの熱望を強化するものだと思われないために、私がそれをフランス語で書いたらよかったのだが。

 こんにちのドイツ人たちはもはやいかなる思索でもない。彼らに楽しみや感銘を与えるのは何か別のものなのだ。

 原理としての権力への意志と聞けば彼らはそれだけでもうよく分かったつもりになることだろう。

 ドイツ人たちのあいだではこんにち思索はまるっきりなされていない。だが、誰が知ろう! 二世代も経過したらもう、人々は、国民的な権力浪費の犠牲を、つまり愚昧化を、もはやひつようとしなくなるであろう。(以前私が私の『ツァラトゥストラ』をドイツ語で書かなかったらよかったのだが。)

以上はちくま学芸文庫 ニーチェ全集別巻3「生成の無垢(上)」1329に書かれています。当然翻訳本ですが、然りとしかすべはありませんが、ニーチェの思いが出ている文章に思います。

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 朝から取りとめのない私特有の文章になってしまいますので、最後にニーチェの有名な『善悪の彼岸』の翻訳本の二種類の違いを紹介します。そこから翻訳者の違いがどのように出るのか認識するだけでも自分のためになると思います。

一部引用するのは有名な、19番です。


『善悪の彼岸』(竹山道雄訳 新潮文庫)

 哲学者たちが意志について語るときには、あたかもそれがごの世界でもっとも知られた物であるかのようだ。まことに、ショーペンハウアーはわれらに説いた、ーーーーーわれらにとっては意志のみが知られている、減殺(げんさい)もなく付加もなくことごとく知られている、と。しかし、私にはつねにそう思われるが、ショーベソハウアーもまたこの場合に多くの哲学者たちがなすところをなしたのである。すなわち、彼は民衆の先入見をとりあげて、これを誇張した。私は思う、ーーーーー意欲は何よりも複合体である。それを一単位とするのは、ただ言葉の上のみのことにすぎない。しかして、この一つの言葉の中に民衆の先入見が潜んでいて、これが哲学者たちのつねにはなはだしき軽率を支配したのである。されぱ、われらをして慎重ならしめよ。「非哲学的」ならしめよ。われらはいいたい、ーーーーーすべての意欲の中には、まず第一に感情の複数がある。すなわち、好(こう)と悪(お)という状態の感情があり、さらにこの好悪それ自体についての感情があり、さらに随伴する筋肉の感情があり、これはわれらが手足を動かさずしても、なお一種の習慣によって、われらが「意欲」するや否や活動をはじめる。されば、感ずることが、しかも多種多様の感ずることが、意志の構成要素として認められねばならない。これとひとしく、第二には、思考もまた意志の構成要素として認められねばならない。・・・・・(P35~34)


 『善悪の彼岸』(中山元訳 光文社古典新訳文庫)

 哲学者は意志について、それが世界のうちでもっともよく知られたことであるかのように語りたがる。ショーペンハウアーでさえ、意志だけはそもそも熟知されたものであること、完全に知られたものであることと考えていたし、〈何も足さずに、何も引かずに〉手にすることのできるものだと考えていた。しかしわたしにはいっでも、ショーペンハウアーは意志については、哲学者たちが長年やってきたこと、すなわち大衆の先入観をとりいれて、それを誇張することを繰り返しているにすぎないように思える。
 わたしには〈意志すること〉は何よりも複合的なもの、言葉の上だけで統一されたものであるように思える。そしてこの一語にこそ、用心の足りない哲学者たちをいつでも支配している大衆の先入観がひそんでいるのである。わたしたちはもっと用心深くあろうではないか、「哲学者らしくなく」ふるまおうではないか。第一に、すべての〈意志すること〉のうちには多数の感情が含まれていると言おうではないか。すなわち、そこから遠ざかっていく状態の感情と、そこへ向かっていく状態の感情が含まれる。さらにこの「遠ざかっていく」と「向かっていく」ことそのものの感情が含まれる。そしてこれに付随する筋肉の感情もある。これはある種の習慣であり、わたしたちが「腕と脚」を動かさなくても、「意志」を働かせると同時に動き始めるものである。だから意志のうちに不可欠なものとして感情が、しかもさまざまな感情が含まれることを認める必要がある。
 そして第二に、意志には思考も含まれるのだ。・・・・・

大して大きな違いはないのですが興味深いところがあります。

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