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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

パンドラの壺(甕、箱、匣)が書かれた「ギリシャ神話」の扱い

2011年11月27日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 さて今朝「パンドラの壺」に関しての話の続きになります。

 そもそもギリシャ神話というものは文学作品として紀元前8世紀の後半に盲目の詩人ホメロスの手による『イリアス』『オデュッセイア』や紀元前8世紀の末から前7世紀の初めごろに活躍したヘシオドスの手による叙事詩の『神統記』『仕事に日』『ホメロス讃歌』などに出てくる神話を言い、「パンドラの壺」は『仕事に日』の叙事詩に出てくる神話なのだそうです。

 研究者でないので図書館の本が頼りでプロメテウスとオイディプスの謎を解く『ギリシャ神話入門』吉田敦彦著 角川選書)という本を借り、その中に『仕事の日』の90~105行目に書かれているものとして次のように書かれていました。

<引用『ギリシャ神話入門』から>

 なぜその以前には、人間たちの種族は地上で、
 もろもろの災禍から逃れ、また辛い労苦と、
 人びとに死をもたらす、苦しい病気に悩まされることもなく、暮らしていた。
 だが女が、両手で甕の重い蓋を取り除き、
 それらをまき散らして、人間たちに忌まわしい苦難を、生じさせてしまった。
 その場所にはただ一つ希望だけが、堅牢な住まいである甕の口を越えず、
 内部に残り、戸外に飛び出さなかった。
 なぜならそれよりも前に、パンドラがまた、甕の蓋を閉めたからだ。
 山羊皮楯を持ち、雲を駆けるゼウスの意思の通りに。
 しかしこのときから、人間どものあいだには彷徨する、惨苦の数は無数である。
 地上にも海にも、災害が充満している。
 ある病気は昼に、また別の病気は夜のあいだに、
 死すべき者たち苦難を運び、人間どもにほしいままに襲いかかる。
 声も立てずに、なぜならば賢明なゼウスが、彼らから声を取り上げたので。
 このようにゼウスの心を免れることは、どのようにしてもけっしてできないのだ。
 
<以上p76から>

 上記のように具体的に原文の行数まで書かれているので細かな記述があるのかと思ったところ、

それらをまき散らして、人間たちに忌まわしい苦難を、生じさせてしまった。

と災厄の原基になるものが具体的に書いてあるわけでもなく、さらに「忌まわしい苦難」と簡単に災厄到来が書かれています。

 そこで他の本と思い探すと名著出版会の『ギリシャ・ローマの神話伝説』というものがありその第一巻に劇画風に細かに書かれていました。そう言えば過去にギリシャ神話に関係したことを書いたときにこの本を見るべし旨のコメントを受けたことを思い出しました。

 さてそこには必要な部分だけですが次のように書かれています。ここではパンドラの壺・甕でもなく箱という字の「匣」が使われています。

<引用『ギリシャ・ローマの神話伝説』から>

 パンドラは、おりおり、仕事の手をやすめて、匣のそばへ行って見ることもあった。けれども大神から「この匣を開いてはならない」と言われた言葉を思い出すと、わるいことでもしたように、そっとまたもとの場所へもどってきた。

 けれども毎日、毎日、ながめているうちに、好奇心は日ましにつのってゆくばかりであった。しまいには、見るばかりでは、がまんができなくなって、ついに手にとって、なぜてみたり、ゆすってみたり、耳をあてて聞いてみたり、鼻をおっつけてかいでみたりした。

けれども匣の中からは、なんの音もしなければなんのにおいもしなかった。なんとかして、蓋をあけないで、中身を知る法はないかと、いろいろに気をもんでみたが、どうしても、思うようにゆかなかった。

 今では、匣のことが気になって、どうかすると、夜も眠れないことがあった。夜半に、ふと目をさまして、夫に向って、こういった。

「あの匣の中には、一体、なにがはいっているのでしょうね?」

「それはわからない。あけてみたら、わかるだろうが、あけてはならないといわれたのだから、仕方がない。まあ、いいから、ねようよ。ねむくってたまらない。」

 こういって、男はまたぐうぐうと眠ってしまうのであった。
 けれどもバンドラは、もう、夜も、昼も、匣のことばかり気になって、じっとしてはいられないくらいであった。

「あけて見て、わるいくらいなら、なぜあんな匣を下すったのだろう。下すったからには、ちょいとぐらい、あけてみてもよさそうなものだ。」

 こう思うと、バンドラは、もう、どうしても、がまんができなくなった。
 
 彼女はふるえる手先で、そっと蓋をあけた。すると匣の中からは、なにかつきあげるような手ごたえがして、匣の蓋をぱっとおしあけたと思うと、たくさんの羽虫のようなものが、飛び出した。それは匣の中に封じられていた、心配や、悲しみや、疾病や、貧苦や、怒りや、嫉みや、憎しみや、いつわりや、恨みなぞの、醜い、恐ろしいものが、一度にぱっと、飛び立ったのであった。

 バンドラはあわてて蓋をしめたが、もう間に合わなかった。醜い羽虫らは、彼女の髪へとまったり、耳のそばで、ぶんぶんいったり、部屋中一ぱいになって、しばらく飛びまわっていたが、そのうちに、窓から飛び出して、世界中へ散ばって行った。

 バンドラはまっ青になって、ふるえながら、しつかりと匣をおさえつけていた。その時、匣の中から、かすかに、泣くような声で、

「出して下さい。出して下さい。」

といって、しきりに蓋をたたく音が聞えた。

 バンドラはそっと蓋をあけて、もう一度、匣の中をのぞいてみた。その時、直の中からは、かわいらしい、小さな羽虫が、ただ一つ、飛び出してきた。

「バンドラさん。わたしは『希望』というものです。これから先、いつまでも、あなたのそばにいて、あなたのお友だちになりましょう。あなたはこの匣を開いたので、人間の上に、悲しみは絶えないことになりましたが、せめては、心ばかりのなぐさめを与えて、どんな苦しみにも、ふみこたえてゆくだけのカをつけるのが、わたしの役目です。」

 この言葉をきいた時に、バンドラの頬には、かすかに血の色がのぼってきた。そして胸のうちに、新らしい勇気が芽を出した。どんな苦しみの中にいても、希望だけは、自分のそばをはなれないことがわかったからであった。

<以上p69~p72>

 これまでに串田孫一、阿刀田高などのギリシャ神話を見てきましたが、やはり戯曲です。 この名著出版会が想像の世界にひたることができます。

 実は2009年は太宰治生誕100年に当りブームが起こりました。その時に映画監督の冨永昌敬さんが「パンドラの匣」という映画を作っていました。

 そうなんです文豪太宰治先生が「パンドラの匣」を書いているのです。

<太宰治先生「パンドラの匣」(青空文庫)から>

 君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑(さいぎ)、陰険、飢餓、憎悪(ぞうお)など、あらゆる不吉の虫が這(は)い出し、空を覆(おお)ってぶんぶん飛び廻(まわ)り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶もだえなければならなくなったが、しかし、その匣の隅すみに、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。
 
 それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷(いちる)の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依(よ)っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓(つる)が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。
 
<以上サイト青空文庫から>

 この物語を映画化したのですが、太宰治は「希望」という字が書かれた光る石にしています。

 名著出版会版は希望からパンドラに声をかけています。

 そうなると私の「無限地獄はありえない」はどうなるのか?

 戯曲である。過去から伝えられている、いわゆる伝承をもとに創られているものに違いはないのですが・・・・・このパンドラの壺、甕、箱、匣に残された「希望」・・・・・奥が深いのであります。

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