思考の部屋

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真田丸始まる 海野六文銭と真田六文銭

2016年01月10日 | 歴史

 郷土史研究という歴史思考から哲学思考に移り15年ほどになるだろうか。考古学によって新しい歴史事実が明らかにされてはいるが、文献学上の歴史というものはさほど新しき資料が発見されない限りさほど歴史物語は変わらない。

 日曜日から歴史大河ドラマ『真田丸』が始まった。六文銭の旗印、昔、関東管区機動隊という機動隊バス(松本ナンバー)に六文銭を見た。聞いたところ松本の部隊で静岡の機動隊が葵の御紋、山梨の部隊が武田菱、新潟部隊が毘とかで・・・なるほどそれぞれの県には慕われる有名武将がいるもので当然長野県は真田一族となる。

 松本部隊なら小笠原だと歴史の知る私ならばそう思うのだが、小笠原は知名度がない、何といっても六文銭の真田だろう。

 個人的に私は養子で実家の家紋は真田と同じ六文銭、養子ではあるが羽織は六文銭である。是は海野六文銭で真田六文銭ではない。言い伝えによると夏の陣では真田信繁軍の家臣であった「下記(げき)」なる先祖がなくなっているとのことで、それでも真田六文銭ではなく海野六文銭という伝承であった。

 大坂の陣で真田信繁軍が全滅した後、海野郷(現東御市)に残っていた海野一族は信繁派も信之派に合流しその延命を図った。当時の家制においては男子全員が戦に行くのではない。農業の合間に戦をするが、必ず血族の男子を残すを常とした。

 山に逃げ、寺に逃げ、穴の中に逃げる。戦わない女子どもらを守る役目を持っていた。

 まぁそういう話はここまでとし、真田ブームで関連本が書店に並んでいる。不思議なことに真田家の出自の項の薄さに驚く、隠された事実で公にできないことが多いのかと思ってしまうが、つじつまが合わない話になってしまうので書かないほうがよいだろうとあえて書かないのが本当だろうと思う。

 

写真は上田市塩田にある生島足島神社に残る海野一族(海野衆)の起請文(真田右馬助綱吉)

昔、「真田三代の菩提寺とはならなかった海野氏の菩提寺について。」というブログを書いたことがあります。海野一族の寺東御市にある曹洞宗の寺瑞泉山興善寺に関係した話を書いたものです。

この起請文に書かれている「真田右馬助綱吉」とは何者なのかということ。

 歴史物語として語られないこともある。

 個人的には真田幸村(信繁)は好きだが、その兄とその父はどうも好きになれない。

 


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