思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

逢魔ヶ刻

2004年11月20日 | 風景
 「逢魔ヶ刻(おうまがとき)までには家に帰りなさい。」と親に言われたことがある人は、私と同じ年代か、余程親が迷信深い家庭に育ったかであろう。

 「夕方の薄暮時になると魔物が現れ頃なので、憑依されないうちに家に帰りなさい。」という意味である。
 「逢魔ヶ刻」とは、古い時刻の表し方である。

 魔物について検索すると「幽界の暗部に潜むものたち。姿形や能力は様々だが、欲望、あるいは妄執(もうしゅう)に従って生命あるものに襲いかかる。本来は現世には滅多に姿を現すことはないが、グリフィス復活以降、頻繁に現世に現れては人々を襲うようになっている。」と表現するページもあった。

 最近中学校の生徒に話す機会があり、この言葉を使って悪い人にならないように願い講話をさせていただいた。
 そもそもこの言葉を考え始めたのは、とあることで、深夜の稼動者についてを観察したところ、正常な人たちとは何なのか考えさせられてしまったからである。

 電気がない時代は、日の出とともに起き、日没とともに床につくことが習慣で、夜間徘徊する者は、泥棒ぐらいであったが、電灯というものが発明されてからは、深夜飲食店などをはじめする店舗が立ち並びいつの間にか、夜遅くまで人々の欲望を満たす歓楽街が形成されてきた。
 歓楽街を形成する店舗経営者は、ヤクザからの「みかじ料」要求に屈し、営業せざるをえない者から、暴力バー、エステ、ヘルス等のそのヤクザ組織周辺者などである。
 24時間営業のコンビニ、ゲームセンター、ロックハウス等には、親が子供を干渉しない家庭に育った中高生、職を持たない少年少女がい集している。

 現代社会における深夜というものは、魔物の徘徊が顕在化してる世界のような気がする。
 古い時代における魔物は夜盗以外は想像の域を出ないものであったが、現代社会は、鼻に金属輪、頬に釘状のもの、皮膚にはうろこ状の入れ墨、トウモロコシの毛のような頭髪、サングラスという黒い目を持ち足が短く見えるズボンを穿いた野獣(人)、後は表現ができない程のスタイルの魔物が巣づく魔界の世界(世間)である。

 比丘と仏陀の会話の中に「比丘よ、破壊するが故に世間と称せられるのである。」という言葉がある。

 諸行無常の世界である。


 

日本古代の精神史

2004年11月20日 | 風景
 現代日本の精神構造を語る場合に、古代いわゆる縄文、弥生、記紀時代等の古代人の精神構造や文化を引合いに出したり、一神教と多神教などと宗教的な背景の相違などを引合いに語っている場合が多い。
 その中で玉川大学出版部から出版されている津城寛文氏の「日本の深層文化序説」は、歴史主義、文化心理主義、民族主義の3つの深層と宗教文化の深層研究により現在の各研究領域における日本文化の深層を語るもので、お勧めの一冊である。

 大和言葉の「罪(つみ)」という言葉の「つ、み」の響きは「自然の流れを阻害する行為、現象」を人の心に植えつけるものではないかと考えている者としては、日本人の精神構造を知る上には欠かせない書籍である。

 戦前の古典研究書は、皇国史観の批判の中でいまだに評価されてはおらず、歴史的な価値もないものと扱われているように見える。
 宮崎秀春、次田潤、飯田武郷、佐佐木信綱、大西貞治、久松潜一、石井庄司、竹野長次などという第二次世界大戦前の人は、省みられることもなくなり、戦中左翼的とされいて戦後一時評価された津田左右吉や武田祐吉、倉野憲司のように戦後も活躍できその著書が参考文献とされている者いる。

 戦前の研究者すべてが、大和魂や天皇制の正当性ばかりを論じてるわけではなく、古代人の精神を熱く語る者も多い。

 人の考えは、環境も変われば変化するし、自己の主張に誤りがあれば訂正、補正するのが当然で、開かれた社会実現のためには批判的な理性は、ある程度の抑えられるべきものであり、ポーパーの「可謬性」はここにある。

 宗教が人間性に影響を与える場合が多い。

 スコットランドに「フィンドホーン共同体」というのがある。神の啓示を受けた者を中心にその教えを忠実に守る生活共同体である。
 そこで語られている、神の啓示なるものの内容を見ると「今日の大切さ。この瞬間を思い切り生きなさい。あなたにとって今日はすばらしい日。今日は輝かしい日。」というものがある。
 今日という日、今という瞬間の大切さが彼らの神の啓示の一つとされているのである。

 これは「一大事とは今日只今なり。(正受禅師)」と同じっことで、中部経典の一夜賢者の話と同一である。
 ユング心理学の普遍的無意識内の万人共通の深層意識のようである。

 仏陀は、この悟りを神から受けたわけでなく快と苦の中間の中道における悟りから導き出した。
 最近山を登り前常念の石室跡を見て山岳信仰の修験道は、荒行という過程を経て山と山頂からの自然の荘厳さ、自然の四季のうつろいを観ることにより「只今」の持つ意味を体得するのではないかと思った。

 最近新興宗教の女性が、竹刀で叩く「修行」という名の行為が原因で死んだというニュースが流れた。

 意識朦朧の状態での悟りなどというものはありえない。意識状態が正常でない状態での真理への到達など確証できないから仏陀は中道をいったのであり、論理的にも当然のことである。

 従って、凡人の知識が真理であるということはありえず、常に誤っている可能性がありそれを認める謙虚さがなければ、開かれた社会は秩序なき社会へと変貌していく。