思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

摂理

2004年11月23日 | 風景
 市内の進学塾のビル入り口掲示板に「自然は誰かに見せようなんかしていない、なのにその摂理は美しい。」という言葉が掲げられている。
 この場合の「摂理」の意味は、辞書から「キリスト教その他の宗教で、神または精霊が人の利益を慮って世の事すべてを導き治めること。」である。
 秋という季節に入り木々の紅葉だけでなく、夜明け前の明け前の南東の空に浮かぶ月と金星の織り成す風景の中にその摂理を感じることになる。
 しかし摂理は、心地よい美しさばかりではなく、目を背けたくなる光景や、また事態にも現れる。
 世の中のすべての現象がその摂理によるもので、その主体は人間にとっては善のみではなく悪にもなることが分かる。
 然るに「神または精霊が人の利益を慮って世の事すべてを導き治めること。」となると「神・精霊」は善のみの存在ではなく「和御魂」「荒御魂」の総体魂的な存在である。
 したがって日本の古代人の神概念は、荒御魂の鎮魂にも祈願の意を向けた信仰の中にも見出すことができる。
 しかし目を世界に向けると神概念が、争いの中で平和国家建設のための秩序確立のために神の名における啓示という統制の中で形成されてきたものもある。
 絶対であり妥協は許さない。一歩優しさをもって下がるなどという奥ゆかしさなどは無い。最終兵器を使用可能にさせる。
 過去の日本も秩序確立のために、国民総決起のために統一概念を精神上に国民に移植した時代があった。
 ビックバーンという縁起の基が現在という結果を造形している。混沌としたなにも存在し無い状態では摂理などはなく、あるとするのは人が作り出す概念であるからである。
 しからばビックバーンはなぜに発生したのか、「発生した」と考える我があるからそのように想起するのであり、現在という結果の中にアートマンの存在を人が認めるからである。

お釈迦様が仏陀になったとき

2004年11月23日 | 風景
 漢訳ではこの経の同本がないという「一夜賢者の経」を探究すると「一大事

とは今日只今のことなり」の正受禅師の詩の持つ意味の重大さに気づいた。
 気づくというよりも釈迦族の王子は苦楽を離れ中道にそれを見出し仏陀にた

どり着いたなどと思うようになった。。
 セイロンのとある仏教協会の瞑想、禅宗の只管打坐、題目の唱導、念仏三昧

もそれぞれ手法は異なるが、同根の瞬間における開眼という目覚めに至る手法

である。それは仏陀(悟れる者)への道でもある。

 悟りという光明が射した時期、仏陀に至った時期については菩提樹下の降魔

成道であるとされるが、近頃は初転法輪がなされたときと思うようになった。
 無我をとる以上魂は存在するはずも無く、輪廻転生は成立しないが、縁起に

よる転生は菩提心の最終的な赴きであろう。
 従って無自性の私(仮名)が赴くところはその後に残された者への生活環境

への影響、遺伝子情報、思想等の形あるもの無いものを残すことである。

 今日只今真面目でなければ、子孫や社会に与える個人の影響は大きい。
 最近の女子小学生誘拐殺害は、犯人の持つ遺伝子、人格形成に至る環境など

を考えたとき、本人の親も含み先祖の罪深きこと、本人を取り巻く環境を形成

した家族、社会の責任は大きいことが分かる。