特に待たれているわけでもない、8ヶ月ぶりの思いつき禅問答シリーズ。
昔むかしのある日、師匠と弟子が連れ立って歩いていると、突然草むらから野鴨が飛び立つのが見えました。すると、師匠は弟子に向かって、
「おい、あれは何だ?」
「野鴨ですよ」
「どこに行ったんだ?」
「飛んでっちゃいました」
それを聞いた師匠は、いきなり弟子の鼻先をつかんで捻りあげました。
「あ痛っ!」
「いったいどこに飛んでいったというんだ!(ここにいるじゃないか)」
この禅問答の解釈でよく言われるのは、野鴨が「真の自己」や「悟り」あるいは「仏性」を意味しているというものです。
師匠はそれを問うているのに、弟子は師匠の意図を理解できずに、単に自己の対象物としてしか野鴨を見ず、どこに行ったと言われれば、また見たままを答えるだけでした。
そこで、師匠はその錯誤を打破するため、弟子の鼻を捻り、悲鳴をあげたところで、問われているのが「真の自己」や「仏性」なのであって、それは、まさに今悲鳴を上げている、ありのままの自分自身のことだと教えたのだ・・・・・と、解説されるわけです。
例によって、私はこの類の解釈はつまらないので採用していません。私は、この問答は、有名なナーガールジュナ(龍樹)の『中論』の理論的核心をなす、「去るものは去らない」という理屈の禅問答バージョンだと考えると面白いと思います。
「去るものは去らない」という一節の解釈は、もう何人もの学者がしているので、ご存知の方も多いでしょうが、ここでざっとおさらいしておきます。
「去るものは去らない」という、ほとんど詭弁のごとき言い方の要点は、たとえば、「彼は歩く」と言葉で表現される事象に関する我々の了解の、原理的な不備を突くことにあります。
通常、我々が「彼は歩く」と言うときには、その彼は当然、その時「歩いている彼」ということになります。だとすると、すでに彼は「歩いている」以上、その彼がさらにまた「歩く」ことはありえません。したがって、「歩いている彼は歩かない」「歩くものは歩かない」となるわけです。
すなわち、この理屈は、言語によって概念化することで成り立つ我々の認識は、縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解すると主張しているのです。
野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。
このような事象の発現構造(縁起)を自覚しないまま、日常の言語行為どおりになされた弟子の認識を断絶させるため、師匠は突然の物理的ショックを与えた上で、「どこに飛んでいったというんだ!」、すなわち「飛ぶものは飛ばない」と教示したわけです。
禅問答というのは理屈じゃない。
感覚だ。
だからそれは信仰と同じ感情なのだ。
それが正しいか正しくないかはわからないし、どうでもいい。
禅は、信仰じゃないとか信心だとかどうでもいい。
そうしたいなら、そうすりゃいい。
こうしたいなら、こうすりゃいい。
警策(座禅の時、背中を叩く棒)で片肩30発
計60発、背中をビシバシの戒めがあります。叩く方も一苦労です。
テレビで見る座禅の風景や一般の人相手の座禅会では
大きい音の出る軽い木(警策)を使います。
パ~ンと2発ずつ背中を叩いているのを見ますね。
気持ちの良い大きな音がします。
叩かれている方は、音のわりに痛くないんです。
しかし禅堂では、思いっきり叩きますので、軽いのではすぐ折れる。
だから特注の「樫の木」で出来た折れにくい、重たい棒を使います。
考えただけで怖~いですね~。
もっと怖いのは、折れると勿体無いという理由で、
持つ手の方で叩く時がある。持つ手は持ちやすい様に、太くなっている。
折れにくい・・遠心力で強く叩ける・・空気抵抗が少ない・・・
さ~すが先輩雲水さんはカシコイ。憎い程カシコイ。
因みにガムテープで補強する禅堂もあるとか。
何か罰を設ける、戒律を作る、ルールを作るってのは、
私たちが未熟なんでしょうね。皆が自覚して生きていれば、
いろんなことが必要最小限で済むと思います。
だから今の世の中、法律がドンドン作られ、複雑化しているって、
私たちが退化している証拠なんじゃないかって観じます。
そして事件は起こりました。
ある日、托鉢から帰った時です。副司さんに呼ばれました。
副司さんの部屋に行きます。
「お願い致します。○ソ、只今参りました」
そう、出家者は2文字の僧名があります。
これが戒名になるんですが、その下の字を呼び名にします。
例えば「じゅんしょう」なら、呼ぶ時は「しょっさん」。
そして自分を言う時は、下の字で「しょっ・そ」
「そ」、が付くんです。
ふすまが開きます。副司さん、厳めしい顔です。
「低頭!!!」
あちゃ、何??? 瞬時に板の間に土下座です。
それから延々5~6時間土下座です。
雲水は下着・襦袢・着物、そして上に衣を着て、
腹には太くて長い腰紐っぽいのを巻きます。
腰紐の太さは4cmぐらいあるかな~長い輪になっていて
伸ばせば2m余りぐらいあるか。。。
お腹の所で水引みたいな感じで結びます。
だからお腹が苦しい。おまけに暑い夏でした。
顔はムクムし、汗ダラダラ。板の間だから足が超痛い。
板の間に汗溜りが出来ます。
理由は托鉢の時、列を乱し前の人と話しながら歩いていた。
それを道場の住職(老師)に見られてしまったんです。
雁行といって真っ直ぐ一列で歩かなくてはならない決まりがあります。
住職はタクシーに乗ってお出かけの途中に見ちゃったんですね~。
わざわざタクシーから電話しなくても・・・。
当時携帯電話はかなり高額で、大きなバッテリー付だったのを覚えています。
住職の乗った、いつものハイヤーは電話付でした。
便利になってるようで、当たり前になってることとか、
ほんとにいい事なのかな~って想う今日この頃です。
昔ながらの方法でってとこの製品って、結構イケるのが多いですよね。
5~6時間経った時、副司さんが「頭をあげよ!」と声が掛かりました。
ふ~やっと終わったか・・と思うのも束の間
顔を上げた時、暑さと苦しさと顔のムクミを見て
「おまえ寝てたのかっー!!!」って怒鳴られました。。
こんなんで寝れまシェ~ン~と思いながら無抵抗の私・・・
「踏んだり蹴ったり」の意味がよく解りました。
そして罰警。これが当たり前ですが痛いんですよ~~。
叩く位置は背骨と肩甲骨の間。
冷静に考えてみれば、警棒の幅が広く、命中率数%。
叩かれる方も背中を丸め、骨に当たらない様にします。
1発でさえ的に当てるのは難しいのに、30発も連続で叩くと外れまくり。
背骨・肩甲骨に何発も命中します。歯を食いしばり、拳を握り締め耐えます。
その日から2週間程、背中が腫れて見た目猫背になり
痛くて仰向けで寝れませんでした。。。
最近想うのは、修行って特別な場所で特別な事をするから
特別な何かが得られるというイメージがありますが
学びは、「いま・ここ・この私」(これは禅の標語です)で
普段の生活の中にイッパイ題材はあって、
わざわざ遠くまで行かなくても、、、と観じています。
きっと、特別や奇跡はないんでしょうね。
道場の住職は、雲水を指導している「老師」さんです。
臨済宗では老師というのは、長く修行し「公案」という
禅問答を5000余りこなし、教わった老師さんから認可を
得ると老師になれます。短くて10数年は掛かる修行です。
勿論妻帯はほとんどの老師さんはしていません。
私の行っていた道場の老師さんは、とても一般の人に人気のある、
話の上手い老師さんでした。字も上手く
思いっきりお腹も出てて、、、関係ないか。
その道場で2年目、1年間、
典座(てんぞ)という料理等の役をしました。
この役に付くと、色々内情が分かります。
住職さんはご自分で食事をされてました。そのゴミを典座が焼く、、、
畑の中の大きな穴に、一つずつゴミを投げ入れ丁寧に焼きます。
!☆#&%$”””ゴミを見た先輩雲水が苦笑していました。
私は、自分のなかに「こうあるべき」という強いものを持っていました。
「お坊さんとは」「父親とは」「母親とは」・・・
いまから想うと、とても苦しい毎日を送っていました。
そして人にも「こうあるべき」と思っていました。
そして善悪を判断し、他人を非難し、結局は自分を非難していました。
いま想うと、周りから「こうあるべき」を手放してくださいというメッセージを、
とても解りやすい形で教えてくれていました。
ある方は、とてもハチャメチャなお坊さん。
そしてある方は、とても厳格なお坊さん。
背中で行動で言葉で、メッセージを送ってくださっていました。
そして私の中の拘りを見せて下さっていました。
時にはストレートに、時には反面教師に。
人に対して想うことは、自分に対しても想っている様です。
自分自身を見せて下さっている。
そう自分自身なんです。全ては「自ら」なんです。
全ては自分の責任でした。まったく気付きませんでした。
いつも何かのせいにしていました。
おまけに頭の中の理想と、現実の行動が全く不一致。
これでは素晴らし過ぎるメッセージが、天アラレと降り注ぐのは明白でした。
若気の至り、今も続く・・
一度、僧堂に体験入門されると良いと思います。
本当に、人生が変わってしまいますよ。
有難うございました。
いわゆる、軍隊や警察の精神訓練に似ています。
真っ当な仏教の宗派であれば、相手が指定暴力団でも葬式や法事をしっかりと行います。
もし、相手の素性で葬式や法事を断る様な、差別する様な宗派ならば、それは、もはや仏教ではありません。
そういう意味で、僧堂という専門道場は精神的に強くなれる場であるわけです。
心身は一如であり、心が強くなれば、身も強くなり、度胸もつきます。
暴力団の法要引き受け、葬祭場責任者に警告~北九州~
上の記事によると、北九州の葬祭業者が山口組系暴力団の三回忌法要を引き受けて市と警察に警告を受けた、ということです。この記事には出ていませんが、北九州市は今後、市の慰霊祭などの行事ではこの業者を排除する、とのことです。
さて、これはなかなか難しい問題ですね。
葬祭業者は北九州の暴力団排除条例に違反した云々、ということで処分されても致し方ないのかも知れませんが、これが業者ではなくて、寺院であったならどうでしょうか。
数年前、山口組の法事を延暦寺で行った時に問題となり、延暦寺執行が辞任にまで追い込まれるという「事件」がありました。全日本仏教会は「暴力団排除」宣言を出しており、これとも抵触する行為であるとの指弾を受けたようです。
ま、全日仏などはアレな組織ですからあまり考慮しなくてもいいとして、暴力団と仏教の関係については、ちょっと真剣に考える必要があるかと思います。
でも、結論はもう出ていると思うんですけれどね。
釈尊はアングリマーラを排除したでしょうか。
これがすべてでしょう。
法事や葬儀を暴力団の示威に利用される場合ももちろんありますし、香典名目での資金調達の場にされる可能性も高いとは思います。しかしだからと言って、暴力団構成員であれば、問答無用に寺院の扉を閉ざし、仏法に触れる機会すらもなくしてしまうのが、仏教者として取るべき道であると、私には思えません。
せめて仏教界くらいは、世俗の機関と同じような「排除の論理」で動くのではなく、自らの宗教的役割をもっと自覚して、世俗的価値観を超えた「万人に仏性あり」との価値観で行動できないものでしょうか。暴力団構成員であれ誰であれ、仏の慈悲の対象からは絶対に漏れていないですし、万人はひとり残らず自性清浄な如来の法身なんですから。
そもそも檀家が組の構成員であれば、その葬儀や法事もしてはならないのでしょうか。一々警察にお伺いを立てて、市の条例のチェックをして、仮にそれらをクリアしなければ、仏法を説く対象から彼らを排除しなくてはならないのでしょうか。
それが私たちが説いている筈の「慈悲の心」なんでしょうか。
もちろん暴力団の示威行為に利用されたり、資金調達に利用されるのは避けるべきです。
しかしそれは知恵を出すべきでしょう。解決策はあるはずです。
本山等で法事を大々的にするのではなく、個々に菩提寺がある筈ですから、そこで親族中心にして、地域の常識的な規模でやるようにする等です。
その努力もせずに、排除してしまえばトラブルもなくて宜しい…というのであれば、それは仏教者としての責務を放棄しているとしか思えません。