宗教哲学を学際に語られる神とか魂とかまた精霊という言葉に自分の理解の内にその意味理解をしようとするが、私の場合、実存という哲学用語と同じように人それぞれの理解背景があってなかなか意味理解に苦労します。
軽薄な素人であるからと一笑に伏されても仕方がありませんが、言葉を使い表現するということは難しいことです。
理解の読者登録しているブログにルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」の言葉を見て改めてその意味を思う機会を得ました。
凡人は難しさや不理解にあるから何かと不可知にありますが、そんなときに「そうだ」と身体を投げ出すしかない場合があります。V・E・フランクルの次の言葉に感激したことがありました。
そもそも神については語りえず、ただ神に向かって語りうるのみではないか、と言われるが、これは全く疑問である。われわれは、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」(whereof one cannot speak,thereof one must be silent)という命題を、単に英語から翻訳するだけではなく、次のように不可知論から神有論に翻訳することもできるーーー語りえないものに向かって祈らなければならない。(V・E・フランクル著『人間とは何か』(春秋社・p412から)
祈りの中にある人、ひたすら只管打坐する者は身体を投げ出しています。「祈る」「坐る」は「ひたすら」に「そうだ」であって、放下であり離脱であるように思います。