[思考] ブログ村キーワード
台風が近づくなか雨が降り続けています。昨日のブログに「セイタカアワダチソウのある風景」で時々紹介していた山麓線から国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)に向かう交差点に咲いていた外来危惧種植物のセイタカアワダチソウ(背高泡立草)が刈り取られた話を書きました。
写真も掲載したかったのですが、実は刈り取りをしていた人の車が駐車されていてその車が写った風景は、刈り取る人への批判の意味に取られては意に反してしまうので掲出しませんでした。
ということで昨朝雨降りの中でしたが今朝の見出しの写真のとおり、雲で常念岳は見えませんが、セイタカアワダチソウのあった場所を撮りました(見出し写真)。
この花が咲いていたころの風景は、次のとおりでした。

それぞれにみる風景に何を思うか。
美的な評価で見るか。
セイタカアワダチソウという植物を知っていると、この花の宿命的なものも考えてしまいますが、全く何も知らなければ常念岳の山麓に咲く黄色い花という風景が見え、そこには全く異なる感情が立ち現れてくることに気づきます。
常念の 山の裾野にたどり着き 根張りの後は たゞ秋の風
外国の地にあったセイタカアワダチソウは、常念岳の裾野のこの場所に巡り巡ってたどり着き、季節になれは永遠に咲き続けることになりました(除草・除染されなければ)。
種子は風に舞い、物に付着し・・・河川に咲い花から落ちた種は河川の砂に混じり埋め立て用の砂として使われその生息地を広げていきます。
人工的なのか、それともそれこそが自然の姿なのか。
人工物、人の手によって造られる物。
自然科学の産物、科学技術の産物。
そこには新しき存在の主人公があるように見えるわけです。
古代ギリシャのアリストテレスは、
素材と作られたものを「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)という言葉で語ります。
サルトルは次のようなことを言います。
作る人がいる。作る人は、これから作ろうとするものの用途や目的(ナイフの本質)を考えなければならない。作る人は、このナイフの本質にうまく合うような物を作る。こうして作られたナイフが持っているの一定の形体が、ナイフの実存になる。
そして有名な言葉、ナイフの場合は「本質が実存に先立つ」となります。
ハイデガーは、「現存在の本質は、その実存にある」と言います。
・現実存在(existentia)=実存
・本質存在(essentia)=実在
「物」の存在を実存、実在に分けると個人的に難解すぎて理解不能に陥ります。
過去に、
「実存」と「実在」・事実存在と本質存在について[2012年05月26日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/98d0e58401b22b34de160df592f5e817
と、書きましたがサッパリいまだにわからないというのが本音です。素人であるから当然なのですが、頭の運動にはなるかもしれませんが、そのうちに何を求めようとしているのか、それ自体が解らなくなります。
形相(エイドス)が素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスの形而上学では現実態(エネルゲイヤ)と言いますが、エネルギーという言葉はこの「エネルゲイヤ」が語源です。
どうしても「物」という言葉に唯物的な感じが強く現れます。
思考は過去の記憶か立ち現れますが、それは経験からであり学習したものからでもあります。
本来的な日本語である「もの」という働きも含めた唯心的な「もの」も含まれる矛盾的な存在それ自体を「一」として現れた場所に見なければスッキリしないのです。
西田哲学の言うところの「矛盾的自己同一」という言葉の意味するところをそのように解することで非常に落ち着くのです。
私と言う存在もまさにそのような立ち現れです。
「セイタカアワダチソウのある風景」からこのような話になってしまうのですが、ゾンビやキョンシーではなく命のある人間存在そのものを裸の実存というならば私と言う存在を考え直すには非常に理解しやすいのです。
裸の実存は、真っ新な実存であって誕生として生(あ)る存在ばかりではなくその後の生からの名誉も財産も全てを失った命ある存在だけの状態をも意味すると考えるならば、何を着飾るべきかの問われている意味が見えてくるように思います。
何が見えてくるのか。
より処として自分のありべき様(さま)
「どういうあり様をしているんだい」「様がない」
「様相」という言葉があります。
・現実的(実際にそのままであること)
・可能的(やがてそれになる可能性をもつこと)
・必然的(それ以外ではありえないこと)
カントは判断の思惟機能をこの三つに分けました。明治以降の西洋教育ではこのように学習してきました。
何かが足りない。
おかげ様でありがたいことです。
「おかげ様」をどこかに忘れている、そんな気がするのです。
日本語の「様相」という言葉の意味に「物事(ものごと)のありさまやようす」という意味もあります(『大辞林』・三省堂)。
このブログの原点に戻り「セイタカアワダチソウのある風景」即ち様なのですが一枚の風景に何が見えてくるか。
風景が何かを語りかけている。
環境が何かを語りかけている。
総じて自然が何かを語りかけている。
裸の実存としてそのような受け皿の様(意味器官を有する)になっているのが人間なのだと思います。


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