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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

紅葉の落葉の絨毯

2013年11月12日 | 風景

 山麓の紅葉した葉は、休日の雨と風でかなり落葉となり、我が家の今朝は紅葉した葉の絨毯を踏み出勤することになりました。

 日本ほどカラフルな色の紅葉は西洋にはなく、銀杏の樹のような黄色の葉が主なようです。

 苔の上に赤や橙、黄色の葉が落ち、苔の緑が一段とその濃さを現わします。

 「しばらくは、このままに」という妻の言葉に納得。枯葉になるまで片づけはせずにおこうと思います。

 安曇野市有明の山麓から北に30分ほど車を走らせた池田町に1センチ程の積雪が近づいてきました。常念は雲がかかり頂上は見えませんが、周辺の山は霧氷でしょうか木々は白くなっていました。

 間もなく積雪、凍結道路と出勤時は渋滞が予想されます。ネックになる地点は安曇野市と松本市の境にある倭橋(やまとばし)、梓橋(あずさばし)。橋は橋下が風の通り道、橋上のアスファルト上の水分を氷結させます。

 したがって橋は渋滞の源基になります。普段なら5分程度の渋滞も30分以上の渋滞になります。

 あと1年と5ヶ月、通勤というある種の苦からの解放を想い、我慢我慢。

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連休一日目・散歩と美術館

2013年11月02日 | 風景

 今朝も濃霧。寒さは昨日ほどではなく午前8時ころ愛犬ララを連れ山麓線の山道を1時間30ほど散歩をしました。

 秋の収穫が終わった田んぼから気温差で蒸気が上がり、これも霧の一因になっているようです。

 有明山尾裾野のリンゴ畑、真っ赤なリンゴが色鮮やかです。

 木漏れ日の坂道をゆっくりと・・・紅葉が裏山まで来ました。



 今日は一日天気で、午後は豊科近代美術館で開催されている「20世紀~山形美術館 服部コレクション~フランス絵画展に行ってきました。



60点ほどが展示され10月25日から12月8日までの開催。



 芸術の秋にふさわしい一日でした。


霧と紅葉の季節到来

2013年10月31日 | 風景

 霧という自然現象は、春にもあるが本格的な霧となるとちょうど今頃の季節になります。信州安曇野の山麓に住んでいると一寸先も見えなくなるほどに霧が立ち込め、通勤時は車のライトを点灯し十分な安全速度で走行しないと大事故につながります。

 高い山に登ると雲や霧で視界がゼロになることもありしばらくの間動かずにじっとしていることもありますが、山麓といっても所詮なだらかな山間地霧の動きも早く一キロも進むとアッと視界が広がります。何年か前に霧についてはブログアップしたことがありますが、辞書には、

きり【霧】[名](動詞「霧る」の名詞化)
  細かい水滴が、地面や水面の近くの大気中に煙のように
 なっている現象。上代では四季を通じて用いられたが、平
 安時代以降は、秋の現象だけに用いられるようになった。
            (三省堂『全訳読解古語辞典』)

と、古くから霧は秋の現象として捉えられていたようです。

 ついでの話ですが霧という言葉の熟語として「霧の迷い」という言葉があります。「心の迷い。悩みを霧の中を彷徨うさま」を言い表した言葉だそうで、なるほど迷いの心は、霧に視界をさえぎられ右往左往する身体の動性と似ているようで言葉になるのですから共通認識、共通感覚なのでしょう。

 霧が立ち込める安曇野宮城を後にし、車が山麓線の国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)入口交差点に近づくと常念岳に日が当り、山の手前にわずかに霧が流れるのが見え、今は無きセイタカアワダチソウのいつもの場所もそれなりの安曇野の風景となりました。

 紅葉も山麓まで下りてきました。我が家の庭の木々も赤みを帯び落葉も多くなり、今日は早めの帰宅となり落葉のかたずけをしました。

 最近山の食力も尽きたのか日本鹿や猪が街中まで降りてきて今日は松本城付近まで出てきて人にケガを負わせた後捕獲されるという騒動がありました。私の住んでいるところは猪は出ませんが、以前は鹿が現れたことがあります。


今季最後の「セイタカアワダチソウのある風景」

2013年10月25日 | 風景

[思考] ブログ村キーワード

 台風が近づくなか雨が降り続けています。昨日のブログに「セイタカアワダチソウのある風景」で時々紹介していた山麓線から国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)に向かう交差点に咲いていた外来危惧種植物のセイタカアワダチソウ(背高泡立草)が刈り取られた話を書きました。

 写真も掲載したかったのですが、実は刈り取りをしていた人の車が駐車されていてその車が写った風景は、刈り取る人への批判の意味に取られては意に反してしまうので掲出しませんでした。

 ということで昨朝雨降りの中でしたが今朝の見出しの写真のとおり、雲で常念岳は見えませんが、セイタカアワダチソウのあった場所を撮りました(見出し写真)。

 この花が咲いていたころの風景は、次のとおりでした。

それぞれにみる風景に何を思うか。

 美的な評価で見るか。

 セイタカアワダチソウという植物を知っていると、この花の宿命的なものも考えてしまいますが、全く何も知らなければ常念岳の山麓に咲く黄色い花という風景が見え、そこには全く異なる感情が立ち現れてくることに気づきます。

 常念の 山の裾野にたどり着き 根張りの後は たゞ秋の風 

 外国の地にあったセイタカアワダチソウは、常念岳の裾野のこの場所に巡り巡ってたどり着き、季節になれは永遠に咲き続けることになりました(除草・除染されなければ)。

 種子は風に舞い、物に付着し・・・河川に咲い花から落ちた種は河川の砂に混じり埋め立て用の砂として使われその生息地を広げていきます。

 人工的なのか、それともそれこそが自然の姿なのか。

 人工物、人の手によって造られる物。

 自然科学の産物、科学技術の産物。

 そこには新しき存在の主人公があるように見えるわけです。

 古代ギリシャのアリストテレスは、

 素材と作られたものを「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)という言葉で語ります。

 サルトルは次のようなことを言います。

 作る人がいる。作る人は、これから作ろうとするものの用途や目的(ナイフの本質)を考えなければならない。作る人は、このナイフの本質にうまく合うような物を作る。こうして作られたナイフが持っているの一定の形体が、ナイフの実存になる。

そして有名な言葉、ナイフの場合は「本質が実存に先立つ」となります。

 ハイデガーは、「現存在の本質は、その実存にある」と言います。

・現実存在(existentia)=実存

・本質存在(essentia)=実在

「物」の存在を実存、実在に分けると個人的に難解すぎて理解不能に陥ります。

過去に、

「実存」と「実在」・事実存在と本質存在について[2012年05月26日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/98d0e58401b22b34de160df592f5e817

と、書きましたがサッパリいまだにわからないというのが本音です。素人であるから当然なのですが、頭の運動にはなるかもしれませんが、そのうちに何を求めようとしているのか、それ自体が解らなくなります。

 形相(エイドス)が素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスの形而上学では現実態(エネルゲイヤ)と言いますが、エネルギーという言葉はこの「エネルゲイヤ」が語源です。

どうしても「物」という言葉に唯物的な感じが強く現れます。

 思考は過去の記憶か立ち現れますが、それは経験からであり学習したものからでもあります。

 本来的な日本語である「もの」という働きも含めた唯心的な「もの」も含まれる矛盾的な存在それ自体を「一」として現れた場所に見なければスッキリしないのです。

 西田哲学の言うところの「矛盾的自己同一」という言葉の意味するところをそのように解することで非常に落ち着くのです。

 私と言う存在もまさにそのような立ち現れです。

「セイタカアワダチソウのある風景」からこのような話になってしまうのですが、ゾンビやキョンシーではなく命のある人間存在そのものを裸の実存というならば私と言う存在を考え直すには非常に理解しやすいのです。

 裸の実存は、真っ新な実存であって誕生として生(あ)る存在ばかりではなくその後の生からの名誉も財産も全てを失った命ある存在だけの状態をも意味すると考えるならば、何を着飾るべきかの問われている意味が見えてくるように思います。

 何が見えてくるのか。

 より処として自分のありべき様(さま)

「どういうあり様をしているんだい」「様がない」

「様相」という言葉があります。

・現実的(実際にそのままであること)
・可能的(やがてそれになる可能性をもつこと)
・必然的(それ以外ではありえないこと)

カントは判断の思惟機能をこの三つに分けました。明治以降の西洋教育ではこのように学習してきました。

何かが足りない。

 おかげ様でありがたいことです。

「おかげ様」をどこかに忘れている、そんな気がするのです。

 日本語の「様相」という言葉の意味に「物事(ものごと)のありさまやようす」という意味もあります(『大辞林』・三省堂)。

 このブログの原点に戻り「セイタカアワダチソウのある風景」即ち様なのですが一枚の風景に何が見えてくるか。

 風景が何かを語りかけている。
 環境が何かを語りかけている。

総じて自然が何かを語りかけている。

 裸の実存としてそのような受け皿の様(意味器官を有する)になっているのが人間なのだと思います。

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人生は「かるみ」だ。

2013年10月24日 | 風景

 今朝は一枚の風景写真から話を始めたいと思ったのですが、その風景写真を撮ることができず残念です。

 その写真とは「セイタカアワダチソウが去りゆく風景」とでも題しましょうか、セイタカアワダチソウ(背高泡立草、学名:Solidago canadensis var. scabra または Solidago altissima)という外来危惧種植物が日本の原風景の中に納まるのか、それとも風景なるものはいったい何なのか。そのような視点を含めてその風景に人間側の情感について時々書いています。

 三郷にある国立公園あずみの公園入口交差点に季節になると花開くセイタカアワダチソウの話しなのですが、10月に入り風景に納まりつつあるか・・・と思うと公園管理者によって刈り取られる運命にあり、ついに「去りゆく風景」になったというわけです。

 明治に入り観賞用と輸入され、その後敗戦後に進駐軍の物資の輸送とともにその物資に付着したセイタカアワダチソウの種子は日本国中に広がり、この花は今では何処へ行ってもこの山吹色の花を咲かせている風景に出会うようになりました。

 いつの間にか外来危惧種という負的なイメージではなく日本の風景として納まりつつある風景となっていると思うわけです。

 注目しているだけにこの「刈り取られてしまった」という事実に、なぜか去りゆく別れ的な感情が少々芽生えるのです。「残念」なのですがこのまま咲き続けると、この花は一変して「枯れの姿」に変身します。ススキのような風流さはなく、本当に黒く朽ちて去りゆくのです。

 晩秋の風流な風景にはややそぐわない感があります。彼らという表現がよいかわかりませんが、彼らにとってもよく、そう思う私にとっては最もよいかも知れません。

 さて一か月が去りゆくのは早く、Eテレの100分de名著松尾芭蕉の『おくのほそ道』も昨夜で4回シリーズが終了しました。1回目の感想を書いてからアッという間に4回目になってしまい昨夜は、市振の関から始まり「別れを越えて」と題して三回目の「不易流行」を経て「かるみ」という芭蕉の世界が語られました。

 芭蕉46歳の時に書かれたこの『おくのほそ道』ですが、芭蕉41歳の秋からはじまる『野ざらし紀行』の「深川のほとりの」の語りを題材に「松尾芭蕉の性(さが)」を以前以前に書いたのですが、5年後の『おくのほそ道』には先ほど書きましたが「不易流行」「かるみ」という芭蕉の考えで伝えられます。

「さまざまな歎きに満ちた人生に微笑みをもって乗り越えてゆくたくましい生き方」

「一言で言えば悲惨な世界を軽々と生きてゆくこと」

行動論として長谷川櫂先生は解説してくれていました。

「人生はかるみだ。世界はたえず変化する、しかし永遠不変でもある。」

テキストの表紙に書かれていますが、なぜそう書かれているのかよく分かります。

 お得な話で恐縮ですが、このテキストは600円なのですが写真も多く、またこれまでのテキストよりも厚みがあり、旅気分が生れます。ということでお得。

 セイタカアワダチソウの話しから芭蕉の「かるみ」の話し、時間がないのでこれまでとしますが、勉学の機会がなくなる歳になると、このような番組がとても身になります。ありがたいことです。

 明日にはその後の風景(セイタカアワダチソウが去りゆく風景)を紹介できるやと思います。

昨年はこんなことを書いていました。
セイダカアワダチソウのある風景(2012.9.27)

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秋も無限定・マツタケ・セイタカアワダチソウ

2013年10月09日 | 風景

 万葉集巻の1-16に次の歌があります。是しか知らないのかというほどにブログに取り上げているのですが、秋が深まると、また春先のぬくもりが感じられるようになるとこの詩を思いだします。貴族の優雅な歌遊びの世界、階級闘争真っ只中に闘争の論理にあると鳥肌的な歌かも知れませんが、和の論理で生きたいとする者にとっては何かと知識欲を高めてくれる歌です。

<新潮社 新潮日本古典集成『萬葉集一』から>

天皇、内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)ひ憐れびしめたまふ時に、額田王の、歌をもちて判(ことわ)れる歌

冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ
さかざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 入りても取らず
草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみち)をば
取りてそ偲ふ 青きをば 置きてそ歎(なげ)く そこし恨(うら)めし
秋山われは

【訳】
 春がやって来ると、今まで鳴かずにいた鳥も来て鳴く。それに、咲かずにいた花も咲いていい。山が茂っているので、わけ入って取りもしない。草が深いので、手に取ってもしない。秋の山の木の葉を見ては、色づいた葉を手に取って賞美する。青い葉をばそのままに置いて嘆く。その点が残念です。秋山です。私は、

<以上上記書p53>

「冬ごもり」「春さり来る」に現代訳とのギャップに違和感があるかもしれませんが、これについては言及済みで、けさは「秋のみ」に限定した話にしたいと思います。

 春が無限定であるならば、秋も無限定。

何の話しなのか、そこで信州塩尻市の無量寺の青山俊董先生のお言葉を借りします。

「諸法実相」という言葉がある。具体的姿を授かった現象界(諸法)は、現象をして現象界たらしめているその根元ともいうべき働き(実相)による、ということである。よく春の働きに働きにたとえられる。春は無限定ですべて現象界の上に平等に働きかける。

この言葉は先だってのNHKこころの時代「人生に光あり」でも語られた話ですが、上記の話を受けて、「秋も無限定」と書きました。

 どこまでが夏で、どこからが秋、などと四季は測れるものがなく、何処までも身体的な感覚と情感が規定します。

 今の季節は山の紅葉が気になり、味覚の秋も到来、秋を告げます。

 結局何を言いたいのか。

 いただきました。信州松本の三才山(みさやま)産の「マツタケ」(計測結果10cm)お値段只。

 今年は豊作だそうです。「どうかね。二三本持って行きましょ」・・・いい人だぁ。

 というわけでいただいた秋の味覚です。

 さてせっかくですので、刈り取られないうちの昨日のセイタカアワダチソウです。常念岳に雲がかかり遠景は晴天の朝にします。



 ということで現況です。

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セイダカアワダチソウのある風景[2013.9.21]

2013年09月22日 | 風景

[思考] ブログ村キーワード

 セイタカアワダチソウ(背高泡立草)という日本の侵略的外来種ワースト100にも選ばれている植物が、安曇野の風景に溶け込んでゆくのか、ということについて書きたくなる季節になった。

 安曇野の山麓線にある国営アルプスあづみの公園入口の交差点に常念岳を背に咲くセイタカアワダチソウが一枚の絵になるかという話だ。これはあくまでも個人的な感覚で人の手にその植生の場を移動させられたものか、また植物自体の繁殖という存在の本質に由来するものなのかということから、自然を愛でる人の感性はいったい何なのかということなども含めた話なのである。

セイダカアワダチソウのある風景[2012.10.5]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a18c28684d4c3b3bd94449a7bda9b91c

昨年の話題最後ブログで、異常気象とは言え今年も例外なくやはり季節は巡るのである。まだ花は咲かないが除草の時期までまた今年も見てみたいものである。

背高泡立草 秋に開く

背高泡立草 秋を開く

句の世界は感覚的にダメですね。

 NHKこころの時代~宗教・人生~「道を開く 内村鑑三のことば」が先週の日曜日で6回シリーズが終了した。

 キリスト教者内村鑑三第6回は「宇宙完成の祈り」と題し、足尾鉱毒問題、デンマルク国の話、反近代・・・。中々私の興味を誘う内容で内村鑑三については過去ブログにその名を記したことはありますがその信仰思想について言及したことはないが自然という言葉ではなく天然という言葉を使うという事実に引き寄せられた。

 番組でセイタカアワダチソウの話があったわけではなく、セイタカアワダチソウの風景の話を書くときには自然性、不自然性といったように「自然」という言葉を使いたくなるが、荒廃した山林の復活には内村鑑三の場合は「天然」なのである。

 普通なら自然の姿になる。もともとそこにある姿という意味で自然性を考えるわけだが、内村鑑三は天然という言葉を使うということである。

 天(Heaven)という言葉が付く天然、第3回目「静かなる細い声」では「西郷隆盛の敬天」「上杉鷹山の天意」「二宮尊徳の天」「中江藤樹の天の法」などが著『代表的日本人』の記載とともに「天」について紹介され、番組講師の鈴木範久立教大学名誉教授は多くは語らなかったが、番組テキストに、

「・・・内村にとって天然は、カミを認めるものとして聖書と同等の価値を持っていたのです。・・・・自然ではなく天然、natureではなくNtureの言葉が用いられています。それは物理的な自然ではありませんから、一見、天然そのものがカミのように受け取られますが、内村においては、あくまでも天然はカミの造化でありました。同じ天然のなかに浸っても、カミそのものとの同化ではありません。そういうカミによって造られた天然ですから、人間は、その天然を大切にしなければなりません。・・・」

と書かれている。

 足尾鉱毒問題は天然資源をめぐる個人的欲望と多数の犠牲なかで展開され、実存的に在る者の神、その神によって造られた物。その物には、天然資源から命ある存在物までも含まれ、何故そこに悪と非合理が存在するのか。キリスト者にとっては神学的な大なる課題であるが、そのような高度な話はさて置き、「おのずからしかり」の自然ではなく「天」に注目し「しかり・然り」の世界にするところに内村鑑三の観念の転回がある。

「侵略的外来種」という規定はそもそも悪という特定である。あるがままの実相における平等(びょうじょう)においては高低もなけれ善し悪しもないという世界にあればセイダカアワダチソウに言及することもないのだが・・・・。

 「侵略的外来種」という言葉は、考えようによっては凄い言葉である。国境問題、比較文化論、自己保存という特性からいえば身体的には悪しき細胞のようなもの・・・・。

 限がない話である。

 偶然という出来事において、それに原因と結果の科学的な分析を加え説明できれば人々は納得する。

 偶然という出来事において、その点的な事実に時間と空間の拡張を加え天上より俯瞰的な視点で掌握するものを想定するならばそれは神と呼ばれる。神にとっては偶然はありえず必然的な事実であり出来事であり、人々は納得し信仰に生きる。

 偶然という出来事において、人は物語を創造し納得しようとする。

 人は解釈し理解し納得しなければ前には進めない。惰性であろうが時間と空間はそのままには捨ておかない。呼吸をする以上は前に進むのである。

 西田幾多郎先生の晩年の言葉に「作られたものから作るものへ 」という言葉がある。

 「この世界にあるものは、すでに形作られたものであり、形作られたものが形作って行くのであ る。我々はこの世界の構成作用として、形作られたものを足場として形作って行くのである。」 (西田幾多郎全集8巻、265頁)。

 唐木順三先生の『「科學者の社會的責任」についての覺え書き』の根底には西田哲学のこの思想が流れている。

 また上記の言葉は、長野県安曇野市の高家(たきべ)にある旧高家小学校跡(現信濃教育会生涯学習センター)にある西田幾多郎詞碑について時々アップしているが、そこに刻まれた「物となって考へ物となって行ふ」という言葉に重なる。

 <西田幾多郎詞碑
 昭和十五年、日本紀元二千六百年を祝し、旧高家村の記念事業の一つとして高家小学校の玄関先に建てられた。
 ここに哲学者西田幾多郎の詞を刻むことになったのには、当時の高家小学校長藤澤利男が大きな影響を与えたといい「信州教育」と西田哲学の深いかかわりを知ることができる。
 詞は偉大な西田哲学の世界を一語に託したのである。>


<碑文
無事於心無心於事
物となって考へ物となって行ふ
        西田幾多郎著 

「無事於心無心於事」(心に事なく事に心なし)は、唐の高僧徳山和尚の語で、この東洋的無心の境地を西田先生が「物となって・・・」の語に託されたものである。>

 私たちは何を使い、何を見て生きているのか。
 私たちはどんな現象を引き起こしているのだろうか。
 
 背高泡立草 秋に開く

 背高泡立草 秋を開く

当たり前の姿になってしまった時、我々はどんな世界に立たされるのだろうか。

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間(はざま)が見える話

2013年09月03日 | 風景

 外国のテレビ局で日本を取り上げた番組を紹介する民放番組を観ていたところ、世界遺産に登録された富士山の山頂で、来光を求める日本人を取材して、「日本人はサンライズが大好き、という面白い人たち」というような話をしていました。

 哲学者の梅原猛先生に言わせればエジプトの太陽神と同じ次元で日本人の深層にも太陽を崇めるこころがある、というような話になるのですが、この内容を放送外国の国の名前は忘れましたが、「このこころ」という言い方で通じるかわかりませんが、「このこころ」がその国にはないということだけはハッキリ言えそうです。

 神と言っても形があるわけではなく、働き全体のことを言うのであって、心理学的な「意識、前意識、無意識」を貫く働きの内にあり自我的に意識しているわけではなく、自分を超えて見ているのであろうと思う。

 フランクルのいう自己超越の意味は、そのような働きのうちにあることを言うのであって、極限状態にあったユダヤ人強制収容所で囚人たちが見た陽の光の感動はそのこを言っているのであって、それは体験価値というものであると解説されます。

 「日本人は面白い人たち」は、語る側の「何かを忘れている自分たち」の嘆きのように聞こえます。

 今朝は上限の雲と下限の大地の間(はざま)の陽光となりました。携帯ですので実際の風景とは違いますが、「はざま」だけは表現できているように思います。働きのうちにある「はざま」が見える、と言ったところです。

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日本海の海岸に立つ

2013年08月28日 | 風景

 突然海が見たくて、新潟県の親不知に行ってきました。猛暑続きの毎日がうそのように肌寒い朝、午前五時に安曇野を出発午前8時前には親不知ピアパークに着きました。子どもたちが小さい時によく来た海岸。

 砂地ではなく小石の砂利の海岸で姫川に近いのでヒスイを拾いに来ている人も多く見かけましたが、夏も過ぎ平日でもありまた小雨の肌寒さで海岸には人がいませんでした。



 ゆっくりと海岸線を歩き、波の音を聞きました。砂利が波にもまれ大きな波音を立てています。水平線は雨降りのためぼんやりと曇ってはっきりしません。

 いいですね潮風が顔に当ります。磯の香りがあります。

 毎日山ばかり見ていると、こういう風景も見たくなる海の向こうは朝鮮半島、中国大陸はるか昔ならば渤海国がありました。

 北朝鮮よりも少し北にあった国で、短い期間でしたが日本と交流があり、信州の小県海野郷の滋野氏と深い係わりがあった国です。

 そんなことを云うのは私ぐらいでしょう。今日現在、今現在信州信濃の小県郡の歴史を想起している人は私ぐらいでしょう。

 「存在」というものは、それを今経験の知識の中から確認しているその人にしか表象できない事実。リアルな事実です。

 波の音とともに思いだしました。木造の渤海人舟白を。

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安曇野の風景

2013年08月18日 | 風景

今日も青空。日に日に稲穂は、黄金の秋に向け重たそうに首を垂れ始めています。





 昨日は、行事化しているヒマラヤ杉の剪定をしました。



したと言ってもご覧のとおり下から三分の二程度の話し、暑さのため全てを整える元気がありませんでした。いつも思うのですが、ヒマラヤ杉だけは稲垣に選んではいけません。
 成長の早いこと、大木になるので頭頂部を水平に切らなければならなくなります。

 朝の涼しいうちに昨日の刈りとった枝のかたずけを行いましたが汗だくになりました。