久しぶりに2011年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説“おひさま”のオープニングの風景、常念岳にまっすぐのびる道路に見える道を通りました。
(案内板が立っています)
ちょうど昼時。
空は限りなく青く、雪山は輝き、
(真正面が常念岳です)
ガッガーンと広がる風景です。
(有明山は常念岳、蝶ガ岳、燕岳よりも標高が低いため山頂の積雪はありません)
そのうちにしーんと静まりジーンときます。
(五竜白馬方面です)
久しぶりに2011年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説“おひさま”のオープニングの風景、常念岳にまっすぐのびる道路に見える道を通りました。
(案内板が立っています)
ちょうど昼時。
空は限りなく青く、雪山は輝き、
(真正面が常念岳です)
ガッガーンと広がる風景です。
(有明山は常念岳、蝶ガ岳、燕岳よりも標高が低いため山頂の積雪はありません)
そのうちにしーんと静まりジーンときます。
(五竜白馬方面です)
マイナス8度の氷点下の朝、透き通った空気、肌に刺さるような冷たさはありますが、何ときれいな朝焼けでしょう。
(コントラストが何とも言えません)
(曙色と言ってよいように思える)
(遠く右方に見えるのが八ヶ岳)
曙色(あけぼのいろ)
日本語の色名にはいろいろな表現があります。
共通認識のような訴える色名。
曙の色だよ!
あけぼの【曙】
夜がほのぼのと明けようとするころ。夜明け方。
古典の清少納言の『枕草子』の冒頭の「春はあけぼの やうやう白くなり行く山際少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる・・・」はあまりにも有名です。
色彩に関係知る本を見ると次のように解説されていました。
夜明け前、しだいに白み始めた空は、刻一刻その色を変えます、明け方の東の空の色を表わす曙色浅い黄みの赤。東雲色(しののめいろ)ともいいます。
中国の曙紅(シューホン)は強い赤です。
江戸時代には曙染めという、裾の部分を少し白く残し、その上を紅や紫や藍などでしだいに濃くぼかしながら染めていく模様染が流行しました。
曙色も江戸時代に使われるようになった。『色々な色』(光琳社出版から)
「東雲色(しののめいろ)」
しののめ【東雲】
とても響きのいい言葉です。早朝を表現する古語ですがいいですね。
分らん色は、「そういうときの色だよ!」と日本語の色表現は土にもなり植物にもなり時にはねずみ色にもなる。
わからん時は、私のわかる時のことを語る、「そういう時の感覚器官が感じる色」と。
その延長線上にあるのが例え話(アレゴリー)だ。
どうにかわかるように説明したい。そんな時に発揮するのが例えだ。
「百聞は一見に如かず=Seeing is believing」
曙色からこのような話になったのだが、うつくしいものは美しく、きれいなものは綺麗だ。
最近は 風景を語ることが多くなりました。それだけ心を風景に囚われるということになるのでしょうが、毎年確かに見ている風景で、秋ではなく、飽きがきても不思議ではないでしょうが、そうならないところに人間と自然との不思議な関係性を想います。
あらゆる物事が互いにつり合いそこに生(あ)るということ、生(な)っているということ、それを「相依相待(そうえそうだい)」といい大乗仏教の縁起説はそれを語っています。
自他一如(じたいちにょ)
風景に感動している時は、風景と我の関係が一如、ということに生るのかもしれません。
関係性における一如、一如という言葉は、「一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。」とサイト事典は解説されていますが、「あぁ・・いいなぁ・・・」、単純に感動を言葉に表せばそれに尽きます。
1・2分、もっと短いかも知れませんが、そこに止まりたい機会が現われます。
季節でしょうか。
昨日の午前8時頃の常念岳(西方)と安曇野平・松本平(東方)の風景です。
世の中にどんなことが起ころうと夜が明けない日はない。と改めて思う。地球の自転が止まらない限り、陽は東から昇り、西に落ちる。
大きな地震があった翌日も当然陽が昇ります。そして何事もなかったように一日がはじまります。
昨日の朝も、美ヶ原の山々はあかね色の背景に稜線を映し出す。
休日出勤でしたので、いつもの場所に車を止めいつものように常念岳を見る。
常念岳も空には若干雲はあるものの青空に雪山の姿を現わします。
朝焼け、常念岳の山々の風景に美しさを感じます。
土曜の夜10時過ぎ、最大震度6弱の地震が発し、震源地から離れた我が家は震度4の揺れ、死者は今のところないようですが家屋が倒壊し、けが人も何人か出ているようです。
どこまでもどこまでも自然の Indifference (無関心・無関係)がそこにあります。
自然は人間に敵意があるかのように災厄を発生させ、苦悩させ空虚感を味遭わせるのかと嘆きの渦に引き込みますが、忘れさせるような美の世界をも現わします。
総じて言えば、自然とはそういうものだ、ということになります。
昨日早朝の山折哲雄先生のNHKこころの時代~宗教・人生~「無常の風が吹いている~私が死について語るなら~」では「天然の無常」が語られていました。
2011年3月11日の東日本大震災の3か月後の同番組でも語られた話し今回さらなる深い話となって語られていました。
こころの時代~人生と宗教~ 共に生きる覚悟(1)・魂の行方[2011年06月13日]
こころの時代~人生・宗教~「共に生きる覚悟」(2)・天然の無常観[2011年06月13日]
「無常の風が吹いている」
最近書店に行くと「死」に関する本を多く見かけます。口癖のように我がブログに書く「メメント・モリ」(死を想え)の世界が語られています。
本年7月にPHPから出版された『人は死ぬとき何を思うのか』の中に山折先生は「現代の日本人には死生観が欠落している」と題した昨朝のテレビ番組に重なる話を書かれ、番組でも話された、山折先生の仏教における「無常」が書かれています。
世の中は「無常」であることを肝に銘じる
という章の中でそれは語られています。
仏教における無常には、三つの考え方がある。
地上には永遠なるものは一つもない
形あるものは必ず壊れる
人は生きて、やがて死ぬ
いずれも否定できない真理で、それを認めないのはあまりにも倣漫である、と先生はいいます。
V・E・フランクルの『夜と霧』にも出てくる収容所で見る夕焼けの美しさの価値の転回につながる話でもありますが、誰にも天然の無常観は開かれています。
「つらくても、等身大の実物をみつづけなければ、ニンゲン、滅びます。」
この言葉は時々引用している藤原新也さんの写真集『メメント・モリ』(情報センター出版局)の中のお地蔵さんの写真に添えられている言葉です。
解説があるわけではなく勝手な解釈ですが、等身大(とうしんだい)とは身の長(みのたけ)ということです。自分の身の長を考えずに人は大それたことを行うことが多い、そのように聞こえるのです。
天然・自然に跳ね飛ばされるようなことを何か仕出かしてはいないか?
そう語る私はLEDの光の中でこの文章を書いています。行燈(あんどん)の天然の光ではない、最先端の光の中で書いています。文明の光の中で・・・・・。
昨日の夜明けの写真です。朝日の昇る直前、オレンジ色に空は輝きはじめ、天空には昇り来る太陽の光に照らされた月が残ります。
藤原新也さんの『メメント・モリ』(情報センター出版局)という写真集に荒涼とした大地を小高い丘から見つめる一人の人物の後ろ姿の写真があります。
写真の左側には、「人体はあらかじめ仏の象(かたち)を内包している」という言葉が添えられています。仏教的に言えば仏になる可能性を持つという意味の「仏性」という言葉が重なります。
昨夜のNHKクローズアップ現代では「“最期のとき”を決められない」と題して時々話題にする「メメント・モリ」に関係した番組が放送されていました。
新聞でもテレビでもこちらで期待するわけでもないのに人間の最期、誰にでもおとずれる死についての話題を目にします。
興味のない人、忌避感が先行する人には全く関係のない話ですが、死に囚われたわけではないのですが、還暦を過ぎた私には、突然死も含め覚悟心とでもいった死に至る覚悟の自覚を醸成したいという気持ちがあります。
誰も最期の時を決めることができない。
病院のベットに横たわる一人の男性が映し出されます。
脳梗塞で倒れた男性、独身で独り暮らし、頼れる家族はなく、どこまで延命治療を続けるのか。
今「本人の意思が確認できない」患者が急増し、こうした中医療現場では回復の見込みのない患者に対する延命治療をどうするか決められないケースが増えてきている。
というナレーションとともに始まり、延命治療にたずさわる医師の話が続きます。
背景には最近話題になったアメリカの脳腫瘍の女性患者の自死の選択がありました。自分の意識がまだあるうちに自分の最期は自分で選択したい、そんな姿が世界に発信されていました。
番組はどこまで延命するのか揺れる医療現場の現実が発信されていたのですが、考えさせられる場というのが常に来ます。
藤原さんの写真集『メメント・モリ』の最後は、「あの景色を見てから瞼を閉じる」という言葉が添えられた、青空と緑の芝と花々が映った風景写真です。
晩秋は、風景に心うばわれる時があります。何か全てが風景画のような・・・・。こう言うと、人が描いたもの、人工的なものなのにといった、自然の風景とはかけ離れた感覚に思われるかもしれません。
しかし、個人的には一枚の絵ように美しいものは美しいのであって、魅かれるものには魅かれる、その感覚の世界は同一のように思います。
空気が澄んでいる。空気の冷たさも真冬の冷たさではなく、ほど良さの寒さとともにその風景を見ます。それが凡ての美しさに目を奪われる、心を奪われる始まりにあるのかも知れません。
言葉にするのは非常に難しいもので、描き出せないもどかしさを感じます。
一昨日の朝焼けです。拡大すると、
こう見えます。
これは今朝の朝焼け。
拡大すると、
そして出勤時の風景で、今朝は安曇野も松本も濃い霧に包まれました。霧が濃い時に見る風景、牧歌的と表現しますが、
という風景を見ることができます。手前には田園があり、霧がフィルターになり太陽光を見ます。
この撮っている立ち位置の背面の風景が、ときどきアップするセイタカアワダチソウのある風景です。
今朝は常念岳に雪が見えました。2・3日前に初雪が降ったのですが、雲が多く、出勤時に確認することができずにいましたが、今日は御覧のとおり雲一つない風景となりました。
今年はセイタカアワダチソウ(背高泡立草)のある風景と題したブログアップは、8月の雑草駆除で出来ないものかと思っていたところ、いつものところにいつものセイタカアワダチソウがその姿を現わし、背面の常念岳とともにご覧の風景写真となりました。
(8月の風景、手前の空き地部分が上記のアワダチソウのある場所です)
自然の力は人知を超えたところがあることを実感します。戦後の進駐軍の物資に付着した種は、配送先から人の衣服等を介して何時頃かわかりませんが、国営アルプスあづみの公園入口交差点に落下、その地に根を張り今の姿になりました。
明治にセイタカアワダチソウは観葉植物として輸入されましたが、その後繁殖力は他の植物の脅威となり、外来危惧種になってしまいました。この植物、現在安曇野市有明地区では標高700mまで来ています。
「来ています」という表現をしましたが、繁殖地を伸ばしているという意味です。
そこで考えるのがこの植物の繁殖に密接にかかわるその繁殖地の選択。植物に意思があるや否や、おのずから、みずから、か、その地はそこに現れます。
あるという事実から、存在の本質が、底抜けの深淵があります。
実在の根源的探求に重なるのですが、実に不可思議な自然の世界です。
雑草の踏まれても踏まれても存在するその姿は、人に教訓的な意味を与えることは詩文に見ることができます。
常念岳をバックにセイタカアワダチソウのある風景
違和感なく、昔からある風景
月にススキ。常念岳にセイタカアワダチソウ。
この季節いつも考えさせられます。
今朝の常念岳は、
向かって左の蝶が岳方面に霧氷を見ることができました。今朝は今年秋一番の冷え込みでした。
梅雨に入り雨の日が続いています。いくらか晴れたかなと思うと山の方から雨雲が近づき、あっという間に激しい雨になります。
少しの晴れ間を利用して、安曇野市南側の室山という地籍の睡蓮(スイレン)の池に行ってきました。極楽浄土の花といえば蓮(ハス)と睡蓮、睡蓮は古代エジプトでも高貴な花とされていたようです。
鳩摩羅什というお坊さんは蓮の花が大好きで、沼地に咲く蓮の花、泥の中から汚れ無き白や赤色の綺麗な花が現れることに仏の世界を観たようです。
泥の中から現れ出(い)でる。
泥を混沌のなにものか、とすれば最近書き綴っている絶対無とか空という世界に重なり、そこから現れ出でるこの世は、蓮であり、また睡蓮も同じ環境で、そこに美しさを見ればこの世も美しき世でなければならないのかもしれません。
朝から仏教的な話になりますが、大乗仏教では、この<空>を大別して人空と法空に分けているそうです。
(1)人空(にんくう)。これを生空(しょうくう)とも、我空(がくう)ともいう。人間の自己のうちには実体としての自我などは存在しないという立場である。
(2)法空(ほうくう)。存在するものはすべて因縁によって、無数の多くの諸条件が合することによって成立したものであるから、実体としての自体はないと考える立場である。
仏教学者の中村元先生は『空の論理』(中村元選集第22巻p188)で解説されています。
「空」という言葉は漢訳の際にその文字を使ったのですが、サンスクリットでは「シューニャ」で上記の本の中に解説されていますが、ふくれあがった、うつろな、という意味から実体が欠けている、いつかは欠けて、滅びるものなどという意味概念が含まれている言葉のようです。
この空を大いに語ることは空観といわれ虚無主義、ニヒリズムに見られるようですね。
バックボーンとして何も置かないのですからそう見えるのでしょう。
大海に浮かぶ浮き草のように、ひたすら漂う、そう見えるのかもしれません。
睡蓮の花はまさに、大海に浮かぶ花のよう、ですが咲いている間は混沌の世界にとはつながっています。いつかはつながりの茎も滅びその実体は消える。
咲いている以上は美しく咲つづけたい、欲でしょうね、それがある(在る・有る・生る)ということでしょうね。
安曇野市と東筑摩郡松川村の境を流れる穂高川の河川敷には、球形の石が多いという話を以前書きました。
山川草木の「川」がつりだす造形の彼方に真球を求める大いなる働きの存在を感じます。
北アルプスの山々に降ろ積もった雪や雨が山の斜面を下る川となり、流れる水は地盤の高度によって段差を作り、岩を砕き、砕けた岩は、ここの岩石に分かれ水に運ばれながら、下へ下へと下って行きます。
ごつごつした岩石は、表面を削られ流れが落ち着いたところでその形を留めます。
それが球体の石であるとき、なぜか人工物のように見えて数ある河川敷の岩石の中で異彩を放ちます。
自然なのに、何故か人の手による造形物のように見えてしまう、不思議な世界です。
休日となった昨日河川敷を50メートルほどのんびりと歩きました。
平地の桜も終わり、山麓へとその波が寄せてきています。
石いはばしる 垂水たるみの上の
早蕨さわらびの 萌え出づる春に
なりにけるかも
というと万葉集巻8の1418志貴皇子(しきのみこ)の詠んだ歌ですが、垂水ではありませんが、我が家の畑にも蕨(わらび)が出てきました。
この季節には必ず現れ出でる蕨です。眺める私にとっては昨年と全く同じ蕨(以下ワラビと表記)ですが生物学的には同じ系列の菌糸からのワラビではありますが全く同じではありません。
いつ頃からここに現れるようになったのか、ここに住むことになったころには既にワラビはありました。
無限の過去と未来。宇宙物理学からいえば始まりと終わりがあるわけですが、その間の僅かな時に息づくものとしては悠久の流れの一点に現れている現象に見え、今朝は丁度立ち昇る太陽と重なるのを見ました。
時という感覚的な直線の流れと生命の息づかいの季節の円環、すべては今に現れています。
壮大な始まりと終わりの間(はざま)で、悠久の時の流れの間で息づいていますね。
「息衝く(いきづく)」とは、確かな存在感を意味しますがピッタリ合いますね。