毎年雪解けが進むと花開く福寿草がその姿を現わしました。自然界というものは実に正直なものです。
福寿草という花は、このように天空を向いて花開きます。従ってふつうの花と違って、水平の視点からよりも、斜からあるいは上から見る方が福寿草の美しさがよくわかります。
「正直さ」、「美しさ」という言葉を使いましたが、この表現はあくまでも私の思い入れの表現であって、眼前に展開される現象には意識的な思惟があるわけでもなく自在にその場にそうなるわけですが、なぜかこの展開に憧憬があるように思えてなりません。
北帰行が済んだ御宝田地籍にある犀川河川敷の人造湖に行ったところ鴨のエサを狙う鷹が天空を舞うのが見えました。
原始仏教典のダンマパダ93に、
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、
その解脱の境地は空にして無相であるならば、
彼の足迹は知り難い。
・・・空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。
という偈があります。この偈について原始仏教学者の中村元先生は、
地上には色々の汚れがありますね。我々の人間の生活にも汚れがある。けれど鳥が空を飛んでいるところを見ると鳥が飛んだ迹はまた透明で澄み切った大空がみえますね。ああ、ああ、あのようなきもちになりたいなあ、と昔の人は思ったわけですね。
と語られていたのを思い出します(Eテレこころの時代「東洋の心を語る~第6回飛ぶ鳥に迹なし~」。
「空」は大乗仏教の専売特許ではなく、時代の流れの中には既に空の境地が願わしいと考える世界が開かれていた、というわけです。
「空」とは実体がないということですが、人はそこに実体があるように思うように作られていることから「ある」を語ることになりました。ギリシャ神話を持ち出せはプロメテウスは羽を与えて鳥とし、思惟を与えて人としたものですからそこに実体を見つけ災厄と意識する存在とも成ったということです。
読者登録しているブログに、勝手に引用しますが、
「・・・善悪の根っこには、シングルスタンダードがなければならない。その後の展開は様々だろうが、自らの中に、或る種の信念としての善悪を、1つ保持している限りに於いて、虚無化は起きない。しかも、その信念としての善悪が、社会の善悪と矛盾しない限りに於いて、カルトにもならない。」
という言葉が書かれていて甚く感動しました。善悪という現われを自己の内にしっかりと意するこころをもつならば染まることはない。解かるということはそういうことなのだと・・・。
鴨にエサを与える親子が居ました。鴨はエサだと群がって近づいて行きます。飢えないための本能がそうさせるのですが自然界の憧憬がそこにありました。