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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

安曇野市のバラ祭りがはじまりました。

2015年05月31日 | 風景

 きのう(30日)から安曇野市豊科近代美術館の西庭園のバラ祭りが始まりました。多くの人がおとずれる前にと午前7時前に出かけました。昨年までのバラ祭りのイメージを抱き一定みると例年みられる美術館の正面の壁面のバラが病気か何かで枝が切り取られ、ビックリしました。

 









 美術館の西側壁面の方は、バラ数は若干少なかったのですが、見事な赤色のバラのアーチは健在でした。

 









 朝露がバラの花びらに・・・。ハチの羽ばたきの音・・・。 

 


 バラの放つ独特の香り、種類ごとに異なりその違いを楽しむのも朝の静かな内が良いように思います。朝の散歩途中の方、本格的なカメラを持ち撮影をしている老人。

 庭園は街中にあるので電線や建物が写りこみますが、常念岳や有明山のある北アルプスをバックにバラのある風景を楽しむことができました。


はじまる

2015年05月27日 | 風景















 今朝の長野県安曇野市有明山麓から見える夜明けの太陽は午前4時40分頃から昇りはじめました。

 時々アップしている風景ですが、霞のフィルターにまん丸の太陽を肉眼で見ることができました。

 この後近くの真言宗の松尾寺に向い重要文化財の薬師堂で般若心経の唱え真言を唱えながら外周を一回り外壁の板壁がオレンジに輝きます。この季節は春先の鳥の声も聞こえず、シーンと静寂がつつみます。

 安らかなる一日であるように、ご先祖様に感謝・・・神仏に祈る我で今日がはじまりました。


今朝の夜明けとともに

2015年05月15日 | 風景

 今朝の夜明けもまた美しい。若干雲がありますがまん丸の太陽が昇ります。天空をオレンジに染めながら、刻々、まさに刻々・・・実感としては速い。






 昨夜のNHKクローズアップ現代に僧侶で小説家の瀬戸内寂聴さんが出られていました。

 間もなく93歳になる寂聴さん、益々生き生きと輝いていました。胆のうガンで10カ月も寝たきりの闘病生活、その闘病生活に耐え、以前はお一人で歩くのも大変のように見えましたが、今はしっかりとお一人で歩けるようになったそうです。

 今感じるのは、「生かしてもらっている」ということ、と語っておられましたが私の心に響きます。

 私の両親は母が58歳、父が68歳で亡くなり、現在私は間もなく61歳になりますから、両親並みの一生ならば70歳まで生きられれば上等だと思っていますが、どうなるのでしょう。

 最近寂聴さんは最近原稿用紙5枚程度の愛に飢えた老人の恋愛小説「ドリーム・キャッチャー」を書いたとのこと。50歳の男性に深夜電話をする91歳の老女、過去に愛した男たちがその当時の姿で夢に現れてきたことをその男性に語りながら恋を打ち明ける話とのこと。

 若い人には以前から「青春は恋と革命だー」といってきているそうで、それは今も変わらない。

 若い人に「世界と自分ということ」を考えてもらいたい。

 そう語る姿に、

 私があること。

 私であること。

という存在論を感じました。

 世界内存在とでもいいましょうか、生かされるなかに互いがあること、その実感をつかめ!

と聞えました。


美ヶ原高原に行ってきました。

2015年04月29日 | 風景

 自宅から見ると東の真正面に見える美ヶ原高原。今日は午前中にこの高原を歩いてきました。それほど多くの人は来られていませんでしたがそれでも子供連れや夫婦の山歩きの好きな方が来られていました。

 

 この高原の松本市側の西側には王ケ頭、王ケ鼻と呼ばれる二ヵ所の付きだした部分があり各放送局や携帯電話会社のアンテナ塔が多くあり人工と自然が同居している高原です。

 
 
 
 
 王ケ鼻という場所

 残雪が所々にありました。

 

 
 


今日のはじまり

2015年04月23日 | 風景

今朝の日の出は5時15分安曇野の有明山麓から東を望みます。

 

自然とはこういうものだ。 

トコトン時は流れ毎日がくり返されますが、美しい。



 

フキが成り、ワラビももう大きくなっています。一輪の花も太陽待ちの姿になります。

 

 最近は哲学的なことを書くよりも読む方に専念しています。少々小銭が手に入り買い込んだのが原因しています。

 哲学会の「パンセの談話室」に行きたいなぁ・・・・なぜまだ働かなければならないのだ!

 問題は年金・・・まいったなぁ

 太陽に感謝の日々で過ごそう。


濃霧の安曇野の風景

2015年04月12日 | 風景

 4月12日(日曜)の今日は長野県の県議会議員選挙、妻は朝から立会人ということで出かけました。

 外は濃霧、安曇野は見渡す限り濃い霧に囲まれました。投票は午前7時からなのでその間に小生はこの濃霧の風景を撮りたくなり出かけました。

 

 常念岳はこのところの悪天候で早朝見ることができずにいましたが、いつも写真を撮る定番の国立あずみの公園入口は海抜が高く、霧はさほど濃くなくクッキリと常念岳を見ることができました。

 

 常念岳の雪形の「常念坊」はすでに形を現わしています。五月になれば代かきも始まり稲作のシーズンとなります。

 

 早春賦の碑ある穂高川の堤防道路に出かけました。昨日もこの場所近くにあるあづみ野コンサートホールでバリトンの松井康司のリサイタルがあり帰りにこの場所を通ったのですが、今朝は濃霧で、濃霧と碑と桜そしてワサビ畑の写真が撮れそうなので早々出かけてごらんの通りの風景を見ることができました。













 


霧がなければ、後方に有明山が見えるのですが。 

 帰路時に車を止め濃霧の安曇野風景を撮ったのですが・・・・個人的にこの風景が好きなんです。


今日の常念岳・有明山

2015年03月15日 | 風景

 安曇野から西方に望むと雄大な北アルプスの常念岳連峰が見えます。

 毎日望む山並みですが、しっかりと青空が広がった時にはいろいろな角度から眺めたくなるものです。

 パウダースノーとよく言いますが、斜面の白さが微細なパウダーのような滑(なめ)らかに見えます。常念岳のの2000メートル以上のさらに頂上付近・・・なめらか・・・なんですね。

 その風景が何とも柔らかな感覚で目に写ります。



 連続テレビドラマで有名な真っ直ぐに道のある風景、その向こうに常念岳が見えます。

 池田町の美術館のある丘から見る有明山。

 雄大で美しくまたきれいな風景・・・自然はそれを望み、我もまた望む。

 憧憬の形相とでもいいましょうか・・・理性ではなく感情で響きます。


今日から松本市四賀地区赤怒田(あかぬた)の「福寿草まつり」はじまる

2015年03月14日 | 風景

昨夜の雪はやみ、今朝は久しぶりの朝焼けを見ることができました。



今日から松本市の四賀地区赤怒田(あかぬた)の福寿草群生地の「福寿草まつり」がはじまります。たくさんの方が毎年見に来られ、人ごみの中を見て回ることになるので一足お先に昨日の午後早い時間帯に見に行きました。









 群生地には積雪がほとんどなく、一か所だけ雪割り福寿草を見ることができました。昨夜の雪で多分、最高の雪割り福寿草を見ることができるでしょう。



 期間は二週間くらいで今月月末まで、斜面の歩道を歩くことになりますが足元に十分注意が必要に思います。


風景に学ぶ・飛ぶ鳥に迹なし

2015年03月13日 | 風景

 毎年雪解けが進むと花開く福寿草がその姿を現わしました。自然界というものは実に正直なものです。

 

 福寿草という花は、このように天空を向いて花開きます。従ってふつうの花と違って、水平の視点からよりも、斜からあるいは上から見る方が福寿草の美しさがよくわかります。

 

 「正直さ」、「美しさ」という言葉を使いましたが、この表現はあくまでも私の思い入れの表現であって、眼前に展開される現象には意識的な思惟があるわけでもなく自在にその場にそうなるわけですが、なぜかこの展開に憧憬があるように思えてなりません。

 北帰行が済んだ御宝田地籍にある犀川河川敷の人造湖に行ったところ鴨のエサを狙う鷹が天空を舞うのが見えました。

 

 原始仏教典のダンマパダ93に、

その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、
その解脱の境地は空にして無相であるならば、
彼の足迹は知り難い。
・・・空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。

という偈があります。この偈について原始仏教学者の中村元先生は、

 地上には色々の汚れがありますね。我々の人間の生活にも汚れがある。けれど鳥が空を飛んでいるところを見ると鳥が飛んだ迹はまた透明で澄み切った大空がみえますね。ああ、ああ、あのようなきもちになりたいなあ、と昔の人は思ったわけですね。

と語られていたのを思い出します(Eテレこころの時代「東洋の心を語る~第6回飛ぶ鳥に迹なし~」。

 「空」は大乗仏教の専売特許ではなく、時代の流れの中には既に空の境地が願わしいと考える世界が開かれていた、というわけです。

 「空」とは実体がないということですが、人はそこに実体があるように思うように作られていることから「ある」を語ることになりました。ギリシャ神話を持ち出せはプロメテウスは羽を与えて鳥とし、思惟を与えて人としたものですからそこに実体を見つけ災厄と意識する存在とも成ったということです。

 読者登録しているブログに、勝手に引用しますが、

「・・・善悪の根っこには、シングルスタンダードがなければならない。その後の展開は様々だろうが、自らの中に、或る種の信念としての善悪を、1つ保持している限りに於いて、虚無化は起きない。しかも、その信念としての善悪が、社会の善悪と矛盾しない限りに於いて、カルトにもならない。」

という言葉が書かれていて甚く感動しました。善悪という現われを自己の内にしっかりと意するこころをもつならば染まることはない。解かるということはそういうことなのだと・・・。

 

 鴨にエサを与える親子が居ました。鴨はエサだと群がって近づいて行きます。飢えないための本能がそうさせるのですが自然界の憧憬がそこにありました。


安曇野の白鳥・安曇野市御宝田の白鳥湖

2015年02月17日 | 風景

 昨日(2月16日)安曇野市の御宝田(ごほうでん)にある白鳥湖に久しぶりに出かけてきました。北アルプス常念岳連峰の白銀と青空、見慣れた風景ですが、自然の雄大さに感動します。





 

 村井実著『「善さ」の構造』(講談社学術文庫)では、「善さ」と「快さ」の差異から社会構造の解析を試みようとしていますが、感動には善さもも快さも超えた感覚以前の空間の明けを感じます。



 

 

 単純に越冬するためにおとずれている鳥、がそこにいる、だけのこと。





 

「だけ」という決めつける感情が、意識が湧いてこない。