北野武の映画を僕たちは見に行くために映画館に足を運ぶわけである。別にビートたけしのお寒いギャグ連続を見るためにスクリーンを眺めているわけではない。
言いたいのはそれだけだが、前作「TAKESHIS’」辺りから相当の壁にぶつかっているようで、痛々しい限りだ。
「座頭市」で多少の興行成績を得たのが仇になっているのかなあ。映画を作りたい何かがなければ別に作らなくてもいいのではないか、なんて僕たち北野ファンは考えてしまうが、所詮芸術というものは自分の身を切ってそれを売っているに過ぎないのだから、北野を吐露するものがなければ映画という代物をビートたけしの私物化に転用しないでほしいと思ってしまう。
少しきついようだが、真の北野ファンである限り、敢えて叱咤激励をしたいと思う。
言いたいのはそれだけだが、前作「TAKESHIS’」辺りから相当の壁にぶつかっているようで、痛々しい限りだ。
「座頭市」で多少の興行成績を得たのが仇になっているのかなあ。映画を作りたい何かがなければ別に作らなくてもいいのではないか、なんて僕たち北野ファンは考えてしまうが、所詮芸術というものは自分の身を切ってそれを売っているに過ぎないのだから、北野を吐露するものがなければ映画という代物をビートたけしの私物化に転用しないでほしいと思ってしまう。
少しきついようだが、真の北野ファンである限り、敢えて叱咤激励をしたいと思う。
本来、創作は痛々しい作業と言うことは解るけど
フェリーニやゴダールがそれを芸術映画に
昇華させたみたいなことを
たけしもやってみたかったのかなぁ?
おちゃらけもいいけど、どっちつかずの中途半端が
いちばん始末に負えないことを 証明した感じでしたね