Sightsong

自縄自縛日記

上野英信『眉屋私記』

2016-08-22 23:23:58 | 沖縄

上野英信『眉屋私記』(海鳥社、原著1984年)を読む。

19世紀の半ば、沖縄・名護に、眉屋と呼ばれる家があった。始祖の子たちは廃藩置県ののちに山入端(やまのは)という姓を名乗り、子孫を増やしていった。ここで主に語られる人物たちは、主に始祖の曾孫の世代にあたる。

あまりにも貧しい生活であった。かれらの中には、そこからの脱出を夢見て、海外に移民として渡る者がいた。この一家だけではない。沖縄人は特にそうであった。行く先としてはブラジルやハワイがよく知られているが、最初はメキシコだった。移民会社は苦しむ者たちを甘言で釣り、炭鉱や砂糖黍畑など、生命の危険さえあり稼ぎにも何もならない場所に送り込んだ。メキシコに着く前に、それを知った者たちは列車から飛び降りてアメリカに消え、メキシコで辛苦を舐めた者は命からがら逃げだした。

まさに構造的な貧しさと、その打開策としての国策会社を使っての棄民政策があったわけである。このように、沖縄の人びとは、南米に、また南方に、台湾に、西表に移動させられ、苦労と簡単に呼ぶには憚られるほどの体験をした。残ったとしても、沖縄戦では「本土」の捨て石とされ、4分の1の命が失われた。そして現在も、「本土」が「本土」であるための手段として扱われている。

山入端のひとりは、メキシコに着いたあとにキューバへと逃亡し、そこで働いていたドイツ人と結婚した。一方で、その姉妹たちは那覇の辻に足を踏み入れて芸娼いずれかの道を選ばざるを得なかった。兄弟は支え合い、憎しみ合った。

著者の筆はひたすらに具体的、詳細で、かつ、かれらを愛おしむようだ。これは、自ら筑豊の炭鉱へと身を投じた不世出の記録作家・上野英信にしか書けない世界かもしれない。

三線が得意で芸の道に進んだ山入端マツは、沖縄本島、宮古、大阪、千葉などを転々として、東京に小さい居酒屋「鶴屋」を出した。それは現在の江東区新川、昔の霊岸島の、新霊岸橋を渡ってすぐの右側にあった(霊岸島は、最初にできた那覇航路の船着場でもあった)。いまは雑居ビルと駐車場がある一角である。その店は東京大空襲で灰燼と化し、いまは形もない。しかし、わたしも何度か飲みに行った居酒屋「くにちゃんずキッチン」が入っている進藤ビルは、当時も進藤という酒屋であり、鶴屋はその2軒隣のようだ。もはや誰も知らないのだろうが、また足を運んでみようと思っている。

●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
高野秀行『移民の宴』(沖縄のブラジル移民)
松田良孝『台湾疎開 「琉球難民」の1年11カ月』(沖縄の台湾移民)
植民地文化学会・フォーラム『「在日」とは何か』(日系移民)
大島保克+オルケスタ・ボレ『今どぅ別り』 移民、棄民、基地
高嶺剛『夢幻琉球・つるヘンリー』 けだるいクロスボーダー


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