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自縄自縛日記

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』

2014-01-10 07:19:00 | 思想・文学

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年)を読む。ハンナ・アーレントに関する入門書である。

アーレントは、全体主義が生成するメカニズムを説いた。際立って異なっている「他者」との対比によって自らのアイデンティティを確認することが、平板な全体主義を生んでしまう。ナチスドイツのアドルフ・アイヒマンすら、いつそれが「私」であってもおかしくない「凡庸な悪」として描いている。

その思考の延長として、アーレントは「活動」を重視した。その前提には「複数性」があった。動物的に堕した人間本性ではなく、よそ行きの姿をまとい、言語活動によって多様な他者との意見交換を常に行うべきであるというものであり、それは画一的な全体主義への批判の裏返しでもあった。

当然、「複数性」は、すぐにわかりやすいオルタナティブの提示に逃げることがない。また、現在の経済社会のような討論なき利益集団・社会関係の固定は、「複数性」に反することとなり、「疎外」も生むことになる。あるべき姿は、緊張感のあるかたちでの市民の政治参加でもあり、それを通じてコミュニケーションの技法・知識が習得されていく。人が「公的な領域」に登場せず、動物的にプライベートな空間にのみ閉じこもることへの批判でもある。

確かにこうして見れば、高橋哲哉氏が指摘するように(『記憶のエチカ』)、アーレントはこのような「活動」を行いうる文化圏の人間をのみ視野に入れていたように思えてならない。また、声なき者の存在をどのように考えていたのかという疑問も出てくる。「公的領域」ばかりを重視することのあやうさがある。

共感に基づく政治」批判は興味深い。これが均質的な声となり、逆に、共感しない者を悪・不純物とみなす。そして、現代では、際立って異なる悪を想定した思考様式が跋扈している。感情を歪に前面に押し出す政治や報道も、そして、陰謀論も、あちこちに巣食っている。

「複数性」は、また、当事者のみを重視することも否定する。当事者への共感が全体主義につながってしまい、傍観者としての見方を消してしまうというわけである。

面白い入門書である。とはいえ、手っ取り早い入門書は逃げていくのも早い。本書を読みながらいろいろ思うところがあったが、きっとそれも遠からず消えてしまう。ごつごつとした言葉と格闘し、その過程において自分の言葉として獲得していかなければ無意味に違いない。 


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