Sightsong

自縄自縛日記

小栗康平『伽倻子のために』、『泥の河』

2015-11-08 07:56:10 | アート・映画

早稲田松竹において、『FOUJITA』の公開を記念して、小栗康平の全作品を上映している。李恢成の小説を読んで以来、『伽倻子のために』はずっと観たかった映画である(何しろ、小栗康平のDVDボックスにのみ収録されている)。そんなわけで、初日に足を運んだ。

『伽倻子のために』(1984年)

1957年。相俊(サンジュニ)は日本支配下のサハリン・真岡で生まれ、戦後、北海道に渡ってきた。頑固な父は、息子たちに、「<朝鮮人>になれ」と叫ぶ。父の義兄弟であった男も北海道に渡り、青森出身の日本人と結婚していた。かれらの娘・伽倻子(かやこ)は、もとは日本人の捨て子であった。相俊と伽倻子とは惹かれあい、東京で同棲生活を始める。やがて伽倻子の両親が連れ戻しに来て、相俊は伽倻子を失う。

戦後の在日コリアンのコミュニティ、済州島の四・三事件、北朝鮮帰国事業などが丁寧に盛り込まれている。在日コリアンが凝視しなければならなかったであろう世界と自身とのあまりにも大きなギャップが、<間>のような素朴な描写となっており、よくできた映画である。

しかし、映画には看過できない欠陥がある。伽倻子の裡に巣食う底なしの魔が、描かれていないのだ。これでは李恢成の原作の奥深さには遠く及ばない。

『泥の河』(1983年)

1956年、大阪。うどん屋を営む夫婦とその息子、その目の前の川に現れた<水上生活者>の少年少女、客を取る母。

芦屋雁之助、田村高廣、加賀まりこの人情味溢れる顔が素晴らしい。モノクロの撮影もいい。演出も細かいところまで行き届いている。それはそれとして、パーフェクト過ぎて破綻のない映画の教科書は、いまひとつ心をすり抜けて落ちていくのだった。

●参照
李恢成『伽揶子のために』


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