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自縄自縛日記

アレクサンドル・ソクーロフ『オリエンタル・エレジー』、『穏やかな生活』、『ドルチェ 優しく』

2016-11-22 16:48:57 | アート・映画

アレクサンドル・ソクーロフが日本を視て記録した作品、『オリエンタル・エレジー』(1996年)、『穏やかな生活』(1997年)、『ドルチェ 優しく』(2000年)の3本を観る。

とは言え、ドキュメンタリーに分類することは適切ではない。特に『オリエンタル・エレジー』は、おそらくは撮りためたフッテージを用いて、ソクーロフの頭の中にある島の暮らしを奇妙に構築した作品であり、また、映像は極端に歪曲し、ソフトフォーカスがかけられている。暗闇の中での老人が、孤独について聴きとれないような声で語るようなものであり、ナルシスティックな映像詩であると言うべきである。(わたしは、同様のスタイルによる『マザー、サン』(1997年)に苛立ってソクーロフ作品を観なくなった。)

次の『穏やかな生活』では、架空の地から実際の地(奈良県明日香村)へと対象を変えた。むろん、特定できようとできまいと、本質的に作品の佇まいは変わらない。極端なソフトフォーカスと魚眼レンズの使用を控えた結果、観ていると眠りの沼に引きずり込まれそうな力は減っている。その結果、魅力が減ったのかもしれない。

そして、『ドルチェ 優しく』では、加計呂麻島で暮らす故・島尾ミホを捉えている。ソクーロフの力と島尾ミホの力とが重なり昇華した結果か、もっとも怖ろしく動悸がするような映画だ。何しろ、最初に島尾敏雄の生まれ、特攻を準備する時間、ミホとの出逢い、結婚、ミホの発狂、加計呂麻島への帰還が手短に語られたあとは、ほとんど、ミホさんの独白なのである。

亡くなったアンマー(母)とジュウ(父)への想い。敏雄への想い。同居する娘(故人)への想い。そういったことを、まるで自分の生肉を剥きだしにするように、かつまた、自分のことでありながら他人の物語であるかのように、細々と、しかし強靭に呟き続ける。神憑りそのものだ。ミホさんが、襖の隙間から覗く娘を見つめるときにカメラを直視するのだが、その力にこちらはたじろぐ。

●島尾ミホ
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(2003年)
島尾ミホ『海辺の生と死』(1974年)
島尾ミホさんの「アンマー」(『東北と奄美の昔ばなし』、1973年)


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