Sightsong

自縄自縛日記

伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件

2009-06-06 12:36:48 | 中国・台湾

もともと今週は中国に居る予定だった。1989年6月4日の第二次天安門事件から20年後の天安門広場にも足を運ぶことができるかなとも思っていた。ところが例のインフルエンザ騒動で延期にせざるを得ず、なぜか北海道や高松、丸亀に行ったりしている。

高松との往復では、伴野朗『上海遥かなり』(集英社文庫、1992年)を読んだ。面白いので昨晩帰宅してからも読み続けいてたら、疲れていたためソファーでそのまま朝まで寝てしまい、なんだか頭が痛い。

汪兆銘の死を巡るミステリーだ。汪は蒋介石と対立し、日本傀儡政権の南京政府を立ち上げ、敗戦前の1944年に名古屋で病没している。そのために、汪は、中国では「漢奸」とされている。

ここからが伴野の創作となる。実は汪は上海で没していたのではないか、という新説が中国の新聞にコラムとして掲載された。興味を持った日本の新聞記者の上海特派員が探ろうとすると、すべてが「上部」により揉み消され、圧力がかけられていく。背景には保守派と改革派の対立があり、民主化運動に共感を示した胡耀邦が没すると、時代の結節点となる第二次天安門事件に雪崩れ込むことになる。

『上海伝説』と同様、伴野朗の中国史に関する知識が散りばめられていて、とても面白い。話の展開に無理もあるが、これは欠点ではないだろう。天安門事件前後の近代化と公安など旧態との共存が、鄧小平、胡耀邦、趙紫陽らの名前とともに描かれる一方、旧日本軍、汪兆銘、蒋介石、周仏海、藍衣社、CC団などを巡る陰謀工作も同時に描かれている。

それから20年経って、いまだ闇の中にあるものは大きい。急にテレビで「当時の民主化運動がいまでも云々」と浅く短絡的な報道をしているのは、何だか苦々しい。

名古屋大学医学部付属病棟ですでに死を予感した汪兆銘は、妻の陳璧君に、大袈裟な葬式も墓も要らないが、広州の白雲山に梅の樹を植えて欲しいと伝えた。陳璧君は、病棟の横に三本の梅の樹を植えることによってその遺志に応えた。2本が枯れ、1本が残っているという。
(桶谷秀明『昭和精神史』、文春文庫、1993年)

●参照
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
私の家は山の向こう(テレサ・テン)
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展


天安門(2004年頃), PENTAX ESPIO mini, シンビ200


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