Sightsong

自縄自縛日記

田村彰英、李禹煥、『哲学者クロサキの写真論』 バウハウスからバスハウスへ

2007-10-20 23:58:48 | アート・映画
外出したついでに、観たかった展覧会を梯子した。御茶ノ水の「gallery bauhaus」で開いている田村彰英の写真展「BASE」(→リンク)と、谷中の「SCAI THE BATHHOUSE」で開いている李禹煥(リー・ウーファン)の個展(→リンク)である。

田村彰英の写真展「BASE」は、この写真家が20歳そこそこの頃に、横田、横須賀、三沢などの米軍基地を撮ったモノクロ写真が中心である。高感度で撮ったと思しきザラザラの銀塩の点。吹き流しの向こうにボケて潜む航空機の影、抽象にまで化した空を飛ぶ航空機、夜の闇の中で笑う少女。影と闇の黒は存在の黒だった。バタイユ『眼球譚』の黒目が脳裏をかすめた。

他にも、モノクロ作品は、ミノルタオートコードで撮られた家の写真、ハッセルにゾナー150mmで撮られた黒澤明の姿なんかが展示されていた(ミッチェルのカメラを覗く黒澤の顔がいい)。カラー作品としては、ペンタックスSPにスーパータクマー55mmF1.8かニコンFにマイクロニッコール55mmを使い、コダクローム25か64に撮られた欧米のスナップがあった。私は、この写真家の作品にはなんとも言えない色気があると思っているが、今回の展示では、コルシカ島の海の前景としてピンボケの女の顔がある「女」がたまらない色気をたたえていた。マゼンタがかった色もたまらなかった。

田村氏の写真エッセイに、『スローカメラの休日』(えい文庫、2005年)がある。プロとしての矜持を示しつつ撮影の状況や考えを見せてくれるものとして、凡百のカメラ本よりも遥かに面白い。そこでも、谷中・根津・千駄木のいわゆる「谷根千」を散歩しているのだが、次に向かった「SCAI THE BATHHOUSE」もその界隈にある。日暮里の南口から谷中墓地を抜けたあたり、銭湯を改装した画廊である。





李禹煥の作品は、白く塗りこめたキャンバスに、角が丸く微妙に歪んでいる矩形を描きこんだものが5点。これは最近の「照応」の作品群の延長にあるものだろう。矩形は灰色でグラデーションがかかっており、ちょうど「砂消し」のようにざらざらな質感だ。それから、鉄の板と石を組み合わせて配置したものが2点。これは「関係項」の延長だろうか。

辺鄙な場所なのに、何人もの観客がいて、中には同じ作品をいつまでも眺めて瞑想していそうな人もいた。それは半ばユーモラスだとしても、李禹煥が「もの派」のなかで1960年代から提唱していた、あるがままの世界の肯定、ものの関係性、といった概念が、まだ作品として力を持っていることを示すものだろう。

「もはや人間は死に、二元論は破算しているのであり、いまや「表象行為としての創造意識を振り捨てなければならなくなって」いるのである。すくなくとも、事物でなくなったそれ自身の世界、ひきさかれてゆく観念と物体のあいだのひろがりをこそ、浮きぼりにし、そうしてみずからを語らしめるべきであろう。」(李の初期の主張)(千葉成夫『現代美術逸脱史』、晶文社、1986年、より)

ところで、黒崎政男『哲学者クロサキの写真論』(晶文社、2001年)を読んだ。『日本カメラ』での連載時にいくつか読んだものだが、まとめて読むと興奮する。モノクロ写真のプリントを試行錯誤しながら行っていて、中判(クオリティが高いから)→35mm判(フォコマートを使うと満足できる仕上がりになるから)→ペーパーをRCからバライタへ(トーンの深さが違うから)、と進めている。確かにバライタで焼くと違うような気がする、しかし時間も手間もかかる。もう少し、自分のなかの時間の進み方をゆったりしたものにして、気に入った撮影結果を何枚かだけ1日で焼く、のようにでもしなければならないと思う。

クロサキ氏は、デジタルに比べての銀塩のタイムスケールについて、サンチャゴ・デ・コンポステラに徒歩ではなくバスで巡礼した体験を重ね合わせて、それらのもつ「巡礼」の意味が異なるのと同様に、写真撮影の意味もまったく異なるものだとしている。もちろんこれは、「撮影結果」だけを取り出しての話ではない。

「聖地に歩いて到着すること。バスで到着すること。飛行機で瞬間的に到達すること。おなじ旅でも、その意味はまったく異なるだろう。ていねいに時間をかけるほど、その意味は人に深く刻まれ、大きな体験となるような気がする。
(略)
 しかし、そういった瞬間に完了してしまう写真行為は、私に深い意味を留めることもなければ、体験として定着することもないように思われる。帰国するまで結果がわからずに、それについて、反省や期待する時間を十分に確保しておくこと。プリントの露光時間やコントラストについてあれこれ想像しておくこと。これこそ、撮影した写真が「私の写真」として定着するのに不可欠な時間であるように思われる。」


いま銀塩を使う意味を徒歩に例えることは、良い表現ではないかと思う。それにしても、ライカの引伸機フォコマートが欲しくなって困る。私のは藤本写真工業のラッキー90M-S、カメラで言えばニコンのニューFM2のような存在。つまりそれで十分ではあるのだが。



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6 コメント

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Unknown (habana)
2007-10-24 03:04:36
プリントに特別な思いがあるように思えてならないのですがF現後、専用スキャナーでの取り込みは考えないのですか?濃度、ピントの補正まで出来てしまいます。中から気に入ったものだけをプリントされれば良いと思うのですが、プリントすることに特別な意味は無いように思えます。最終の作品になるまでの過程としか思えません。ただ、作品以前に、ライカレンズはピントの合うときの驚きを呼び起こしますね、それほど暗室作業が楽しくなります。
F現以外、めったに暗室には入りませんがプリントは大好きです。私もラッキー90MDです。
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Unknown (Sightsong)
2007-10-24 05:25:59
habanaさん
結果から遡るならそれでも良いと思います。ご指摘のように暗室作業自体が楽しいということと、プロセスを踏むことを選んでいるだけですね。途中の効率云々ではないのです。
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Unknown (habana)
2007-10-25 00:03:45
書き込んでから、後悔の念に苛まれております。人それぞれ確認の方法や、楽しみ方があるのに、こと、写真ついて考えると融通が利かない自分に情けなくなります。軽い気持ちで一つの意見と考えて、気分悪くなさらないでくださいね。心配です。
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Unknown (Sightsong)
2007-10-25 00:13:22
habanaさん
いえ、ご意見についてはよくわかるつもりです。少しでも自転車に乗ってしまうと駅まで歩かなくなってしまうので、というくらいの考えです。
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Unknown (横井)
2007-10-26 07:29:03
スローカメラという言葉が言い得て妙。プロセスだけではなくって、デジタルでは出てこないなにかが銀塩にはあるように思います。レタッチして作られたキレイな画像には本質的な意味での決定的瞬間は希薄な気がしてなりません。LPレコードとCDの違いとも似ていますね。デジタルを使えば使うほど、アナログカメラのよさを感じるこの頃。ピアノとキーボードが違うように、別物だと今では捉えています。
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Unknown (Sightsong)
2007-10-26 08:52:50
横井さん
なるほど・・・。「なにか」というのがミソですね。レコードも気分ではなく明らかに「なにか」を感じることができます。また、写真における「決定的瞬間」は、ただの時間的な流れにおける断面ではないのですね。クロサキ氏は、デジタル技術の進展によって、動画から自在に取り出す一瞬が、写真になる可能性を危惧していたと思いますが、そういったものが受容されることはないと信じています。
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