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自縄自縛日記

今井一『「原発」国民投票』

2011-09-01 00:50:03 | 環境・自然

今井一『「原発」国民投票』(集英社新書、2011年)を読む。

日本では国民投票は一度も実施されておらず、唯一、安部政権時に憲法改正のための国民投票のルールのみが法制化されている(2007年)。勿論、9条の無力化と再軍備が目的のあやうい法律である。一方、諸外国では、「年金」「禁酒」「同性結婚」「臓器移植」「死刑制度」など、重要なテーマについての国民投票が何度も行われている。著者は、日本の状況をこそ異常であると見る。

直接投票については、ムードに流されやすい「衆愚」の意見を汲み上げるものと見る向きが多い。しかし、著者による間接民主制の限界に関する指摘は的を射ているものだ。例えば、自治体条例の制定とセットで住民投票を行った地域では、沖縄県名護市(米軍基地)徳島市(吉野川可動堰)三重県海山町(原発)を見ても、住民投票とその直前直後の首長・議員選挙とは正反対の結果となっている。さまざまな理由がある。しかし、このような有権者の意思を無にする政治のあり方は明らかに非・民主主義的であると言えよう。「衆愚」の選ぶ政策がダメで、「衆愚」の選ぶ議員はダメではないという理屈はない。

そして著者の提案するのは、「原発」の是非に関して、国民投票を行うべき時期に来ているということだ。偏狭な利得関係に縛られている議員にとっても、有権者と乖離しないという意味で、これはむしろ望ましいのではないか。そもそも、小沢一郎たちの進めた小選挙区制・二大政党化によって、多様な意見を圧殺する政治システムとなっているのである。

本書の後半では、有識者やタレントや学者が3・11前後に語った主張が集められている。読んでいると本当に腹立たしいものが多い。決して当事者にはならない立場からエラソーなことを語る言説が目につくのである。その一方、以下に引用する高橋哲哉の主張は共感できるものだ。

「少なくとも言えるのは、原発が犠牲のシステムである、ということである。(略)
 犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての「尊い犠牲」として美化され、正当化されている。そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する。この国の犠牲のシステムは、「無責任の体系」(丸山眞男)を含んで存立するのだ。」

●参照
巻町、名護市、岩国市、徳島市における住民投票
高橋哲哉『戦後責任論』


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