Sightsong

自縄自縛日記

里国隆のドキュメンタリー『黒声の記憶』

2016-11-17 07:30:21 | 沖縄

里国隆のドキュメンタリー『黒声(クルグイ)の記憶』(2016/11/17、鹿児島テレビ制作)を観る。

奄美の唄者・築地俊造さんの声が、張りがあって奄美独特の裏声も美しい「白声」だとすれば、里さんの声は、ダミ声で、決してコンテストなどで一番になることのない「黒声」。CD『黒声』に収録された短い里国隆の映像があって(唯一ネット上で観ることができる里さんの動く姿だった)、それを8ミリで撮った原田健一さん(新潟大学)によれば、1メートル離れたところで唄われると、もはやその歌声は快適どころか苦痛で逃げられないものであったという。また、沖縄の唄者・知名定男さんは、その歌声に接して「身体中が総毛立つようだった」と証言している。わたしは『あがれゆぬはる加那』をはじめて聴いたとき、どちらかといえば拒否反応のようなものを感じた。しかし聴き続けている。

里国隆の活動遍歴は、概ね、ここ(里国隆のドキュメンタリー『白い大道』)に書いた通りだ。同番組では、戦前・戦中における沖縄での足跡として国頭村の楚洲と安波を紹介していたが、今回は、同じ国頭村の安田に住む方を取材している。安田小学校でも唄い、ヒーローだったという。

戦後、奄美が先に「本土」に復帰した(『日本地図から消えた島 奄美 無血の復帰から60年』)。もとより、働き先は奄美よりも沖縄本島にあったために、多くの奄美人が沖縄に渡っていたわけだが、奄美の先行復帰以降、沖縄において奄美人は「外国人」として扱われることになった。それに伴い、雇用も沖縄人優先となってしまった。里国隆が那覇の平和通りで座って唄っていた奄美の唄は、奄美人にとって、懐かしい望郷の唄でもあった。(なお、ここで里さんの唄をナグラで録音していた宮里千里さんが登場し、唄の合間に子どもたちと交した声などを再生してくれる。これらもいずれCD化してほしいものだ。宮里さんと娘さんとは、いま、那覇・栄町市場の「宮里小書店」の店長・副店長である。)

奄美の人たちは、大阪市の此花区高見に多く住んできた(沖縄人が大正区に集まったように)。加計呂麻島出身の唄者・牧志徳さんは、奄美人の心のよりどころは島唄であったと言い、また、里さんが亡くなる直前の1985年に尼崎で開かれたコンサートのことを思い出している(1985年の里国隆の映像)。もとの映像の状態が良くないためか、引用は短い。わたしが持っているものも、ベーシストの齋藤徹さんがくださったものだが、やはりそのようなわけでノイズが少なくなかった。だがあまりにも貴重な記録であり、できれば、剽軽な里さんのしゃべりをこそ引用して欲しかったと思う。ここでもヒーローだったのだろうなあ。

それにしても、奄美の「かずみ」において、店主の西和美さんと築地俊造さんとが掛け合いで唄っていて、とにかく「かずみ」に行ってみたいと思う。後ろのお客さんたちは飲み食いして唄三線を観ていなかったりして、この贅沢さは、ビル・エヴァンスのヴィレッジ・ヴァンガードのライヴで談笑している声が聞えることを思い出してしまう。

深夜の放送時間に目が覚めてしまい寝ながら観た。友人が録画してくれるものをもう一度確認しながら味わって観たい。

●里国隆
里国隆のドキュメンタリー『白い大道』
1985年の里国隆の映像(番組でも引用)
『1975年8月15日 熱狂の日比谷野音』(番組でも引用)


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